求婚
ダンケルフェルガーがエーレンフェストとの関係を望まないのであれば、わたくしは諦めることができたでしょう。けれど、ダンケルフェルガーの領主候補生がエーレンフェストの領主候補生に嫁ぐことをお父様が望んでいるのであれば、わたくしにも全く望みがないわけではありません。
……今の状況をひっくり返すことができるかしら?
わたくしは頬に手を当てて、少し考えます。側近でありながら今までそのような情報を出さなかったルイポルトを見つめました。ルイポルトもわたくしがどのような反応を示すのか確認しているように、じっとこちらを見ています。
……側近達はわたくしがヴィルフリート様と星を結びたいと打ち明けたとしても、味方にはなってくれなそうですね。
瞬時にわたくしはそう判断し、少しでも多くの情報を得ることを優先させることにします。嫁盗りディッターの後の話し合いで、大領地との縁組みをアウブ・エーレンフェストは渋っていました。わたくしはアーレンスバッハとの縁談によってエーレンフェストの内情が大変なことになっていることを聞きましたし、側近達はそれを知っているはずです。
……エーレンフェストの方針が変わったかどうか、わたくしは知らされていないけれど、側近達は知っているのかしら?
エーレンフェストの方針はわたくしの行動にとっても非常に重要な事柄です。
「ヴィルフリート様達に尋ねるのは構わないのですけれど、エーレンフェストは大領地との縁組みには慎重な土地柄でした。それは知っているでしょう? 情勢が変わったことによってエーレンフェストの方針が変わったのであれば良いのですけれど、わたくし、お父様の独断による暴走でエーレンフェストに迷惑をかける行為には協力できません。ルイポルトはお母様の許可は出ているかどうか知っていて?」
わたくしが軽く睨むと、ルイポルトは少し考える素振りを見せた後で頷きました。
「領主会議の後で言われ始めたことなので、ジークリンデ様もご存じでしょう」
……領主会議でローゼマイン様がアウブ・アレキサンドリアになったことによって、嫌でも上位領地との関係を持つことになったから方針を変える必要が出てきたのかしら?
わたくしは頭の中で入ってくる情報を吟味しつつ、安堵した表情をルイポルトに向けました。
「お母様がご存じならば良いのです。……ただ、わたくしが推薦してもエドゥアルトの件が上手くいくとは限りませんよ」
「それは構いません。上手くいかないことが早めにわかれば、エドゥアルトも対応を変えることが容易になりますし、そのようにアウブにお知らせしますから」
……エーレンフェスト側はルングターゼとの縁組みを了承したわけではないのですね。
貴族院にも入学していない者達のお話なので、たとえ内密でも縁談がまとまるはずはないのですが、特にルングターゼのお話が進んでいる様子ではないことに安堵します。同時に、ダンケルフェルガーとの縁組みが受け入れられているかどうかわからないままであることに焦りが湧いてきました。
……お相手を決めるために皆が一斉に動き出す社交シーズンまでに想いを伝えて条件を得なければ間に合わないのですよね?
確かケントリプスはそのように言いました。行動を起こそうと思うと、ケントリプスの言葉や焦りがわかります。本当に時間がありません。
夕食を終え、食後のお茶を飲みながらわたくしはひたすら考えます。
……とりあえず、ヴィルフリート様を押さえ込んで条件を得るところから始めなければ!
やるべきことは一つですけれど、ヴィルフリート様は殿方です。その上、今は次期アウブでなくなっていたとしても、それまでは次期アウブとしての教育を受けてきたはずですから、女性で次期アウブとしての教育も受けていないわたくしでは勝てない可能性も高いでしょう。
……ヴィルフリート様は本物のディッターにも貴族街を守る立場で参加していたのですもの。
祝勝会で戦果を誇っていた姿を思い出しました。同時に、エーレンフェストのアウブになれなかったフェルディナンド様や、虚弱な上に女性の領主候補生であるローゼマイン様の戦いぶりも思い出します。エーレンフェストの領主候補生が強いことは一目瞭然でした。ヴィルフリート様を押さえ込むためには、わたくしも全力で取りかかる必要があるでしょう。あらゆる手段を使って勝利を手にするエーレンフェストの領主候補生に勝たなければ、条件さえ得られないのです。
……ヴィルフリート様から条件を得ることがわたくしにできるかしら?
