大和型戦艦の活躍と戦後―史上最大の戦艦は如何にして太平洋戦争を戦い抜いたのか―
架空戦記創作大会2021秋参加作品です。
お楽しみください。
諸君らの中で、『大和』の名を知らぬ者はいないであろう。
海戦史にのみならず、世界史に燦燦たる記憶を残した、あの誇らしくも恐ろしい戦艦の名を。
以下に記すのは、その『大和』をネームシップとした大和型の物語である。
一九四一年一二月八日。
日本は米英を主とする連合国に宣戦布告し、第二次世界大戦の参戦国へと名乗りを上げた。
この経緯については、賛否両方の様々な議論が今なお交わされているが、今は省略させていただきたい。
その時、大和型戦艦は三番艦までが建造中であり、それぞれ、呉、長崎、横須賀にて目覚めの時を待っていた。
開戦直後の一六日に『大和』は竣工し、その巨体を遥かなる大海原に進め、連合艦隊にその名を連ねたのであるが、しかし、戦線に歩を進めるには今しばしの時が必要であった。乗員が、大和を十全に使うには時間がかかった。
『大和』が雌伏の時を過ぎ押している間、太平洋では幾つかの重要な出来事が起きていた。このうち、特筆すべきことが二つある。
一つが日米艦隊の海上決戦であり、もう一つが英東洋艦隊と日基地航空隊の戦闘である。
先に日米艦隊決戦について語ろう。
これは、マリアナ沖で起こった。
フィリピン救出のため、ハワイ真珠湾から遠路はるばる回航した『ノースカロライナ』率いる米艦隊と、それを迎え撃つ形でトラック島より出撃した『長門』率いる日本艦隊がぶつかった。
この結末は凄惨なものであった。
互いに互いを射程距離に入れての盛大な砲撃戦が展開され、日米ともに投入した戦艦のほぼすべてがこの海戦で沈んだ。
戦後、山本元中将―この海戦時には退役済み―が俺が連合艦隊の指揮を執っていたら空母で真珠湾を奇襲してアメリカの戦艦をすべて沈めてやったのにと言ったという逸話まである。
この戦闘自体は、公式には日本海軍の勝利となっているが、実際には引き分けのようなものだ。日本の四〇センチ級戦艦である長門方の二隻がすべて沈んだのに対し、アメリカ海軍はこの海戦に投入したコロラド級二隻-一番艦『コロラド』はこの海戦に不参加―及びノースカロライナ級『ワシントン』が沈没したが、『ノースカロライナ』が中波の損害を負ったものの、健在であった。
旧式戦艦は両艦隊とも壊滅的被害を受けたが、ここでは詳細は控えさせていただきたい。
しかし、米艦隊も無事というわけではなかった。損害を負い、真珠湾に引き上げていた最中のことである。どこからともなく一本の魚雷がするすると近づいてきたかと思うと、『ノースカロライナ』に命中、同艦はこれが死の淵への最後の一押しとなり、沈没した。これは日潜水艦のもっとも輝かしい戦果の一つとして数えられている。
さて、日本海軍の首脳部はこの海戦の結果を聞き、騒然となった。
今から見れば、非常に甘い見通しと言わざるを得ないが、彼らは自軍の勝利を信じていた。トラック島より陸攻を出していたし、漸減邀撃作戦に絶対の自信を持っていたのだ。しかし、両者とも現実には彼らが想定していたよりもはるかに機能しなかった。
この結果として、④計画では中止されていた大和型四番艦の建造が再び開始され、⑤計画では、建造される戦艦は全て大和型とされ、予定されていた超大和型は幻と消えた。この三番艦以降は建造の簡略化や不沈性の向上、また司令部施設の撤廃など、建造の早期化、また戦闘能力の向上に向けて改良がなされていることもあり、これ以降を改大和型というものもある。
また空母建造計画にも見直しが入り、縮小されている。これは、この海戦時に空母戦力が目立った戦果を挙げられなかったこともあるが、もう一つ、次に語る海戦も影響している。
マレー沖海戦と名付けられることになるこの海戦では、英東洋艦隊に対する九六式陸攻及び一式陸攻による攻撃である。結論から言うと、この攻撃は失敗に終わった。出撃した陸攻は、空母『インドミダブル』の戦闘機により、ことごとく撃墜された。命中したのは二五〇キロ爆弾一発のみであり、対する損害は、出撃数の八割以上が損傷あるいは未帰還となった。
