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ドレッファングーアの紡ぐ糸

 何もない白い世界にわたくしは立っていました。辺りを見回していると、不意に目の前に淡い黄色のヴェールをかぶった女性が現れました。高い位置で髪を結っているのがヴェールの形からわかります。顔の上半分は見えなくて、唇より下が見えるだけです。けれど、彼女からはわたくしが認識できるようで別方向を向くこともなく、こちらを見ています。近くにいるだけで逃げ出したくなるような圧力を感じ、何だが息苦しいような気分になってきました。


「ハンネローレ、貴女がわたくしに魔力を以て呼びかけくださって助かりました」


 ……時の女神 ドレッファングーア!?


 そういえば、時の女神の悪戯する東屋で女神の名を口にした途端、わたくしの魔力によって魔法陣が浮かび上がりました。わたくしは別に呼びかけたわけではなく、挨拶をしただけのつもりだったのですが、目の前にいる女性が時の女神 ドレッファングーアであることは間違いないでしょう。向かい合うだけで胸が押さえつけられているような重いほどの圧倒的な御力が、彼女が女神であることを裏付けています。


「少し体を貸してくださいませ、ハンネローレ。メスティオノーラの書を持つツェント候補を呼び出さなければなりません。本来ならば、貴女の体を借りなくても呼びかけられました。けれど、今の彼女は強固な結界に阻まれていてわたくしの声も手も届かないのです。困ったこと」


 今までに神々を降ろしたことがあり、強固な結界で守られているということはローゼマイン様でしょう。わたくしの知る限りですけれど、女神の声が届かないほど強固に守られている方が他にユルゲンシュミットにいるとは思えません。でも、メスティオノーラの書を持つ者を呼ぶのに、ツェントではなくツェント候補を呼ぶ意味がわかりません。


「……あの、ドレッファングーア様。ツェント・エグランティーヌではなく、ローゼマイン様で間違いありませんか?」

「えぇ。ローゼマイン、あの者はそのように呼ばれていますね」


 唇が笑みの形になりました。エグランティーヌ様がツェントとして即位しましたが、神々にとっては未だにローゼマイン様がツェント候補なのでしょうか。エグランティーヌ様はローゼマイン様からグルトリスハイトを譲られました。けれど、もしかしたら神々からはツェントとして認識されていないのでしょうか。ローゼマイン様が王族と共に神々を謀っていて、それに自分も知らずに加担しているような何とも言えないモヤモヤとした気分が胸の内に広がります。


「ローゼマインをここに連れてくることができなければ、紡がれた歴史が二十年以上、崩れて消えてしまいます」


 モヤモヤとした気分を一気に吹き飛ばすような信じられない言葉を聞いて、わたくしは目を見開きました。


「二十年以上の歴史が……消えるのですか?」

「この事態に関与できるのは、メスティオノーラの書を持つツェント候補だけなのです」


 何が起こっているのかわかりませんが、歴史が二十年以上も消えるなんてとんでもない事態です。ローゼマイン様以外に関与できる者がいないならば、女神様に呼んでもらうしかありません。


「ドレッファングーア様、わたくしの体でよろしければローゼマイン様を呼び出すためにお使いくださいませ」


 わたくしが了承すると、ドレッファングーア様は「助かります」という声を残して、ヴェールを揺らしてフッと姿を消しました。




 ……簡単に了承してしまいましたが、わたくしの体は女神様を受け入れても大丈夫なのでしょうか? ローゼマイン様と違って適任とは言えないようですけれど……。


 真っ白の世界の中でぼんやりとそんなことを考えながら時の女神がローゼマイン様を呼んでくるのを待っていると、二人が突然姿を現しました。無事にローゼマイン様を呼び出すことができたようです。


「ハンネローレ様、ご無事ですか!?」


 新しい騎獣服でしょうか。胸元にずらりと魔術具の筒を差し込めるようになっている珍しい形の衣装を身にまとい、ローゼマイン様が血相を変えて駆け寄ってきました。髪は後ろで一つにまとめられていて、虹色魔石の髪飾りはついていますが、いつもの花の飾りが見当たりません。


 ……魔術具や魔石などをたくさん身につけていて、まるで武装しているようですね。神々に呼び出されたというのに、ずいぶん物騒な……。


 そう考えたところでハッとしました。ローゼマイン様はこれから二十年以上の歴史が消えようとしている事態を防がなければならないのです。何があるのかわかりません。武装は必要でしょう。


「神々に何もされていらっしゃいませんか!? 苦痛や記憶障害などは!?


