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第9話・偽りの父


 耳底を揺らす音が、外からのものか自身の内側から鳴る音なのか区別がつかなかった。

 PC画面に釘付けにしていた瞳孔を動かし視覚を働かせれば、室内に音の原因が見当たらないのはすぐに知れる。部屋の中央には眠っている2人の患者。彼らの体から伸びたいくつもコードがモニター周辺の機器に繋がってはいるものの、音声が鳴るとすれば何か異常が起きた時だけだった。安定した数値を示すモニターからはそんな事態は起きる兆候もないとすれば、やはり耳底の音はシドウの内側から湧いているということ。

「ふぅ……」

 シドウはわざと音に出して息を吐き、ウエーブのかかった前髪をグシャッと強く握りしめた。額に押し当てた掌底に伝わる血の脈動。額は妙に冷えているのに、掌は熱く、指先も冷えて硬くなっている。

 落ち着け、状況を整理しろ。とにかく今、感情のままに動くわけにはいかない。

 繰り返し唱える自戒で、今にも部屋を飛び出す衝動に駆られそうな足を必死で踏みとどまらせた。

「シドりん!」

 ようやく空間に差し込んだ、別の音。シドウは前髪を握りしめていた手を解いて、ゆっくりと顔上げて部屋の入口へと視線を向ける。

「……おかえり。ツバキ、ヒイラギ」

「おかえりじゃないよ! どうなってんの、あの会見映像」

 ツバキはシドウの顔を見るやいなや、掴みかかる勢いで詰め寄った。背後に控えたヒイラギが、しっかりと握り合わせた彼女の手に力を込めて制止する。再び強く結び合わせた彼らの絆を目の当たりしてほんの僅かな緩みを覚えつつ、シドウはフゥと短く息をついた。

「お前らはどこでその映像を見た?」

「どこででもだよ。街頭ビジョンも、電車の中のニュースも全部。スマホで見てるやつらもいるし、目につくところにある画面の全部にあの映像が流れてた。ずっと『LIVE』って表示されてるけど、多分そんなんじゃない」

 苦々しく表情を歪めながらも的確に答えるヒイラギ。シドウは初めて聞かされた外部の状況にゾッと背中が震えるのを感じつつ、薄い唇を噛んで動揺を現さないように耐えた。

「シドりん。あいつ多分、吸血鬼(ヴァンプ)だよ」

 ヒイラギの答えを黙って聞いていたツバキが、強い瞳を向けて宣言する。シドウはグッと息を詰めて青眼を見開き、パタタと瞬きをした。ツバキの瞳に気圧されること数秒。シドウは詰めていた息をハァと一気に吐き出して、緊張していた肩の力を解く。

「シドりん?」

「おい、大丈夫かよ」

 力を抜くついでにガクリと項垂れたシドウの眼前で、ヒイラギがひらひらと掌を振った。シドウは片手を上げて「大丈夫」の意思を示すと、情けなく崩れた顔面を持ち上げ2人に晒す。

「ごめん、そうだね……うん、確かにそうだ」

 ずれた眼鏡を直しながら背筋を伸ばしたシドウを見て、ツバキをヒイラギは視線を交わして微笑んだ。

「しばらく低級(ザコ)中級(ダーカー)への対策ばっか考えてたから、吸血鬼(ヴァンプ)が本来高度な知能を持つ生命体だってことすっかり忘れちゃってた」

「それ言われると無理もねえなとは思うけど、とびぬけて優秀な吸血鬼が身近にいるってのに、そりゃねえだろ」

「……うん、そうだ」

 シドウは今にも崩れ落ちそうな儚い笑みを浮かべる。ツバキとヒイラギは顔を見合わせて困惑した表情を浮かべるも、シドウの全身から緊張が抜けたことには安堵した。

「ありがとう、だいぶ落ち着いた」

 スゥと細く息を吸い込んだシドウは、音を立てずに鼻から息を抜きつつ、キーボードをクリックする。画面上にパッと現れた画面の中では、グレーの髪をオールバックにセットした、青眼の男が拳を強く握りしめている。上等そうなスーツに胸元に光る金色のバッチは国の中枢機関所属の議員を示すもの。カメラをジッと見据えて話す目線は画面を見る者を真っすぐ正面から見据え、まるで正しさを知らぬ子をしかりつける親の声のように響いて、耳の奥に居座った。