これは、現在では艦隊のエア・カバーの重要性を示す海戦として語られるが、当時は違った。日英ともに戦艦の航空機に対する優位性の結果として受け止めた。イギリスは最新鋭のキングジョージⅤ世級戦艦が日本の航空機を打ち破ったと宣伝し、日本は同じように受け止めた。
このことから、日本海軍では、航空機はますます軽視され、大和型戦艦建造へと突き進むこととなった。
その間、太平洋は奇妙な静けさに包まれていた。巡洋艦以下の散発的な戦闘は随所に見られたが、戦艦同士の決戦はどこにもなかった。
東洋艦隊自体も、戦艦二隻では、日本軍の同時多発的進攻に対処することはできなかった。シンガポール戦闘時においても、敵味方の入り乱れる状況下では、砲撃支援も満足に行われず、同地の陥落をもって、インド洋に引き上げている。
話を大和型に戻そう。
二番艦『武蔵』は一九四二年六月に竣工した。この時、日本海軍は米豪分断作戦に重きを置いていた。しかし、依然インド洋には英戦艦がいるし、また、アメリカも新型戦艦が就役したという情報もあった。
これらのことから、大和型は南方戦線へと送られることとなった。当初では連合艦隊の旗艦として運用する予定であったが、戦局がそれを許さなかった。
この米豪分断作戦は空母を運用した理想的な作戦の一つとして、現代も語られている。連合艦隊は空母の複数隻同時運用―機動部隊と呼称される―を行い、各地の基地航空隊を圧倒的な航空兵力で叩き潰して回った。これは、戦艦を沈められた日本海軍の窮余の策であったが、実にうまくはまった。この時、巡洋艦以下で結成された米艦隊が対処に回ったが、鎧袖一触の憂き目にあっている。ソロモン海戦に代表されるこれらの戦闘は、空母の価値を高めるとともに、戦艦の価値も高めた。空母が沈められない艦種はそれしかないのだから。
この当時の連合艦隊旗艦はマリアナ沖海戦の生き残りである『扶桑』になったのちに、『大和』そして一九四二年末には軽巡洋艦『大淀』へと移り変わっている。
そして、一九四三年一月、ついにその戦闘は起こった。ソロモン諸島を手中に収めた日本海軍がフィジー諸島にその歩を進める……その前にエスピリトサント島の攻略を計画した。この島は、ソロモン諸島戦時の米軍の根拠地となっており、日本海軍は逆にフィジー諸島攻略への足掛かりにしようともくろんでいた。
この作戦には『大和』『武蔵』さらには中型以上の空母四隻を投入するという日本海軍としても持ちうる最大の戦力で行った作戦である。
対する米海軍もサウスダコタ級四隻を投入しており、日米の最新鋭艦同士がぶつかるという、一大決戦となった。
戦闘は日本海軍の勝利となった。それも完全勝利に。サウスダコタ級が四隻とも沈没したのに対し、大和型は全くの健在であった。その後、エスピリトサント島に向けて、砲撃まで加えるほどである。
この海戦はあるいはエスピリトサント島の失陥よりも大きな衝撃として米海軍に受け止められた。二対四という倍の数でもって挑んだ、負けるはずのない戦いだったのだ。
この海戦がきっかけとなり、米軍ではモンタナ級の建造がやにわに急がれることとなった。日本海軍でも、この勝利の報告に気を大きくすることこの上なく、大和型の名声はとどまることを知らなかった。また、三番艦以降の建造がさらに加速されることになったのは言うまでもない。大和型六隻-この時、さらに一隻の建造が認められていた―がそろえば、もはや敵はいないとまで言われていた。これもあながち妄言とはいいがたく、実際に英東洋艦隊は反抗作戦を計画していたが、この海戦の結果を受けて急遽中断したとの話もある。
さて、次の大和型の活躍はもうしばらく先の話になる。
実際この海戦では『大和』『武蔵』両艦とも無傷とは言えず、しばらくドックに引きこもることとなる。対して、またしても主役の座に躍り出たのは空母であった。この艦種はフィジー諸島攻略で大いに活躍した。
しかし、ここで日本に思わぬ難題が降りかかった。補給の問題である。元より、小さな島国であり、世界中に植民地を持っているわけでもなければ、余りあるほどの造船所を持っているわけでもないこの国にとって、占領地の大幅な増加は大きな負担となってのしかかった。
