第1話・血の共鳴
◇
――200年前.
繊細で、柔らか。風をなぞるような、淡い旋律。シルバーを反射する唇が滑らかに動いて、舌が躍る度に空気を震わす歌が響く。高く、澄んだ歌声。彼女が掲げた白い腕にツゥと伝う鮮血の赤。縁まで落ちた先で膨らんだ雫はフルッと揺れて、彼女の肌を離れて地に落ちる。
乾いた地面は雫を飲み込み、土が裂け、ひび割れを生み、萌芽する。地の底から伸びた黒い影は徐々に生き物の形に変わり、羽根の生えた蝙蝠に似た姿になった。
地を、天を切り裂く咆哮。いくつも生まれた影は地から抜け出し、翼で空を掻く。グワッと湧き上がる風が乾いた土を巻き上げ、不鮮明なる視界にいくつも鮮血が散った。
「ひぃっ……!」
「ぐあっ!」
「きゃあああああっ!」
影に襲われた人々の皮膚に深く突き立てられる牙。穿たれた穴から噴き出す鮮血。じゅるっ、じゅ、じゅるる。吸い上げる音と、首筋から流れ指先から滴る残滓。ドウッと倒れたその人々の背中がボコッと盛り上がり、中からまた同様の黒い影が生まれる。
「ひ、ああ、ああっ」
三角の翼を生やしたコウモリのような生き物は、翼を広げて飛び立ち次々と街の人に襲い掛かった。
「あ、っ……ッ……」
少年は悲鳴を噛み殺し、震える脚を叱咤して自身の家に向かって走る。行く手に群がる影を避け、転びそうになるのを何度も手をついて支え、抱えていた荷物が落ちるのも構わず。通りにいくつも転がる倒された人々の亡骸。充満する血の匂いに吐き気がこみ上げてくる。
「は、は……っ、く……ぅ……ぁ、ぅ……」
恐怖でかみ合わない歯の根がガチガチと音を立てた。全身から血の気が引いて、額が痛いほど冷たい。少年は勝手に涙が溢れてくる瞳を何度も瞬いて、やっとたどり着いた自身の家に飛び込んだ。
「父さん! 母さん! クオン!」
バタン、と。勢いをつけて開いた扉がキィキィ耳障りな音を立てる。少年--ハスミは零れそうなほど瞳を見開き、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。
「ぁ……あ……っ……」
悲鳴を上げる器官が消えうせたように。虚しい空気だけを送り出す喉からは掠れた音が零れるだけ。ハスミは震える脚をなんとか動かし、室内に入る。まるで床の模様にように広がる濃い色彩は、鉄の匂いを漂わせる血液。台所仕事の途中だったような母親は、シンクにもたれかかるようにして倒れていて、上がったままのノズルの下から絶えず水が流れ出ていた。
「母さん……」
近づく間に、爪先に引っかかる感触。ハッとして足を上げると、父親がうつぶせで倒れていた。2人とも、なにか強大な砲弾で撃ち抜かれたかのように、半身がなくなっている。
「父さん……、クオン……っ」
胃の奥からブルブル湧きおこる震え。ハスミは冷たい頭を振って、周囲を見回した。目につく範囲に、妹のクオンの姿は見えない。代わりに、じゅ、じゅる、と、何かを啜る音がした。ハスミは父親の遺体から離れて、音のするほうへ進んだ。扉が外れた、クオンの部屋。近づくな、と警戒のような音が頭の中で鳴り響く。それでも、ハスミは操られたように足を進めて、扉の外れたドア枠に手をかけた。
「クオン……?」
部屋の中に、クオンはいた。けれども彼女のお気に入りだった三つ編みの髪は血濡れて垂れ下がり、床に赤い雫を垂らしている。ベッドから床、そして壁にも、先ほど見たものの倍以上の血液が広がり、部屋中を赤く染めていた。
クオンの小さな体を掴んで、黒い牙を何度も突き立てる蝙蝠に似た影。その大きさは街の中で見たものの数倍大きい。ハスミはその巨大な姿に気圧され、靴底を擦って後退した。微かに立つ摩擦音に、影がゆっくりと振り返り、赤く光る瞳を向ける。
「ひ、ぅ……ッ……」
ハスミはフルッと頭を振って、後退する勢いのままに体の向きを変えて駆け出した。家を飛び出し、外に出る。外に出て目にした街の光景は、ハスミの知るものではなくなっていた。
