リーベスクヒルフェの握る糸
倒れた状態のわたくしを神々が覗き込んでいます。わたくしがハッとして体を起こすと、神々は安堵したように表情を緩めました。けれど、縁結びの女神 リーベスクヒルフェだけは不満そうに眉尻を下げています。
「ハァ、無念この上ありませんわ。せっかく過去へ行ったのに何もできずに終わっちゃったでしょう?」
「何もできなかったというわけではないのですけれど……」
ヴィルフリート様に想いを伝えるために少々やり過ぎてしまいましたが、わたくしは大事な気付きをいくつも得ることができたのです。わたくし自身は何もできなかったとは思っていません。
「何もできなかったではありませんか。ヴィルフリートに想いを伝えたいと言ったのに、わたくし、二人の糸を絡ませることができなかったのですよ。いつも祈りを捧げてくれるハンネローレのために張り切っていたというのに……」
リーベスクヒルフェ様は悔しそうですが、わたくしは何だかとても嬉しくなってきました。
「リーベスクヒルフェ様にわたくしのお祈りが届いていたことも嬉しいですし、力を尽くそうとしてくださったことは身に余る光栄です。ありがとう存じます」
「もう少し時間があれば上手くいったのですよ。どうして禁忌を犯したのです?」
縁結びの女神として立つ瀬がないと唇を尖らせるリーベスクヒルフェ様の肩を、時の女神 ドレッファングーアが「貴女のせいではないわ」と宥めるように軽く叩きます。
「ハンネローレ、先に言った通り、禁忌を犯した貴女に関連する記憶は全て抜き取りました。貴女が過去で行ったことは皆の記憶に残りません」
ヴィルフリート様に想いを伝えたことも、コルドゥラ達とわかり合えたことも、わたくしが先導して採集地を癒やしたことも、ヘルヴォルを退けたことも、全て皆の記憶から消え去り、わたくしが記憶している通りの過去に戻ったとドレッファングーア様がおっしゃいました。
「わかっています。ですが、ドレッファングーア様。わたくしの記憶を残すことはできますか? わたくし、過去の世界で大事なことがわかったのです。その気付きを失いたくありません」
「わかりました。ヴィルフリートへ想いを伝えることではなく、その気付きを体を借りた貴女へのお礼としましょう」
ドレッファングーア様のお言葉にわたくしは頷きました。この得がたい経験の記憶は、わたくしにとって何より大事になるに違いありません。
「それにしてもビックリしましたわ。まさかヴィルフリートに想いを伝えたいなんて……」
「え?」
「だって、自分で繋がりを切ったのに、過去に戻ってやり直したい相手がヴィルフリートだなんて思わないでしょう? 人間って本当に不可解ですこと」
「……あの、それは一体どういう意味でしょうか? わたくしがヴィルフリート様との繋がりを自分で切ったのですか?」
全く意味がわからなくて首を傾げると、リーベスクヒルフェ様も意味がわからないというように首を傾げました。
「祈ったでしょう?」
「……ヴィルフリート様との繋がりを切りたいと祈るなど全く記憶にございませんけれど……」
「わたくしに祈りが届いたのですもの。相当強く祈ったはずです」
リーベスクヒルフェ様がふわりと手を動かすと、目の前に鏡のような金属板が浮かび上がり、その中にわたくしの姿が映っています。家具などを見たところ、寮の自室のようです。
「一度にたくさんの祈りが来ても全てを同時に確認できないから、こうして強い祈りは見直せるようにしているのです」
……自分の姿をこのような形で見られるなんて……。
まるで連絡用の水鏡のようです。目の前の金属板には過去のわたくしの様子が浮かんでいます。過去のわたくしは何やら焦っている様子で、コルドゥラと何やら話し合っています。それから、必死の表情でリーベスクヒルフェ様に感謝を捧げ始めました。
「縁結びの女神 リーベスクヒルフェよ。たくさんの御加護をありがとう存じます。もう十分です! わたくし、十分な選択肢をいただきました。神に感謝を!」
……あぁ! 次々と求婚されて困った時に、わたくし、確かに「これ以上の選択肢はいらない」と強く願いました!
