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第10話・人でなしの矜持

10


 闇に沈んだ水面に、ポタリと落ちる一滴。広がる歯音の中心に、長身の男が椅子に腰かけている。赤い瞳を細め、脚を組んだその姿は――ソウマ。

「目が覚めたか?」

 低い声は水面を震わせ、リクの胸に重く沈む。ここが現実でないことは直感で理解できた。だが、その存在感は幻にしてはあまりにも濃い。

「君は一族に属さない吸血鬼だな」

「……だったら、何だって言うんですか?」

 ヒクッと、頭髪と同じシルバーの眉を揺らしたソウマは、赤眼を凝らして観察する眼差しをリクに注いだ。

 椅子に座っている彼から、見下されるように向けられる視線。リクは自身が地面に伏した姿勢でいることを察し、肘をついて体を起こす。立ち上がって見せると、目線が逆転する。ソウマはそれを不快を受け取ったらしく、組んだ脚を解いて椅子から立ち上がった。

 彼がゆっくり歩を進めると、床にいくつもの波紋が生まれた。リクは顎を引いて、足元を見つめる。黒い地面のように見える床は、薄く張った水面だった。目を凝らして底を覗き込むと、薄っすらと何かの輪郭が見えた。その輪郭は時折意思を持って揺れ、人影のようにも見える。あちら側が底なのか、それともこちら側の方なのか、判別はつかない。

 リクの目を覚まさせた雫はどこから来たのだろうか。リクは視線を頭上に移すも、上は底抜けの闇が広がるだけだった。

 すぐ傍まで歩み寄ったソウマは、リクよりも身長が高い。リクは再び見上げる視線を向けざるを得ないことに、密かに歯噛みした。

「……あなたは、グレン・ヴァンプですか?」

「いかにも」

「純血の吸血鬼は、もう絶えたものだと思っていましたが」

 リクの言葉に、ソウマは唇を引き結んで鼻から重い息を吐いた。無知を嘲るような態度が、癪に障る。

「確かに、我々のような存在は少ないかもしれない。けれども彼女の意志が尽きない限り、我々は生まれ続ける」

「彼女――始祖のことですか?」

 微かに、ソウマの赤眼がわずかに揺れた。まさか目の前の男が「始祖」の名を出すとは予想していなかったのだろう。その名を軽々しく口にすること自体が禁忌であるかのように、揺れる瞳には聖域を侵されたような嫌悪が滲んだ。

 リクは微かに灯る優越感を胸に、畳みかけるように言葉を継ぐ。

「始祖はまだ新たなヴァンプを生む力があると?」

「彼女が願い続ける限りは」

「――願い?」

 願い、とは。何を意味するのだろうか。自分たちが口にするものとは違う重い響きを感じて、リクは顔顰めて思わずその言葉を繰り返す。リクの反応を目にしたソウマは、スゥと唇の端を吊り上げた。会話の上での優位を、彼は好んでいるようだった。リクは相手に主導権を渡すきっかけを作ってしまったことに後悔を覚えつつ、唇を引き結んで言葉の続きを待つ。

「すべてのヴァンプは、彼女の願いが生み、そして彼女の願いのために在るもの。……だが、君は違う。あの娘もだ」

 ソウマは黒いローブに包まれた片腕を広げ、水面に水平になるように掌を開いた。凪いでいた水面が波打ち、ぐにゃりと揺れて。その表面にツバキの姿を映し出す。クラシカルなメイド服で武器を操る彼女の姿は、数日前に起きた大規模戦闘を記録したものだと知れる。――この男もあの場に姿を現していたらしい。

 ソウマが開いた指を握ると、水面は次第に凪いでいき、映っていた映像も消える。リクは水面から顔を上げ、再びソウマを見据えた。

「人間から生まれたのなら、我々の一族ではない。もちろん、人間によって《《作られた》》君もだ。それに、人間と番うなどという()まで犯している」

「……人間と吸血鬼が番うのは、血の共鳴による必然であるはずです。なぜあなたは罪だなどと言うのですか」

 リクを見据えるソウマの瞳の温度が、氷点下にまで下がる。ソウマは一切の熱を排しきった瞳でリクを見下し、冷えた声で告げた。

「我々の血を汚すからだ」

 反論を許さない圧倒的な威圧感。――まるで言葉や理屈を持たない子供を、正論で押さえつける親のような。リクは本能的にソウマに圧倒されている自身を自覚しつつも、強く奥歯を噛んで態度に出さないよう耐える。

つがいなど、幻想。永遠に叶わぬ幻想に縛られ、彼女は苦しんでいる。幻想を断ち切り、彼女の目を覚まさせることこそ、我が使命だ」

 温度のない瞳のまま、ソウマは淡々と言葉を並べた。彼の瞳の温度は空気さえも支配するようで、リクはビリビリと凍てつく冷気に全身を刺され、息苦しさを覚えた。水面に張り付いたように、一歩も足が動かない。違和感に視線を落とすと、リクの立っている足元の水面が白く染まり、氷へと状態を変えていく。パキッ、パキィッ、と。ひび割れた音を立てながら、氷はリクの脚を覆うようにせり上がってきた。

「……ひっ」

 決して零すまいとした悲鳴が、喉奥から漏れ出る。咄嗟に破裂を閉じて漏れかけた音を霧散させたリクは、顎に触れるソウマの指に恐怖で震える瞳を向けた。

 ソウマはリクの顎に指を添えたまま、瞳のブルーを興味深そうに覗き込み、深い赤眼を細める。顔を逸らそうにも、金縛りにあったように首を動かすことができない。リクはただ歯列を強く食い縛り、息を吐き出しながら瞳から怯えを排しようと努めた。

