ヤクシ家の令息とアンティ嬢~リクハルド視点・後編~
私の微妙な表情に気づいたのか、ヤクシ家の令息が大げさに慌てて話題を変えた。
「そ、そうです! 今日は研究室に行く前に寄らないといけない場所があるんです!」
「寄らないといけない場所、ですか?」
「はい。アンティ嬢の様子を見に行かないといけませんから。体調が改善していなければ、魔法師団の研究費が削減されるかもしれないですし。ただ、ここからアンティ嬢の屋敷までは距離がありますので、我が家の馬車で移動します」
一ヶ月前、宰相の息子であるアトロから「妹に呪いか魔法がかけられていないか見てくれ」と、しつこく言われたことを思い出した。
別に私でなくても判別はできるが、女嫌いで有名な私なら妹に手を出さないと踏んだのだろう。まさか女性を遠ざけるために女嫌いを演じていたら、それを逆手に取られるとは思いもしなかった。
「わかりました」
すっかり忘れていたとは言えない。
私はヤクシ家の馬車に乗り込み、アトロの屋敷を目指した。
適度に揺れる車内。柔らかな座席だが、座ることは出来ない。ヤクシ家の令息の指示により、背中を背もたれにつけての空気椅子。移動中でも容赦がない。
最初の頃は筋肉痛に苦しんだ。それが最近は筋トレをしながら会話をするだけの余裕も。ただ、ガタガタと揺れる馬車での空気椅子はなかなかの負荷。
私は振動に耐えながら訊ねた。
「どうして、そこまで体を健康にすることに拘るのですか?」
私の正面では、背中を背もたれにつけず、完全な空気椅子で筋トレをしているヤクシ家の令息。服の上からだと筋肉があるように見えないのに。
ヤクシ家の令息が余裕の表情で当然のように答えた。
「勿体ないじゃないですか」
「え?」
「不健康って、しんどくて、辛くて、苦しくて。何かしようとしても全力で楽しめない。せっかく生きているのに、勿体ないじゃないですか」
「せっかく生きて……」
どこかで、聞いたことがあるような……
記憶を辿っていると、ヤクシ家の令息が大きく頷いた。
「はい。何故、生きているのか、どうして生きているのか、なんて難しいことは私には分かりません。どんなに議論しようが、生きていることに変わりありませんし。それなら、全力で楽しんだほうが良いと思いません?」
そんな分かりきったこと。楽しんで生きられるなら、生きたい。だが……
最低限の食事に冷遇された幼少時代。そのため体はボロボロ。体力はないに等しく、あるのは魔力だけ。助けてくれる者はおらず、弱っていく体。設定通りとはいえ、辛かった。
セバスチャンとマリアがこっそり食事を差し入れていなければ、もっと悲惨だったかもしれない。
私は馬車の椅子に腰をおろした。
「それは、あなたが恵まれた環境だから言えることです。世の中には、生きるだけで精一杯で楽しむ余裕などない人がほとんどです。そんな人たち全員にそれを言うのですか?」
つい言葉がキツくなる。けど、ヤクシ家の令息は気にした様子なく、どこか寂しげに笑った。
「分かっています。私は神でも聖人でもありません。すべての人を助けられるなんて思っていません。ただ、私の手に触れた人だけでも、私が助けられるなら助けたい。それだけです」
「それは、単なる自己満足なのでは?」
「はい。自己満足です。ついでに言うなら偽善です」
あっさりと認めた。その顔は清々しいほど晴れやかで、繕いも誤魔化しもせず。普通なら自分を正当化しようと言い訳を並べたりするのに。
その度量に驚く。
「なぜ、そんな簡単に認めるのですか?」
「事実ですから。自分の力を過信するほど私は健康体ではありません」
健康体!
何かあれば健康体。で、次に出てくる言葉は……
「筋肉はすべてを解決しますが、私にはそれだけの筋肉がまだありません」
筋肉!
いや、わかっていた。健康体の次に出る言葉は筋肉。どんな話をしようと最後はこの二つの言葉で終わる。
私はここでイジワルな質問を口にした。
「それは健康体と筋肉を理由に逃げていませんか?」
衝撃を受けたようにヤクシ家の令息が固まる。それから深刻な顔で俯いた。
「たしかに、その通りです。私が筋肉を言い訳に使っていたなんて……これは由々しき事態」
空気椅子を継続したまま顎に手を添えて考え込むヤクシ家の令息。
小さな顔にかかる艶やかな栗色の髪。長い睫に縁取られた藍色の瞳。高すぎない鼻に淡い唇。こうして黙っていれば絵にも映える外見なのに。
口さえ開かなければ。
「もったいないな……」
ふと漏れた声に慌てて首を振る。
(もったいないって何だ!? そもそも、ヤクシ家の令息なんて他人だ! 他人! 私には関係ない!)