 ローゼマイン様がわたくしを上から下まで何度も確認していますが、わたくしには苦痛も何もありません。


「ご心配には及びません。わたくしはここでドレッファングーア様に体を貸し、二人が戻ってくるのを待っていただけですから」

「では、問題はこの後ですね。時の女神が降臨したのです。ハンネローレ様の体には女神の御力が残っているでしょうから、日常生活に支障を及ぼす可能性があります。銀の布の手配をエグランティーヌ様にお願いしなければなりませんね」

「え?……日常生活に支障があるのですか?」


 ローゼマイン様の心配にわたくしが不安になっていると、ドレッファングーアが少し首を傾げました。ゆらりとヴェールが揺れますが、その面立ちは全く見えません。


「ハンネローレは貴女と違って、わたくしの力を受け取りにくく、魔力がとても染まりにくい性質です。わたくしの力が残るとしてもごくわずかでしょうし、すぐに消えると思いますよ。あの時と違って力を送り込んだわけでもありませんし……」

「では、ハンネローレ様の記憶などに障害が残る確率はどのくらいでしょう?」

「切羽詰まっているというわけではありませんから、メスティオノーラと違ってわたくしは何もしていませんよ。貴女を呼び出したかっただけですもの」


 色々と質問していたローゼマイン様が安堵したように胸を押さえて息を吐き、その後、少し顔を曇らせました。


「フェルディナンド様のお守りに神々の招きが阻まれていたため、ハンネローレ様を巻き込んでしまったようです。本当に申し訳ございませんでした。記憶が消されるという事態は回避できたようですけれど、日常生活には支障があると思います。女神の御力の影響があることはもちろんなのですけれど、ハンネローレ様が時の女神の化身だとすでに大騒ぎになっていますから……」


 東屋で意識を失ったわたくしに時の女神 ドレッファングーアが降臨したのです。その場にはダンケルフェルガーの者だけではなく、エーレンフェストとドレヴァンヒェルの者達がいました。東屋は文官棟の近くなので、他領の文官達や文官棟で過ごしていた教師達には女神が降臨した際の光がよく見えたそうです。


 ……それは大騒ぎになるでしょう。自分の体に戻るのが怖いです!


「ドレッファングーア様、ハンネローレ様を巻き込んでまで、わたくしを呼び出した理由を教えてくださいませ。二十年分の歴史が崩れるとか、フェルディナンド様の一大事とおっしゃいましたけれど……」


 キッと強い瞳で女神を見据えるローゼマイン様が非常に不敬に思えてハラハラしましたが、ドレッファングーア様は意にも介さぬ様子で答えます。しかし、その答えはわたくしの理解の範疇を超えていました。


「わたくしが人の運命の糸を紡いでいることはご存じかしら?」

「ユルゲンシュミットに神話で伝わっている範囲しか存じませんけれど……」

「わたくしの紡ぐ数多の運命の糸を神具の織機にかけて交わらせ、歴史を織っていくのがヴェントゥヒーテだということは?」

「メスティオノーラの書には載っていましたから、おおよそは存じています」


 ローゼマイン様は頷いていますが、わたくしはヴェントゥヒーテが運命の糸を織り、歴史を紡いでいるとは知りませんでした。ずっと機織りの女神だと認識していました。

 ヴェントゥヒーテの神話でよく知られているのは、元土の眷属で機織りの女神としてのお話です。自分の眷属達が追い出されたことを知った土の女神 ゲドゥルリーヒが、ヴェントゥヒーテの織った布から作った服でなければ着たくないと泣いて抗議したと言われています。最高級の布を「まるでヴェントゥヒーテが織ったような」と形容することもあります。