 ソウマはリクの奮闘を見透かすように薄く微笑み、ゆっくりと顔を近づけてくる。リクの瞳にソウマの瞳の赤が溶け、リクは遂に、硬く目を閉じた。

「彼女を解放するため――(幻想)を消す」

 暗く閉ざされた視界に、ソウマの声だけが水面に雫を落とすように響いた。

「やはり君は、異質だ」

 冷たい笑い交じりの声。リクが瞼を開いた瞬間、目の前で強い衝撃が網膜を灼いた。



「会見を聞いていないのか? ()()は私の息子だ」

 瞼を伏せてリクの頬を撫でまわしながら、ソウマは言う。一筋の涙を零したきり、薄く開いたリクの瞳は虚ろな色で沈黙した。そこに美しいサファイアブルーの光はない。シドウは不快感で覆い尽くされそうな背中を震えてしまわないよう堪えて、強く奥歯を噛みしめ顔を歪めた。

「あんな嘘だらけの会見」

 シドウの発した声に、ソウマの赤眼がわずかに持ち上がる。

「お前の能力は()だね。親が子供に諭すような声で意識に介入し、脳に錯覚を見せる」

「世間にとっては事実かどうかは問題じゃない。私が語ることこそが真実なのだよ」

――まさに、今も。とでも言いたげに、ソウマは高らかに宣言した。シドウは押し込めていた舌打ちをあからさまに零す。強く弾いた舌の上で死灰がザラついた感触で擦れた。

「ボーっと聞いてた人の頭だけ操作したからって何? リクが僕の息子であることは変わらないんだけど」

「真実など、大勢の認識さえあればいくらでも捻じ曲がる。今もしそこの回線を繋いで、世間に向けて君と私とが同時に同じこと主張したら、世間はどちらを信じると思う? 君が彼の父だと語るその声は、誰も信じない」

 ソウマが大仰に腕を広げて示した先。青く光るレンズをこちらに向けたカメラと、それと繋がったモバイルPC。黒くダウンしている画面から、今は回線が繋がっていないことが知れる。ソウマはカメラから視線を対峙する相手へと視線を向けたシドウと目を合わせ、嘲笑を浮かべながらシドウの爪先から頭の天辺までを視線で舐めた。

 自分が今どれほどひどい容姿を晒しているかなど、指摘されるまでもなく知れている。

 相対する相手は爪先から頭の先まで上等な衣服に身を包み、リクも普段の白シャツにデニムという姿ではなく、光沢のある生地のシャツに張りのあるジャケットと、揃いのスラックスを身に着けさせられていた。長い髪も後ろできっちりとひとつに纏められ、姿だけ見れば、彼らは似合いの「親子」に見える。

「どの口が父親だなどという?」

「……は?」

 不意打ちの問いに、シドウは素で乾いた反応を返した。素直に引きつる顔面の神経をそのままにしておけば、自身の顔が醜悪に歪んでいくのを感じる。ソウマは浮かべていた嘲笑をさらに深めて、見下す視線をシドウに向けた。

「お前は正しく彼を導いてきたか? 食事は満足に与えていたか? 彼の成長のすべてを見てきたといえるか? 答えろ」

 唇の端に悠然と刻まれる笑み。シドウは努めて自身の内側で滾る音に意識を向け、噛みしめた歯列の隙間から獣じみた息を吐く。ひたすら酸素を吸って、思考を回す。彼がぶつけてきた問いを頭の中で整理するうちに、シドウの表情には自虐的な笑みが浮かんだ。思わずフッと漏らした笑いの音に、ソウマの嘲笑が一瞬綻ぶ。

「……あーあ、痛いとこばっか突くねえ。リクの記憶でも覗いた?」

 シドウはこみ上げてきた笑みをそのまま表情に刻んで、顎を上げ嘲る視線をソウマに向けた。ソウマはわずかな綻びを即引き締め、悠然とした態度を崩さず答える。

「まさか、そんな()()()()()()()をするわけがない。私が聞いたすべては、親であれば当然の義務だろう」

 シドウはハッと強く息を吐いて、毛の長い絨毯を踏みしめ、円を描くように歩を進めた。ソウマは訝しむ視線を向けながら、欠片も目を話すことしないシドウに応じて体の向きを変えた。丁度、演説台と正対する位置で歩みを止めるシドウ。彼の背後で、青いレンズが息遣いをするようにヌラッと光る。

 反射する黒に、シドウの死灰で白く汚れた背中が映った。

「……じゃあ答えるよ。正しく導いたか? それは彼の生まれから否だね。僕は僕の目的のためにリクを作った。生命を人工的に創造すること自体、人間社会ではどの文化圏でも大抵禁忌とされている。誰がどんな法の下で裁く権利を持っているのかは知らないけれど、世間的に言えば大罪を犯しながら、僕はリクを生み出したんだ」

 シドウは一度言葉を切って、車いすに座るリクを見つめる。光を失ったガラス玉のような瞳は、欠片も動かない。

「……その事実を僕は、何も知らずに成長したリクに包み隠さず伝えたよ。そのせいかは分からないけど、伝えた日からリクは滅多に笑わなくなった」

 事実を口にしながら、自身の負った罪が突き刺さり、居た堪れない痛みが襲う。ギュウと強く締め付けられる胸に下手くそな呼吸を吐いて、シドウは続けた。

「食事もね。僕は家事が苦手だし、料理もできるはずがない。それにリクを吸血鬼として作ったから、僕が彼に与えた食事は僕の血だけ。つがいになって僕と命を繋いだことで普通の食事を食べられるようになってからも、リクは僕の血以外口にしてない。リクは僕の性格をよく分かっていて遠慮していたんだろうけどね」