『――吸血鬼の殲滅を掲げ、独自のつがいシステムを確立した上で、国家直属の組織という体をとりながら実質あまたの独立した権限を与えられ活動を続けてきた組織の中で行われてきた非道を、我々は見過ごしてはならない』

 男は繰り返し、隣に侍る眠っているようなリクを指して《塔》の非道を訴える。まるでこれまで国民を吸血鬼(ヴァンプ)の侵略から守ってきた事実などなかったかのように、むしろその手段を「家族」という言葉を盾に真っ向から否定し続ける。完全なる敵意でありながら、悪意を含まない、真っ新な正義の形をした言葉の刃。

 その正義の主張が何度も繰り返し聴覚と自尊心を突き刺してくる。落ち着いた心境で聞いたところで、湧いてくる怒りの質は全く変わらなかった。

「……なんで、こんなでたらめ……ってかこいつマジで誰? リッくんの父親はシドりんじゃん」

 憤りのままに文句をぶつけるツバキの声を、シドウはありがたく聞いた。彼女が言葉にしてくれる分、余計な感情を排して思考に集中できる。

「厳密に父親って言っていいかどうかはあるかもしれねーけど、リクはシドウが実験で生み出した人工吸血鬼ってことに間違いはねえんだろ?」

 冷静に呟くヒイラギに、ツバキは怒りの矛先を変えて彼に噛みつく。

「ヒイラギっ! なにその言い方! こいつの言うこと信じんの?」

「ちげーって。俺らシドウの研究について話は聞いてるけど、実際にこの目で見たわけじゃないだろ?」

「うちらリッくんがちっちゃい時から見てるじゃん! シドりんがめちゃくちゃ危なっかしい手つきでリッくんのこと抱っこして、ミルクひっくり返したりギャン泣きされたりしながら子育てしてたのだって見てるじゃん!」

「……こらこら、ケンカしないの」

 瞼を伏せて片手を上げながら、シドウが静かな声でストップをかけた。ツバキはピタッと動きを止めて、不満げな目をヒイラギに据えながらも大人しく引き下がる。

 シドウは唇の端に苦笑を浮かべ、スタックスのポケットからスマートフォンを取り出した。電源ボタンを押し込み灯したロック画面に、幼い頃のリクとシドウの2ショット写真が表示される。今のリクの冷静沈着な様子からは想像もつかないような、満面の笑みを浮かべる無邪気な表情。

 シドウは写真に写るリクを見て目を細め、スマートフォンのロックを解除する。

「実験の経過については確かに、ハスミくらいにしか見せたことなかったね。2人はグロ画像とかでも大丈夫だろうし、見せてあげるよ」

 アプリが並ぶ画面を送ったシドウは、画像フォルダのアイコンを弾いて中身を開いた。現れれた画像をスクロールで過去までさかのぼったシドウは、緑色の画像が並ぶ画面を2人の前に示す。

 シドウから手渡されたスマートフォンを覗き込み、古い順から画像を辿っていく2人。緑色の培養液が満たす円筒形の水槽の中に浮いている、水泡と見間違えるほど小さな丸。透明な膜に包まれた中に皮膚色の肉塊が少しずつ見えてきて、やがて人間の形に育っていく細やかな過程。

「……かーわい」

 ポツッと呟くツバキの感想に、ヒイラギはゴクッと唾を呑んで彼女の表情を覗き見る。ツバキはカーネリアンの瞳を細めて、慈愛に満ちた表情を浮かべていた。彼女の中の母性が、徐々に育っていく命を慈しみを持って認識している。

「リクは、幾度も繰り返した実験の中で唯一成長にこぎつけた貴重な個体だった。24時間つきっきりで管理して、何度も危機を乗り越えて、培養液の外に出しても生きていけるまでに成長したんだ」

 ヒイラギは次いでシドウの横顔に視線を向けた。彼もまた、思い出を語りながら瞳に愛情を滾らせている。血で繋がっていなくても、家族としての強い繋がりの所在を感じて、ヒイラギは息の詰まる想いを覚えた。