「どなたの悪戯か、悪意あっての行動か存じませんが、ヴェントゥヒーテの歴史の布に織り込まれたあの者の糸が切られたのです」

「その運命の糸がフェルディナンド様の物で間違いございませんか?」


 何故かローゼマイン様は「フェルディナンド」を強調するように尋ねました。ドレッファングーアは小さく笑って頷きます。


「えぇ。運命を切られた位置が二十年以上前なのです。いつもならば途中で切れた糸を発見しても別の糸を繋いで代用したり、切れた糸を引き抜いたりして終わりにするけれど、フェルディナンドはここ最近のユルゲンシュミットの歴史に大きく関わったでしょう? そのため、切れた糸を引き抜くと大きく歴史の絵柄が変わってしまうとヴェントゥヒーテが嘆いているのです」


 本当にフェルディナンド様が歴史に影響を及ぼしているのか、あの方の行いを思い返してみました。アーレンスバッハでの戦いから中央での戦いに参加し、新しいツェントの選定する場に同席していました。お父様の話によると、フェルディナンド様が完全にその場を仕切っていたと聞いています。そして、今はローゼマイン様の婚約者としてアレキサンドリアを支えています。


 ……何だかわたくしが知らない部分での影響も大きそうですね。


「せっかく美しく織れたと喜んでいたヴェントゥヒーテが可哀想に思えて、わたくしは切られた糸を繋ぐために、フェルディナンドと同じ色になれる糸を探しました。……それが貴女です、ローゼマイン」


 ……まぁ! それはお二人が時の女神ドレッファングーアも認める運命のお相手ということではございませんか!?


 ローゼマイン様は頑なに「ブルーアンファの訪れはない」とおっしゃいましたけれど、やはり自覚されていないだけでしょう。おそらく縁結びの女神 リーベスクヒルフェによって結ばれた運命の二人に違いありません。時の女神ドレッファングーアの言葉に胸の高鳴りを覚えていたわたくしは、続く言葉を耳にした瞬間、目の前が真っ暗になりました。


「今すぐにシュテルラートの力で糸を結び、色を完全に同化させた貴女の糸の一部を代償にしてフェルディナンドの糸を繋ぎたいと考えているのですけれど、よろしくて? 」


 シュテルラートは星の神で、星結びの儀式で夫婦と認めてくださる神様です。今すぐにここで星結びを行って二人を夫婦にし、ローゼマイン様の運命の糸を代償にフェルディナンド様の切れた糸を繋ぐことを女神が望んでいるというのです。


 ……つまり、ユルゲンシュミットの歴史とフェルディナンド様を救うためにローゼマイン様の命を削るということでは……?


 わたくしがドレッファングーアの言葉に衝撃を受けて目を見開いていると、ローゼマイン様は至極当然の顔であっさり「わかりました」と答えました。


「ローゼマイン様、お待ちくださいませ。御自分の糸が代償となるという意味を本当にわかっていらっしゃいますか? 他に方法がないのか……」


 英知の女神 メスティオノーラからグルトリスハイトを賜り、女神の化身と呼ばれているローゼマイン様ならば、わたくしとは違って女神様とも少しは交渉の余地があるでしょう。そう訴えたわたくしに、ローゼマイン様はニコリと微笑みました。


「ハンネローレ様、ご心配ありがとう存じます。でも、ドレッファングーア様のお言葉にフェルディナンド様や歴史が消えることに対する憐憫や後悔はないでしょう? 織った歴史が消えることを嘆くヴェントゥヒーテ様を哀れに思っているだけ、切れた糸を繋ぐための糸が欲しいだけなのです。神々とわたくし達では常識も理も違います。一見、似たような姿をしていますが、神々と自分達を同じように考えてはなりません。そもそも交渉できるような立場にないのですよ」