荒廃した大地に転がるいくつもの死体。空を蝙蝠に似た影が覆いつくし、咆哮を上げて飛び交っている。影が覆う空の上、高い位置にぽっかり浮かぶ、赤い月。
不気味な咆哮に交じって、ずっと、歌が響いている。聞きなれた声。まるで笑っているような、優しい旋律。ハスミは滲んでくる涙を拭い、赤い月影に映える人型の陰に向けて声を上げた。
「やめろ……やめて……」
歌声は止まない。止むどころか、より高らかに変化する。彼女は空に向けて両腕を伸ばした。白に近い銀色の長い髪が、風に揺れる。彼女の深紅の瞳はまっすぐに空を見上げて、祈るように組んだ手を胸の前に押し当てる。希望の歌を、銀の唇に乗せて歌い上げる。
「やめろ! もう、やめてくれ……ッ!」
そこかしこで上がる悲鳴も、化け物の咆哮も、意識から消え失せ、ハスミの頭には彼女の歌声だけが鳴り響いた。脳を突き上げるように揺さぶる不快感に、ハスミは頭を押さえてその場に蹲る。街の人を襲っていた影が一斉にハスミのほうを振り返る。ハスミは空を見上げ、一筋の涙を流した。
「ユア……」
群がる影が覆う視界の中で、彼女――ユアが振り返り、ソッと微笑むのを目にした。
銀色の髪と、深い赤の瞳。他の同族を生み出す力を持つ彼女の姿に、あどけない少女の微笑みがだぶる。
――あなたと、番になれたらいいのに。
脳裡に鮮明に甦る、彼女の願い。ハスミは喉を締めて唾を呑み、絶望を呟いた。
「……グレン・ヴァンプ」
◇
天まで突き上げるような白い塔の先端に、ドーナツ型の楕円形が刺さる巨大な建物。権威の象徴のようなそのシンボルタワー《オルビスタワー》から伸びる幹線道路に幾台もの車が行き交う近代都市。周辺を歩く人の多くは灰色の制服に身を包み、中には背中に銀の十字架を掲げる軍服姿の者も多い。灰色の一団は皆、塔の麓で足を止め、IDを示して建物の中へと足を踏み入れた。
「お疲れ様です! 確認しました! お疲れ様です!」
真新しい守衛バッチを胸に着けた新人女性職員は、かざされるIDを凝視しては姿勢を正して敬礼を返すのを繰り返した。仕草も服装も「新人」を主張する彼女の仕草に、チェックを受ける人もみな笑いを堪えて通り過ぎる。
彼女は周囲の視線には気づかぬまま、気合の息を吸い込んでガチガチに緊張させた背筋をピンと伸ばした。
ゲートの上に掲げられた巨大モニターは、有事の時以外は国営放送のチャンネルが流されている。朝の時間帯のニュース番組が伝える内容は、毎日再放送かと思うほど同じ内容だった。
『――昨夜の侵攻の後、確認された被害は数百人にのぼり、被害の全容の確認が現在も進んでいます。吸血鬼による人間の居住区への侵攻が初めて確認されてから200年以上。最初の災厄で一気に個体数を増やした後、侵攻は100年単位に縮小しましたが、近年、対吸血鬼特殊戦力研究組織、通称【V-Unit】により対抗策が講じられて後は、再び侵攻の頻度をましています。住民はそれぞれ対抗策をとり、生活に支障のない人はシェルターの利用を検討するなど――』
「お疲れ様です! んあああ、ストップ! ストップ願います!」
「んぁ?」
灰色の一団の中でひときわ目立つ白。丈の長い白衣を揺らして、寝ぐせのついた後頭部をガシガシと引っ掻きながら手ぶらでゲートを潜り抜けようとする不審者の前に、使命感に燃える新人の彼女は両手を前に突き出し侵入を阻止した。
男は寝不足のせいで殺気立った目をギョロリと向けて、小柄な彼女を睨みつける。
「なんだ、新人」
彼女はサァと顔を青ざめ、喉元まで出かけた悲鳴を気合で押し込め声を上げた。
「いやあの、ID出してください! あと制服着てないんで、ちょっとダメです!」
「ID……あー……部屋に置きっぱなしだなあ……顔パスでなんとかなんない?」
「なんないと思います! 規則なんで! ダメです!」
「規則ねえ……」