「はは、ひどいな」

 ソウマは額に手を当て声を上げて笑い、嘲笑を隠すことなく肩を揺らす。

「それでもリクは、僕の血が好物だと言ってくれていたよ。ご褒美にねだるほどにね」

「――非道(ひど)いな」

 同じ音に、より強い意味を込めて放たれる言葉。シドウは侵食されそうな思考を振り払うようにフルッと頭を振り、息継ぎをして体内の空気を入れ替えてから、最後の問いに答える。

「彼の成長を、しっかり見届けられたのはリクが7歳になるまで。リクが7歳の誕生日を迎えた日に、僕らはつがいになった」

 一度瞼を伏せて、シドウはその時の光景を脳裡に浮かべた。「選んで」と告げたシドウに、リクは数秒逡巡しただけで、強い眼差しを向けつがいになること選んだ。

 けれどもそれは、シドウが彼に()()()()()()()()()()と告げてしまっていたからだと、今になって思う。生みだされた理由を明確に告げられた上で、それを選ばないとどうなるか。たった7歳の子供に背負わせてしまったことへの後悔は、永遠に背負い続ける覚悟でいる。

 シドウは乾く口内を唾液で湿らせてから、言葉を継ぐ。

「命を繋いだら、つがいの年齢に片方も引っ張られる現象が起こる。僕の細胞をもとに作ったリクは、つがいの契約が済んだあと、一瞬の内に僕とそう変わらない年齢まで成長していた」

 瞼を開いて見た彼の姿は、自身の後悔をそのまま焼き付けたような形をしていた。愛らしい大きな瞳も、小さな手足も、声変わり前の高い声も、その年齢に至るまでに積み重ねられるはずだった時間も全て、()()()()()()()のだと感じた。急速に押し寄せた後悔に潰されそうになるシドウの体をリクは成長した長い腕で抱きしめて、低く変化した声で囁いた。

――「なんと呼べばいいですか?」

 戸惑うように、震えた声。シドウはリクの腕の中で目を伏せて、もう彼に「父さん」と呼ばせてはいけないと思った。なんと呼べば、と聞いた彼はもう、自分を「父親」とは呼べないと判断したのだろうと想像して。

「やはり君は、父親を名乗る資格はないな」

 思い出の膜を無遠慮に破り、体の深い場所を弄るようにして響いてくる厄介な声音。

 シドウは思考の間俯けていた顔をゆっくりと起こし、目の前で嘲笑を浮かべ続けるソウマを睨みつける。


「お前が何と言おうと、僕はリクの父親であり続ける――たとえリクが否定しても」


 地獄の底のように低い声。禍々しい音で紡ぎたかったわけではないのに、そうとしかできない自身が歯がゆい。それでも、なりふり構わない剥き出しの本音に、その音程は似合いにも感じた。

 ソウマの赤眼が揺れ、侮蔑の色に染まり始める。ソウマは人形のように動かないリク傍らで身を屈め、彼の頭を抱き寄せながら、シドウを見た。


「君はどれだけ身勝手な男なんだ。この――人でなしが」


 スッ、と嘲笑を消して。脆く揺れていたシドウの内側を確実に壊す声音が、どす黒い敵意を以て深く聴覚を射た。



 弾き飛ばすような衝撃波に、リクは咄嗟に顔を庇って身構える。攻撃は顔の前に置いた両腕の上でもろに炸裂し、氷に拘束されたリクの体を吹き飛ばした。

「ぅ、ぐ……っ」

 パキィッと、激しく氷が砕ける高い音と、床に転がされるリクの体。水面は激しく乱れ、漣を散らし、やがて静かに凪いでいく。

「ぅ……っ……」

 リクは仰向けに倒れた体を折って、全身に渡る痛みに耐えながら体を起こした。揺さぶられた脳が正常に世界を捕らえるまでの数秒。リクは血の味のする唾を吐き出して、敵意を込めた視線をソウマに向けた。

 ソウマは赤眼を揺らして、何かを楽しむような笑みを浮かべた。掲げた掌には、黒い球体が細い稲妻を纏いながら膨れ上がっていく。

「君たちの戦闘能力は知っている。けれどもそれは、つがいから供給される力に由来するのだろう? それに君の武器は刀だ。素手でどこまで抗えるかな?」

 リクは状態を低く構え、ソウマが放つ球体を避ける。バシャァと激しい音を立てる水面。避けた先で体を起こす前に、第2波が撃ち込まれ、リクの腹に球体が食い込んだ。

「……が、はっ……!」

 布を裂き、皮膚が抉れる感覚。内臓にまで響く鈍痛で、リクの動きが鈍くなる。霞む視界を辛うじて開くと、すぐ傍にソウマの靴が見えて、リクは悲鳴を呑み込み後ずさった。

「……っ!」

「吸血鬼である君を簡単に殺せるとは思っていないよ」

 水面についた手が異常に冷える。パキッと霞かに鳴った氷結の音に、ゾクリと背筋を駆ける悪寒。まずい、と引っ込みかけた手は絶対零度の氷に絡めとられて、焼けるような痛みが掌を覆った。

「あああああっ!」

 氷はリクの左手を完全に覆い、広がる水面と同化させるように完全に床に縫い留める。ドライアイスに触れた時のように皮膚がジュワッと焼かれる感覚。リクは強く奥歯を食い縛り、漏れ続けそうになる悲鳴を喉奥へ押し込める。

「……っ、ふ、ぅ……ぐぅ……ッ」

「体の自由を奪って、この世界に縛り付けておけばいい。この世界は、私の意志がなければ他の誰も干渉することは出来ない」

「……っ、……無理ですよ」

 感覚の大部分を支配する痛みのせいで、声を出すことに神経を割くことすら辛かった。呼吸の合間に少しずつ差し挟む音。リクは額に滲む脂汗を懸命に首を振って払い、霞む視界を一点に据える。