あまりにも大変な状況に少し憂鬱な気分になりましたが、戦う場所や時刻、戦術の見極めなど、できる限り自分に優位な状況を作って勝利の可能性を上げるしかありません。
……求婚しようと思えば側近が邪魔になりますね。
ヴィルフリート様を押さえ込もうとすれば、わたくしの側近もヴィルフリート様の側近も当然のことながら止めようとするでしょう。彼等全てを相手にして勝利するのは不可能です。側近が必ずついて回る領主候補生ではとてもお相手の方から条件を得られると思えません。先達はどのようにしてこの問題を解決したのでしょうか。
……わたくしが知っている領主候補生の先達はマグダレーナ様だけなのですけれど、一体どのようにしてトラオクヴァール様から条件を得たのかしら?
マグダレーナ様が求婚した当時はダンケルフェルガーの領主候補生で、トラオクヴァール様は政変中の王族でした。今以上に警戒した護衛騎士達に周囲を守られていたはずです。一体どのようにしてトラオクヴァール様から条件を得ることができたのでしょうか。
……それがわかれば、わたくしも突破口が開けるのですけれど……。
「ハンネローレ様、お茶を飲み終わったのでしたらお部屋へ戻りませんか?」
「……そうですね」
コルドゥラの声にハッとしたわたくしは、空になっているカップを置いて立ち上がりました。
「あの、ハンネローレ様。何だか戦いに赴くような面持ちになっていらっしゃいますけれど……」
「そうかしら?」
その指摘に首を傾げつつ、わたくしは意識的に体の緊張を解きました。側近達に警戒させることは得策ではありません。せめて、ヴィルフリート様のお気持ちを確認するまでは周囲に知られるわけにはいかないのです。
……わたくしの側近達が協力的であれば、かなり楽になるのですけれど……。
嫁盗りディッターの後で居心地の悪い思いをしていたわたくしですが、当然側近達もわたくしのせいで嫌な思いをしたことがあります。主の評判に傷を付けた、とヴィルフリート様に対して怒っていた側近も多かったのです。
ダンケルフェルガーに留まるようにアウブが言い、婚約者候補が定められ、オルトヴィーン様の求婚やコリンツダウムの動向に神経を尖らせているコルドゥラに「ヴィルフリート様に求婚して条件を得たい」とは言えません。コルドゥラが望むのは、父親の定めに従って婚姻し、領地に貢献する領主候補生です。
……わたくし、自分の力で何とかしなければならないのですね。
当時、父親から内々に縁談のお話をされていたマグダレーナ様も今のわたくしと同じ状況だったでしょう。父親の言うままに婚姻するのが正しいのです。敢えて、親の示す道から外れようとすれば周囲はそれを止めようとします。自分だけの力で状況をひっくり返すしかありません。ヴィルフリート様に嫁ぎたいならば、負けるわけにはいかないのです。
考えても良案が出ないまま、朝になりました。今日は水の日です。朝食を終えて講義へ向かうために玄関ホールへ向かうと、たくさんの学生達がいる中で、淡い緑の髪と明るいオレンジの髪が並んで扉近くにいるのが見えました。ケントリプスとラザンタルクです。二人のエスコートで講義へ行くことになっているので、わたくしはそちらへ向かって足を進めました。
「ハンネローレ様、何やらずいぶんと考え込んでいらっしゃるようですね」
「考え込んでいるようには見えませんが、元気がないのであれば朝食が足りなかったのではありませんか?」
手を差し出した二人を交互に見て、わたくしは図星だったケントリプスには何も答えず、女性に対して失礼なことを言うラザンタルクを睨みます。
「朝食が足りなかったのはラザンタルクではなくて?」
「えぇ、全く足りません。最近は食べても、食べても、すぐにお腹が空く気がします。貴族院にいるので、普段より訓練の量は少ないのですが……」
「どれだけ作っても足りないだなんて、料理人達が嘆きますよ」
「それで、ハンネローレ様……。えーと、あ、いえ、教室へ向かいましょう」
二人に手を取られてわたくしは講義に向かいます。何か言いたそうにそわそわとしていたラザンタルクが意を決したようにわたくしを見ました。
「ハンネローレ様、次の土の日ですが、予定は空いていらっしゃいますか? 昨日は友人達が東屋に行ったそうです。雪の中にシュルーメの花が咲いていたそうです。できれば、私もハンネローレ様と見たいと思いまして……」