男は無精ひげの生えた顎を指先で引っ張ってぼんやりと呟いた。ミナミは鼻息荒く両脚を突っ張り、今が一番輝けるときと言わんばかりに全力で男の行動を妨げる。
「なんかあんたの先輩とか、指導係の人とかいない?」
「現在席を外しております!」
「このレーンだけ空いてると思ったら大ハズレだったな……」
チッと口の中で舌打ちをした男は、白衣のポケットに手を突っ込んでスマートフォンを操作する。ダルそうに細められた瞳は、見ようによっては涼しげにも見えた。とはいえよほど不摂生をしてるらしく、肌色も悪ければ寝ぐせと無精ひげのマイナスポイントで元の素材も少しも換算にもならない。
彼女がそんなことを値踏みにしている間に、男はスマートフォンの操作を止めて、彼女の前に画像を示した。
「これ、俺なんだけど。これで通してもらえない?」
「ふぇ?」
鼻先に突き出された画面を目にした彼女は、大きな瞳を瞬いて首を傾げた。表示されているのはネットの記事で、見出しのトップに書かれているのはこの組織の名前と、そして。
「吸血鬼殲滅策の開発に成功したV-Unitの若き天才科学者、ハスミ……?」
記事を読み上げた彼女は、文字列とハスミとに交互に視線を向ける。確かに記事の写真の男の涼やかな目元と目の前の男の目元の印象は共通している気もしなくないが、しかし。
「どこが若いんですか?」
「業界的には十分若いんだよなあ! まあお前さんの若さには敵わないですけどねえ」
「ハスミ、うっさーい。朝から新人の女の子脅してなにやってんの?」
背後から響いた高い声。男――ハスミは肩越しに振り返り、彼女はハスミの体越しに声の主を見た。またもや現れたイレギュラーな2人組に、彼女は再び身構える。揃いの白のブレザーにグレーのシャツ、緑のネクタイ。ブレザーと同じ生地のミニ丈のプリーツスカートに白のルーズソックス。黒いローファーを合わせた少女は、長いオレンジの髪を掻き上げ艶然と微笑んだ。つり目気味のアーモンド型の瞳は神の色とお揃いの美しいカーネリアン。白い肌に鼻頭に散るベージュのそばかす。薄いピンクのグロスで飾った唇の端を吊り上げて、華奢な掌をヒラッと振る。
「こう、こう、せい?」
呆然と呟く彼女の声を聞いて、ハスミはハァと呆れた溜息を吐いた。
「るせえよツバキ。学校はどうした」
「ミーティングするってシドウから呼び出し。ハスミンとこにもきてない?」
「なんか寝起きで言われた気すんな……朝飯買いに外出たら通勤ラッシュにかち合っちまったんだよ」
「そんで止められてんの。ウケる」
「俺の功績知らねえ新人をゲート係にした人事の配置ミスだろうよ」
「わざわざ新人のゲート選んで通ろうとしたのはハスミンの判断ミスじゃない?」
「選んでねえよ。空いてたんだよ」
「空いてる理由に考えが至らない自分のミスじゃん。てかそこどいて。ウチらも遅刻するし」
「あ、あの、IDをっ!」
口が達者なツバキのペースに圧倒されたていた彼女は、忘れかけていた使命を思い出し、首を伸ばして必死に声を上げる。ツバキはああ、と明るく応じて、スカートの裾を翻して背後を振り返った。
「ヒイラギ、IDだって!」
「え? あー……これでよくね?」
ツバキと同じ髪色と瞳の色。毛先がツンツンと跳ねた短髪に乗せた白いヘッドホンを外しながら、ヒイラギはぼんやりとした声を出す。スッと掲げた左手の甲に刻まれた印を目にした彼女は、グッと息を詰めて背筋を伸ばし、敬礼の姿勢を取った。
突っ張っていた両手が外され前につんのめりかけるハスミには目も暮れず、彼女は周囲に響渡るほどの声量で緊張した声を張り上げる。
「お疲れ様です! どうぞお通りください!」
「ありがとねん」
ヒイラギが掲げた左手の甲に自身の左手の甲も掲げて並べて見せたツバキは、彼女にソッとウィンクを投げてゲートを通過する。横切る一瞬、2人から視線を逸らした彼女を見たツバキは、寂しそうな表情を浮かべた。エントランスに足を踏み入れた2人は、じゃれ合いながらエレベーターの方角へ消えていく。