「その顔は思い出したようですね。わたくし、この祈りが聞こえたから、この時に他とは繋がらないようにしたのです」
……なんということでしょう!? まさか自分のお祈りのせいでヴィルフリート様とのご縁が切れていたなんて……。
「わたくし、どれだけ間が悪かったのでしょうか」
くらりとして目の前が揺れるのを感じていると、ドレッファングーア様が頬に手を添えてそっと息を吐きました。
「わたくしは別に間が悪いとは思いませんけれどね。リーベスクヒルフェは縁を結びますけれど、それが良縁とは限りません。悪縁だって中にはあるのです。特に一度切った関係を無理に絡めると碌な結果になりません」
「……え?」
「あら、本人が望んだことなら、どれだけ災難が降りかかっても構わないでしょう? 自分の望みによって泥沼にはまっていく者達も見ていると、なかなか面白いのですもの。お仕事の中に楽しみを見出すことは大事だと思わなくて?」
その物言いに、わたくしは親しみやすそうな笑みを浮かべているリーベスクヒルフェ様に対して底の知れない薄気味悪さを感じました。神々にとってわたくし達の生き様を見つめ、祈りを叶えることはお仕事であり、同時に娯楽であるようです。
「お仕事はお仕事でしょう。真面目にするべきですよ。……貴女が真面目にできないのは構いませんけれど、わたくしの糸を触らないでくださいませ」
「そのくらいいいじゃない。色々と絡めた方が楽しいもの」
わたくしの脳裏に「神々とわたくし達では常識も理も違います。一見、似たような姿をしていますが、神々と自分達を同じように考えてはなりません」というローゼマイン様のお言葉が蘇りました。ローゼマイン様はメスティオノーラ様からグルトリスハイトを授かる時に、きっとこのような理不尽さや力の違いを実感したのでしょう。
……過去に戻った時にリーベスクヒルフェ様の御力が及ばなくて安心しました。
ドレッファングーア様とリーベスクヒルフェ様を見ていると、わたくしはそう思わずにいられません。
「あの、ローゼマイン様はまだ戻られませんか?」
わたくしはおずおずと声をかけました。仕事に対する姿勢について言い合い、段々白熱し始めるドレッファングーア様に冷静になっていただきたかっただけで、ローゼマイン様がまだ戻られないことはわかっています。禁忌を犯して強制送還されましたし、機織りの女神 ヴェントゥヒーテは織機から真剣な目を片時も離そうとしませんから。
ドレッファングーア様は我に返ったようです。一つ息を吐くと、リーベスクヒルフェ様からヴェントンヒーテ様の手元へ視線を向けました。
「……切られた箇所が一つではないので、すぐには戻らないでしょう。あぁ、一つは無事に修復できたようですね」
ローゼマイン様の頑張りを耳にして、わたくしは安堵しました。一年前の世界で様々な失敗をしたわたくしと違って、ローゼマイン様はきちんと修復を成功させているようです。
「ハンネローレ、貴女は精神だけの形でここにいます。あまり長くなると、貴女の体が持たないでしょう。ローゼマインを待つのではなく、先に戻りなさい」
ドレッファングーア様の言葉に、わたくしは頷きました。神々の理や常識を理解できない以上、長居しては何が起こるかわかりません。わたくしを元の世界に戻そうと、ふわりを手を上げるドレッファングーア様にお礼を述べます。
「ドレッファングーア様、わたくしの記憶を残してくださってありがとう存じます」
「わたくしこそ、体を借りられて助かりました。ローゼマインにも協力し、ヴェントンヒーテと共に貴女達が織りなしてきた歴史を尊重します。安心してくださいな」
ニコリと微笑む口元が見えます。二十年ほどの歴史が崩れることなく、修復されるだろうと信じられる笑みでした。
視界がゆっくりと白くなっていく中で、リーベスクヒルフェ様がドレッファングーア様を押しのけるようにして視界に入ってきました。
「いっぱいお祈りしてくれたのにお礼をできてないから、今度は好きなのを選べるようにしてあげました」
……え? あの、ちょっと待ってくださいませ。
リーベスクヒルフェ様の声が好意的な響きであることは理解できますが、何だか非常に不安になってきました。今度は何が起こるのでしょうか。
「これからも感謝の祈りをたくさん送ってちょうだい。待っているわ」
明るく見送る声まで霞んでいきます。これ以上リーベスクヒルフェ様にお祈りするのは怖いのですが、待たれているのに祈らないのも怖いです。わたくしはどうすれば良いのでしょうか。
気が付くと、わたくしは青い液体の中にいました。体を起こそうとすると、コルドゥラが手を差し入れて助けてくれます。
「ハンネローレ姫様でよろしいのですよね?」
コルドゥラが不安そうにわたくしに尋ねました。ドレッファングーア様が降臨していた影響を感じながら、わたくしは頷きます。