東屋への誘いを受けて、わたくしは思わず目を見張りました。ずっと考えていた問題の答えが出たのです。
……あぁ、時の女神の東屋でしたら……。
貴族院の学生達が逢瀬の時に使用する東屋ならば護衛騎士達を外せます。意中の相手をそこの場に誘うことができれば求婚の勝率は上昇します。ただ、東屋へ向かうこと自体が恋愛関係にあることを周知するようなものです。どのようにしてお誘いすれば良いのか、新たな問題が持ち上がりました。
……困りましたね。
「今年は正当なツェントが就任したからか、去年に比べて花畑の範囲がずいぶんと広がっていて、使える東屋の数が増えたそうです。いかがでしょう?」
「ラザンタルク、意気込みはわかったが、もう少し人が少ないところで誘え。ハンネローレ様が固まっているぞ」
ケントリプスの言葉にわたくしは目を瞬かせました。周囲の側近達も困ったような苦笑しているような微妙な表情になっています。コルドゥラが少し呆れた顔になりました。
「ラザンタルク。ケントリプスも一緒にいる状態で姫様にお受けすることができると思うのですか?」
「う……。ですが、ケントリプスはすでにハンネローレ様と二人だけで過ごす時間を与えられているではありませんか」
「寮の中の会議室と東屋では全く違うでしょう。……姫様、ラザンタルクの言い分にも一理あります。ケントリプスを婚約者と決めていないならばラザンタルクと公平に扱うべきです」
ラザンタルクのために時間を取るように言われ、わたくしは少し考えます。
「ケントリプスとの話は突発的に起こったことを利用されましたが、本来は面会予約を取ることですもの。三日後の夕食の後できちんと時間を取るのでいかが?」
「恐れ入ります」
ラザンタルクが嬉しそうに笑う後ろで、ケントリプスがそっと溜息を吐きました。ケントリプスにはまだ優柔不断で自分の気持ちを定められない呑気なお姫様だと思われているのでしょう。
講義の時間は側近達が教室にいないので、ヴィルフリート様とお話ができる絶好の機会です。わたくしは教室内を見回し、側近の隙を突いたオルトヴィーン様に告白されたことを思い出しました。
……東屋まで移動しなくても、講義の後にお話の時間を取っていただくことができれば意外と簡単に二人きりになれるのではないでしょうか。
自室で一人悩んでいた時には思い至らなかった環境が自分の周りにありました。もしかすると今日のわたくしには時の女神ドレッファングーアの御加護があるのかもしれません。何だか少し心が軽くなってきます。
……時の女神ドレッファングーアに祈りを捧げましょう!
まずは、エーレンフェストの内情を調べ、講義の後にヴィルフリート様にお時間を取っていただけるようにお願いしなければなりません。
……エーレンフェストの方針が変わっていなければ、求婚しても意味がありませんもの。
エーレンフェストに大領地の妻は不要だとアウブ・エーレンフェストがおっしゃったのはそれほど昔のことではありません。教室に入ったわたくしはヴィルフリート様のところへ向かいました。
「ヴィルフリート様、エーレンフェストの貴族の婚姻におけるアウブの方針について話を伺いたいのですけれど、少しお時間をいただいてよろしいですか?」
「どのようなお話でしょう?」
教室でする話ではないと打ち切ることなく、会話を進めようとしてくれるヴィルフリート様に感謝し、わたくしは口を開きます。
「ダンケルフェルガーの貴族がエーレンフェストと縁談を望んでいることについてなのです。こちらとしては社交シーズンまでにエーレンフェストの意見を知りたいと思っています。実は、昨日のお茶会でエーレンフェストの事情も伺おうと思ったのですけれど、ローゼマイン様はアウブ・アレキサンドリアで他領の者になったから、とおっしゃって……」
「あぁ、確かにそうですね」
そう言った後、ヴィルフリート様が何かを思い出したように少し笑いました。
「どうかなさいまして?」
「叔父上がアーレンスバッハへ行った時は、ローゼマイン様が考えなしにエーレンフェストの事情を流していたことに注意したものですが、今は立場を弁えているのだと思ったのです」
ヴィルフリート様はそう言った後、少し考える素振りを見せてわたくしを見ました。
「領地間の婚姻に関するお話は少し込み入りそうなので、できれば講義の後でお時間をいただけませんか?」