 神々とわたくし達では立場が違う。頭ではわかっていても、話せば神々にわかっていただけるとわたくしは漠然と考えていました。けれど、ローゼマイン様にとって神々はそのような相手ではないようです。


「それに、切れた糸は仕方がないとヴェントゥヒーテ様を慰めることにされて困るのは、わたくしなのです。わたくしは何を犠牲にしてもフェルディナンド様を守ると決めています。勝手に糸を切られて助ける術がないならばともかく、わたくしの命の一部で今更文句など言いません。……ドレッファングーア様、急いだ方がいいですよね?」


 覚悟などとうの昔に決まっていると言い切って女神を急かしています。ローゼマイン様の不遜な態度にわたくしは青ざめましたが、ドレッファングーアは「えぇ、そうですね」と気にも留めていないようにふわりと腕を動かしました。


 ゆらりと揺れた長い袖が翻ると、次の瞬間には何もなかった白い世界に一つだけ立派な扉が現れました。ドレッファングーアはそれを開きます。扉の中はどこかの部屋に繋がっていたようです。機織りの手を止めて一本の糸をつまんでいる女性がいました。おそらく機織りの女神 ヴェントゥヒーテでしょう。落ち着いた赤茶の色合いの髪を緩くまとめた穏やかそうな女性です。祭壇にある土の女神と雰囲気が似ているように見えるため、元眷属という神話に納得してしまいました。


「ドレッファングーア、助かりました」

「リーベスクヒルフェとシュテルラートは?」

「あちらの部屋にいます。シュテルラートがリーベスクヒルフェを隔離してくれました。あの悪戯者はすぐに糸に触れようとするのですもの」


 ……縁結びの女神 リーベスクヒルフェが運命の糸に悪戯をするというのは神話だけのお話ではなかったのですね。


 妙に感心しながらわたくしは女神のやり取りを見ていました。神話の世界が目の前に広がっているけれど、全くそのように思えないような、けれど、何だか現実感がないような、おかしな心地がしています。自分勝手な夢を見ているような気分です。


「本当に連れてきたのね。せっかく織った歴史が崩れるのを嫌がるヴェントゥヒーテの気持ちはわかるけれど、そのために他人の糸を使って繋ぐなんて……」


 呆れたような、咎めるような声が奥から聞こえてきました。そちらを振り向くと、縁結びの女神 リーベスクヒルフェだろうと見当を付けられる女神と、彼女が勝手な行動をしないように押さえている男神がこちらへ近付いてきます。悪戯好きと神話に載っているリーベスクヒルフェは確かに面白いことが好きそうで行動力旺盛な雰囲気の女神です。けれど、今はその顔を少し曇らせて心配そうにローゼマイン様を見つめていました。


「別にヴェントゥヒーテやドレッファングーアに付き合わなくても構わなくてよ。二百年ならばまだしも、たった二十年ですもの。また織り直せるし、一からやり直した方が綺麗な模様になるかもしれないでしょう?」


 ……たった二十年とおっしゃいましたか!?


 神々とは時間に対する感じ方が全く違うようです。それに、「織り直せば綺麗な模様になるかもしれない」という言葉は歴史が変わる可能性が高いことを示しています。ユルゲンシュミットでは政変が起こるより前に戻るのですから、当時の者達の選択が少し違えばわたくし達が生まれなくなる可能性もあるでしょう。


 ……わたくし達の命や歴史をそのように簡単に消すようなことをおっしゃらないでくださいませ!