「吸血鬼見んのは初めてか?」
ポソッ、とハスミが投げた言葉に彼女はビクッと体を震わせる。薄い茶色の瞳を瞬いて目を逸らしたミナミは、ショートヘアの頭を打つ向かせながら、体の前で両手を組んで身を縮こまらせる。
「初めてなわけないじゃないですか。この組織にいる人は大体、なにかしら吸血鬼の被害を受けてて、吸血鬼を恨んでます」
「……だろうな」
真横から見下ろす彼女の首筋に、ポツッと2つ並ぶ赤黒い跡が見えた。ハスミはフゥと短く息を吐いて、寝ぐせのついた黒髪の後頭部をガシガシと引っ掻く。
「でも、お前が見た吸血鬼とは見た目も全然ちげーだろ。ここに出入りしてる吸血鬼は人を襲うことはねえから、安心しとけ」
「……人間と番関係を結んでいて、番の血以外飲めない。吸血鬼の番になった人間は、吸血鬼と命を繋いで不老不死になり、その血は不可侵で、吸血鬼を殺す」
「そうだ。俺が発見した法則、な」
「じゃあ、あなたも」
静かに向けられる瞳と視線を交わしたハスミは、彼女の視界に自身の左手の甲を掲げて見せる。影も傷もない肌を目にした彼女は瞬きして首を傾げた。
「俺の番はまだ見つかってない」
「あ……」
「てなわけで通して」
「いやダメです!」
ハスミと彼女の攻防はその後10分ほど続き、ようやく持ち場に戻ってきた彼女の先輩職員のお陰でようやく通行を許される。彼女の先輩からも「IDは必ず携帯してください」と釘を刺されたハスミは「へいへい」と気のない返事を返した。
ゲートをくぐった先に広がる、だだっ広い円形のエントランス。行き交う灰色の人群れの中に立って、ハスミ吹き抜けの天井を見上げ、次いで、ニュース番組を流す巨大モニターに視線を向けた。
報道は何度も、吸血鬼の侵攻を受けて「狩り尽くされた」エリアの映像を流している。古くは200年前の写真から、現代に至るまで。ハスミは最も古い資料として映し出された写真に目を凝らし、一見して汚れか染みのようにしか見えない黒い点をジッと見据えた。
「今夜、来るな」
◇
オルビスタワーには入館時だけでなく退館時にもIDの提示が義務付けられている。外出をしようと1階エントランスに降りたハスミは、空のポケットを探って舌打ちをした。
一斉に人が出入りする朝とは異なり、就業後の時間は人の出入りが不規則なこともあってほとんどのゲートが無人だった。ハスミは左右に視線を走らせ、髭を剃った顎を撫でる。天井から見下ろす監視カメラのレンズが微かなモーター音を立ててこちらを向くのを見て、ハスミはハァと息を吐いてハンズアップの姿勢をとった。大人しく唯一の有人ゲートに足を向ける。
出入りする人のほとんどがID携帯義務を守っていることもあり、暇を持て余していたらしいゲートマンはヌッと顔を覗かせたハスミを見て「ひぃっ」と短い悲鳴を上げた。寝不足のせいでいつも目つきの悪い人相は、対人において悪いようにしか作用しない。
ハスミは精いっぱいの愛想笑いを張り付けて、今朝女性職員にも使ったのと同じ手でゲートを抜けようと試みた。彼女よりもここの勤めが長いとみた男性職員は、記事の写真とハスミの顔とを交互に見て、引きつった笑みで通過を承諾する。
「今度からはちゃんとするからさ。な、戻りも頼むぜ」
ゲートの窓から身を乗り出して、低く囁くハスミ。ゲートマンは引きつった笑みのままで、厄介者を追い出すように「早く行け」と掌で合図した。
ハスミは頑固な寝ぐせが残ったままの後頭部を掻きながら、出口に向かう。
「あ」
「え?」
ゲートを抜けた先の自動ドアの前で、ハスミは見知った顔と対峙した。見知った、と言っても今朝会ったのが初めてだが。
「……お嬢ちゃん、シェルター入ってないの?」
「ミナミと申します」
だいぶ気を使った呼びかけのつもりだったが、若い彼女には気に障ったらしい。あとでツバキから「セクハラ」呼ばわりされそうだなどと思いつつ、ハスミは再び後頭部を掻く。
