お手本
子供の頃、同じ日本人なのにとんでもない人がいるものだと驚いた。
その人は十七才にしてヨーロッパの四大リーグの一つプレミアリーグの強豪に移籍する。当初は現地メディアから、日本人のしかもこんな若造が活躍できるはずがないと批判的だった。
けど、彼はそんな批判どこ吹く風とその圧倒的な実力でいとも簡単にレギュラーの座を掴むと開幕戦でいきなりハットトリックの大活躍。
その後も順調に経験を積んだ二十歳のシーズン、彼はサッカーファンの記憶に残り続けるであろう史上最高のパフォーマンスを披露する。
歴代最多得点での得点王にチームの無敗でのリーグ優勝、さらにヨーロッパチャンピオンズリーグ制覇などとにかくタイトルを総なめにした。とにかく誰も彼を止めることはできず、彼の足から繰り出される一つ一つのプレーがもはや魔法だった。
俺は彼が大好きだった。けれど、彼のようになることは不可能だとわかっていた。あれは天才の領域で自分は凡人。
だから、凡人なりに一つの目標を定めた。
あの人に最高のパスを送れるようなパサーになろうと。
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「へいへいハッシー! プレス甘いよ!」
「すんません!」
ミニゲーム中、橋本は昇吾と同じチームだった。
先日の試合、勝ちはしたが、橋本にとって納得のいくゲームとは言いがたかった。
「まだこの前のファール引きずってんのか?」
「あはは、こんなことじゃまた雅ちゃんに怒られちゃいますね」
「すまんな。あれでも雅はお前に期待してるんだよ」
「そうだと嬉しいっすけどね」
昇吾は口にしなかったが、橋本のことを誰よりも高く評価していた。
橋本のプレースタイルはオールラウンダー、いわゆるなんでもこなせる器用なタイプだ。よく似た選手はいるが、大半は器用貧乏で、攻撃も守備も中途半端なことが多い。
一方で橋本はどれをとっても優秀、特にパスセンスはピカ一で、世界のトップとも遜色がなかった。唯一の欠点といえば、自信のなさと調子の波が大きいことだった。
「まあその不安が努力に繋がっているとも言えるのか」
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雅のお腹がぐうとかわいらしく鳴る。
「ねえママー、パパまだ帰ってこないのー?」
「今日は橋本さんと外で食べてくるって言ってたわ。あの人もギリギリに言ってくるのはやめてほしいわよね」
「むむう。ハッシーのくせにパパを独り占めなんて。ゆるせない!」
「こらこら、女の子がそんなはしたない言葉使っちゃいけませんよ」
「だってえ」
駄々をこねるように泣きついてくる雅を撫でながら、たった今送られてきた友人からのメッセージを見る。
「ふ、ふふ、ふふふ」
「ママ?」
なにやら恐ろしいオーラを身に纏う緑に雅が泣きそうになる。が、そんな雅を前にしても緑の怒りは治まらなかった。
「みーちゃん、今日はご飯を食べたらすぐに寝なさい」
「え、でもパパとお話……」
「寝なさい、ね?」
「ひぃっ!?」
あまりの恐怖に雅は危うくチビりそうだった。
基本的に一色家は雅が一番強い。けれど、例外が一つだけあり、緑がキレたときだけはその立場が逆転する。
そう滅多にあることではないが、今日起きてしまった。
雅は震えながらやらかした父の無事を祈るのだった。
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「今日は雅ちゃんのことはいいんですか?」
「たまにはな。こうしてゆっくりハッシーとサッカー談義するのも悪くないだろ?」
「そうっすね! 俺、昇吾さんの話めちゃくちゃ聞きたいっす!」
クラブハウス近くの居酒屋でダラダラと軽くお酒を飲みながらあーだこーだとお互いのサッカー観について話した。
「そういえばハッシーは他のポジションやったことないのか?」
「そりゃ十年以上ボール蹴ってますし、いろいろやりましたよ。でも、他のポジションはしっくりこなくって。結局高校からはボランチ一本ですね」
「じゃあボランチ歴は俺たちそう変わらないのか」
「いえいえそんな! 時間は同じでもレベルが違いますって! しかも昇吾さんはプロに入ってからですよね? 大変じゃなかったんですか?」
「ん? ハッシーは俺のことそんなに知ってんのか?」
「そりゃJリーグの第一線で十年以上やってる人で、しかもいまや同じチームですからね。同じボランチとしてはお手本にしたいといつも思ってます!」
「お手本、ね」
少しだけ残っていたグラスの中身を一気に飲み干す。
「ハッシー、お前は俺を手本にしちゃダメだ」
「え? それはどういう……」
昇吾の真意を尋ねようとしたところで女性二人から声をかけられた。
「キャー! ハッシーじゃん! あたしファンなんです! サインください!」
「ホントだ! 実物マジイケメン! ちょ私と付き合いません?」
どうやら橋本のファンらしく、チームのイケメンホープはピッチ外でも大人気だった。
「あたしらと飲みません? あたしめっちゃお酌上手いですよ?」
「ちょ抜け駆けすんなし! ねえ橋本さん、私の方がいいですよね?」
猫なで声で二人が橋本を誘惑する。橋本は助けを求めるように昇吾に助けを求めるが、少しだけ嫉妬からいたずら心が芽生える。
「ファンとのふれあいもプロとしての務めだ。ファンサービスをしっかりできてこそ一流だからな!」
「そ、そんなあ……」
「おじさんマジいいこと言うじゃん!」
「おじっ……!?」
「そうそう! ん?てか、おじさんどっかで見たことあるような……」
プロとは気づかれないうえにおじさん呼ばわりされてショックを受けた昇吾は、やけ酒をしながら女性二人と一緒に橋本をいじり倒した。
「キャー! おじさんまじノリよくてウケる!」
「そうだろー? そんなつまんないハッシーより俺にしなよ!」
「えー! おじさんは勘弁かなあ」
「くー! キツいなー!」
そんな調子でドンチャン騒ぎをしていた。
同じ店に緑の知り合いがいたことに気づかないまま……。
「あれって確か……」
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橋本はそのまま夜の街に引きずられていったが、昇吾は上手く撒いて帰宅した。橋本ならなんとかするだろうという謎の信頼から。まあようするに逃げてきたのだが。もちろん橋本がそこまで酔っていなかったことだけは確認していた。
「たっだいまー!」
「おかえりなさい、あ・な・た♥️」
玄関に入ると、背筋が凍りつくような挨拶が返ってきた。いつもはこの時間でも出迎えてくれる雅もいないことで確信はますます強まる。
「あ」
ひょこっと自室から顔を出していた雅の顔は青ざめていて、逃げるように扉を閉める。味方は完全にいなくなった。
「え、ええと、怒ってらっしゃる?」
「怒ってない……と思う?」
昇吾には緑の怒りに心当たりがない。だが、緑から一枚の写真を見せられて固まった。
先ほどの女性一人からあーんをされている写真だった。ただの悪ふざけだったが、そんなこと緑は知らない。
「橋本さんとの会食、ずいぶん楽しそうねえ?」
「ひいっ!?」
その夜、昇吾の悲鳴がマンション中に響いたとか。ちなみに何が起きたのかは一色家の人間以外誰も知らないが、翌朝雅は目を真っ赤に腫らしていたそうだ。