『この子、リクは私の息子です』

 スピーカー漏れ聞こえる主張に、シドウの顔面に暗い影が差す。明らかにシドウの地雷を踏みぬく言動に、ヒイラギはフッと両肩を落として肩の力を抜き、スマートフォンの画面を落としてからシドウに返した。

「……あんた、やっぱり父親なんだな」

 シドウはハッとして顔を上げ、複雑に表情を歪めながらヒイラギの手から端末を受け取り、ポケットにしまう。

 再び画面に向ける視線。時折傍らにいるリクに向けられる男の目は、痛そうに歪み、慈しみを持って「息子(リク)」を見ているように見えた。シドウは微かに開いた唇の隙間をキュッと閉じて、下唇に前歯を立てる。

「とりあえず、状況は真っ黒だってことは分かったな。このおっさんは虚偽のリークをしてる」

 ヒイラギはシドウのPC画面を指して言い切った。シドウが小さく頷くの見て、ツバキは自身のスマートフォンを取り出して画面を操作しながら呟く。

「この会見、いつから始まったのかは知らないけど、これだけ長いこと電波ジャックしてても誰も止める気配ないし、配信の方見るとコメントもこのおじさん寄りのものばっかだね」

「そもそも《塔》が人体実験してるとか……人間をヴァンプに変えるなんてありえねえ……ありえねえ、よな?」

「あー……」

 ヒイラギの疑問に、シドウは複雑に顔を歪めて天井を仰いだ。次いで、シドウの視線が向く方向を目にしたツバキとヒイラギは、同時に唾を呑んで目を見張った。

 そこには、アスカと同じように目を覚まさないミナミがいる。

「っうぇ!? この人間ちゃんってそうなの!?」

「断言はできない……けど、僕たちが意図してそうしたわけじゃないから今はいったん置いておこう、ごめん」

 眉間に手を添えて首を振るシドウを見て、身を乗り出していたツバキは体勢を戻して深く頷く。

「話戻すけど、やっぱり洗脳じゃない? 私たちが闘った相手もたぶんそうだった」

「……ああ」

 ツバキたちが闘った相手――銀色の長い髪をした、女性の姿のグレン・ヴァンプ。ツバキの目に彼女は、母親の姿に見えていたという。

「実際、うちらお母さんの顔とかはっきり覚えてないからチョロすぎたんだとは思うけど、記憶とか言ってることちゃんと聞いたらお母さんじゃないって分かったのに、どうしても揺らいじゃったもんね」

「ってすると、グレン・ヴァンプはそれぞれ何かしらの固有の能力持ってるって考えんのが筋なんだろうけど……くっそ、憶測ばっかで埒が明かねーわ! 別に推理ゲームしたいわけじゃねえし、グレン・ヴァンプの専門家っつったらおっさんじゃねーか! っんでいねえんだよ!」

「ヒイラギ、どーどー」

 いつの間に立場が逆転し、今度はツバキがヒイラギをなだめる側にまわった。会話が途切れた隙を埋めてくる声高な主張。意識せずとも耳底を震わせてくる声に、全員の視線が引き付けられる。

『V-Unitの研究者たちは拉致した人間をV-Unitの中で飼っている吸血鬼たちの能力で吸血鬼化させ、人間とつがいにすることで無理やり力を引き出され利用されている。これがつがいシステムの全容なのです。彼らは人間さえも兵器に変えようとしている。しかも、あのおぞましく憎んでも憎みきれない吸血鬼の力を利用して!』