自動ドアが両側に開いて、澄んだ外気が顔面に吹き付ける。パタッと瞬きしたした先、熟れたような色の夕陽が空を覆い、降るような夜の色と混ざり合って幻想的な色彩を生んでいた。息を呑む自然の美しさだけれども、手放しで見惚れられるほど、この街の住民は呑気に生きてはいない。
夕方を過ぎて、間もなく夜に差し掛かる時間帯だというのに、彼らのようにオルビスタワーから出ていく人は稀だった。むしろ逆に、タワーの職員以外にも、タワーの母体である国家が運営する学校の制服を着た子供たちや、買い物帰りの主婦のような人も皆、塔に向かって歩いていく。彼女――ミナミはタワーを背にして歩きながら、肩に掛けた荷物を持ち直しつつ、ポツリと声を零した。
「弟がいるんです」
「ふぅん」
ハスミは少し前を歩くミナミに歩調を合わせ、丸い茶色の頭を見下ろして気のない返事を返す。ミナミはチラッと視線を上げてハスミと視線を交わし、すぐに逸らしてゆく手を見つめる。
「両親が死んで、家に弟と2人だけなんですけど、ただでさえ親が死んで寂しがってるのに、≪塔≫のシェルターに入って友達とも離れることになったら、弟が可哀想じゃないですか」
バッグを持つ手が必要以上の力で握られ、小さく震えていた。ハスミはフゥと軽く吐息して、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「家、こっから遠いの?」
「電車で、少し」
「今日、警報出てるの知ってる?」
「……知ってます。だから、少しだけ早上がりさせてもらいました。《《夜》》になる前に」
「用心深くていいことだな」
駅に行く方角との分かれ道で、ハスミはピタリと足を止める。訝しそうな表情で振り返ってくるミナミに近づいて、ハスミは軽く握った拳を差し出した。
「……なんですか?」
「いいから、手」
促す言葉に従って、ミナミは渋々といった様子で掌を開いてみせる。ハスミは彼女の小さな掌に、赤い雫型のチャームのようなものを落とした。
「綺麗……」
思わず、と言った調子で呟いたミナミは、ハッとしたように唇を引き結ぶ。ハスミは彼女のリアクションに目を細め、柔らかく表情を緩めた。
「お守り」
「え?」
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
ヒラッと手を振り、分かれ道の別方向へと足を向けるハスミ。ミナミは手渡されたチャームを胸の前で握りしめ、スゥと息を吸い込む。
「あの……!」
「んぁ?」
ハスミが振り向くと、ミナミはキュッと目尻を窄めて微笑む。
「明日は、ID忘れないでくださいね!」
天高く挙げられた掌は夕焼け空を掻くように、ブンブンと大きく左右に揺れた。ハスミはただ苦笑を返すだけで返事をせず、彼女に背を向け歩き出す。
「その明日を、俺らは守らなきゃならねえんだよな」
行く手の地面に差す影は、徐々に濃い色に変わっていく。太陽を嫌う吸血鬼は、日中決して姿を現さない。代わりに影に潜んでジッと刻を待ち、夜を迎えると同時に動き出す。
ハスミの所属する「対吸血鬼討伐組織」は、吸血鬼の襲来を予測しオルビスタワーを中心としたエリアに防衛線を敷く役目を負っている。討伐用軍隊の実質的な指揮を執り、最大の戦力である人間と吸血鬼の「番」を討伐作戦に投入する。
「最大戦力っつっても、今のところ機能してる『番』は2体だけ」
ハスミはそう独り言ちて、白衣のポケットからスマートフォンを出し起動する。特殊なゴーグルを装着し、掌サイズの画面を拡張して周辺エリアを確認したハスミは、事前に算出していた襲撃エリアをもとにポイントを弾いていく。
「どんどんでかくなりやがるな……」
チッ、と思わず舌打ちが漏れた。回数を重ねるたびに拡張していく襲撃予測に対して、対抗手段が圧倒的に足りていない。ハスミはまっさらなままの自身の左手に視線を落とし、苦々しく表情を歪める。
「……早く、力が欲しい」