さらには、一九四三年後半より、米潜水艦の魚雷問題が解決し、日本船に対する通商破壊が活発化してきた。これまで、艦隊決戦の勝利に心血を注いできた日本海軍にとって、この攻撃は非常に効果的であった。日本側も占領地の増大は見越して、船舶の増産命令は出しており、戦時型船による大量生産を行っていたのだが、この船自身の能力が著しく低いことも相まって、輸送に目立った障害が頻出するまでになった。
陸攻を対潜作戦への従事や、対潜用の小型艦艇の生産を行っていたが、焼け石に水であった。
このようなこともあり、戦線が膠着していた時に、米軍の反抗作戦が開始された。
一九四三年一一月、エッセクス級航空母艦四隻を中核とした艦隊が、フィジー諸島に航空攻撃を仕掛け、電撃的に侵攻を行った。
続いて、エスピリトサント島にも同空母艦隊が襲来した。この島に配備された航空隊は奮戦した。しかし、奇襲的攻撃であったことと、米艦隊の防空能力の高さから、空母には指一本触れることができずに壊滅している。しかし、航空隊においては米艦隊側もそれ相応の損害を負っており、多数の島が互いに航空基地を補完運用できるソロモン諸島を攻略に取り掛かるのには、いましばらくの時が必要であった。日本側も当初はこの島の奪還を考えていたが、航空偵察により一月と立たないうちにこの島が要塞化されていることを確認し、計画を取りやめている。太平洋では、再び奇妙な沈黙が生まれていた。しかし、この沈黙は長く続くことはなかった。
一九四四年三月、小さくも注目すべき出来事が起こっている。
米艦隊は再び空母艦隊を編成し、ソロモン諸島に攻撃を仕掛けようとしていた。しかし、この作戦には一つ重大な懸念が生じていた。大和型の存在である。この二隻の存在は、米軍にとって、ソロモン諸島の航空戦力よりも重大な懸念事項であった。そのため、新たにアイオワ級四隻で構成された戦艦部隊と合同の作戦となっていた。
アイオワ級とは三〇ノット強で航行することのできる、当時最速の艦種であった。
しかし、この艦種としても、砲撃能力はサウスダコタ級と同じであり、大和型との砲撃戦においても同じ結果になることは想像に難くなかった。そのため、砲撃で牽制しつつ、速力の優位性において戦闘を離脱できる艦が必要とされた。
さて、ソロモン諸島空襲においては、米側の有利に戦闘は進んだ。丁度日本海軍がフィジーにやった戦術と同じ形になった。
この戦闘で特筆するべきは米軍が徹底的なヒットエンドランに終始していた点であろう。この攻撃に対して、トラックより大和を主とする部隊が出撃したが、彼らがソロモンに到達したときにはすでに米艦隊は引き上げており、破壊されつくした日本軍基地の残骸が転がっているのみであった。
この攻撃は日本に想定外の損害をもたらした。常に航空攻撃の脅威にさらされながら―おまけに航路も潜水艦によって脅かされている―複数の航空基地を再編できるだけの能力は日本にはなかった。
ここにきて、日本は確実に敗戦への道を進もうとしていた。連合艦隊は依然その姿を海上に浮かべているものの、輸送船舶が著しく被害を受けていた。大和型も三番艦『信濃』は海上に会場にその姿を浮かべていたが、続く四番艦、五番艦に至っては、最速でも一九四六年にならないと竣工はできそうになかった。
しかし、アメリカ側も有利かというと、そうとも言い切れなかった。大和型の存在である。この存在は一種神秘的なまでの恐怖をアメリカ海軍にもたらしていた。それが、この国の好戦的な性格を押さえつけていた。
一分では、空母戦力の総力を挙げれば、たとえ戦艦といえども轟沈できるといった声が上がっていたが、米海軍の大半はたとえそうだとしても大和型だけは例外であるとすら思っていた。
いずれにせよ、米軍は動かなかった。
一九四四年の選挙で、ルーズベルト率いる民主党が勝利したのは、奇跡に数えられるかもしれない。実際、日本の勢力図は戦争前より明らかに広がっていたし、アメリカでは、戦艦の戦没も―報道規制はあれど―報じられていた。
その結果として、太平洋での戦争にも、緩やかながら否定的な風がみられていた。
