図書委員のお茶会
本当にわたくしの講義が終わるのを待ち構えていて、水面下でお茶会の準備が進んでいたのでしょう。わたくしがオルドナンツを送ると、すぐに日取りが決められ、正式な招待状がアレキサンドリアから二つ届きました。
……何故二つも同時に……?
わたくしは首を傾げつつ、アンドレアに渡された一つ目に目を通します。そこに書かれていたのは、明日の三の鐘からアレキサンドリアのお茶会室で行うこと。参加する図書委員はソランジュ先生の意向で、先生と初期の三名というものでした。
「明日の午後ですか……。わたくしは講義を終えたところで他の予定もありませんし、少々急でも問題ありませんけれど、側近達の予定は大丈夫ですか?」
女神の降臨があったことで、わたくしの講義を終えるのが遅かっただけで他の側近達はとっくに講義を終えています。つまり、他に社交の予定が入っている可能性が高いのです。
「お気になさらず。全員に予定があるわけではございませんから」
「ハンネローレ様の講義終了が予告されていたので、予定を調整して空けています」
文官見習い達は当然の顔でそう言い、側仕え見習い達は明日に向けて準備の確認を始めました。皆が動き始める中、わたくしは招待状を見ながら首を傾げます。
「……図書委員のお茶会なのに、アレキサンドリアのお茶会室で行うのですね。今までは司書の執務室で行っていたので、何だか不思議な気がします。何か事情があるのでしょうか?」
「不思議でも何でもございませんよ。今までは閲覧者の少ない時期に行っていましたが、もう図書館に大勢の学生が詰めかける時期ですもの。さすがに執務室の扉を大きく開いて閲覧室の様子を見つつお茶会はできません」
閲覧室へ音楽やお菓子の匂いが漂っては、最終試験のために勉強している学生に迷惑だとコルドゥラに言われ、わたくしは納得しました。
「それにしても、図書委員を望んでいらっしゃったジャンシアーヌ様や、不在時に魔力供給のために図書館へ足を運んでいたレティーツィア様をお招きしなくてよろしいのかしら? アレキサンドリアのお茶会室で行いますのに……」
わたくしの疑問にエルーシアが苦笑し、コルドゥラが顔を顰めました。
「ソランジュ先生のご意向と書かれているのですから、対象を限る理由があるのだと思いますよ」
「行けばわかりますよ。ここで悩むことではございません。それより、もう一つの招待状をご確認くださいませ」
コルドゥラにすげなくあしらわれ、わたくしはアンドレアに手渡された招待状を見ました。
「あら、明後日もアレキサンドリアのお茶会室で……?」
社交期間に入ると、連日お茶会の予定が入ることは珍しくありません。それでも、連日同じ場所へ向かうことはありません。
「連日になりますが……と、アレキサンドリアの側仕え見習いからお願いされました。こちらは本好きのお茶会で、レティーツィア様やクラッセンブルクのジャンシアーヌ様、エーレンフェストのシャルロッテ様など、ローゼマイン様が新しく図書委員にお招きした方がいらっしゃるようです」
そう言われると、更にソランジュ先生からのお話が気になりました。ローゼマイン様、ヒルデブラント様、わたくしの三人だけ……と考えたところで思い浮かんだのは図書館の地下書庫です。あそこの鍵に魔力を登録し、資料を現代語訳したことと何か関係があるのでしょうか。
「ハンネローレ様、本好きのお茶会にお持ちする本は事前に準備していたものでよろしいですか?」
「ふぇ!?」
考え込んでいるところにエルーシアから声をかけられ、わたくしは驚いて顔を上げました。側近達が忙しそうに社交の準備を始めている時に、わたくしがぼんやりと考え込んでいてはなりません。
「本は準備していたもので問題ありません。お茶会が連日となりますが、お菓子の準備は大丈夫でしょうか?」
別の領地のお茶会とか、お茶会同士の期間が少し空いているならば、同じお菓子でもよいのですが、さすがに連日同じお菓子を手土産に持参するわけにはまいりません。
「すでに手配を終えました。お茶会の準備はこちらに任せ、姫様は講義を終えたことと、連日アレキサンドリアとのお茶会があることをジークリンデ様にお知らせなさいませ」
領主候補生として考え、やるべきことは他にあるとコルドゥラに指摘され、わたくしは報告書を書くことになりました。