「僕には、つがいがいる」

 言葉が、染みる。ジワッと胸の奥に灯る熾火のような熱に、リクはグッと唾を飲み下して意識を集中させた。氷に捕らわれた左手を解放すべく、手首の上に右手を添える。引き抜く力を左手に駆けると、体を裂くような痛みが沸いて、リクは強く歯を食い縛り、腹の底で悲鳴を霧散させる。

「……っ、は……は、ぁ……っ、ぐ……ふ……」

 乱れた前髪が顔の前にかかるのを首を振って払って、再び左手に力を込める。透明な氷の奥に薄っすらと見える蔦が形作る炎の紋様。ボゥと微かに赤く光るその()に、リクは涙の滲む瞳を据え続けた。

吸血鬼(ヴァンプ)が人間を使役するならまだしも、人間と結び合うなど愚行だ」

 奮闘するリクの後頭部浴びせるように、ソウマの冷たい声音が降った。リクはハッと息を吐くように笑って、痛みの中にじんわり染みる熱を宿し始める左手に集中した。

「しかも、君のつがいは最悪だろう。表の私が聞かされた情報によると、君のつがいは自身のエゴで君を作り、ろくに食事を与えない上に、君からすべてを奪って縛り付けたそうじゃないか。……可哀想に。君は本当は、まだほんの子供なのだろう?」

 同情の皮を被った、憐みと、嘲り。喉奥でクックッと笑う音を立てながら、ソウマはリクの背中に覆いかぶさるような格好で、後ろから彼の体を抱きしめた。ソウマの肉体が触れる箇所から、体温が奪われる感覚。触れる吐息は氷の針のように皮膚を突き刺し、リクはおぞましい感覚と痛みで思わず顔を背ける。

「……ぅ、ぐ……」

 氷の中で、明滅する赤がフッと弱々しく消えかける。リクは青眼を顰め、水面の底に薄っすらと見える像を見つめた。その白い背中を目にした時、リクは喉奥で歓喜が弾ける感覚を覚えた。

――マスター

 心で呼んで。ドクンッ、と強く拍動を打つ心音。リクはスゥと息を吸い込んで、冷え切った体に熱を送る。――体温の上げ方なら、知っている。心拍数を上げ、血流を巡らせる。そんなの、()を思えば容易なこと。

 フッと瞼を下したリクが、その瞼の裏に最愛の人の姿を思い浮かべた瞬間、ソウマの伸ばした湿った舌がリクの耳に触れる。そして、呪うような声音が注がれた。


「可哀想に。君のつがいは、身勝手でろくでもない人でなしだ」


 カッ、と内側で発火するように燃え上がる熱。氷を突き通して強く発光した赤がくっきりと甲に刻まれて、美しい氷柱を形作っていた透明な表面が醜くズレる。バキッと不穏な音を立てて砕ける柱。リクはフッと軽くなった左手を引き上げ、氷に覆われたままの拳を天に向けて突き上げた。

「――、ガ……ッ!」

 ゴリッ、と硬い骨を抉る音と生々しい肉の感触が、冷え切った神経をビリビリと裂くように伝播していく。皮膚が爛れて赤く腫れあがり、空気に触れるだけでジンジンと拍動を続ける左手を振って、リクは氷の欠片を地面に散らす。パラパラと散る破片が水面に落ちていくつもの波紋を生み、透明な輪を描いた。リクはフーッと長く息を吐いて、顔の前にかかる長い藍色の髪に右手を差し入れ掻き上げる。

 剥き出しにした額と、白い肌に生えるサファイアブルーを見せつけるようにしながら、リクは水面の上に倒れたソウマを見下ろした。

 ソウマは苦々しく赤眼を顰めて、リクと視線を交わす。リクはフッと短く息を吐いて、狡猾そうな笑みを唇に刻んだ。

「……僕がつがいから与えられる力だけに頼っていると思ったら、大間違いですよ」

 額から手を離して拳を振りかぶるリクに、ソウマは強く顎を引いて即座に後ろに飛びのいた。リクはトッと軽い動作で水面を蹴ってソウマを追い、極限まで距離を詰めて蹴りを放つ。ソウマは咄嗟に構えた腕でダメージを回避しつつ、水面に手をつき低い姿勢で身構える。

「……君は」

 赤眼に憎悪を滲ませ睨め上げるソウマに、リクはフッと軽く息を吐いて足音のない歩みを進めた。

「僕の戦闘スタイルを、あなたはよく知っているのではなかったですか? 確かに僕は刀遣いです。けれどもそれと同時に、忍でもあるのですよ」

 トッと静かに水面を蹴ったリクは、一気にソウマとの距離を詰めて顎を弾き飛ばし、仰向けに倒れたソウマの体に圧し掛かる。

「……ぐ……っ」

「――敵意には敵意を返せ」

「は……?」

 リクがポツリと呟いた言葉に、ソウマが顔を顰めて聞き返した。リクは俯けていた顔を上げて、ソウマの赤眼と目を合わせる。底なしに澄んだアイスブルーがジィと赤眼の奥を探るように覗き込んでくる。ソウマはリクの得体のしれない行動にグゥと鈍く喉を鳴らし、彼の下から抜け出す隙を窺った。

「観察して、綻びを見つける」

「何……?」

 ソウマの視界の端に、リクが指を刃のようにピタッと揃えて持ち上げる様が映る。手刀の威力などたがが知れてるとはいえ、圧倒的不利な体勢の中で急所を突かれる可能性が頭を過ぎった。ソウマはチッと小さく口の中で舌打ちし、水面を擦って取り囲む水の温度を下げる。