両手で顔を覆って俯いていると、棒で脇腹を突かれた。
「ぐわぁ」
くすぐったい感覚と痛みに襲われ、変な声が出た。隣を睨めばヤクシ家の令息が棒をポンポンと手の中で弾ませている。先程まで悩んでいた姿は微塵もない。
「背中が丸くなってますよ」
「……はい」
背中を背もたれにつけて空気椅子再開。本当に調子が狂う。
そうしている間に馬車はアトロの屋敷に到着。
立派な正面玄関の前で停車し、待機していた使用人が馬車のドアを開けた。新鮮な風が吹き込み、ヤクシ家の令息の髪が舞い上がる。
(なんだ、この匂いは? 爽やかで心地よい……花の香り?)
「先に降りますよ」
匂いに気を取られているうちにヤクシ家の令息が馬車から出た。続いて地面に足をつけると、屋敷の中から焦るような叫び声がした。
「アンティ! 走ったら危ないぞ!」
「シスコンのお兄様は黙っていてください!」
バン! と勢いよくドアが開き、長い青い髪が風になびきながら走ってくる。
「レイ様!」
アトロの妹がヤクシ家の令息に抱きついた。アトロが顔を真っ青にしている前で、ヤクシ家の令息が困ったような笑顔で話しかける。
「アンティ嬢、お久しぶりです。体の調子はいかがですか?」
アトロの妹が体を密着させたまま顔だけをあげた。
「レイ様のお薬とレシピのおかげで動けるようになりました」
「それは良かったです。吐き気や怠さはありませんか?」
「まだ少し残っていますが、頭痛が起きる回数は減りましたし、体の怠さもずっと楽になりました」
アトロの妹に抱きつかれたままヤクシ家の令息が頷く。お互い離れる様子なく……距離が近すぎないか?
「あとは少しずつ体力をつければ、もっと動けるようになりますよ。今度、体力作りのレシピを作成して持ってきます」
「それは楽しみです」
うっとりとヤクシ家の令息を見つめるアトロの妹。一般的には好青年と美少女の絵になる光景のはずなのだが……なんか面白くない。
妙な苛立ちを覚えながら横目でアトロを確認する。妹溺愛者のアトロがこの状況に苦言を呈さないわけがないのに、やけに静かで。
「……チッ」
アトロの顔を見た私は思わず舌打ちをしてしまった。
その理由はアトロの顔が死んでいたから。白目になり、口から魂? のような白い塊が抜け出ている。
「使えないな」
他人には聞こえないぐらいの小声だったのに、アトロの妹が私に視線を向ける。黒い瞳でこちらを見た後、楽しそうに目を細めた。
それから私に見せつけるようにヤクシ家の令息の腕に自分の腕を絡ませる。
「レイ様、本日のご予定は? もし時間がありましたら、ご一緒にお昼などいかがでしょう?」
だから距離が近いと!
ヤクシ家の令息が口を開く前に、私はヤクシ家の令息の肩を自分の方へ寄せた。
私の行動が予想外だったのか、それとも油断していたのか。普段ならこれぐらいでは動かないヤクシ家の令息の体がポスンと私の胸に収まった。
「これから私の研究室へ行かないといけませんので。失礼いたします」
足を動かせば、胸に納まったヤクシ家の令息が無言のまま歩く。視線を下げれば、揺れる栗色の髪の隙間から真っ赤になった耳が。そこに加わる、ラベンダーように心が安らぐ香りと温もり。
意識した瞬間、一気に顔が熱くなった。
「す、すみません!」
慌ててヤクシ家の令息の肩から手を離す。同時にヤクシ家の令息が全速力で馬車の中に飛び込んだ。
「え? あの……」
明らかに拒絶された。それ以上に意外だったのが、そのことに胸がモヤモヤしていること。
呆然とする私の耳にカラスがアホーアホーと鳴く声が刺さる。
(私は女嫌いを演じているだけで、男に興味はない。興味はない、はず……)
置いて行かれた私に乾いた風が吹き抜けた。




