推しの屋敷と筋トレ開始
街の外れにある、こぢんまりとした可愛らしい屋敷。
ただ、正直なところ、ヤクシ家の半分以下の大きさ。管理はしやすいのだろうけど……子爵家という爵位を考えても小さすぎるような。
でも、屋敷の掃除と手入れはしっかりされていて、庭には季節の花が咲き、使用人たちの丁寧な仕事ぶりがうかがえる。
屋敷を眺めていると悲鳴に近い叫び声が飛んできた。
「リクハルド様!」
高齢の執事が走ってくる。白髪に骨と皮の痩せた体。そんなに慌てて走って、転けたら骨折してしまうかも!
ハラハラとしながら見守っていると、執事がかなり手前で足を止めて私に言った。
「身代金は払いますから! リクハルド様を解放してください!」
「身代金?」
首を傾げかけて私は手に持っている縄が目に入った。
「あ……」
そのまま縄の先に視線を移せば、上半身を縄でグルグル巻きにされて気まずそうに佇む推し。一見すると罪人を連行しているような姿だけど、その罪人は執事の主。そして、その主を連行している私は執事から見れば敵。
私は一瞬で血の気が引いた。
「こ、これは、その、違うんです! 誘拐とかではなくて!」
必死に言い訳をしながら押しの縄を解く。そういえば通りを歩いていた時、やけに視線を感じると思ったけど……
執事からの敵意がこもった視線が痛い。
初手で完全に失敗した私はその場に土下座した。
「名乗りが遅れて申し訳ございません。私はマルッティ・ヤクシ・ノ伯爵が子息、レイソック・ヤクシ・ノです。この度、魔法師団長の認可の下、リクハルド卿を健康体にすることになりました」
私の言葉を執事が反芻する。
「ヤクシ家のご子息が? リクハルド様を健康体に?」
声だけで執事の困惑ぶりが分かる。
私は額を地面につけたまま説明を続けた。
「騎士団より魔法師団の存続意義について陳情がありました。魔法師団長はリクハルド卿が戦場に出陣できるだけの体力があれば、魔法師団は戦場で戦える証明になると決断され、私にリクハルド卿が戦場で戦えるだけの体力をつけてほしいと要望されました」
ここで執事の協力が得られなければ、推しの健康体計画が遠のく。それどころか、魔法師団が解散されて推しが魔法の研究を出来なくなる可能性も。
私は必死に懇願した。
「リクハルド卿に無礼をいたしましたこと、謝罪いたします。申し訳ございません。私のことは蔑んでも、貶しても、殴っても蹴ってもかまいません。ですが、どうか健康体になる協力だけはお願いします! 屋敷の方々の協力がなければ困難を極めます!」
思いの丈を込め、全力で訴える。
無言の空気が重い。遠くでアホー、アホーとカラスが鳴く声が聞こえる。まさしく私のことですよ!