ハスミは目を閉じて、スゥと深く呼吸した。夜の温度に冷やされ始めた風が建物の間を抜け、ハスミの長い前髪を吹き上げる。瞼を開き、キッと睨みつける温度で据える視線。ボコッと沸き立つように蠢く影と、薄っすら覗く赤い双眸。
ハスミは牽制するように細く息を吐き、双眸を睨みつけたまま、ミナミに渡したのと同じチャームを地面に落とした。赤い双眸が一度はっきりと強く光り、ハスミの足元まで高速で迫ってくる。ハスミは地面を浮き立たせて進む双眸を静かに見下ろし、爪先の直前でドプンと波打つのを見届けた。双眸はそのまま、ハスミに背を向けるようにして遠ざかっていく。
ハスミは双眸が再び地面に沈むまで見届けてから、手元の画面に視線を落とした。展開したマップの中で移動していた赤い点が表示エリアを出る前に止まり、微かに明滅する。
「……来る」
グッと息を詰め、空を仰ぐハスミ。風に押し流される雲が空を過ぎり、銀色の月が顔を出す。冷たい水面のような色が、血を呑んだような赤に変わっていった。
ハスミはマップを閉じて、スマートフォンを操作し通信を繋いだ。イヤホンを耳にはめて待つと、一斉発信した先の相手のアイコンが応じた順に画面の中に並んでいく。
「全員揃ってんな。配備はメールで送った通りだ。シドウは軍部にも状況伝えて、防衛線を敷いてくれ。リクとツバキは指定のポイントで待機。ヒイラギはメンテ整ってんな。特にツバキの装備万全にしとけ」
各々から返ってくる了解の返事。ハスミは一度通信画面を格納して、再びマップを開く。微かな明滅を繰り返していた赤い点が、ゆっくりと動き出した。ぱっと見では動いているかどうかも判別できないほどの微かな揺れ。ハスミは駅の方角を振り返り、距離を予測してげんなりとため息を吐く。
「電車動いてる間に移動しとけばよかった……」
苦々しく顔を歪めたハスミは、フゥと長く息を吐いて地面を蹴った。運動不足の体はすぐに音を上げ、速度を上げようにも脚が全くついてこない。
『ハスミ? まさかお前走ってる?』
繋いだままの通信画面が青く光って、イヤホンから呆れた声が聞こえてきた。
「っるせえよ、シドウ。防衛線の外からは出ねえから、他のやつらにも伝えとけ」
『あらら、無理しないで。最近の向こうさんの勢力から考えたら、お前のところまで手回せる保障はないから』
「わかってんよ。何より優先すべきは吸血鬼の殲滅だ。それ以外は、考えなくていい」
『カッコつけるんじゃないよ。その優先事項にはお前にもかかってるから。命お大事に』
「へいへい」
苦笑を零すのも惜しいと思うほど、上がり切った息は限界を超えていた。立ち止まって息を整えるまに、刻々と夜が迫っている。周囲は徐々に暗闇に呑まれ、影の中を蠢く気配も徐々に強く増していった。
「は……っ、ああ、もう」
こめかみから伝う汗を乱暴に拭って、ハスミはやけくそのように叫びながら再び走り出す。酸欠でかすみ始める視界に目的地の目印が映る頃、空はとっくに夜の色に染まり、赤い月が我が物顔で浮かんでいる。
ハスミは自身の手元に視線を落とし、表示をライブ映像に切り替えた。映し出された画面には銀の隊服を身に着けた兵士が横一列に並んでいる。兵士たちの隊服に刻まれた十字架のエンブレムは、いにしえから語り継がれる伝承に由来するお守りのようなもの。
一点に向けて並ぶ銃口の角度を確かめたハスミは、ゾクッと湧く背筋の感覚を堪えてコマンドを打ち込んだ。
高い周波数の警告音が鳴り響き、銃口が赤い月の方へと向けられる。――ザッ、と。月影に逆光になって出現するシルエット。その影に向けて浴びせられる弾幕。
「……っ」
画面を見ていたハスミは思わず舌打ちした。機械のように正確な動きで銃弾を放つ隊列に、わずかに生まれた綻び。ヒッと短い悲鳴を上げて銃口を避けた隊員の元へ、漆黒の影が猛スピードで飛んでいく。
『上空に1体中級吸血鬼を確認! 列に突っ込んできます!』
『速い……!』