「えぇ。戻りました。……ここはお風呂ですよね? これはユレーヴェでしょうか?」
体を起こすと、わたくしは自室の浴槽にいることがわかりました。コルドゥラが頷きます。
「はい。姫様が戻るまでお体をユレーヴェに浸けておくように、とローゼマイン様がおっしゃったのです。精神が戻らなければ死に近付いていくから魔力が固まらないように、と。ご無事に戻られて安心いたしました。浴槽がこの有様ですから、姫様に対して失礼であることは承知の上でございますが、ヴァッシェンを行いますよ」
コルドゥラは主であるわたくしにシュタープを向ける非礼を詫び、ヴァッシェンで薬液を洗い流しました。
「着替えたら不在期間のお話をいたしましょう。姫様が眠っている間に少々大変なことになっておりますから」
早口でコルドゥラが言います。わたくしを心配している様子を全く隠さない姿に、わたくしは何だか怖くなりました。いつも冷静なコルドゥラとは思えません。
浴室から出ても他の側近の姿が見当たらず、わたくしは少し戸惑いながらコルドゥラ一人に着替えさせてもらいます。
「……コルドゥラ、何が起こっているのですか?」
「わたくしが知る範囲でお話しいたしますから、姫様はどうかお気を確かに」
……お気を確かに、ですか?
とてもコルドゥラが発した言葉とは思えません。わたくしは深呼吸しながら心の状態を整え、ゆっくりと頷きました。着替えが終わり、脱衣所から出ても自室には他の側近達の姿が見えません。
「まだ姫様が目覚めたことを誰にも知らせていません。姫様に今の状況をお伝えし、よく考える時間が必要だと考えたからです」
そう言いながらコルドゥラはわたくしにお茶を入れてくれます。温かいお茶を飲むと、体に熱が広がっていくことが実感できます。あまり自覚はありませんでしたが、ユレーヴェの中では体が完全に冷えていたようです。
「コルドゥラも座ってちょうだい。意識のないわたくしに付いていたのですから疲れているでしょうし、短い話ではないのでしょう?」
わたくしがコルドゥラを見つめてそう言うと、コルドゥラはしばらくわたくしの目を見返して「姫様は何だか少し雰囲気が変わられましたね」と言いながら椅子に腰を下ろしました。
「どこからお話をしましょうか? わたくし、東屋のことは詳しくないので、後でケントリプスから聴いてくださいませ」
コルドゥラはそう前置きして、ドレッファングーア様がわたくしの体を借りたこと、その際に派手な光の柱が立ったこと、ローゼマイン様を連れていくと同時にわたくしの体が臨死状態に陥ったことを述べていきます。ドレッファングーア様から先に注意があってローゼマイン様からユレーヴェに浸けるように助言があったそうです。
「ユレーヴェに浸け、神々の世界から姫様が戻るのを待つしかございませんでした。姫様のお体に関してはそれで終わりです。けれど、周囲の状況は……」
コルドゥラは一度そこで言葉を切り、少し考えるように目を伏せました。
「わたくしが覚えている限り、今の騒動の始まりはコリンツダウムですね。時の女神と繋がる聖女を上級貴族に降嫁させるなど酷い話だという抗議と共に、王族の血を引くアウブ・コリンツダウムから求婚を受けました」
「意味がわかりません。娘の嫁ぎ先を決めるのは父親ですし、父親の決めた縁談に対して抗議するならば嫁盗りディッターを行うべきでしょう?」
ジギスヴァルト様は王族の血を引くというところを強調して求婚してきたようですが、それでは正式な手順を踏んでいるとは思えません。
「まだ姫様が正式な婚約者を決めていないので、父親が決めたとは言っても婚約は成立していないと主張しています」
「確かに正式な婚約は済んでいませんね。元王族が相手では、お父様も即座にお断りすることは難しいでしょう」
まさかジギスヴァルト様から元王族という立場を笠に着た求婚が寄せられるとは、あまりにも予想外な展開です。けれど、お父様はジギスヴァルト様に良い評価をしていませんでした。わたくしが拒否すれば、どのように断れば良いのか一緒に考えてくださるでしょう。
「アウブは他領からの横槍を防ぐためにハンネローレ姫様に婿取りさせることで領主一族に据え置くことを考えました。それでコリンツダウムを退けようとしたところ、ドレヴァンヒェルのオルトヴィーン様からも求婚があったのです」
「え? オルトヴィーン様ですか!? 何故です!?」
こちらもまた完全に想定外です。わたくしの記憶が確かならば、わたくしはオルトヴィーン様の目の前でヴィルフリート様に想いを告げたはずです。それなのに、何故目覚めたら求婚されているのでしょう。
……もしかすると、あの東屋でオルトヴィーン様が余裕のある態度に見えたのは、わたくしとヴィルフリート様が上手くいかないと思っていたからでしょうか?
