乙女ゲームと推しキャラ
ぼんやりとした前世の記憶。そのほとんどは病室だった。
目覚めれば体が重く怠く、常に吐き気がしていた。当然、食欲もなく水も欲しくない。治療をしても体が良くなる兆しはなく、憔悴していく日々。
そんな、ある日。
私は別の病室に入院している少年と出会った。友だちがいなかった私は初めての同年代の話し相手に嬉しくなったのを覚えている。
少年は定期的に私の病室に来てくれて、一緒に勉強をしたり他愛のない話をした。
「乙女ゲーム? してみたいけど、この病室はゲーム機を持ってきたらダメなの」
「…………大丈夫。任せて」
それから数日後。
少年が乙女ゲーム『救国の聖女~真実の愛を求めて~』を持ってきた。
とにかく私は嬉しくて、そのゲームを楽しんだ。でも、プレイできるのは少年がいる間だけ。無理をすると私の体調も悪くなるから、長い時間はプレイできない。
それでも、推しができたことによって私は生きる活力を得た。
ゲームをするには体力をつけないといけない。そのためには体に栄養を、食事をとらないといけない。
私は必死に食べた。でも、食べれば腹痛と嘔吐と下痢。私の体は食事を吸収することを拒否した。
それでも、私は何をどう食べたら効率よく吸収されるのか、主治医に教えてもらいながら自分でも調べて健康体を目指す。
そんな、ある日。いつものようにゲームを進めていると、少年が私に訊ねた。
「どうして、そんな引き立て役の魔法師を推すの? 他にも王子とか騎士とかいるのに」
「だって――――――」
この時、私は何て答えたのだろう……
大雑把にしか覚えていない記憶。少年の顔もおぼろげ。プレイしたゲームも、どんなゲーム機だったかさえ覚えていない。
ただ、勉強したことと、ゲームの設定やストーリーは記憶にあり、推しを健康体にしなくては、という強い想いだけが頭の片隅にキラキラと残って……
「……懐かしい夢をみたような?」
目覚めとともに薄れていく記憶。
「まあ、いっか」
ベッドから起きて軽くストレッチ。それから、兄の服を着た私は、ハムエッグと野菜スープとパンを食べた。
しっかり寝て、しっかり食べて、体を動かすことは健康体への第一歩。
「いってきます!」
足取り軽く推しがいる魔法師団の研究棟へ。
両肩には魔法師団へ納品する薬が入った三段重ねの木箱。首元を風が抜け、軽くなった髪を巻き上げる。
絶叫した兄から男になることを止められた私は、兄の協力と引き換えに男装で手を打った。性転換の薬と魔法を開発していたのに、使えず残念。
あと、両親と屋敷の使用人たちは、美肌や滋養強壮、育毛増毛の薬で買収……いや、賄賂……じゃなくて、とにかく支援を得た。
これで兄の『レイソック・ヤクシ・ノ』になった私。
体格も声も瓜二つというゲーム設定だからできたこと。
これまで私は女という理由で推しに近づけなかった。推しは極度の女嫌いで、社交界には出席せず、研究室に籠もって魔法研究ばかり。
その結果、二十歳という若さで魔法師団の副団長。しかも、その権力を使って女性が推しの研究室に近づけないようにする徹底ぶり。
今まで門前で追い払われていた私は門番に兄と認識され、初めて研究棟の中へ。
軽い足取りで推しの研究室に続く廊下を歩いていると、ミントのような香りが鼻を掠めた。次に、ドン! という壁を叩く音。
「頼む! もう一度だけ、近くで!」
「……断ります」
推しの声!?
私は曲がりかけた角に身を潜め、そっと顔だけを出すと、そこには壁ドンをされている推しの姿が。
しかも、相手は攻略キャラの一人!
絵の具をべた塗りしたような青い髪と、石炭のような黒い瞳をした、宰相の息子のアトロ。温和な顔立ちで知的キャラ……なはずなのに、今は必死な顔で推しを壁に追い詰めている。
(BL!? BL展開ですか!? ハッ! 推しが女嫌いな理由は、もしかして男色!? それは、それでイケます!)
見守る姿勢になった私の前でアトロが苦悩する。
「妹は朝も起きられず、常に体が怠く、時に頭痛もある。治療師が回復魔法をかけるが数日もすれば元に戻る。このような不調は呪いか魔法以外に考えられない」
推しが首を横に振る。影が落ちた顔はますます青白く不健康が増して……早く健康体にしたい!
「調べましたが、呪いや魔法の痕跡はありませんでした」
「それは遠隔から調べた結果だろ? もっと近くで調べてくれ」
「女性には近づきたくありません」
迷惑そうに綺麗な眉を寄せる推し。
(推しが……推しが困っている!)
私は思わず角から身を乗り出していた。
「それ、筋肉が解決します!」
二人が驚いたように私に顔を向ける。その瞬間、紫の瞳に私が映り……
(お、推しの視界に私が!? か、課金!? いくら課金したら許されますかぁぁ!?)
意識が飛んでいた私を訝しげな声が現実に戻す。
「あの、あなたは?」
壁から手を離したアトロが人当たりのよい笑みを浮かべる。私を見る目はしっかり不審者に向けるものになっているが。
私は両肩に乗せていた三段重ねの木箱を床に降ろした。
「レイソック・ヤクシ・ノです。魔法師団に納品する薬を持ってきました」
「ヤクシ伯爵の子息が自ら? 使用人を使わず?」
黒瞳を丸くして木箱を見下ろすアトロ。
その様子にむしろ私が驚いた。
「これぐらいの量で使用人を使うのですか?」
負荷筋トレには丁度いい量なのに、何故わざわざ使用人に運ばせるのか。筋トレチャンスを無駄にするなんて勿体ない。
首を傾げる私にアトロが顔を引きつらせた。
「ヤ、ヤクシ伯爵の子息は活動的なようだ」
そこに推しがこっそりと研究室のドアを開けて身を滑らせる。
「あっ!」
気がついた私は閉まりかけたドアに足を突っ込んだ。
「待ってください!」
「……悪質な新聞勧誘か」
「え? あくし……?」
呟き声が小さすぎて聞き取れず。聞き返すか悩んでいると、推しがドアを開けた。
「なんでもありません。何か用ですか?」
「あ、いや、その、あの……」
推しから漂うミントの香りが私の鼻をくすぐる。
(お、推しの匂い!? 生の!? 生匂い!? 尊すぎて、砂に…………)
無意識に後ずさっていた私は床に置いた木箱に足を取られた。
「わっ!?」
「あぶなっ!?」
グラリと後ろに傾く体。私を掴もうと伸びてくる推しの手――――――
「フンッ!」
私は素早く足を広げて踏ん張ると同時に、大腿四頭筋と腹直筋に力を入れて上半身を起こした。
掴む目標を失いバランスを崩した推しが手を伸ばしたまま私の横を倒れていく。
ガシッ!
私は反射的に推しの体を右腕で受け止めた。
重量のない軽すぎる体。最低限の筋肉と脂肪。艶のない髪に、荒れた肌。
思わず腕に力が入る。
(必ず健康体にしなくては!)
そこにアトロが声をかけた。
「大丈夫か?」
私の腕の中で呆然としていた推しが慌てて立ち上がる。
「す、すみません」
腕から温もりが消えたことで私は我に返った。
(こ、こここ、この腕に推しが!? 推しの体がっ!? 特別イベントですかぁ!? 課金! 課金しないとぉぉぉ!)