領地に送るとそれほど時間を空けずにお母様から返事が届きました。予想より早かった講義の終了に労いの言葉があり、お茶会の様子を必ず報告することやローゼマイン様がまた何か暴走しそうな空気があれば止めることなどが書かれています。
……わたくしにローゼマイン様をお止めするなんて無理だと思いますけれど。
確かに前回のお茶会ではわたくしの言葉が引き金になって、国境門を使った突発的な会合が行われました。けれど、お茶会で話をしていた時にはそのようなことになると思わなかったのです。
……少なくとも明日は何事もなく乗り切れますように。
わたくし達が三の鐘にアレキサンドリアのお茶会室へ赴くと、ローゼマイン様がにこやかに出迎えてくださいました。すでにソランジュ先生がいらっしゃるのが見えました。
「ようこそいらっしゃいました、ハンネローレ様。わたくしが思っていたより早く講義を終えられて驚きました」
「お招きくださってありがとう存じます。これほど早く終えられたのはローゼマイン様のおかげなのですよ」
嘘ではありません。土の日の会合が行われたおかげで「第二の女神と呼ばれるようになった以上、女神の化身であるローゼマイン様と同程度の成績を」と言っていたお母様が、「上位領地の領主候補生として恥ずかしくない成績でよいので、できるだけ早く終えなさい」と妥協してくださったのですから。
「グレーティア、ハンネローレ様をお席に」
「かしこまりました」
ローゼマイン様はヒルデブラント様の到着を扉の近くで待つのでしょう。わたくしはグレーティアの案内でソランジュ先生のいるテーブルへ向かいます。
前を歩くグレーティアの背中にはアレキサンドリアのマントが揺れています。わたくしは見慣れたエーレンフェストの色ではないことを不思議な気分で見つめます。成人ならば主の招きがあれば自分の意思で領地を移動できますが、彼女は未成年です。貴族院の途中で領地を変わることなど普通はありません。
……家族でローゼマイン様にお仕えしているのでしょうけれど。
忠誠心があっても、新しい領地へ移った側近の方々は大変だったでしょう。結婚のように先方の受け入れ態勢が整ったところへ向かうのではなく、礎の魔術を奪った領地で反発もある中、統治する主を支えなければならないのですから。
「ハンネローレ様はこちらへどうぞ」
グレーティアに案内されたのはソランジュ先生の隣の席でした。円形のテーブルなので隣と言っても少し離れていますけれど。
わたくしの到着に合わせてソランジュ先生がご自身の側仕えに椅子を引かれて席を立ちました。
「時の女神ドレッファングーアの糸は交わり、こうしてお目見えすることが叶いました。……ハンネローレ様がお元気そうで安心いたしました」
久し振りに会った挨拶を受け、わたくしは貴族院に来てから図書館へ足を運べていない現状を思い出しました。
「ソランジュ先生、ご無沙汰いたしております。今年は図書館に伺えなくて、わたくしは図書委員として……」
「まぁまぁ、お気になさらないでくださいませ。今年は上級司書がいるので魔力的には問題ありませんでした。それより、ハンネローレ様もローゼマイン様も大変なことになったと伺っています。ご無事に戻られて何よりです」
穏やかに微笑んでソランジュ先生はそう言ってくれました。ヒルデブラント様が訪れたらしく、視界の端にローゼマイン様が出迎えているのが見えます。
「図書委員のお茶会なのにアレキサンドリアのお茶会室で行われると思わなくて、ローゼマイン様からの招待状を見た時は少し驚いたのですよ。最終試験に向けて学生が増えている中、執務室でお茶会をするわけにはいかないでしょうけれど……」
「えぇ、それに上級司書が増えましたからね。わたくし達が執務室でお茶会をすると、参加していない司書の休憩場所がなくなってしまうのです」
図書館の執務室の奥にあるテーブルは司書が休憩時に使う場所です。確かにわたくし達がお茶会で使ってしまうと他の方々は困るでしょう。
「図書館でのお茶会はとても特別に感じていましたから残念ですけれど、ソランジュ先生が余所のお茶会室へ出向けるほど余裕ができたということですもの。とても良い変化ですよね?」
「えぇ、本当に……。ありがたいことです」
柔らかく目を細めてそう言ったソランジュ先生の目が何だか潤んでいて、わたくしは妙に落ち着かない気分になってきました。今日のソランジュ先生からのお話が自分にとってあまり嬉しくないものではないかという予感がしてなりません。