 音をもなく組織を構築し、育つ氷はまるで獲物を狙う蛇のように蠢いてリクを囲んで、鋭い切っ先を彼の背中の一点に定めた。シドウは赤眼を凝らしてリクの動きを具に見た。持ち上がった手刀は鋭くわずかに角度を変えて、ソウマの喉元に向けて突き立てられる。

 ソウマはカッと赤眼を見開き、氷の刃を自身の方へと導く。冷たい切っ先はリクの体を刺し貫き、致命傷を与える――はずだった。

「――え?」

 一瞬、ソウマの目の前でリクの体がぶれた。リクの体を貫いて止まるはずの刃は対象に届くことなく伸びて、真っすぐソウマの体の襲い掛かる。

「……っぐぁッ……!」

 刃はソウマの喉を刺し貫いて、空中に血飛沫が舞った。声帯を貫かれて空気の音しか発せなくなった口をパクパクと動かしながら、ソウマは傍らに降りた気配に視線を向ける。

「か、か……っ、か……」

 リクはフッと頭を振って長い髪を散らし、氷に貫かれたままのソウマを見下ろした。ソウマは喉に刺さった氷を握りしめて砕き。大量の血が噴き出す喉を押さえて体を起こす。

 血濡れた首から下と、顔面にも飛んだ赤い飛沫。憎悪を込めて向けられる赤眼の先に自身を映すように、リクはソウマの前で片膝をついた。

「剣術の基礎はマスターから教わりましたが、素早い動きは自分で鍛えました。あなたはどうやら、僕の動きを見くびっていたようですね。その気になれば、姿を消すように動くことだってできるんですよ」

 しかしそのためには、全身の筋肉に負荷をかけ、呼吸すら止めて体を極限状態まで高める必要がある。皮膚を焼かれた左手の血管は裂け、噴き出して滴り落ちる血で肘から下が赤黒く染め上げられていた。

「僕の死角をついたつもりなんでしょうが、バレバレなんですよ。あなたの眼球の動きを見れば一目瞭然です」

 直前に向けられていた奇妙な眼差し。あれはソウマの眼球の動きを探るものだった。

 ソウマは何か言葉を発しかけたのだろう。声の代わりに穴の開いた喉から鮮血が噴き出す。


「観察し、綻びを見つけて……その一点を狙って――潰せ」


 リクは呟く自身の声を聞きながら、懐かしい記憶の中の声を思い出していた。


――遠い昔。幼い頃にシドウに連れられ訪れていた研究室で。いつものように、些細なことで言い争いをはじめるハスミとシドウ。ハスミの論理に聞き入っていたシドウは、ハスミの発言に矛盾を見つけるとその一点を目掛けて怒涛の論説を仕掛けた。ついにハスミは白旗を上げ、上機嫌になったシドウは、傍で見ていたリクの肩を抱き寄せ、狡猾そうな笑みを浮かべながら耳打ちした。

『いいか、リク。敵意には敵意で返すんだよ。ただし、圧倒的優位で。そのためには相手をよく観察して、綻びや突き崩せるポイントを探すの。そのうえで一番相手が受けるダメージのデカい一点を狙って――潰せ』

 ピンと伸ばした人差し指を掌の中心に突き立てて笑うシドウ。ハスミは「子どもになに教えてんだ」と呆れていたが、リクはシドウの鮮やかなやり方に目を輝かせ「うん!」と無邪気に頷いた。


 眩しい記憶に目を伏せて、胸の奥へと仕舞い込んだリクは、再び瞼を開けてソウマを見た。声を失っただけで、彼から発されていた圧倒的な威圧感が消えうせたように感じる。リクはスゥと息を吸い込み、静かな調子で口を開く。


「僕はあの人に選ばれ続ける自分でいたい。そうであり続けると決めたんです。彼女の願いのためだけに生きるあなたの気持ちもわかるけれど――譲れないものならば尚更、負けるつもりはない」


 一息に宣言したリクは、デニムのポケットに指を差し入れ、中から小さな金属を取り出した。表面からはほとんど見えない僅かな突起を弾いて、円筒形の金属にわずかに空く穴。

 細微な注入口を覗き込むと、内部に微かに揺れる赤黒い液体が見える。リクはその液体を目を細めて見つめ、唇を引き結んだ。

 喉を押さえるソウマの手首を掴み上げて引き寄せ、握力をかけてゆっくりとソウマの手を喉元から引きはがしていく。ドプッ、ドプッと拍動しながら沸き立つ血液。リクは冷めた目で彼の傷口を一瞥し、噴き出す血液に、金属に溜まった液体を流し込んだ。

「貴重なサンプルですが、使わせてもらいます。……あとでツバキに謝らないと」

 ポトンッ、と。水面に落ちたのは金色の弾丸。弾頭部分に微細な注入口と閉鎖機構が施され、液体の充填と放出が自在に可能という特殊な構造は、ヒイラギの血を込めて使うことを想定して作った兵器。実際は、ヒイラギの血液に限りなく近い薬品を代替として使えるようにするというのがシドウの考えで、その分析のために預かっていたサンプルだった。

 ヒイラギの血を注いで数秒後。ソウマの赤眼が零れそうに見開いて、白目の中に赤い血管が無数に走る。ついで、注がれた《毒》がソウマの体の中で暴れ出し、ローブの下で皮膚の突き上げられる音がした。

 リクは声なき悲鳴を上げるソウマの手首から手を離した。ドサッと音を立てて倒れたソウマの体から数多の波紋が広がっていく。しかしその水は吸い込まれるようにして引いていき、取り囲んでいた世界ごと崩壊が始まった。