打ち込まれる弾幕を搔い潜り飛翔する影は、怯んだ隊員の元へ一瞬で到達し、彼の上に圧し掛かる。
『ぐわ……ッ!!』
アスファルトに蜘蛛の巣所に広がる亀裂。ジュウッと鈍い音が立ち、またヒラリと影が飛び上がった。
『隊員が噛まれた! 低級吸血鬼の出現に備えて、総員、構え!』
隊長の号令を受けて、地面に倒れた隊員の上に一斉に向けられる銃口。隊員は意識を失い、呼吸もなく動かない。やがてヒクンと体が跳ね上がり、うつ伏せに向きを変えた背中の十字架を突き破って、三角の羽根を生やした蝙蝠に似た生物が飛び出す。
『もらいます!』
引き金が引かれる前に、先頭で銃を構えた隊長の目の前に翳される掌。ヒラリと青い影が舞う。高い位置で結んだ豊かな青髪が翻り、冷たい夜の空気を撫でた。
闇夜を一閃する銀の切っ先。生まれたばかりの影は真ん中から上下2つに割られて裂け、シュウと音を立てて霧散する。
口布でした半分を隠した顔。忍者を思わせる濃い紺の服装。胸の前に袈裟懸けに吊り、背中に負った鞘の中へ刃を納めた戦闘スタイルの男は、伏し目の瞼の隙間に蒼玉の瞳を静かに覗かせた。
『うわあああ!』
続いて上がる悲鳴と、次々飛び出して来る影。隊員の群れが割れて、生まれた空間に、爆音に近い銃声が炸裂する。
『はいはーい、お任せえ!』
陽気な声と舞い踊るオレンジ髪のツインテール。そばかすの鼻頭を指先でピンと跳ね上げたメイド服姿の女は、自分の背丈の2倍はある武器を構えて、飛び出した影群れに向けてロケットランチャーの砲弾を放った。
『どーん!』
声と同時に白煙が起こる。たっぷりのパニエに重ねたスカートがはためき、白いフリルと胸元を飾る緑色のリボンが踊った。立ち上る煙の中に、引き裂かれて立ち消えていく影の欠片。
『みんなちゃーんと避けた? ツバキちゃんがぜーんぶやっつけてあげるからね♡』
パチンと片目を閉じる溌剌と輝くカーネリアン。妖艶に微笑む顔に、隊員たちの視線が釘付けになる。
「やってんなあ、あいつら」
ハスミはハッと強く息を吐くように笑い、赤い月を見上げた。マップに切り替えた画面の中では、自身の現在地と戦闘が行われている場所が点で表示されている。ハスミが今いるのは、戦闘場所から離れた防衛線の端。透明なシールドの外側にギリギリ突き出した電車。中は無人で、シンと死んだように静かにそこに留まっている。
ハスミは笑っている膝を叱咤して足を進めた。ゾクッゾクッと背筋に湧く不快感。頸椎を通り、脳まで突き上げるような震えにハスミは無意識に笑っていた。何が可笑しいというわけではない。武者震いとも違う。ただ、強く感じるのだ。
「こりゃやべぇな……。超大物だ」
ゴクッ、と唾を呑んで浮き立つ喉仏が大きく上下した。ゾワゾワと這い上がるように鳥肌が広がっていく感覚。全身の毛が浮き立ち、むず痒いようで堪らない。
「グレン・ヴァンプ」
唇を擦り合わせ、呟く名前。無意識に瞳が見開き、興奮で呼吸が上がっていく。周囲に満ちる甘いような匂い。静寂の満ちる空間に、空気を震わせる音を探す。
グゥと右手で強く掴んだ左腕が、血が沸くようにドクドクと音を立てた。キィンと高い音で響く周波数はおそらく、《《彼》》の鳴き声。ハスミは高架をよじ登り、線路の上に立つ。
照明が落ちて、廃墟のような様相でそこにあるホーム。無人に見えたそこに、小さな人影が微かに動いた。サイズの大きなパステルカラーのカーディンガンにベージュの通勤バッグ。小柄な彼女の傍らに落ちたそれは中身を地面に散らし、緊急通報画面がついたままのスマートフォンが頼りない光を放っている。
近づくと微かに聞こえる、すすり泣きの声。彼女はデニム地のロングスカートを地面に擦りながら、スニーカーの足でコンクリートを蹴ってなんとか後退しようとしているようだった。
「いや……いや……こないで……」
