おやすみ
「今日は本当にバイトあるから。行かなきゃ。」
逃げるようにリリは走って改札に入った。
切符売り場の山手線の路線図をを見て、目白と高田馬場は隣だと気がついて歩いて帰ることにした。
一昨日、日本に着いたばかりで距離感がさっぱりわからない。
子供の頃に見たアニメの世界を歩いているみたいだ。
地図アプリを開いて道順を調べていたらリリからDMが来た。
リリ:気をつけて帰ってね。
俺は嫌われてはないのか?
日本人は本音を言わないというし、会ってみたらあんまり歓迎されてなかった感じがする。でも、また会おうと言うし。アレか。社交辞令か。
考えながら歩いたら道に迷って、かなり遠回りしてマンションに辿り着いた。ルームメイトの先輩も帰っていなかったので、フローリングに寝っ転がった。
確かにDMを見返すと、本当にどうでもいい話が多い。
リリがバイト終わって家に帰る夜中の一時くらいに、他愛のない話をするだけ。たまたま生活スタイルに合っていて、たまたまその時間に話しているから他意はないんだろうけど。最後にいつも「おやすみ、またね」と言ってもらえた。それだけのことだけど不思議と安心して眠りにつけた。
だからリリは、俺にとっては特別で、救世主みたいな存在だ。
独占するなら彼女にすればいいんだろうけど、そうしたいのかよく分からない。
リリが大学卒業したら、夜中の1時にDMしないだろうし、俺だってこれから日本語学校に通って生活は変わるし、専門学校卒業したら韓国に帰るし。
その上、リリは俺を女だと勘違いしていたし、いろいろハードルが高すぎだ。
起き上がって、米を洗って炊飯器のスイッチを入れた。
先輩が帰ってくるまで寝ようと、自分の部屋で横になった。
夕焼けの光がわずかにカーテンから漏れて眠りを誘う。
『아이고 힘들어…』
自分の口から出てくる韓国語に何とも言えない懐かしさを感じて目を閉じた。
一日中、日本語だけで疲れた。リリの話すスピードも早すぎて聞き取れない部分もあったなぁ。毎日リリの話を聞いていたら、リスニングの試験は楽勝だろうな。
部屋の中は静かなはずなのに、耳にこびりついたみたいにリリの声の余韻があってフワフワする。すげー疲れたけど、会えて良かったな。あの心地いい声ならずっと聞いていてもいいぐらいだ。
パチパチと弾けるような音がして目が覚めた。
携帯を見ると7時50分。
夜にしては明るいと思ってカーテンを開けたら、しっかり朝だった。こんなに寝たのは久しぶりかもしれない。
キッチンに行ったら先輩が目玉焼きを焼いていた。
この音だったのかと眺めていたら、先輩が振り向いた。
「お前も食べる?」
「はい。」
どんぶりに恐らく昨日炊いた白米、そして目玉焼きが鎮座する。
「カツオ節のせると旨いよ。」
先輩は有無を言わさず、カツオ節をふりかけて醤油をたらした。
カツオ節…あんまりそそらないけど、食べると言った手前、残すわけにもいかずスプーンで混ぜて食べてみた。
「うまっ」
夢中になって食べていると、他人に興味ない先輩が珍しく質問してきた。
「昨日、どうだった?」
「パフェは美味かったです。」
「パフェじゃなくて。」
「別に一緒に食べただけですよ。」
「ここに連れ込むなよ。」
「いやいや、そういう関係じゃないんで。」
俺は面倒くさくなって、先輩の空になった器も奪ってキッチンのシンクに逃げた。
どういう関係なんだ?
毎日のように、おやすみを言う関係って?
自分でも曖昧でよく分からない。
「じゃあ紹介してよ。」
先輩が全然本気じゃなさそうな態度でヘラヘラして言うから、ますます面倒くさくなった。
「嫌ですよ。だいたい先輩、次は韓国人が良いって言っていたじゃないですか。」
そういえば昨日の返信していないし、おやすみも忘れて寝ていたことに気がついた。
これ以上リリに嫌われたら生きていけないから、丁寧に丁寧に昨日のお礼とお詫びを書いて送信した。
リリが俺を女と思っていたように、同性だった方がスッキリと親友という関係と言えて楽だったかなぁ。