推しの声と呼び名
私の名前を呼び、穏やかに微笑んでいる推し。
「ど、どうしました?」
何故かドキドキする胸を押さえながら推しを見上げる。前世の名前なんて、すっかり忘れていたのに。まさか、こんなことで思い出すなんて。
推しが穏やかな笑顔のまま提案をした。
「私も名前で呼びたいのですが、よろしいですか?」
「名前?」
そういえば推しはいつも私のことを「ヤクシ家の令息」と呼んでいた。
推しに名前で呼ばれたら尊死するけど、今の私は兄。兄の名前、レイソックと呼ばれるなら、ギリセーフ……なはず。
「い、良いですよ」
了承した私に推しが嬉しそうに頷く。
「では……」
口を開きかけた押しが口元を押さえて視線を私から外す。
少し戸惑っているような、躊躇っているような? って、何故!? 名前を呼ぶだけだし、こうサクッと呼んでください! でないと、私の精神が持ちません!
推しが再び私と視線を合わせる。そして、ゆっくりと口を動かして……
「レイ」
その声を聞いた瞬間、息が止まるかと思った。
低音だけど蜂蜜のようにトロリと甘い声。推しの声はいつも聞いていたいと思っていたけど、この声はダメだ! 全身から力が抜ける! 腰から背中に響く!
私は両手で耳を塞いで叫んだ。
「チェンジで!」
推しとアンティ嬢の声が重なる。
「「チェンジ!?」」
私は耳を押さえたまま首を横に振った。
「その呼び名はダメです! 私の耳が! 耳が耐えられません!」
アンティ嬢が私の耳を塞いでいる手を剥がして声をかけた。
「レイ様」
鈴の音のような可愛らしい声。その中に一本筋が通ったような凜とした清らかさもある。
スッと心が落ち着きを取り戻す。
「はい」
真面目な顔になった私。アンティ嬢が挑発するように口元をあげて推しを見た。
「私は問題ないようですわ」
「では、私もレイ様と呼びましょう」
アンティ嬢なら大丈夫だったのに、推しに呼ばれた瞬間、全身がゾクゾクぞわぞわする。
私は再び両手で耳を塞いだ。
「だ、ダメです! 却下です!」
推しが顎に手を添えて悩む。
「ですが、私はこれ以外の名で呼ぶつもりはありませんし……そうです」
何か閃いたように推しがポンと手を叩く。そして、私の耳を塞いでいる左手を握った。
「な、ななっ、なんでしょう!?」
身構える私の耳元に推しが顔を近づける。そのまま、聞こえるか聞こえないか微妙な小声で囁いた。
「レイ」
その瞬間、私の頭が噴火した。
「ダメですぅぅぅう!!!!!」
推しの手を振り払って逃げようとしたけど、振り払えず。推しがそのまま私の名前を連呼する。
「れい。レイ? レーイ。レェイィ」
私は半分涙目になりながら訴えた。
「な、なんですか!? 何が目的ですか!? 秘蔵の薬ですか!? 火竜の睾丸とユニコーンの陰茎と海龍の逆鱗ぐらしか持っていませんよ!」
ここでようやく推しが私から離れる。平然とした顔のまま私に説明をした。
「貴重な薬たちですが、私には必要ありませんから。あと、どんな呼び方なら大丈夫か試そうと思いまして」
「それなら、レイソックと呼んでください!」
「嫌です」
良い笑顔で拒否する推し。私はたまらず抗議した。
「何故ですか!?」
私の問いに推しが笑顔のまま断言する。
「面白いから」
遊ばれている!?
衝撃の事実を受けて私は地面に沈んだ。
(推しに……推しに、遊ばれるなんて…………なんて、ご褒美イベント! って、そうじゃなくて! そもそも、推しってこんな性格だったっけ!?)