しかし、民衆は一度始まった戦争を途中で降参することを善しとしなかったし、何よりアメリカの一部の企業は戦争特需に沸いていた。欧州で大反抗作戦が始まっていたのも大きかった。それに、誰も黄色いサルに人類の救世主が負けるなどと信じていなかったのである。
さて、選挙も終了したアメリカはじっくりと日本攻略に乗り出せるかと言えば、そうでもなかった。ソ連の存在があった。この北の大国は、ドイツの降伏した次の瞬間には日本に宣戦布告をするに違いなかった。そうなった場合に困ったことになるのはアメリカであった。ドイツ亡き後、次の対立国になるのはソ連に違いなく、そうなった場合、彼らの領土は少しでも少ない方がよい。そのためには、欧州、アジア両方面において迅速な行動が必要であった。
一九四五年三月、ハワイ真珠湾には、一〇隻もの戦艦がその姿を浮かべていた。
高速戦艦アイオワ級六隻に、新型戦艦モンタナ級四隻である。
モンタナ級はサウスダコタ級の正当な拡大発展版ともいえる艦で、一六インチ砲を一二門―サウスダコタ級やアイオワ級は九門―備える巨大戦艦である。
米海軍もこれだけそろえれば負けることはないだろうと考えていた。米海軍はこれで確実に連合艦隊を再起不能になるまで潰す予定であった。そのため、トラック島が、彼らの目的地に選ばれた。かの地は、日本海軍にとっては、非常に重要な地で南方戦線への援護はもちろん、東方へのにらみを利かせられる場所である。逆に言えば、アメリカがここを自国領とした場合の影響力は計り知れない。
世界最大の海戦とも呼ばれる第二次マーシャル沖海戦は、こうやって始まった。
開戦直後に起こった第一次と違う点は、戦艦が両国とも戦時中に建造された艦がメインとなっていたこと、そして、制空権が完全にアメリカのものとなっていたことだ。
この戦闘は空母艦載機同士の航空戦から始まった。この勝負は、ほぼ互角であったが、艦艇自身の防空能力に雲泥の差があった。
この結果として、日本側はこの海戦に投入した大型空母の全てが失われた。特に、装甲化された最新鋭の『大鳳』が沈んだことは連合艦隊側に大きな衝撃を与えたといわれる。
対する米艦隊の空母はおよそ半数が無事であった。
更に米海軍は損耗した航空機も、後方に控えていた小型空母によって補充されていた。
しかし、日本海軍はそれを認識していなかった。対空砲火の苛烈さも相まって、彼らは米空母も自分たちと同じく壊滅していると認識していた。そのため、戦艦部隊をさらに東進、翌日には砲撃戦が生起することとなった。
この戦闘で、優位に立ったのは米軍側であった。彼らは、空母から戦闘機を発刊させ、数少ない日本海軍の護衛機を撃墜し、ついにはその空から駆逐した。
その結果として、弾着観測における大いなる差異が生じていた。米軍の砲撃は正確なものであるのに対し、日本海軍の砲撃は非常に悪いものとなってしまっていた。しかし、それでも大和型の力は偉大であった。
おおよそ三対一であるにもかかわらず、その砲撃は少しも衰えることはなかった。
その中、戦局を動かしたのは『武蔵』であった。砲弾がアイオワ級『アイオワ』に命中したかと思うと、同艦は大爆発を起こし、その船首部分を失っていった。その結果として、同艦は速度を大いに減じることになり、後続の他のアイオワ級も『アイオワ』を躱すために舵を左右に切る必要があった。これにより、砲撃戦は仕切り直しとなった。
続く命中弾を得ることができたのは、『大和』であった。
『大和』は、すでに、いくつもの砲弾を受けており、いたるところから黒煙を噴き出していた。しかし、いまだにその姿は健在であり、その速力は少しも衰えることはなかった。というように語られているが、実際には、舷側への命中弾で2~3ノットの減速があったようだ。
とはいえ、圧倒的不利の状況でこれだけで済んでいるのは『大和』の脅威的なまでの防御力というほかはない。
大和の砲弾は『モンタナ』に命中した。モンタナ級はこの当時のアメリカ艦艇では随一の防御能力を持っていたが、それでも『大和』の四六センチ砲は、防ぐことができなかった。