わたくしを観察するようなオルトヴィーン様の目を思い出しました。
「オルトヴィーン様はダンケルフェルガーのことにも通じているようですね。正式に嫁盗りディッターを申し込んで参りました」
「……アウブ・ドレヴァンヒェルはその申し込みをご存じなのですか? 前のように、また何か不備や両者に齟齬があるということは?」
オルトヴィーン様はヴィルフリート様と違ってダンケルフェルガーの求婚を知っていたのですから、何も知らずに嫁盗りディッターを申し込んできたわけではないでしょう。それがわかっていても、わたくしは警戒してしまいます。
「ないと思われますよ。今回は領地対領地の正式な取り決めですから。横入りのようなコリンツダウムの求婚より、よほど好感が持てるとアウブはオルトヴィーン様のディッターの申し込みを受け、ラザンタルクとケントリプスに姫様を守るように命じました」
ダンケルフェルガーとドレヴァンヒェルのディッターで勝負を付けようというところにコリンツダウムも参戦表明を出してきたそうです。何だかわけがわからない感じの混戦状態になってきました。
「そのうえ……」
「まだあるのですか?」
「第二夫人のご子息ラオフェレーグ様が参戦を表明したのです」
「なんですって!?」
ディッターを目当てに求婚してきた異母弟の姿を思い出して目を見開いていると、コルドゥラも頭痛を押さえるように額に指を当てます。
「アウブの決定に異議を唱える権利が自分にはあること。異母弟の自分であれば姫様に婿入り、姫様をアウブ・ダンケルフェルガーにできる、と言い出したのです。完全にレスティラウト様に対する敵対宣言ですね」
「……わたくし、お兄様と敵対する気はありませんよ。自分にアウブが務まるとも思っていませんし……」
ラオフェレーグの参戦表明は、ダンケルフェルガーの貴族達に大きな衝撃を与えたそうです。
「アウブが他の求婚者の申し込みを受けるのにラオフェレーグ様の参戦だけを断ることはできません。ラオフェレーグ様はご自分の側近を中心に、レスティラウト様に反感を持つ者や姫様をアウブに押し上げようとする者達を味方に付けようと躍起になっています」
ラオフェレーグとケントリプス&ラザンタルクの二組が参戦することになり、ダンケルフェルガーが割れたため、勝機を見出した領地からもディッターの申し入れがあったそうです。
「……そういうわけで、姫様の嫁ぎ先を決めるための大規模な嫁盗りディッターが行われようとしています。姫様がどのような立場を望まれ、どのように立ち回るのか……。それが今までより重要になると思います。目が覚めたと連絡すれば、一気に事態は動き出すでしょう」
疲れ切ったようにコルドゥラが深い溜息を吐きました。
「わたくしは本当に偶然あの東屋で祈りを捧げたことで、ドレッファングーア様に体を貸してほしいとお願いされただけです。わたくし自身には何の力もないのですよ。どうしてこのようなことに……」
そう呟いた瞬間、「今度は好きなのを選べるようにしてあげました」というリーベスクヒルフェ様の言葉が脳裏に蘇ります。リーベスクヒルフェの悪戯、その影響力の広さと強さを目の当たりにしたわたくしは、頭を抱えざるを得ません。
……違いますっ! わたくし、このような事態は望んでおりませんっ! 今回は祈ってもいないのですよ! 止めてくださいませ、本当に!
リーベスクヒルフェ様に抗議の祈りを捧げるべきかどうか一瞬思案し、わたくしは不満と魔力が飛び出すのを必死に抑えました。
ドレッファングーアからのお礼は、一年前の世界での記憶になりました。
ハンネローレ以外には何の影響も残っていません。
深刻な事態になっているのは、現実そのもの。
ユルゲンシュミットでの神頼みはほどほどに……。
果たして、リーベスクヒルフェが鷲掴みしている糸はどうなるのか。
次回は、ケントリプス視点の閑話です。
ドレッファングーア降臨から目覚めまでの周囲。