「……は?」

 フッ、と。空気を震わせる冷たい声。ツバキは自身の腕に触れていた手を解いて、直立の姿勢で画面を睨みつけた。ヒイラギもツバキの隣に並び、指の関節をパキィと鳴らす。

「何言ってんだこのおっさん、アホすぎ」

「つーか、うちら全員の地雷ぶち抜いてんのわっかんないかなー……明らか、宣戦布告じゃない?」

 低い呼吸を繰り返しながら、静かに怒りを燃やす2人。シドウも同意するように頷いて、PCを閉じた。音声の消えた室内で、無言のまま視線を交わす3人。

 ふと、部屋の内線電話がコールを鳴らし、シドウが受話器を取って応じる。伝えられた情報を聞いたシドウは「わかりました」と静かに言って、受話器を本体に戻した。

「……シドりん、どこから?」

「警備だよ。この会見を受けて、オルビスの入り口にマスコミが押しかけてるって。……要はもうすぐ、このふざけた会見も終わるってことだ」

「状況はなんも変わらねえけど、このおっさんの顔ばっかよりはマシだな」

 べぇと舌を出しながら言うヒイラギに同意して頷いたシドウは、入口近くの壁に凭れて腕組をする。

「あと、もうすぐ帰ってくるよ。()()()が」

 廊下から響いてくる足音に、シドウが入口に視線を向けたタイミング。入口の縁を掴んで現れたハスミは、膝に手をつき盛大に息を切らしていた。

「悪い、遅くなった。入口人すごい上に、ゲートで止められてて」

「おっせーよ、おっさん!」

「この期に及んでまたID置いてくとかアホすぎでしょ。アスカに世話焼いてもらわないとなんもできないわけ? お前」

「クッソ……、なんだよお前らめちゃくちゃ辛辣じゃねえか……」

 繰り返す荒い息を呑み込んだハスミは、腰に手を当てゆっくりと呼吸を整える。

「説教はまあいいや。戻ったなら、ここは任せるよ」

「なんだよお前、俺のこと待ってたのか?」

 目を見開いて言うハスミに、シドウは呆れたように息を吐いて、見下す視線を彼に向けた。

「約束は守るでしょ」

「……んだな」

 ハスミはシドウが掲げた手に自身の手を合わせて、パチンと乾いた音を鳴らす。次いで、アスカとミナミの体に繋がるモニター横のメモ欄に、細かな字で経過が記されているのを見て申し訳なさと感謝で目を伏せた。

「中のことは任せろ」

「うん、お願い。お呼びだろうし、行ってくるよ」

「シドりん! あいつのとこ乗り込むなら、うちらも一緒に行こうか? 私たぶん今、めちゃくちゃ強いよ」

 ツバキが言葉を証明するように強い眼差しを向けながら言う。シドウは彼女の瞳を見つめ返して目を細めるも、軽く俯いて首を横に振った。

「大丈夫。()()()のあいつは多分、そんなに攻撃型じゃない。リクがあいつを()()()に引きずり出せたら、その時は加勢をお願いするよ」

「……? どういうこと?」

「ハスミに聞いて」

「はあ? ちょ、俺何も状況把握できてな」

「時間がないの。天才名乗ってんならちゃっちゃと状況把握して策立てて。あと2人に彼女の状態も説明しておきなよ。……それと、グレン・ヴァンプについて聞きたいことが山ほどある」

 鋭い視線を突き刺して言うシドウに、ハスミは気圧され息を詰める。ツバキの横でヒイラギも深く頷いているので、ハスミは観念したように両手を挙げた。

「……分かった。お前が帰ったらいくらでも聞いてやる」

「約束だよ」

 シドウが向けた真剣な目に、ハスミは視線を返して頷く。

「あ、待てよシドウ。殴り込みにいくなら“お守り”貸してやるからさ」

 工具入れを漁って何かを掴んだヒイラギは、シドウに駆け寄って掴んだものを手渡す。使い方を耳打ちし、頷いたシドウに親指を立てるヒイラギ。フッと柔らかく笑ったシドウは掌を翻して部屋から出ていった。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、ハスミは短く息をつく。そして、シドウの残していったPCの蓋を開き、画面に現れた男の姿を凝視する。

「……父親の顔、か」



 ドーナツ型の浮遊区を通過すると、ガラス張りのエレベーターからは吹き抜けの構造になった階下が見渡せる。

「おやまあ、随分……」

 ゲートの手前で止められてはいるものの、制止する警備員たちを突破して今にもなだれ込んできそうな程のマスコミの数。シドウは眼鏡の位置を整え、彼らの表情を観察した。口々に怒号を叫びながら、どの瞳にも生気が感じられない。困惑している風でもなければ、真実を追求する熱意も見えなかった。

「洗脳、か」

 ツバキたちの口にした言葉を改めて呟き、シドウはガラスの壁についた指先を小さく握る。

 確かに、繰り返し耳にした男の声は永遠に耳底に張り付いたままで、今も気を抜けば記憶に残った音声が自動再生のように甦ってきて思考を支配されそうになる。強い反発の意志を持っていなければ、容易く流されてしまっていたかもしれない。シドウは胸に浮かんだ可能性に苦笑して、フルッと頭を左右に振った。