「ハンネローレ様、ソランジュ先生、本日はよろしくお願いします」
ヒルデブラント様が移動してきます。軽く挨拶を交わすと皆が席に着きました。それぞれのお菓子が並び、お互いに毒見の一口を食べてみせ、お茶を飲むと、視線は自然とソランジュ先生へと向かいます。どのような話があるのか気になっているのは、わたくしだけではないようです。
「ソランジュ先生、あの……」
ローゼマイン様の呼びかけに、ソランジュ先生がゆっくりとわたくし達の顔を順番に見回しました。
「今日はわたくしから図書委員の皆様にお礼とお知らせをしたいと思ったのです。皆様もご存知の通り、三人の上級司書が貴族院図書館に配属されています。この冬の初めにシュバルツとヴァイスの主として魔力登録を行い、先日ローゼマイン様の魔力を上回って主が完全に変更されました」
「それはよかったですね。図書館が政変前の状態に戻りつつあるということですから」
ローゼマイン様の華やいだ声にソランジュ先生は穏やかな、けれど、少し寂しそうな微笑みで頷きます。
「えぇ、地下書庫の鍵への魔力登録も終えましたから、図書館のためには本当によかったのです。三人の上級司書がいれば、これから先もシュバルツとヴァイスはお仕事ができますから……。そのため、今後は学生である皆様に魔力供給のご協力をお願いする必要がなくなりました」
それは図書委員の実質的な解散宣言でした。
わたくしも、ローゼマイン様も、ヒルデブラント様もハッとした顔で息を呑みます。ソランジュ先生の目に薄らと涙が見えました。
「皆様の協力がなければ、シュバルツとヴァイスが動くことはなく、地下書庫への扉が開かれることもなく、ツェントがグルトリスハイトを得ることもなかったでしょう。他の方には秘密にされていることですから、その献身を知る者は少なく、公的にお礼を言うこともできません。この場でどうかお礼を言わせてくださいませ」
「お礼だなんて……。わたくしはわたくしのしたいようにしただけです。わたくしこそ我儘を受け入れてくださったソランジュ先生にお礼を言いたいです」
ローゼマイン様の言葉にわたくしは深く納得しました。貴族院の図書館を救ったのはローゼマイン様で間違いありません。わたくしはよくわからないまま状況に流されて協力していただけで、ソランジュ先生のおっしゃった部分にはあまり関わっていないと思います。
「わたくしは可愛いシュミル達に触りたいとか、ローゼマイン様と仲良くなりたいと思って、よくわからないまま図書委員になっただけです。実際に図書館を救うために動いたのはローゼマイン様ですもの。ぜひお礼はローゼマイン様に」
「待ってくださいませ、ハンネローレ様!」
予想外の言葉だったのか、ローゼマイン様が目を見張りました。その反応にクスッと笑ったヒルデブラント様が更に言葉を重ねます。
「私も入学前の貴族院で時間を持て余していて、図書委員としての活動に楽しみを見出していただけです。図書館を救おうという目的で動いていませんでした。むしろ、足を引っ張った方が多いでしょう。お礼ならばローゼマイン様に」
「もう、ヒルデブラント様まで! 領主会議の時に地下書庫で一緒に現代語訳したではありませんか。図書館の役に立ったのはわたくしだけではありませんよ」
わたくし達のやり取りを見ていたソランジュ先生がフフッと笑いを零しました。
「そういえば、今年の貴族院ではあの地下書庫へ足を運ぼうとする領主候補生が何人もいらっしゃいました」
「あの地下書庫へ?」
ヒルデブラント様が少し警戒気味に眉を寄せました。あそこにある資料は昔のツェント候補達の資料で、グルトリスハイトを手に入れるための糸口がいくつも隠れています。資料の現代語訳を手伝っていた時は秘密にするように言われていたこともあり、他領の方々が入ったと聞くとわたくしも何となく心がざわつきます。
「アウブに何か言われたのでしょうね。地下へ行きたいと申し出る方が何人も……。ただ、詳細を知らされていないようで、資料が読めないとすぐに出てきた方がほとんどだったようです」
「あそこは古語の資料ばかりですもの。読める方が少ないでしょう」
わたくしは軽く息を吐きました。ダンケルフェルガーでは領主一族ならば古語を学ぶように言われますが、他領で古語を学んでいる方は多くないと思います。神殿育ちで古語の聖典を読み込んでいたローゼマイン様が特殊なのです。