 パキッ、パキィと砕ける音を立てながら闇から剥がれ落ちるように降る氷の欠片は、水を失った地面に突き刺さり、代わりに泥のように変化した表面に次々と沈み込んでいく。

 同時に、泥の大地に倒れたソウマの体も徐々に沈み、泥に囲まれ深く呑み込まれていった。泥に半分埋まった顔をリクの方に向け、恨めしそうな赤眼で睨め上げるソウマに視線を返しながら、リクは冷たく言い放った。


「……僕は、“人でなし”の息子です」


 そして、鮮やかに口角を吊り上げ狡猾そうに微笑む――まるで、悪戯が成功した子供のように。ソウマの赤眼が一瞬恐怖に揺れたのを最後に、彼の姿は完全に泥の中に沈んだ。

 リクは注ぐ氷の破片を見上げ、蕾が開くように顔を綻ばせながら、沈みゆく世界に語りかけるように呟いた。


「――誇らしいでしょう?」



 街頭ビジョンの前で足を止めていた人々は、しばらくニュース報道が映されていた画面が再び中継映像に切り替わると、食い入るように画面に視線を注いだ。

 しかし画面を占めるのは先ほど熱弁を振るっていた議員と「その息子」の姿ではなく、薄汚れた男の背中だった。

 交わされる会話の内容はスピーカーを通して聞こえてくるものの、内容は彼らの頭を素通りしていく。先ほどまで彼らを強烈に引き付けていた声は、なぜかノイズがかかったように掠れ、人々はその声を聞くたびに、無表情だった顔を少しずつ歪めていく。

 ザワ……ザワ……と、少しずつ、漣のように広がっていく囁きあう声。熱心にスマートフォンの画面を見つめ、悪意あるコメントを打ち込んでいた若者の手がピタリと止まる。


『お前が何と言おうと、僕はリクの父親であり続ける――たとえリクが否定しても』


 ノイズの後で、鮮明に聞こえた声。若者はスマートフォンから目を離し、巨大な街頭ビジョンを見上げた。

 知らない男の声。見えない表情――けれども、揺るがない背中。若者はスマートフォンを持っていた手を重力に導かれるまま下して、直立の姿勢で汚れた背中を見つめ続けた。



 声の能力を使うらしい目の前のグレン・ヴァンプは、自身の語る言葉を「真実」として聞く者の脳に刷り込むらしい。

(――ってことは、僕はいま“人でなし”の烙印を押されたわけだ)

 烙印もなにもそのものだろう、などと。自虐的なツッコミが湧いて思わず皮肉な笑いが漏れた。

 ソウマは再び嘲笑を浮かべ、調子を取り戻した様子で主張を続ける。

「私は彼を正しく導く。吸血鬼として生まれたならば本来の形に戻し、もちろん君との番も解消しよう」

「……なんのために、そんなことをするの」

 シドウはむしろ呆れた態度でソウマに返した。彼の声の能力を目の当たりにしたせいではないが、言霊というものの作用は案外バカにできない、とシドウは内心思う。

 ソウマに脅かされたことで、長く胸に溜めていた本音を表に出したこと。別に誰に向けて主張する気もなかったシドウの中での確かな「答え」。それは勿論リクに対しても――というかむしろ、リクにだけは聞かれたくないと、今でも思っている。

(だって、僕は報われるわけにはいかないから)

 彼の父であり続けると主張する前に、懺悔というにはあまりに乱暴すぎる自虐で洗いざらい言葉にした数多の大罪。他人への思い遣りを持つきっかけが息子(リク)であるという事実はある一方で、だからこそ、思い知らされた「身勝手さ」を誇りに思う心がより強固になったのも事実だった。

 いくら他人を思い遣っていると主張したところで、あくまでそれは自身のエゴにすぎない。

 彼からの素直で真っすぐな愛情を喜びとして甘受することが許されたのは、あくまで最初の7年間までだ。

(そこでもう十分すぎるほど、一生分の愛をもらった)

 名前を呼んで、笑いかけると鏡のように返してくれる愛らしい笑顔。疑いようのない純粋な愛情の応酬。シドウは脳裡に幼い頃のリクの姿を思い浮かべて、柔らかく口の端を吊り上げた。

 ソウマは嘲笑を崩さないままでありながらも、シドウの泰然とした態度に焦りを感じていることは明らかだった。執拗に大仰な言葉を重ね、縋るようにリクの体に触れながら主張を続ける。

「――つがいなど、人工的に仕組まれた絆だ。簡単に壊れる」

「なるほど? ……これはお前らの実験というわけだ」

「実験、だと?」

 ソウマが聞き返してくる声に、シドウは「かかった」と、顎を引いて嘲る笑みを浮かべた。

「僕はV-Unit(ヴイ・ユニット)の実質的な司令塔だからね。お前たちグレン・ヴァンプの動きを観察し、分析していたんだよ。本来の血で繋がったツバキたちの絆を壊せなかったから、人工物である僕らの絆を壊しにきたってところだろう?」

 ソウマの赤眼が微かに揺れて、細められる。無言を肯定の意と汲んだシドウは、真っすぐリクに視線を据え、あえて本音を口にした。

「残念だったね、誰に否定されようが、僕とリクは心から信頼しあう親子だよ」

「自らの欲のもとで命を――しかも吸血鬼(ヴァンプ)の命弄ぶ極悪人が。私の方が君よりも彼の父として何倍も相応しい」

 間髪入れず返してくるソウマに、シドウは反射で舌打ちをする。

 ソウマはシドウの態度に片方の眉を吊り上げて、歯茎を剥き出しにしながら声高に叫んだ。

「正義も、正しさも! 私は正しいことのすべてをこの子に与えよう。君によって植え付けられた歪んだ感情もすべて正して」

「正しいことが正義なの?」

 対するシドウは、静かな声音で反論を唱えた。意表を突かれたように一瞬ソウマが引いた隙を突いて、シドウは素直な告白を重ねる――決して許しを乞う意図ではなく、決意の表明として。

