春のテニスコートはラブの始まり
辞書を引けば、四十路を表す言葉がいくつも出てくる。
たとえば、不惑。これは『論語』に由来する言葉で、四十歳にもなれば、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなるのだと説いている。
他には、強仕。こちらは『礼記』に載っていて、四十歳というのは、知力、気力ともに充実している年齢なのだという。
まぁ、早い話が四十路の今は、人生でもっとも脂が乗ってイケイケな時期だってこと。
ただ、それが比喩だけなら結構だが、実際に脂身を帯びているとあってはいただけないものがある。
少し前の話だが、三十代後半にお付き合いしていた彼氏にも、太り過ぎが原因で逃げられてしまった。
決定打になったのは、デート用に張り切ってジャストサイズの洋服を着て出掛けた時のこと。
食事を終えてレストランをあとにしようという段になって、立ち上がった拍子にカーディガンの一番下のボタンが弾け飛んでしまったのだ。
まるでコメディ映画のような一幕に、思わずわたしの方は失笑してしまったのだが、彼のほうは、その光景に百年の恋も一時に冷めてしまったらしい。
失恋を機に痩せるかといえば、そんなことはなく、未だにラ・フランスのようなボッテリした体型を維持し続けている。
原因は明白で、代謝が落ちてるにもかかわらず、食べる量がティーンエイジャーの頃のままだからだ。
この歳になって、今さらモテモテになりたいなどという厚かましいことは望まない。でも、軽く動いただけで汗を流し息が切れるというのは、健康面で黄色信号な気がする。
大台に乗ったこともあり、わたしは、今度こそ痩せて健康体になろうと心に決めた。
今度こそということは、過去にダイエットに失敗したことがあるのか? ご名答。
食べた物を記録してみたり、朝食を野菜のスムージーに置き換えてみたり、糖質を減らしてみたり。
わたしには、健康に良いと宣伝されている情報をうのみにして、これなら手軽に始められそうだと意気込んでチャレンジしてきたという苦い経験がある。
甘い結果にならなかったのは、どれもリバウンドという終点に到着したからだ。
「現実は厳しいなぁ……」
スマホ片手に、効率よく痩せるにはどうしたものかと調べてみたが、どうも最近は食品や器具ではなく、毎日の運動習慣を身に着けるのが一番だとされているらしい。
食べた分だけ動けばプラスマイナスゼロになるでしょうと言われては、そりゃそうだとしか言えない。
反論するのも馬鹿馬鹿しく、それが出来たら苦労しないわと心の中でボヤいていると、電話がかかって来た。
実家の犬のアイコンが表示されたので、おそらく両親のどちらかだろう。
「もしもし、ヒロミ?」
「なぁに、お母さん。また、何もしてないのにパソコンが壊れたの?」
「違うわよ。お米とお芋を送るけど、他に入り用な物があるかと思って。そうそう、この春から角の酒屋さんが娘さんに世代交代してね――」
また始まった。いくら話し放題とはいえ、最新のご近所事情を事細かに話さなくたっていいだろうに。
中には、独身でそこそこ男前なのに浮いた話ひとつ聞かない真面目な男の子がいるの、なんて話もあったので、親としては、地元に戻って来て結婚して欲しいなという願いがあるのかもしれない。
わたしだって、出来ることなら、こんなせせこましい都会を離れたいとは思っている。
でも、勤め先の仕事は簡単にテレワーク出来るタイプでは無いので、こうして離れて暮らさざるを得ないのだ。
「そういえば、こないだ物置を整理してたら、あんたが昔使ってたテニスラケットが出てきたの。まだ使えるから、一緒に送るわ」
「テニスラケットなんていらないわよ」
「何言ってるの、ヒロミ。あんた、肥え過ぎのせいでフラれたって嘆いてたじゃない。たまには学生時代を思い出して、芝生の上で爽やかな汗を流しなさい」
わたしが女子テニス部員だったのは、はるか昔の話だ。その当時のラケットを保管してあるとは、驚き以外の何物でもない。
断ったところで強引に送ってくるに決まっているので、有難く受け取っておくことにした。
*
後日、段ボールの中で古新聞に包まれたラケットを見ると、若干ガットが緩んでいる気がするが、そこまで目立った傷みも見当たらなかった。
ただ、ラケットだけでボールが入っていなかったので、わたしはスポーツ用品店か、テニスが出来る場所を探すことにした。
就職が決まって上京してから、わたしはテニスと無縁の生活を送っていたので、まったく気づいていなかったのだが、調べてみると、どうして知らなかったのか不思議なほど、すぐ近所にテニスコートを備えたスポーツ施設があることが判明した。