「資料が読めないことに苛立つ方が上級司書に八つ当たりをしたり、先を争って地下へ向かおうとする領主候補生やその側近同士で少々諍いが起こったりすることもありまして……。これから図書委員の皆様にはその辺りの指導をお願いできないかと考えています。領主候補生同士に対立されると、上級司書であっても抑えるのが難しいことがありますから」
領主候補生同士が争うと王族に相談するしかなくなりますが、お忙しいツェントや教師として講義をしているアナスタージウス様が駆けつけるには時間がかかることもあるでしょう。司書の手を煩わせず、領主候補生同士で解決できればと考えたことはわかります。
……ただ……。
言うべきか言わざるべきか考えながらわたくしは一口お茶を飲み、ローゼマイン様に視線を向けました。もしローゼマイン様がソランジュ先生の意見に賛成したら困ります。わたくしはゆっくりと息を吸って口を開きました。
「それを図書委員の特権とするのは危険ではありませんか? 今は図書館をこよなく愛するローゼマイン様がいるので問題ないでしょう。けれど、図書委員を他領の領主候補生に対して強く出られる立場にしてしまうと、いずれ悪用される可能性がございます」
地下書庫で得られた知識や歴史を思うと、あまりにも安易に制度を歪めようとしているように感じられてなりません。わたくしの言葉にローゼマイン様も同意して頷きます。
「ハンネローレ様のおっしゃる通り、図書委員による地下書庫の占有なども懸念されます。図書委員のお仕事がなくなるのは寂しいですが、そういう形で継続するのは止めましょう。図書館の秩序を守るのはシュバルツやヴァイスと司書の方々ですし、貴族院を管理する王族のお役目に重なることですから」
わたくし達の言葉にソランジュ先生が少し肩を落としました。
「……そうですね。わたくしが図書館で皆様と過ごした時間が楽しく、上級司書達にも皆様との関係を何かしら残したいからといって、他の方々に引き継いだ後も同じように続くとは限りませんもの」
「それは……まるでソランジュ先生がいなくなるような言い方ではありませんか」
キュッと眉を寄せたヒルデブラント様の言葉に、ソランジュ先生が寂しそうに微笑みました。ローゼマイン様が信じられないと言わんばかりに目を見開きます。
「ソランジュ先生、そうなのですか!?」
「すぐの話ではございませんよ。今はまだ引き継ぎ中ですから。政変によって上級司書がいなくなり、途絶えた業務はいくつもあります。わたくしの記憶と閉架書庫や昔の日誌などを照らし合わせながら手探りで再開していることも多いのです」
ソランジュ先生は行事や季節毎に行う仕事を見直すためには一年以上必要だとおっしゃいます。けれど、それは引き継ぎを終えれば引退されるということです。領主会議の後で上級司書が任命されたとして、ソランジュ先生が引退するまでどれだけの時間が残されているのでしょう。女神の降臨によって時期が遅くなっても、今年の貴族院でお話をすることを考えれば自ずと答えは出ます。
……きっと来年の貴族院にはもう……。
「ハンネローレ様、そのように悲しそうなお顔をしなくても、わたくしは年齢的にもうとっくに引退していてもおかしくないのですよ。書庫の整理や本の虫干しをするためにたくさんの本を運ぶのが大変ですし、足腰が痛むことも増えています。肉体的にもう限界でしょう」
ソランジュ先生から慰めるようにそう言われ、わたくしは「それはそうかもしれませんが……」と呟きました。頭で仕方がないことだとわかっていても、悲しくて寂しい気持ちが消えるわけではありません。
「王族が交代要員を出してくれなかったから、そして、かつての図書館を知る者として未来に繋げたかったから、わたくしは今まで司書を続けてきました。できることならばローゼマイン様とハンネローレ様のご卒業を見届けたいと思っていましたが、さすがに無理でしょう」
「ソランジュ先生、せめて来年の貴族院までいられるように、わたくし……」
「ローゼマイン様、いけません」
ソランジュ先生のために何かしようとしてカタリと立ち上がったローゼマイン様を、わたくしは慌てて止めました。「え?」と驚いた顔でローゼマイン様がわたくしの方に振り返りました。