 そう叫びたいのを呑み込んで、わたくしは笑顔を保ちます。ローゼマイン様がおっしゃったように、神々とは感覚が全く相容れません。もしかすると、貴族が感情を抑えるように教育されるのは、神々と接することのあるツェントが神々を怒らせないようにするためだったかもしれません。


「リーベスクヒルフェ様、今よりも美しく織れると限りません。わたくしは自分達の生きてきた歴史が消え去るより、今のままヴェントゥヒーテ様に糸を繋いでいただきたいのです」


 ローゼマイン様の答えにリーベスクヒルフェが不思議そうに首を傾げます。


「そう? 今に不満はないの? やり直せる機会なんて滅多にないわ。貴重よ?」


 ……今に不満? やり直せる機会?


 リーベスクヒルフェ様の言葉にわたくしは思わず胸元を押さえました。わたくしは今に不満があります。二十年以上前ではなく、一年前に戻ることができるならば、わたくしはきっとやり直せる機会を最大限に利用したでしょう。


「今の模様をヴェントゥヒーテ様は美しいと感じてくださっています。わたくしもまた、今の歴史を崩したくないのです」


 ローゼマイン様が固く決意している様子に、ヴェントゥヒーテ様は嬉しそうに微笑みました。


「せっかく美しく織れましたし、あの箱庭も安定したでしょう? それを崩すなんて勿体ないではありませんか。シュテルラートもそう思わなくて?」


 リーベスクヒルフェ様の肩を押さえている星の神 シュテルラート様は、非常に苦々しい表情で機織り機を見ました。前髪の一部が金髪ですが、それ以外は黒い髪をしています。


「気分で勝手に糸を絡ませられるリーベスクヒルフェと違って、私が糸を結ぶには両人の了承が必要なのだが?」

「あら、シュテルラートはすでに切られた糸に意思の確認なんてできるのですか? 初めて知りました」

「切られた糸を繋ぎたいと彼女が望んでいるのですから結んでくださいませ」

「もうこれだけ染まっているのに、今更確認なんて愚問じゃなくて? これで相手が結ぶことを拒否するような男ならば、わたくしがもう一度糸を切りますよ」


 男神が一言意見すれば、周囲の女神達が口々に反論します。何倍にも言い返されるシュテルラート様は面倒くさそうな顔になって、その特徴的な前髪をいじり始めました。神々の様子はわたくしの周囲でもよく見られる光景で、神々が本当に偉いのか、自分達とどれだけ違うのかわからなくなりました。


「わかった、わかった。貴女達の言う通りだ。確かにこれだけ染めたのだから、どちらも夫婦となることを望んでいると考えても問題はないだろう」


 結局、女神達に押し切られた形で星の神は渋々引き受けました。指を一つ鳴らすと、その途端にシュテルラート様の衣装が黒に金の縁取りのある重厚な物に替わりました。胸元のブローチが本当の星のように光っています。おそらく神としての盛装ではないでしょうか。


「フフッ……。では、わたくしも……」


 リーベスクヒルフェ様がにんまりと笑って指を鳴らしました。金色を主にした衣装に替わります。それぞれの主神の貴色をまとっているようです。リーベスクヒルフェ様の盛装で最も目を引いたのは、髪飾りが多く増えていることでしょうか。


「ローゼマイン、前へ」


 ドレッファングーア様に促されたローゼマイン様はコクリと頷き、星の神と縁結びの女神の前に跪いて頭を垂れました。シュテルラート様が大きく袖を翻すと、ヴェントゥヒーテ様の部屋の一室にいたはずのわたくし達は星空の中に浮かんでいました。床が見えなくなっているのに、落ちることもありません。驚きのあまり声を上げかけたわたくしは口元を押さえます。ローゼマイン様は静かに跪いたまま顔さえ上げていません。


 リーベスクヒルフェ様が御自身の髪飾りを引き抜きました。二本の細い髪飾りをそれぞれの手に持ち、星空に向かって投げます。再び髪飾りが女神の手に落ちてきた時には虹色に光る細い糸が一本ずつ引っかかっていました。リーベスクヒルフェ様はその糸を髪飾りから外してシュテルラート様に渡します。