よく戦後に言われる勘違いとして、モンタナ級は対大和型として建造された戦艦だという話がある。しかし、それは間違いである。実際モンタナ級が建造を承認されたのは一九四〇年のことであるし、建造が始まった一九四二年初頭においても、アメリカは実際に大和型を戦場で目撃していなかった。
結果論にはなるが、アメリカは『大和』を想定するべきだったのだ。日本が四六センチ級の手法を持った戦艦を建造するかもしれないと。長門型のことを思い出せていれば、それはできたことであったはずだ。
しかし、アメリカはそれをしなかった。そのツケは戦場で払われることとなる。
『大和』の砲弾はあろうことか『モンタナ』の艦橋に命中したのだ。この時、米艦艇は艦橋を喪失すれば戦闘能力を失うような代物ではなかった。しかし、損害は大きい。
おまけに、速力は保ったままであることが、災いした。『大和』の斉射が、この時代最強の暴力が、その身に一斉に降りかかることとなった。
三度目の斉射弾を受けたとき、もはや『モンタナ』には攻撃能力は残っていなかった。もはや黒煙の塊となった同艦はとどめの一撃を喰らうと、左舷に大きく傾き、傾斜限界を超え、大海の魔物に引きずり込まれるように、その艦体を海中に沈めていった。
これは、米艦隊を混乱の渦に叩き込んだ。圧倒的な戦力を持って挑んだはずのこの海戦だが、失われているのは、米戦艦ばかりなのである。
そこに、島風型が切り込んだ。日本海軍最高の一五連装の魚雷発射管をもつこの船は、持ち前の高速能力で米戦艦に肉薄したかと思うと、雷撃を敢行した。これにより、モンタナ級二番艦『オハイオ』が沈没した。しかし、日本海軍がこの海戦で成功した雷撃はこれだけとなった。残る駆逐艦や巡洋艦は、いずれも米海軍の巡洋艦に阻まれるか、撃沈されている。
モンタナ級の内、二隻を失った米海軍であったが、その後は、有利に海戦を進めている。
『大和』は射撃指揮所に砲弾が命中し機能不全に陥り、各砲塔の個別照準しか使えなくなってしまった。射撃指揮所は後部に予備のものはあるが、こちらは砲撃戦初期に撃ち抜かれていた。
『武蔵』はアイオワ級の砲撃により電気回路に障害が発生し、後部主砲の旋回が不可能になり、射撃能力が大幅に減じていた。
『信濃』は、アイオワ級『ウィスコンシン』に命中弾を得ていたが、その直後に米駆逐艦の雷撃により主舵を損傷し、艦のコントロールがほぼ不可能となっている。
このように海戦は明らかに日本海軍の不利に傾いていった。砲撃戦の生起から約三時間後に、彼らは撤退を開始している。米海軍は追撃を行おうとしていたが、マーシャル諸島より飛来した陸攻の攻撃により陣形を乱され、これを中止した。
ここに、日米最大の、そして最後の戦艦同士の砲撃戦は終了したのであった。
甚大な被害を負った大和型三隻は、その後本国へと回航し―この途中に米潜水艦による来劇を受けているが、損傷はない―終戦まで出撃することはなかった。
米軍は、砲撃戦終了後、マーシャル諸島を襲撃、その後電撃的な速さで、トラック、南洋諸島、フィリピンを奪取し、八月には硫黄島をも占領した。
そして、一一月、原子爆弾が広島と小倉に落され、日本は降伏した。
この時、ソ連は満州、樺太を占領していたが、最後まで北海道に上陸することはなかった。これは大和型を警戒したからともいわれる。
日本の降伏は比較的スムーズに行われた。では連合国への敗北を善しとせず一部の海軍兵が『大和』を強奪しようとしたとか言われているが、都市伝説の類であろう。戦艦一隻を動かすには莫大な人間と燃料が必要となり、現実的ではない。
日本が降伏したとき、完成していた大和型は『大和』『武蔵』『信濃』のみであった。四番艦は完成間近、五番艦は進水まで行っていたが、ほかの艦の修理などが優先され、完成に至っていない。また、六番艦は進水すらしていない。
ここで、連合国内で最も大きな議論となったのは大和型の処遇である。アメリカは完成している三隻をアメリカが接収、後に解体処分し、四番艦以降は廃棄処分にすると主張した。これに反対したのは他の主要国であった。ソ連が最も強固に反対し、英仏でさえ反対に回った。中華民国も『大和』を欲しがった。
