魔王アスラー
このとき深夜の街角から今一人の少女があげる鋭い悲鳴が伝わってきて、小心者の私は肝を潰された。
「A子!来たよ!あいつだ!魔王が来たよ!」
「Bいっ!大変、アスラーが…。私行かなくっちゃ。田中さん、御免なさい、私…」
B子という友が心配なのか、挨拶もそこそこにA子は表へと飛び出して行く素振りを見せる。しかし一瞬不安げにクリスタルの大きな窓に目を遣った。
つられて私も窓を見る。と、そこにいきなり巨人の影が現れ、身を屈めて部屋の中を覗き込む様子。
地上十階建てのビルに等しい身の丈を持つもの、いったい何者なのか?B子が魔王と呼びA子がアスラーと呼んだそれは…。一瞬ビルが激しく揺れて、腹に響く野太い声が振動のように伝わってきた。
「A子!我が娘よ、此処で一体何をしている?復讐の聖なる務めを忘れ、下界を勝手に彷徨い歩いては、このような薄汚れたビルに入り込みおって。挨く戻り来よ。そなたに相応しき光輝く宮殿へ、女王の間へと連れ行かん。こんな薄汚れたビル、今すぐにでも壊して…」。再びビルに手をかけて揺すったようだ。シェーカーの中いるように激しく床が揺れ壁の水晶板が何枚か崩れ落ちた。六角形の水晶の柱にも亀裂が走る。六人の美少女が一人となって私の腕の中に飛び込んで来た。人一倍臆病な筈の私がしっかりとそれを受け止める。姿を確認するどころかいきなり抱きしめ得たその橘の香りの主の耳元に口を寄せて、「A子さん、此処にいれば大丈夫だ。奴は此処を壊せやしない」と、何故か確信を込めて私はそう云い聞かせた。聖なるものを懐に抱いた気がし、彼女の震えが逆に私の勇気となって自らを鼓舞するようだった。命に換えてでもこの少女を助けたい、守りたいとする強い想いが胸の底から込み上げて来、そうするとそれに呼応するかのように水晶の柱や、壁、窓などが一斉に神々しい七色の光を放って輝き出した。その光に耐えかねるのか、両腕で顔を覆って魔王が吼える。「おのれ、ゴミめ!俺の宝物から手を放せ!A子、おまえはなぜこんなゴミ男なんぞに…。よし、出て来ないのならおまえの連れ合いを…」。続いて心胆寒からしめるB子の悲鳴が夜の空気を引き裂いて表から伝わって来た。
大きな影が窓から離れて行く。逃げるB子を追って行ったのだろう。脱兎の如くA子が私の手を振りほどいて駆け出して行った。しかしドアの前で一瞬立ち止まり私に来るな、このビルから表に出るなと釘をさす。そして更に一言を付け加えた。「小父さん、田中さん、神様が私に紹介してくださった方。必ずまた来ます。ごめんなさい!」と絞り出すように云ってドアの外に飛び出して行った。私を止めたA子の言葉が正しいような気がして暫く躊躇したものの、しかし矢も楯もたまらず私もA子を追って部屋から飛び出した。一台しかないエレベーターが下へと降りて行き一階で止まる。彼女は既にその中だ。何度も呼びボタンを押すが開閉と昇降が旧式でゆっくりなのがもどかしい。ようやく上がって来たボックスに飛び乗って、一Fのボタンを押す。清しい橘の香りが残っていて愛しかったが、唯、水晶の部屋を出た途端に感じた不安が、エレベーターが下降するにつれて増して行くのが不気味だった。まるで地獄に落ちて行くような気がする。エレベーターから降りて表に出るのは尚更気が進まなかった。ビルの外に出るのは、恰も自分の身体から離れるようで、いかにも気が重かったのだ。しかし思い切って、出る。