「リクを盾にされてる時点で、ありえないっつの」

 自身でも引くほど冷たい声。けれども、その声音こそが自身の本質であるとも痛いほどに思い知らされる。

「あの僕が、誰かのために必死になる日がくるなんてね」

 V-Unitの非道、という言葉が糾弾するように頭を掠めた。冷たい過去に落ちていきかけた頭に、それは強い痛覚を持って響く。一度瞑った目を再び開いたシドウは、見えかけた過去を冷静に見つめた。

 非道? そんな言葉に、これまで興味を持ったことすらなかった。

――シドウはもともと、他人に興味を抱いたことのない人間だった。両親を早くに失くし、施設で育ったシドウは、研究だけに心を砕き、友人を作ることもなかった。彼が吸血鬼研究に携わるようになったのは、ハスミと知り合ってからのこと。シドウの優秀な腕を買って「協力してほしい」というハスミの申し出を、シドウは興味本位で受けた。

 ハスミは吸血鬼の殲滅にかけて異常な執着を持っていて、人間が吸血鬼に対抗する唯一の手段としてのつがいシステムの構想をシドウに語った。吸血鬼と人間がつがいの契約を結び、吸血鬼の潜在能力を何倍にも引き出して吸血鬼を殲滅する――つがい契約とは、即ち血の契約。人間と吸血鬼の血が稀に結びつくというが、その確率は限りなく低い――ならば、作ればいい。シドウは独自の理論をもとに、人工吸血鬼の創造という禁忌に手をつけた。ツバキとヒイラギという双子の姉弟との出会いにより、つがいの条件を具体的な数値の上でも知ったシドウは、自身の細胞と吸血鬼の細胞から人工吸血鬼を生み出すための実験を重ねた。そうして苦心を重ねた末に、生まれた唯一の成功体がリクだった。

「リクがたまたま素直で従順でいい子だったから……て、ことかもしれないけど」

 エレベーターの壁に額を寄せて、シドウは瞼を伏せた。カウントダウンを続けていたエレベーターのデジタル数字は、もうすぐ地上階を示す。シドウは残り少なくなっていく数字を見つめて、これまでのリクとの日々を思い出していた。

 言い訳は、もういい。リクがどんな子供であろうと、彼が誕生した時の喜びと、重ねてきた時間で得た答えはもう、擦り切れるほど胸に誓ってきたのだから。

「――僕は、リクの父親であることをやめない」

 左右に開いた扉から外に出たシドウは、一斉に向けられたカメラから顔を隠し、裏口に向かって走った。

「研究者ですか」

「赤ん坊を攫って人体実験しているという話は本当なんですか」

「これまでの成功例は彼だけですか? これまでどれだけの赤ん坊が犠牲になったんですか」

 単調な声音でありながら、ひと気のない吹き抜けのロビーに、矢継ぎ早に浴びせられる剥き出しの敵意はよく響いた。シドウはその声をすべて振り払って、早々に悲鳴を上げる自身の心音だけに意識を集中する。

「ははっ……さすがに運動不足すぎ」

 自虐気味に瞼を伏せたシドウの脳裡に、ここ最近の戦闘の記憶が不意に思い起こされた。互いへの想いだけで捨て身で敵に挑んでいくヒイラギとツバキ。つがいであるハスミに絶対の信頼を置き、強大な力を振るって見せたアスカ。アスカから寄せられる信頼に戸惑いながらも、必死で応えようとするハスミ。

「……ちゃんと闘ってないの、僕だけだ」

 走れ、止まるな。考えるより先に、動け。

 ハァと苦しい息を吐いたシドウは、裏口を抜け外に出る。剥き出しの太陽に照らされるのはいつぶりのことだろうか。ギシギシと痛む関節も、未だに回復しない心臓もすべてが憎らしい。それでも今は、走る――リクを取り戻すために。

 会見映像は視聴端末を手にしていなくとも街中の何処ででも目にできた。政府が会見を行う場所は限られているし、ある程度当たりもついている。けれども、それらを一つずつ虱潰しに回るような時間も心の余裕もない。シドウは広い場所で一度立ち止まり、スゥと静かに息を吸い込んで意識を集中させた。