悩む私の肩に小さな手が触れる。
「あぁ、レイ様。こんなに憔悴されて、お可愛そうに……今日はこれぐらいにされて、私の屋敷でお茶会などいかがでしょう?」
「なんで、そうなるのですか!?」
勢いよく顔をあげるとアンティ嬢がにこやかに説明をした。
「たまにはお茶会で気分を変えるのもよろしいかと」
私のことを考えて、という気持ちは嬉しい。でも……
「すみません。今はリクハルド卿を健康体にするほうが先ですので」
「……残念ですわ」
あっさりと引き下がるアンティ嬢。ちょっと意外。
少し寂しそうにアンティ嬢が提案した。
「一段落つきましたら、ぜひお茶会をさせてください」
一段落ついたら……つまり二ヶ月後に推しが戦場に出られるだけの体力がついたと証明した以降、になる。その頃には、私は兄との約束でレイソックからレイラに戻らないといけない。
レイラの姿なら、女同士いくらでもお茶会ができる。アトロだって何も言わないだろう。
「わかりました。一段落つきましたら」
「約束ですわ」
それは少女らしい本当に嬉しそうな笑みで。
(もしかして、アンティ嬢って友だちがいない? 父親が宰相だから、権力の関係とかで気楽にお茶会ができる関係の友人はいないのかも)
そこに推しが私の耳元で声をかけた。
「レイ」
一瞬で全身の毛が逆立つ。
「にゅぅわぁぁぁあ!? な、なんでごじゃりましょう!?」
推しが少し悲しそうな顔になる。
「そこまで驚かれなくても」
「だから、ダメだと言っているのです!」
「わかりました。驚くのは仕方ないと諦めましょう」
「そこは、呼び方を諦めてください!」
「嫌です」
一歩も引かない推し。こうなったら、秘技! 話題そらし!
「で、なんでしょうか?」
「そうそう。どうせなので、私の名前も呼んでほしいと思いまして」
「呼んでますよ、リクハルド卿」
推しが首を横に振る。
「呼び捨てでお願いします」
「ふぇっ!?」
呼び捨てなんて、恐れ多すぎる!
「む、むむ、無理! 無理です!」
推しが明らかにしょぼんと落ち込む。
「友人だと思っていたのは私だけだったのですね……」
友人! 推しの友人!? そういえば乙女ゲームの中では友人がいなくて寂しさを呟くこともあった。その気持ちを少しでも軽くできるなら!
「わ、わかりました!」
「呼んでくれますか!?」
私に迫る推し。
ちかっ!? 距離が近い! このままだと睫の毛穴まで見えてしまう!
「呼びます! 呼びますから、少し離れてください!」
推しが一歩下がる。私は深呼吸をした。
「ふぅ。じゃあ……」
推しが澄ました顔で私を見つめる。けど、どこか期待に溢れた眼差し。見えない犬耳とブンブンと振る尻尾の幻影が。まるでお座りをして待てをしている犬みたい。
私はお腹に力を入れて声を出した。
「リクハルド…………様」
アンティ嬢と推しが揃って転ける。
「そこは頑張って呼び捨てする場面でしょう!」
我慢しきれなかったようにアンティ嬢が叫ぶ。
推しが辛抱強く私を説得した。
「リクでも良いですよ」
その響きに懐かしさを感じた私は、推しの言葉をオウム返しのように口にする。
「……リク?」
ふわりとフラッシュバックする記憶。
『凌久! 今日もお見舞いに来てくれたの?』
少年との記憶。あの頃はほぼ毎日のように見舞いに来てくれたのに。何故、忘れていたのだろう。少年の名前は……
「どうですか? 呼べそうですか?」
推しの声で現実に戻る。そう、今はこの世界が私の現実。私が生きている世界。
「や、やっぱり無理です!」
推しが悲しそうに眉尻をさげる。
「では、リクハルドと呼び捨てでお願いします」
「リク、ハルド……」
「はい」
背後に大輪の花の幻影を浮かべて満面の笑みになる推し。いや、もうこれ名前で呼ぶしかない流れでは!?
名前を呼ぶ度にすり切れであろう私の精神。いつまで持つか……
(本当に、どうした推しぃぃぃい!?)