「なるほど。急ぐ必要がある」


 二本の糸を手にした星の神は少し顔をしかめてそう言うと、ブローチを外しました。わたくしにはブローチに見えましたが、それは星の神の神具だったようです。


「星の祝福を」


 手にある糸をまとめて挟んで一気に引っ張りました。二本だった糸が太い一本になったように一度絡み合い、再び離れていきます。ローゼマイン様の頭上から星の輝きにも見える光の粉が降り注ぎます。


 あまりの神々しさに言葉も出せず、わたくしはただ神々による本物の星結びの儀式を見つめていました。お兄様からお話を伺ったり、描かれた絵を見たりして想像していた星結びの儀式よりずっと畏れ多く、自然と涙が浮かぶほど美しいのです。




「終わりましたよ」


 ドレッファングーア様の声にハッとすると、周囲は夜空ではなくなっていて機織りの女神の部屋にいました。シュテルラート様とリーベスクヒルフェ様の衣装は元の軽装に戻っています。


「では、ローゼマイン。この切れた時点へ向かって命の危機に陥っているあの者を救い、切れた糸を繋いできてくださいませ」


 ヴェントゥヒーテ様がそう言うと、彼女の指輪が光り、まるで初対面の挨拶の時のような光がローゼマイン様に向かってふわふわと飛んでいきました。その光に包まれた途端、ローゼマイン様が虹色に輝く糸に変化しました。しなやかで輝きの強い糸がヴェントゥヒーテ様の指の動きに合わせて宙を舞い、織機に広がっている布の中に飛び込んでいきます。


「貴女の望む糸の下へ」


 ヴェントゥヒーテ様はこちらには目を向けず、織機にかかる布をじっと見つめています。ドレッファングーア様がホッとしたように胸元を押さえて、わたくしの方を見ました。


「ハンネローレ、助かりました。おそらくこれで糸は繋がれるでしょう。ローゼマインをここに連れてくることができたのは、貴女が協力的であったからです。お礼に一つ、貴女の願いを叶えましょう」

「……お礼など……」


 畏れ多いと固辞しかけて、わたくしはハッとしました。


「あ、あの……大変不躾なお願いなのですが、わたくしもローゼマイン様のように過去へ向かうことができますか? その一年前に戻れたら……と思うのですけれど」

「……ローゼマインが糸を繋ぎ終わるまでならば干渉の余地はありますけれど、模様が変わってしまうのではないかしら?」


 ドレッファングーア様は無言で布を見つめ続けるヴェントゥヒーテ様を見て、少し表情を曇らせました。


「それに、神々の影響をできるだけ受けないように肉体ごと連れてきたローゼマインと違って、貴女の存在は意識だけです。今よりも影響を受けますし、自由に動ける肉体を得て過去へ行けるわけではなく、過去の自分へ意識を飛ばすだけになりますよ」

「いいじゃないの、ドレッファングーア。本人がお礼として、変化を望んでいるのだから。仮に何か失敗しても一年くらいならば織り直しも容易でしょう?」


 リーベスクヒルフェ様が愉しそうに笑いながら、わたくしの後押しをしてくださいました。縁結びの女神の後押しは非常に心強いです。過去の自分に意識だけを飛ばすことも何だか怖くないような気分になってきました。


「今までの歴史が大きく変わることはないと思われます。わたくしが変化を及ぼしたいのは個人的な未来ですから。お願いいたします。わたくしにやり直す機会をくださいませ」

「フフッ、面白いじゃない。わたくしが許します。いってらっしゃい!」


 ドンと強くリーベスクヒルフェ様に突き飛ばされました。他の神々の「あ!」「待ちなさい!」と驚いた顔を最後に、わたくしは大きく広がった歴史の布に吸い込まれていきました。



唐突に神の世界に招かれたハンネローレ。

ハンネローレ視点ではローゼマインが落ち着き払っているように見えますが、内心は「フェルディナンド様を助けるんだよ! 早くしてよ!」とガルガルしています。

そして、お礼と称して一年前の世界へ行くことを願ったハンネローレ。


次は、一年前の貴族院です。


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