 道行く他人は皆吸い寄せられるように会見映像に見入っていて、シドウの行動になど目もくれない。シドウはそれを好都合と、自身の眼前に掌を掲げ、太い血管の上に脈を測るような形で別の手の親指を重ねて握った。

「……どこ、リク」

 瞼を伏せ、自身の血流の音のみに集中しながら微かに呟く。スゥ、ハァと一定のリズムで繰り返す呼吸。耳底に張り付いていた男の声が徐々に薄れ、すべての感覚が内側から起きる拍動とひとつになっていった。

 シドウは眉間に深い皺を刻みながら、自身の血に干渉してくるつがいの気配を探した。会見映像で目にしたリクは、深く眠っているように見えた。しかし時折瞼が細かく震える反応が見えたことから、彼の意識は高い確率で覚醒している――彼もまた、深層心理の中で闘っている。

 シドウは確信を寄る辺にして呼吸を繰り返した。単調なリズムに交じる微かな波動。シドウはスゥと瞼を開いて、ハッと短く息を吐き出す。そして再び、通りに佇む人々の間を縫って駆け出した。こめかみ辺りでやたらとうるさく鳴る律動。その音に意識を集中させながら、なるべくノイズが多い方へと足を進める。

「ツバキの見立てが正しければ、だけど」

 どんどん大きくなるノイズが、思考まで埋め尽くすほどに膨らんでいった。シドウは苦しい呼吸を吐いて、目的の場所の前に立つ。そこで目にした光景に、シドウは自嘲気味に唇の端を吊り上げた。

「こんだけヴァンプが溢れかえってるのに悲鳴のひとつも聞こえないなんて、洗脳の線は正しいみたいだね」

 政府所有の巨大な建物の影。広大な庭に出来た日陰の中に、無数の低級吸血鬼(ザコヴァンプ)の影が揺らめいている。目を凝らして見れば地面に散らばるように赤い光が灯っていて、それらはすべて萌芽する前の吸血鬼の《種》だった。

 シドウはフッと肩の力を抜き、背中を丸めて状態を揺らす。シドウの存在に気づいた吸血鬼たちは一斉に彼に視線を向け、三角の翼を広げて底なしのように昏い口を開けた。

「僕はお前たちの獲物じゃない」

 言葉を証明するように、スゥと影の中に差し出す左手。幾筋もの切り傷が刻まれた日焼けしていない白い肌。シドウはそこに走る青い血管の影を目にして、唾を呑んで喉を上下させる。データの上では証明が済んでいるし、ヒイラギが何度も実践するのも目にしてきた。けれどもその度にツバキがいい顔をしないことも含めて、危険な行為であるということも分かっている――それでも、使えるものは使う。シドウは覚悟を込めて左手の拳を強く握った。

 血管の浮いた肌目掛けて、一体のヴァンプが飛び込み牙を立てる。ジュッと音を立てて血を吸い込んだ瞬間、ヴァンプは甘美な血に恍惚とした表情を浮かべたように見えた――けれども、次の瞬間。急にガタガタと大きく震えだし、傷口に牙を埋めたまま膨らんで破裂する。体が裂けても尚、大きく開いた口から空気を裂く断末魔を上げたヴァンプは、やがて灰と化して消滅した。

 続きかけていたヴァンプは、その光景に恐れをなしたように一斉に動きを止める。

 憐みか、嘲りか。自分でも分からない視線を落とし、シドウはヴァンプの牙穴から垂れる血を拭い――薄く笑った。

「僕の血は、リクだけのものだからね」

――吸血鬼とつがいを結んだ人間の血は不可侵となり、吸血鬼を殺す。理屈では知っていた。それを今、身を持って証明ししたことに、シドウは高揚したように瞳を滾らせた。

「……ヒイラギのこと、否定できないな」

 自身の力を使えるという興奮。そして、目に見えない絆が分かりやすい形で目の前で可視化されることへの高揚。ドクン、ドクンと速度を上げて鳴く心音が、心地よく体に満ちていた疲労を溶かしてく。

「僕は、リクを守れる」

 シドウは後ろ手に回した手にヒイラギから渡された“お守り”を握りしめ、切っ先を抜いた。

 衣服との摩擦でバチバチと帯電した雷を迸らせる銀の表面。シドウは銀色のロッドの柄を強く握りしめて帯びるスパークを増大させると、ロッドを顔の前に掲げ、冷たい殺気を孕んだ青眼を据えた。