この話は甲論乙駁の議論の末、以下のようにまとまった。
アメリカ……『大和』及び建造中の四番艦を接収。内一隻を八年以内に解体する。
ソ連……『武蔵』及び建造中の五番艦を接収、内一隻を八年以内に解体。
イギリス……建造中の六番艦を接収。
フランス……『信濃』の接収。
中国……大和型の接収は認められず。『扶桑』の接収。
このように決まったのであるが、接収の時期は同時に行うということも決定された。これはアメリカというより、他の国家の要望であり、アメリカが四番艦を接収した後に―残る二隻が完成しない内に―卓袱台をひっくり返すのを警戒したためとも言われている。
さて、このように諸外国に売り払われる格好となったのだが、四番艦以降の建造はスムーズに回った。各国から資源が調達されたためである。また、工員に対して多額の賃金さえ払われた。このため、この大和型の建造は日本が敗戦から再生するための第一歩になったとも言われている。
そして一九四七年三月。横浜からさほど遠くない太平洋の洋上に並ぶ六隻の大和型の姿があった。
六隻は、既にそれぞれの接収する国家の海軍人が乗っていた。しかし、六隻は日本からの別れを告げるように、それぞれ空砲を鳴らした。その砲声はすさまじく、日本全土に響き渡ったともいわれている。
こうして、六隻はそれぞれの新たな主となる国に向かって航海を始めたのであった。
『大和』……戦後米国に接収され、原子爆弾の標的艦とされる。一九四七年に行われた一度目、一九四八年に行われた二度目の実験は耐え抜いたものの、一九五二年に行われたビキニ環礁での水素爆弾実験により、沈んでいる。現在は同地のダイビング・スポットの一つとなっている。
『武蔵』……ソ連により接収された後にソビエツキー・ソユーズ級戦艦『ソビエツキー・ソユーズ』と改名される。その後、欧州方面に配備され、ソ連の外交的道具として扱われた。その後、一九五三年に解体されたといわれているが、一部では北極海にひそかに隠されているとも言われている。
『信濃』……フランスに接収され、『ノルマンディー』と名付けられる。その後は、リシュリュー級などと共に同海軍の象徴の一つとされていた。一九七三年に解体される。主砲等の一部の部品は日本に返還された。
『紀伊』……大和型四番艦として建造された艦の日本側の呼称。米国に接収され、『カリホルニア』と改名される。朝鮮戦争などにも出兵した後、一九六五年に退役し、米国本土の海軍工廠に係留された。この時、同時に係留されていたのは、降伏調印が結ばれたミズーリ級戦艦『ルイジアナ』であり、観光スポットとして人気であった。この後、一九八四年に再就役、ミサイル発射装置を取り付けるなどの改修を受け、湾岸戦争にも参加した。一九九九年に退役し、現在は真珠湾で博物館となっている。
『尾張』……大和型五番艦の日本側での呼称。ソ連に接収された後、『ソビエツカヤ・ロシア』と改名される。欧州方面で『ソビエツキー・ソユーズ』と共に活躍していた。『ソビエツキー・ソユーズ』解体後は単独で活躍していた。ソ連政権下では現役のままであった。ソ連崩壊後の二〇〇一年に退役し現在はレニングラードで記念艦となっている。
『出雲』……大和型戦艦六番艦の呼称。イギリスに接収され、『ヴィクトリー』と名付けられる。本国艦体に編入され、ソビエトの脅威に備えた。一九六三年に退役となる。その後、スクラップとして日本に売られる。日本側は解体せずに記念艦として保存(この行為に対して、英国側は承認していたと思われる節がある)。現在は広島県呉市にて博物館としてその姿が認められる。
読了ありがとうございます!
戦争中に大和型量産できないなら戦後にしちゃえばよくねって考えたんですけど、趣旨に若干合わないような気もしますね。(まあ、六隻建造してますし大丈夫と信じます)
国破れて山河在りならぬ国破れて大和ありって「やま」しかあってない。
ともあれ、大和型を量産する小説でした。
小説というより、現代の『図解!大和型の秘密!』とかに乗ってそうなコラムを想定しています。会話文一つもないし。
こんな小説?でも楽しんでいただけたら幸いです。
では、また。