ひとりでプレイしても面白くないし、ブランクが長いという心配もあって、試しに初心者コースを無料体験してみることにした。
「初心者コース担当の、サワマツだ! この体験が終わる頃には、みんなテニス大好きになってるはずだ! よろしく!」
コートに現れた指導員は、どこぞの修造さんみたいな熱血漢だった。
親身ではあるのだが「ラケットをグッてやると、ボールがビューンと飛ぶ」といった調子で語彙力が壊滅的だった。
ひと通り個別指導が済むと、ペアを組んで練習する時間になったので、わたしは世代が近くて大人しそうな男性に声を掛けた。
他にも参加者は何人か居たが、ジョン・レノンのような丸眼鏡を掛け、色白で華奢な体躯をしている、どこからどう見てもインドア派の彼が、どうしてテニスを始めようと思ったのか気になったというのが理由として大きい。
「こんにちは。ご一緒に練習しませんか?」
「わっ、ありがとうございます」
「テニスは初めてですか? わたしは、高校時代に少しかじったことがあるんですけど」
「僕は、まったく。普段は、近くの中学校で数学を教えてるんですけど、この春から女子テニス部の顧問をすることになってしまって」
「あぁ、なるほど。それで、今から練習しておこうと?」
「そういうことです。えーっと……」
「リュウザキです。そちらは?」
「オカです。どうぞよろしく」
これが、彼との最初の出逢いだった。
ネットの網目越しにボールを見ながらサーブすると空振りし難いとか、低いボールの時は片膝をつくぐらい腰を落とすとか、高校時代の経験を思い出しながら教えてあげると、オカさんは、ほんの少しずつではあるが、着実に上達していった。
時折、わたしが感覚で言ったことを、仰角1ラジアンとか、タンジェントアークエックスの軌道とか、数学用語で聞き返してくるのには困ってしまったけどね。
「リュウザキさんは、この後、ご予定は?」
「特に決めてませんけど、オカさんは?」
「僕は、駅前のカフェに寄ろうかと。オープンしたばかりで、味が気になってるんですよ」
「へぇ~、スイーツがお好きなんですか?」
「あっ、いえ。僕の狙いは、コーヒーのほうなんです。リュウザキさんは、甘い物は、よく召し上がるんですか?」
「ええ。ついつい食べ過ぎてしまうので、こんなだらしない感じになってますけど」
「フフフ。あっ、すみません。笑うところじゃないですよね?」
「いえ、お構いなく。人気ですよね、あのお店」
「そうなんですよ。あっ、よろしければ一緒に行きませんか? テニス部時代のエピソード、もう少し伺いたいなぁと思っているのですが」
「いいですね! 実はわたしも、通りすがるだけで入ったことは無いんです」
「ちょうど良かった。それじゃ、自転車を取ってきますので、入り口のほうで待っていてください」
この後、わたしは自転車を押して歩く彼と一緒にカフェに行き、しばらくおしゃべりに花を咲かせた。
話してみると、彼のほうも同い年であることが判り、SNS映えするスイーツに舌鼓を打ちつつ、同世代ならではのあるある話で盛り上がった。
ところが、春の天気は移り変わりが激しいもので、そろそろお店を出ようと会計を済ませた時、にわかに雨が降り出してきた。
そこでスマホを出して雨雲レーダーを見ると、通り雨ではなく夜まで降り続くらしい。
「あちゃ~。傘、持って来てないのに」
「それなら、これを使ってください」
そう言いながら、オカさんは着替えを入れてあるカバンから、タータンチェックの折り畳み傘を出した。
「そんな気を遣わなくたって、傘くらい、近くのコンビニかどこかで買えるから」
「でも、お店を出たらコンビニへ着くまでにぬれますよ」
「それを言ったら、オカさんだって同じでしょう?」
「僕は、自転車がありますから。来週のレッスンまでお貸ししますよ」
「でも」
「いいから、遠慮せず使ってください。お誘いしたのは、僕のほうですし」
「そう? それじゃ、お借りします」
彼はわたしの手に傘を押し付けると、店先に停めていた自転車にまたがり、そぼ降る雨の中を走り去っていった。
言葉にすれば何ということのない光景だが、わたしはその姿に不器用な優しさを感じ、持っている傘を広げることも忘れて、しばしボーッと立ち尽くしてしまった。
彼への恋心が芽生えたとハッキリ自覚したのは、まさしくこの瞬間だった。
そして翌週、オカさんに傘を返す時に、わたしは一つの提案をするのだが、それについては機を改めてお話しよう。