心の中で泣いていると、戸惑いを含んだ声をかけられた。
「頭をお上げください、レイソック様。事情は……なんとなく分かりました」
言われた通り顔をあげると、シワを深くして穏やかに微笑む執事。だけど、その目には困惑の色が浮かび、事情を理解しきれていないことが分かる。
「屋敷の中へどうぞ。詳しい話はそちらでお聞きいたしますので」
詳しい話も何も、今の説明で全部だけど……
とは口にせず、私は案内されるまま屋敷に入った。
程よい広さの玄関ホール。豪華さはないけど磨き上げられた木の床に、優雅な曲線を描いたサーキュラー階段。
「こちらへどうぞ」
エントランスホールを抜けて応接間へ。部屋の中心には、丁寧に使い込まれたアンティークソファーとテーブル。正面にはレンガで作られた暖炉。大きな窓際には、さりげなく庭の花が飾られている。
豪華ではないけど、人の温かみを感じる屋敷。
「心地良い部屋ですね。我が家に帰ったような、落ち着きがあります」
勧められるままソファーに腰かける。推しは反対側に座ったけど、先程の私の悪行が頭をちらつき向き合えない。
なんとか推しから視線をそらしていると、高齢の執事が頭をさげた。
「お褒めの言葉、ありがとうございます。お飲み物は紅茶と珈琲、どちらにいたしましょう?」
「いえ! お気遣いなく! それより、その……料理人の方はおられますか?」
「料理人……ですか?」
「はい」
私はカバンからレシピを出した。
「リクハルド卿を健康体にするために、これらの材料を使った料理を作っていただきたいのです」
「拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
差し出したレシピを白い手袋をした手が受け取る。染み一つない手袋は、執事としての誇りの表れ。
「……では、私から料理人に伝えておきましょう。他に必要なことはございますか?」
思わぬ言葉に私はカバンから薬が入った袋と、推しの一日のスケジュール表を出した。
「リクハルド卿にこの薬を飲ませていただきたいのと、この通りの生活をしていただけるよう、ご協力をお願いします」
スケジュール表に目を通した執事が頷く。
「これは……素晴らしい。リクハルド様には是非、この生活をしていただきましょう」
執事の明るい声に推しの深いため息が乗る。
「私はそのスケジュール表とやらを見てもいないし、同意もしていないのですが?」
「それは失礼いたしました。どうぞ」
澄ました顔の執事がスケジュール表を推しに渡す。端正な顔を歪めたまま推しがスケジュール表を睨んだ。
「……ほぼ予想通りか」
(……予想通り?)
私は違和感を覚えた。この国では運動前に体を伸ばすという動きがあることが知られていない。ストレッチという言葉さえないに等しい。
私がストレッチを組み込んだレシピを渡した人々は一様に「こんな動きは聞いたことも、見たこともない。効果があるとは考えられない」と否定的だった。真面目にストレッチを続けた人は効果に驚いていたけど。
推しがスケジュール表をテーブルに置いた。
「しかし、これは朝と夜の内容しか書かれていません。昼はどうするのですか? 研究を続けてもいいのですか?」
「普段の様子を拝見させていただき、研究をしながらできる筋トレを考えます。あと追加で屋外での体力作りも組み入れますけど」
「体力作りは分かりますが、研究をしながら筋トレができるのですか?」
眉間にシワを寄せる推し。私はカバンから棒を出して推しの隣に立った。
「失礼します」
推しの腰を棒で押す。反射で押しの背筋が伸びた。
「なっ、なんですか!?」
「背筋を伸ばしてください。それから肩を後ろに。胸を張って、顔は真っ直ぐ前。足は組まずに、左右対称になるように肩幅程度に開いて。膝は直角に曲げて、足の裏はしっかり床につけてください」
「んんっ!?」
推しの体を棒で突いて姿勢を正す。直接推しに触れるのは恐れ多いけど、これならやっていけそう。
「はい、これでいいです。この姿勢を維持してください」
「なっ!?」
「意外と辛いでしょう? 筋肉がないので、良い姿勢の維持が難しいのです。つまり、良い姿勢を維持するために筋肉を使う。これも筋トレです」
「クッ……」
もう姿勢の維持が難しくなったのか、推しの顔が苦痛に歪む。その表情にゾクリとした感覚が背中を這い上がった。
(えっ!? なに、この色香!? 艶めかしさ!? 推しの新たな表情にイケない性癖が目覚めそう……って、そうじゃなくて!)
私は目覚めてはいけない性癖を手で振り払いながら説明する。
「このように、研究をしながら日常生活内でもできる筋トレはあります。これを毎日続ければ、半年後には戦場に出られるだけの体力がつくでしょう」
「……そうですか」
推しの背中が丸くなった。すかさず棒で推しの腰を突く。
「姿勢が崩れていますよ」
「……座禅か」
それは小さな呟きだったけど、しっかりと耳に届いた。
「ざぜん?」
私の声に推しが慌てたように訂正する。
「ざ、残念! 姿勢が崩れて残念だと言ったのです!」
「そう、ですか」
座禅なんて仏教の修行の言葉はこの世界にはない。きっと空耳だろう。
そんな私たちを執事がやや引きつった笑顔で見守る。
こうして、私の推しを健康体にする日々が始まった。