「ローゼマイン様、その、ソランジュ先生が年齢的に難しいと感じ、引き継ぎを終えたならばお仕事を引退するのは当然なのです。そして、中央貴族の動向は王族と出身領地のアウブの領分です。いくら寂しくても悲しくても、わたくし達の感傷だけでソランジュ先生を引き留めてはなりません」
「ハンネローレ様……」
納得しきれず縋るような目を向けるローゼマイン様の表情に心は揺れますが、わたくしは何としてもローゼマイン様が感情のままに動くのを止めなければなりません。領地から言われたことでもありますし、自分の側近達からも「何としても止めろ」という視線の圧力を感じます。
「ローゼマイン様はわたくしの物言いを厳しいとか冷たいとか思われるかもしれませんが、女神の化身と言われているわたくし達の意見をツェントは無下にできません。だからこそ、自分達で立場を弁え、口にする言葉をよく吟味しなければ……周囲に混乱をもたらします」
わたくしは嫁盗りディッターに関することでツェントに相談しようとして「第二の女神の化身としての立場を振りかざすつもりか?」とアナスタージウス先生に叱られたことを伝えました。
「たとえ優しさが発端であっても、感傷で我儘を突き通してはなりません。その、引き継ぎを終えたのに女神の化身の口添えで図書館に留まったにもかかわらず、肉体的にお仕事が思うようにできない中級司書に対して周囲はどのように思うでしょう?」
「あ……」
「物事が動いてしまった後で、そんなつもりはなかったと言っても遅いのです。感情的に動く前に後々への影響も含めて考えることが重要になります。わたくし達はそういう立場になってしまったのです。今ここで勝手に動くと、フェルディナンド様に叱られますよ?」
「フフッ……絶対に叱られますね」
ローゼマイン様が苦笑気味にそう言って座り直しました。ヒルデブラント様が「フェルディナンド様に叱られるのは怖いですよ」と言いながら自分の手首を撫でると、ソランジュ先生が「返却するようにオルドナンツに声を吹き込んでいた時に実感しましたよ」と小さく笑います。
フェルディナンド様に叱られるのがどれほど怖いのか、いくつか実例が出る中で皆から笑う声が出てくるようになり、お茶会室の空気が和らいでいきます。
「ローゼマイン様、お気持ちは嬉しいです。けれど、わたくしはもう中級司書として求められる業務に体がついていきません。引き継ぎを終えたら引退するつもりです。だからこそ、こうして最後に皆様とゆっくりお話ししたいと思ったのですもの」
「ソランジュ先生……」
「わたくしは心から皆様に感謝しているのです。貴族院の図書館と、そこで孤独に過ごしていたわたくしを救ってくださってありがとう存じます」
ソランジュ先生の感謝の言葉にローゼマイン様はもちろん、わたくしもしんみりとした気持ちになりました。政変以降、お一人で図書館を守っていたソランジュ先生が後顧の憂いもなく引退できるならば、それに少しでも協力できた自分を少しだけ誇らしく思えます。
「ソランジュ先生は引退したらどちらに住まわれるのですか?」
ヒルデブラント様がしんみりとした空気を切り替えるようにソランジュ先生に尋ねました。その言葉にローゼマイン様が不思議そうにソランジュ先生の赤いスカーフを見ながら首を傾げます。
「クラッセンブルクではないのですか? ソランジュ先生の出身領地ですよね?」
「中央貴族は子供ができたら、夫婦のどちらかの領地で育てます。引退後はその子供の家に行くことが多いのですけれど、ローゼマイン様はご存じないですか?」
ヒルデブラント様の言葉にわたくしは引退してダンケルフェルガーに戻ってくる騎士達を思い返します。中央でのお勤めを終えた騎士は、彼等の子供の家に住み、城で騎士見習いの育成に助力したり、騎士の選抜を望む子供に稽古をつけたりします。
「ダンケルフェルガーでは引退した中央貴族が戻ってきた時、謁見室で領主夫妻が彼等とその家族に直接労いの言葉をかけます。エーレンフェストでは引退した貴族を迎える儀式などはしないのでしょうか?」
「エーレンフェストは中央へ行く貴族が少ないせいか、引退後に戻ってきたお話は存じません。……職務中に亡くなった方はいらっしゃいましたが」