「僕はいつだってリクの意思を尊重してきた。リクが知りたがることはなんだって教えた。それは本来なら隠すべきことだったかもしれない。けれども、知りたいというリクの意思を僕が奪うのは間違ってる。リクは本当にいい子だ。事実を聞いて、受け止めて、一生懸命考えた末に、僕を選んでくれた」

 内側で、燃えるように血が湧いた。急かしてくる拍動に、シドウはハッと大きく息継ぎをする。巡る過剰な血流のせいで指先まで行き渡る熱が滾り、末端がブルブルと震える――ああ、だから嫌なんだ。

 本音なんて、理性で閉じ込めておけない想いなんて、身勝手で不格好。体を捩りたくなるほどの羞恥が湧くし、思わず両手で顔を覆いたくなる。


つがいになると言ってくれたときの喜びを、僕は誰にも否定させない」


 リク、と。堪らず呼びかけそうになった。家族を知らない自分が、唯一手に入れた家族。どんな目的があったにせよ、生まれた生命はどこまでも純粋無垢で、愛しかった。愛さずにいられなかった。

 それまでの人生の中で空っぽだった器に、溢れるほどに満ちた感情。何にも代えられない宝物だと感じたからこそ、名前にも精いっぱいの愛を込めた。大地にしっかりと根差すように。宝石のように大切で、愛しい存在。そして空のように広く、どこまでも自由でいてほしい。単純で短い響きに、そこまでの意味が込められているなど、彼は決して気づかない。それでも、究極のエゴでいいだろう――それが、親という生き物だ。


「リクが僕を選んだということが、僕がリクを作り、育ててきた時間の中で培われてきたものの証明だ」


 ハッ……と強く息を吐く。上がりきった体温。震えは止まらない。それでも尚、瞼を開くことのないリクに焦れる。シドウの目には最早、ソウマの姿など映っていなかった。――リク、リク、リク。何処にいるの。早く、戻ってきて。


――お前に会いたい。


 爆発しそうな想いは喉の入口で詰まって呼吸を苦しくさせる。ギュッと締まる喉を無理やりこじ開け出口を作る。通りの良くなった器官に目いっぱい空気を送って、吐き出す勢いで、今まで出したことのない大声を張り上げた。


「――聞け! リクは、僕の息子だ!」



 響いた声は、天井の低い部屋を突き抜けカメラのマイクが拾い、繋がれた回線に乗って街中に響き渡る。通行人の耳を震わせ、若者のイヤホンの中で弾けて、無表情に画面を見つけていた人々の精気を取り戻させる。

「え、なに……?」

「さあ……、なにか、変なことを聞いたような」

 人々は各々に囁きあって、止めていた足を進め始める。スマートフォンを手にして若者は、真っ黒に落ちた画面を見つめ、首を傾げて端末をポケットにねじ込んだ。



「……かっけぇ」 

 監視モニターに映る人々の変化を見届け、ジャックしていた中継回線をすべて落としたヒイラギは、マウスを握りしめたままポツリと呟いていた。

 オルビスタワーの上部、V-Unit(ヴイ・ユニット)の研究施設であるドーナツ型の浮遊区内にある病室で、眠ったままのアスカとミナミの様子をみていたハスミとツバキは、ヒイラギの呟きに顔を上げる。

「なに、どうかした? ヒイラギ」

 ツバキが問うと、ヒイラギはしゃがんだ姿勢のままで唯一回線を残したPCの画面を見つめて、喉仏をゴクリと上下させた。

 開いたままのカーネリアンの瞳は星を撒いたように輝いて、ハッと吐き出される吐息に滲む興奮。煌めくオレンジの中には、死灰で汚れたシドウの背中が映っている。

「……なんか、俺絶対、このシドウの背中忘れない、かも」

 ヒイラギの呟きを聞いたツバキは、困惑の眼差しをハスミに向けた。ハスミも大きく首を傾げて、訝しそうに顔を顰める。

「なんか、ヒイラギが素直にシドりんのこと褒めるとか……え、本当にどうしたの?」

「なんでもねえよ」

 ヒイラギは尻すぼみに消える声で呟いて、PCのモニター画面の隠れるように頭を引っ込めた。ハスミはフッと肩の力を抜いて息を吐き、眠るアスカに視線を落とす。

「――……っ、あ!」

「え? なに?」

 ハスミが突然上げた大声にツバキも視線を向ける。ハスミはベッドサイドに飛びついて、アスカに顔を近づけ彼の頬に掌を添えた。

 フルッ、と微かに睫毛が震え、薄い瞼がゆっくりと開いていく。覗いた深紅に確かに光が灯るの目にしたハスミは、フッと安堵の息を吐いた。

「……起きたか? アスカ」

「ハスミ、さん……?」

 ゆっくり瞬く赤眼に自身の姿が映るのを確かに目にして、ハスミはアスカの手を強く握りしめたまま、まるで祈りのポーズのように深く深く項垂れた。



 足元がグラッと揺れる感覚。机の上に置かれていたカメラがバランスを失い横倒しになった。シドウは思わず膝をつき、ソウマから視線を外してしまった迂闊を思って即座に顔を上げる。