「――通してもらうよ」

 シドウが影に足を踏み入れるのを合図にするように、一斉にヴァンプが襲い掛かってくる。消滅する恐怖も、吸血の本能の前では塵も同然。正面から、地面から、上空から。あらゆる方向から襲い掛かる黒い影はシドウの体に取りつき、その肌に深く牙を突き立てる。噴き出す鮮血がシドウの眼鏡を濡らし、半分塞がれたレンズの向こうに弾けて灰化していく影が散る。

 一瞬、目の奥に白が弾けて視界が揺らぐ。急速な失血に遠のきかける意識を気合で引き戻したシドウは、ザァと風が散らす灰を避け、横薙ぎにロットを一閃させた。帯電した表面が掠めた影は、弾かれたように吹き飛ばされて地面をのたうち回った。

「軽いし、使い勝手もいいね。さすがうちの天才エンジニアだ」

 失われた血液を急ピッチで補うように、船底を叩くような音で突き上げる心音。巡る血流は興奮を高め、シドウの中の躊躇いや恐怖心をすべて奪っていった。

 普段酷使することのない筋肉は軋み、指先が何度も滑りかける。絶えずこみ上げる速いピッチの呼吸が鬱陶しいーーそれでも。

 シドウは薄く笑いながら首を傾け、わざと晒した首筋を差し出し、そこに群がるヴァンプを一掃する。食い込んだ牙が、まだ肉を抉ったままで崩れ落ちる。血が滴る肌にはまた新たなヴァンプが群がり、今度は噛みつかれる前にロットを振って薙ぎ払った。

「っ……、はぁ!」

 気合を吐いて、擦り切れた喉に緊張で粘ついた唾液を流し込む。

 フッと氷の針のような悪寒を感じて足元に視線を下に向けると、地面からボコッと湧いた双対の赤が迫っていた。シドウは青眼を見開いて、生まれたてのヴァンプに向けてロットの切っ先を突き立てる。

「くっ、そが……!」

 深く沈みながら爆ぜた影を踏みつけて、返す切っ先で上空から襲い掛かる影を重力の助けを借りて切り裂いた。パッと散る影と、粒子の細かい支配が頭から降りかかる。口内を汚す不快な感触を唾を一緒に吐いた。その瞬間、再び肌を刺す悪寒。シドウは素早く周囲に視線を向け、苦々しく舌打ちを吐きながら、ロットを水平に握り直す。

「消えろ」

 バチィッ、と。シドウの覚悟と共鳴するようにひと際大きく爆ぜる稲妻。しゃがみこんだ姿勢のまま強く突き刺した爪先を軸に、周囲の空気を一直線に切り裂いた。帯電する刃はシドウを取り囲むように襲い掛かる影をひとつ残らず駆逐した。

「は……っ、はぁ……」

 シドウはフラッと体を揺らして立ち上がり、血濡れた全身を晒しながら、持ち替えたロッドを構える。銀の表面を走る稲妻が、鋭い音を立てて迸った。

「闘えないと思った? ――リクの師は僕だよ」

 飛び散る血飛沫と、引き裂かれる影、舞い散る砂。人間の耳では聞き取れない高い周波数の悲鳴がいくつも湧く。昏く沈んだ瞳にそのすべてを焼き付け、止めることなく前へ前へと進める足。肌や服に重くまとわりつく血と死灰をかいくぐり、伸ばした爪先が影との境を破って、ようやく日差しの下へ到達した。白く光るコンクリートで固められたポーチ。影と決別したシドウは、日の当たる場所へと両足をつける。