透明なシードルを擦るように、肥大していく影。背中を走る震えが最大級に増して、ハスミは強く奥歯を噛んだ。シールドの外にある電車よりも大きく膨らんだ影は、背中に生えた三角の羽根を広げて咆哮する。大地が震え、ホームのコンクリートがひび割れ裂ける。高架の線路も柱が折れて、半ばから崩れ轟音を立てて地面に崩れ落ちた。
揺れが収まって、固く目を閉じていた彼女は瞼を開いて愕然とする。半分が割れて崩れ落ちたホームに十分な逃げ場はない。もし逃げようとしたら、足場を失い階下に落下する。
「たす、けて……」
少女は震える声でそう呟き、組んだ両手を固く握りしめた。
影は完全に蝙蝠に似た化け物の形になって、赤い双眸を光らせた。胴体からグンと伸びた腕のような線がまっすぐに彼女の頭上めがけて襲い掛かる。
「……ッ……!?」
衝撃に備えて身を固くしていた彼女は、一向に訪れない痛みに恐る恐る瞼を開いた。
「え……」
視界に飛び込んできたのは赤い球状の側面。それは細かいスパークを帯びながら、彼女を守るように展開している。
「虎の子の1個、役に立ったわな」
ハスミは彼女の背後に立って、フゥと息をつきながら言った。繰り返し爪を立てる上級吸血鬼の攻撃は止むことなく続いてて、その度に赤いシールドに濃いヒビが走る。
「は、ハスミさん!? これは、一体……」
「お前に渡した“お守り”な。あれは純潔の吸血鬼の血から作ったもんなんだ」
「……」
彼女――ミナミはゆっくりと視線を音落とし、爪の跡が残るほど強く握りしめていた両手を開く。その瞳がみるみる憎悪に染まるのを見て、ハスミは一瞬痛そうに顔を顰めた。けれどもすぐに頭を振って表情を消し、あくまで淡々と続ける。
「吸血鬼を恨んでるあんたにそんなもん渡して悪かった。気持ち悪かったら捨ててくれ、と言いたいとこだが、それ捨てた瞬間シールドは消える」
「そん、な……」
苦々しくゆがんだミナミの瞳に涙が滲んでいく。ヒッと引きつる喉の音。今にも零れ落ちそうな赤い雫は、揺れながら彼女の掌に留まっている。
「しかもそれをあんたに渡したのは、あんたを餌に使うためだ」
「……は?」
ミナミの表情にはっきりと困惑が浮かんだ。もともと滲んでいた怒りはそのままに、ハスミを見る瞳の色が軽蔑に塗り替わっていく。
「あとで散々謝るから。二度とIDも忘れねえし、お前の仕事の邪魔もしねえよ。だから、少しだけそれ持っててくれ。身勝手だと思うが……――罪を重ねたくない」
「どの口が……!」
ミナミはボロボロと涙を零して噛みつくように叫んだ。けれどもその勢いは一瞬で収束し、ミナミはヒッと喉を鳴らして一度起こしかけた体を力なく萎れさせる。ヒッ、ヒッと引っ搔くような音で零れる涙声。ガクンと深く肩を落としたまま、ミナミは両手を器のように保って項垂れる。
ハスミはソッと安堵の息を吐いて、視界を覆う上級吸血鬼を見上げた。
「……よお。上級様がお目見えっつーのは珍しいな。200年ぶりか?」
上級吸血鬼は答えない。影の中に潜む《種》から生まれる吸血鬼はみな、どの階級であろうと人間と会話するような知能を持っていない。それでもジッと聞く態度を見せる上級吸血鬼にまっすぐ視線を据えたハスミは、ジッと目を凝らして巨大な影の周辺を探った。
「《《誰か》》が、お前に力を与えてんだろ。もしくは、その《《誰か》》の意志とは関係なく、お前が勝手にそいつの力に引かれて取り込んだか、だな」
ユラッ、と。上級吸血鬼の足元付近で立ち上がる影。深く俯いた頭に揺れる細い銀髪。薄汚れた衣服から突き出した白く細い手足。左右にフラフラと揺れながら動くその人物を目にした瞬間、ハスミの全身で細胞が音を立てて跳ね上がる。震えは末端まで行き渡たり、心臓が張り裂けそうな速さで鼓動した。クラクラする頭を支えるように掌を添えて、ハスミは瞳を零れそうなほど見開き叫んだ。
「来たな……グレン・ヴァンプ!」
ハスミの叫びに呼応するように、ゆっくり顔をあげるその銀髪の少年。
長い前髪の隙間から深い赤が覗いて、瞳に溜まる光が揺れた。
《1/END》