 天井から照らす白い照明が地上に落とす影。シドウは自身を覆う人型の影の中で、ハッと息を吐き瞬きをする。


「……マスター!」


 間近でかけられる声。至近距離で覗き込んでくる美しいサファイアブルーに、シドウは思わずフハッと噴き出した。深く項垂れ肩を揺らしながら笑うシドウに、リクは困惑を浮かべながら、死灰で汚れたシドウの肩にソッと触れる。

「……リク」

「はい」

「ふふっ……リク。リク、リク」

「えっと……はい」

 リクは戸惑いの滲む笑顔を浮かべ、柔らかく首を傾げた。整った結び目で普段より高い位置で結った長い藍色の髪が揺れる。シドウは顔を上げてリクの体越しに演説台を見た。

 そこには空の車いすが置かれているだけで、いつの間にかソウマの姿は消えていた。

 シドウは吐きかけた舌打ちを呑み込んで溜息に変え、見慣れない服装をしているリクの全身を視線でなぞる。

「……すごい格好」

「ああこれ……ものすごく窮屈です。マスターはその……汚いですね」

「失礼だね、お前は」

 シドウが億劫そうに頭を振ると、髪の隙間から死灰がパララと零れた。血で濡れた前髪も肌に張り付いているし、乾いた部分は凝固して痛い。シドウはハァと深く息を吐いて、背後の机に後頭部をぶつける。

「一生分動いた。あと多分明日絶対筋肉痛なんだけど」

「1日で来ますかね、筋肉痛」

「あのねえお前……本っ当、……もおー……」

 離れている間。おそらく、お互いにお互いのことだけを想って我武者羅に動いた。リクがなにも言わないことがその証明で、シドウも別に何があったかを話すつもりはない。

「……あのグレン・ヴァンプ」

「はい」

「何が目的とか聞けた?」

「ええ、断片的にですけど。どうやら、始祖の願いが絡んでいるようです」

「願い……、ねえ。そんな綺麗な響きのものなのかね。今のこの状況は」

 瞬きをするたびに、瞼の上で凝固した血液がパリパリ音を立てて砕け散る。

 リクも火傷のように爛れた左手を見下ろし、感覚の戻らない指先をキュッと小さく握りしめた。ハッと息を吐いたリクは、ゆっくり視線を上げてシドウを見る。首筋や腕にいくつも残る噛み跡。乱暴に噛みつかれたのだろう、ところどころ肉が捲れ、湿った内部を晒していた。照明に反射して光るその赤に視線を据えたリクは、スゥと目を細めて、シドウの首筋に甘えるように鼻先を寄せる。

「……リク?」

 流れた血液の軌跡をたどるように、彼の微かな鼻息が撫でた。ゆったりと擦り寄せられる体温にゴクッと喉を鳴らしたシドウは、リクの後ろ頭に指先を添え、硬い結び目を解きながらソッと彼の頭を抱いた。

 閉じ込めた狭い空間で、高まっていくリクの呼吸音。待てを命じられた犬のように従順でありながら、抑えきれない衝動を滲ませる吐息に、シドウはソッと目を伏せる。

「お腹空いた? リク」

「……はい」

「吸いすぎないでね」

「分かっています」

 カッ、と。興奮に濃く溶けた唾液が歯列を渡る音。シドウは出来るだけ頭を反らして、彼に首筋を差し出した。汚れた肌に触れる双対の牙。皮膚を裂いて血を流してから与えるのではなく、初めて肌から直接吸血させた日――つがいを結んだ日の記憶が、脳裡に甦る。

 皮膚を穿ち、太い血管を破り、沈み込んでくる牙。傷口が熱く燃えて、全身の血が、その一点目掛けて集まっていく感覚。脳が震え、まき散らされる快楽物質。

「ん、ぅ……っ……は……」

 甘い痺れが指先に満ちる。伏せていた瞼を開いたら、押し寄せる雫が零れ落ちそう。

 シドウは震える吐息を堪えて飲み込み、体の芯まで痺れるような愉悦に酔った。

 吸いすぎない、と直前に交わした約束を律儀に守るように、リクは浅い位置で留めた牙から、ちゅうちゅうと微かな音を立ててシドウの血を吸った。ハッ、と時折吐き出される温い吐息が肌を震わせて、思わず「もっと」と言葉にしてしまいそうな衝動が湧いた。

 シドウは毛の長い絨毯を意識して蹴って、その衝動を呑み込む。代わりにハァと長く息を吐いて、体内を駆け巡る歓喜を甘受した。

 甘い、甘い。熱い、とける。

 彼の中に自身の体液が溶けていく様を想うだけで、脳が、血が、滾って沸き立つ。

 薄い皮膜に包んだ濃度の濃い甘い蜜が、微細に開けた穴を破りツッと溢れるような。腰の奥をジリジリと灼く燃え立つほどの甘美な疼き。

「ふっ、ぅ……ン、ぁ……ッ……、ァ……」

 ゴクンと飲み下す唾液が内側を溶かして、満ちる熱に脳が焼かれる。

 痺れる耳の奥。渇望する喉に染みる唾液が濃く、熱くはりついて、甘い。爪先がピィンと伸びて、ジワジワ湧く疼きが下腹を突き上げた。

「ッ、んぅ……ッぁ、は……っ、ぁ、ン……ッぅ……、は、ぁ……ァ」

 彼が唯一無二のつがいだと、細胞のすべてに刻みこんで、覚え込ませて。

 左手の紋様が、呼応しあうように濃く、赤く鼓動を打って明滅する。

 ツゥと透明な色が混じる血液を引きながら、離れて行くリクの牙。

 間近で互いのブルーを見交わし、額を重ねる。


 横倒しのままのカメラは、再び結び合った2人を映すことはなく。重なり合ったふたつの足元だけを記録していた。


《10/END》

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