「……って言っても、初期の初期までだけどね」

 軽く肩を竦めて零した一言。肩で息をしたシドウは、惨状の庭を振り返り、血の滴るロッドの先を払ってから腰に収める。

 真上まで到達した太陽の光が、影を追いやって広大な庭に陽光が差した。救いの光が、新たに生まれようとしていた種をすべて消滅させていく。

「はぁ……は……っ、……はぁ……」

 一度フッと全身が軽くなる錯覚が過ぎて、ドッと重く沈むような疲労が押し寄せる。擦り切れた喉に荒い呼吸が染みて、シドウは焼けるような痛みに顔を顰めた。

 ロッドを握りしめたまま痺れて言うことを聞かない手。張り付いたようになった指を、もう片方の手で一本ずつ解いてく。口の中に金属臭と鉄の味が混じる唾液がしみた。

「……はー……、あぁ……」

 指先の震えが収まるのを待って、シドウは血でべったりと濡れた眼鏡を外した。

「やっぱり、闘うのってめちゃくちゃしんどいねえ……」

 視界にかかる前髪を掻き上げながら避けて、血を拭った眼鏡を再び鼻頭に乗せる。

 剥き出しにした額の下で、砕けた硝子片のように光るコバルトブルーが、怒りの色を宿して燃えた。

 シドウは大きく呼吸して、全身にまとわりついていた死灰を払い、室内へと足を向ける。硬い床を踏むたびに、革靴の底がコツコツと単調な音を立てた。靴音に合わせる呼吸音。単調なリズムとは裏腹に、胃の奥から黒い炎がジワジワと侵蝕して喉の入り口までせり上がってくる。

 力の入らない腕の先。手首の脈動が訴えかけるように震えた。血が呼び合っている。シドウはその感覚に背中をブルッと震わせて、熱い息を吐いた。耳底で微かに聞こえる、リクの声。その声が徐々に、幼い子供の泣き声に変わる。

「……泣かないで」

 そう零した瞬間、喉が詰まって涙の予兆が鼻の奥をツンとついた。――二度と、泣かせないと誓った。結局その誓いを果たせていない自身の不甲斐なさを呪いつつ、シドウはひとつの重厚な扉の前に立つ。泣き声が明瞭に大きく響いて、シドウは頭痛を覚える頭を揺らした。ズッと洟を啜ると同時に染みてくるすえた鉄の臭い。鉄臭さ涙の匂いが混じり、胸の奥を灼く。シドウは顎を引いて扉を睨みつけ、金色の取っ手に手を掛けた。

 キィ、と。金具の擦れる音を立ててゆっくりと開いていく扉。その先に、画面の中で散々目にした背景が広がる。部屋の中で、何かかが動く気配。椅子に腰かけていた人物が立ち上がり、悠然とした動きで壇上から降りてきた。

「来たね」

 直接聞く男の声は、画面越しで聞くよりも重く、より深く、耳底を揺さぶる。シドウは息を詰めて男に視線を据え、背後で扉の閉まる音を聞いた。

「初めまして。私は――ソウマ」

「……グレン・ヴァンプだね」

 男――ソウマは肯定も否定もせずに目を細めて見せる。その瞳の色は画面越しで見たものとは異なっていた。彼の瞳はシドウやリクと同じ青ではなく――吸血鬼の証を示す、赤。

 ソウマは薄い笑みを浮かべたまま、再び壇上に戻った。演説台の影に隠すように置かれていた車いすを押して、ソウマはゆったりとした歩調で壇上から降りてくる。

「リク……」

 思わず零れたシドウの声を聞いて、ソウマはヒクッと眉を揺らした。壇上の前で車いすを止め、ソウマはソッと、リクの細い輪郭に掌を添える。

 ゾワッ、と背中を駆けぬけるおぞましい感覚に、シドウは震えそうになる体を留めるべく自身の左腕を右手で強く掴んだ。無意識に突き立てた爪が、ジリジリと皮膚にめり込んでいく。

「君は一体、何をしにきたんだ?」

 耳底を揺らす不快な声。シドウはこみ上げた舌打ちを隠すことなく吐いて、青い炎が揺らぐ瞳をソウマに据えた。

「決まってる……僕の息子を迎えに来たんだ」

 ソウマの指が、リクの頬に沈み込みながら滑る。その指先に促されるように、リクの長い睫毛が震え、微かに持ち上がる瞼。その隙間に覗くブルーは、闇に染まったかのように昏く、光を失くしていた。

「その手を離せ」

 自分でも驚くほどの、地獄のように冷え切った声。

 焦点の合わない瞳が震え、シドウの方を向くように動いた。リクは震えながら瞬きをして、眦から一筋の涙を零す。

 静かな一滴が、シドウの中で張りつめていた糸をフツリと断った。


《9/END》

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