ローゼマイン様の影響でエーレンフェストが上位領地になり、重要な話し合いの場に名前の挙がることが増えたせいか、政変前までエーレンフェストが下位領地だったことをすっかり忘れていました。政変中は中立として関わらなかったので中央へ入る貴族がほとんどいなかったはずです。ほんの数年間でずいぶんとエーレンフェストの順位や立場が変わったことを改めて実感します。
「エーレンフェストにはいなくても、旧アーレンスバッハから中央貴族になった者はそれなりにいるはずです。引退した者に関してはアウブの管轄なので、予めフェルディナンド様と話し合っておいた方がよいのでは?」
ヒルデブラント様の指摘にローゼマイン様は「そうですね」と頷きました。アレキサンドリアのアウブとして改めて考えなければならないことは多そうです。
「わたくしは子がいないので、実家に戻ることになりますね。甥の家に当たるので、少々肩身は狭くなるかと……」
「まぁ……。では、アレキサンドリアにいらっしゃいます?」
ソランジュ先生を冗談めかした口調でお誘いするローゼマイン様に、わたくしはクスクス笑いながら「ローゼマイン様、気軽に決めてはなりませんよ」と軽く止めます。
「ただの提案ですよ。本好きの仲間が近くにいると嬉しいですもの」
「お誘いは嬉しいですけれど、今の年になって慣れない土地で住むのは少し辛いですね。アレキサンドリアの夏は非常に暑いと聞いていますし、食事も材料や味付けが違って慣れないものになりますから」
「あぁ、気候と食事の問題は大きいですよね」
その断り文句にローゼマイン様とヒルデブラント様が頷いています。お二人とも春の終わりから住まいが変わったことで気候や食事に苦労していらっしゃるのでしょう。
「ソランジュ先生の力になりたいのであれば、ローゼマイン様はアウブ・アレキサンドリアだからできることを考えた方がよいですよ」
「ヒルデブラント様、何かあるのですか?」
ローゼマイン様が目を輝かせています。コルドゥラが困ったように息を吐いたのがわかりました。きっと「余計なことを言うのではありませんよ」と思っているに違いありません。
「クラッセンブルクに戻ったソランジュ先生を、甥御さんのご家族が無下に扱えない立場にすればよいのです。クラッセンブルクはローゼマイン様との交流を求めていました。ならば、ソランジュ先生から見た政変の様子などを資料としてまとめ、それを印刷するという名目でクラッセンブルクと産業の交流を持つとか……」
ヒルデブラント様の提案は非常に元王族らしいものです。領地同士の関係を把握してお互いに利のある提案ができていると思います。これがアレキサンドリアに押しつける王族からの命令であれば困ることになったかもしれませんが、今はヒルデブラント様の立場が一領主候補生なので問題ないでしょう。
「よい提案だと思います。ソランジュ先生が中級貴族として中央に出られただけではなく、引退後もアウブから協力を求められる立場となれば家族は無下にできません。印刷業をどのように広げるのか決めるのはアレキサンドリアなので、ヒルデブラント様の提案をそのまま使えるとは限りませんけれど……」
どこまで情報を秘匿するのか、どのように提携するのかなど、印刷業を担当する貴族や印刷工房との話し合いが重要です。
「フェルディナンドとの話し合いは必須ですけれど、参考にさせていただきます。明日はジャンシアーヌ様もお茶会にいらっしゃいますし、少しお話をしてみましょうか」
……ですから、ローゼマイン様はどうしてそれほど性急なのですか!?
わたくしではとても止められそうにありません。アレキサンドリアで執務を行うフェルディナンド様の苦労が目に見える気がします。
……頑張ってくださいませ、フェルディナンド様。
ローゼマイン様に手綱が必要だと感じたことは間違っていなかったようです。ソランジュ先生の引退に際してアウブとしてどのように動けばよいのか、ヒルデブラント様と盛り上がっているローゼマイン様を見て、わたくしは心の中でフェルディナンド様に応援を送るしかできませんでした。
貴族院図書館にも新しい時代が訪れました。
上級司書の下で雑務を担う中級司書は魔力が少ない分、体を動かす仕事が多め。
今のソランジュ先生は他の若い人達のペースに合わせて動けません。
仕方のないことだと黙っていられないローゼマイン。
感情だけで動くなと自分の経験から諭せるようになったハンネローレ。
フェルディナンドは、まぁ、頑張れ。
次は、本好きのお茶会です。