ヴィルフリート様が深緑の目を輝かせ、何だか少し楽しそうにそう言いました。まさかヴィルフリート様の方からお誘いを受けるとは思わなかったわたくしは、ドレッファングーアに祈りながら申し出を受けます。
「わたくしは構いませんけれど……」
「講義が始まった時に話をしているとアナスタージウス先生に叱られるではありませんか」
「確かにそうですね」
ふふっと笑い合っていると、オルトヴィーン様が教室に入ってきました。わたくしとの話を終えたヴィルフリート様が軽く手を振りました。オルトヴィーン様がこちらへ歩を進めます。
「おはようございます、ヴィルフリート、ハンネローレ様」
「おはようございます、オルトヴィーン様」
「昨日はローゼマイン様とお茶会だったそうですね。アレキサンドリアの様子はいかがでした?」
「ローゼマイン様はフェルディナンド様に支えられて復興を頑張っているようです。詳しいことはお話しできませんから、わたくしは自席へ戻りますね」
父親の定めた婚約者候補がいる以上、想いを寄せてくださったことが嬉しくてもオルトヴィーン様のお気持ちを受け入れるつもりがないならば余計な接触は持つべきではありません。わたくしは挨拶を済ませると二人から離れました。
「オルトヴィーン、ちょっと耳を貸してくれ」
何やら楽しそうな声が背後から聞こえてきます。屈託なく仲良くできる様子を何とも羨ましく思っているうちに講義が始まりました。
「はい? 今から東屋へ行くのですか?……領主候補生が、三人で?」
講義の後に東屋へ場所を変えて話をすることになったと伝えると、側近達は揃って驚きの顔になりました。驚くでしょう。わたくしも驚いています。どうしてヴィルフリート様とオルトヴィーン様とわたくしの三人で東屋へ向かうことになったのか、まだ理解できていません。
「社交が始まる前に話をする必要があるのだ。男女二人きりで東屋を訪れればいらぬ誤解もされるかもしれぬが、三人であればハンネローレ様の評判にも問題あるまい」
「ヴィルフリート様、お話をするだけでしたら、このように急に決めずにお茶会の日程を打ち合わせれば良いではありませんか」
側近達の言葉をヴィルフリート様は笑顔で却下しました。
「お茶会室はダメだ。今ならば東屋からシュルーメの花が見えるらしい。私はまだ見たことがないのだ」
ヴィルフリート様の側近達が揃って呆れたような顔になりました。
「姫様は了承したのですか?」
「ルイポルトの意見を聞いて、ダンケルフェルガーの貴族の輿入れについてエーレンフェストの意見を伺いたいと言い出したわたくしがそもそもの発端なのです。でも、講義の後でお時間を取ってくださるとおっしゃったので、教室でお話をするのだとばかり……」
他領の者がいる場であまり大っぴらには止められないせいでしょう。コルドゥラが叱りたいのを呑み込んだような顔でわたくしを見ました。これは寮へ戻ったらお説教確実です。
……そのような怖い顔をしないでくださいませ。オルトヴィーン様が同席するなんて、わたくしにとっても計算外なのです。
「ヴィルフリート様、オルトヴィーン様。婚約者候補である私が東屋へ同席をお許しください。それが許されないのであれば、後日、改めて場を準備させていただきます」
「ケントリプス……」
「男女が二人で向かうと恋仲を誤解されるような場所に、ハンネローレ様を向かわせることはできません」
ヴィルフリート様とオルトヴィーン様は顔を見合わせ、コクリと頷きました。
「ハンネローレ様の名誉のためならば仕方があるまい」
わたくし、ヴィルフリート様、オルトヴィーン様の三人はそれぞれの側近達を引き連れて東屋へ向かって歩き出しました。
「ハンネローレ様、講義の後にお時間をくださったことを感謝しています」
「いいえ。元々はわたくしが質問したのですもの。わたくしこそヴィルフリート様に感謝しております」
「ドレヴァンヒェルとしても、ダンケルフェルガーやエーレンフェストの方針についてはなるべく早く知りたいと思っていたのです。助かります」
わたくしはエスコートしながら無言で隣を歩くケントリプスをちらりと見上げました。ケントリプスがそっとわたくしの手のひらに丸みを帯びた物を滑り込ませました。
「私がオルトヴィーン様を押さえます。ハンネローレ様はヴィルフリート様に専念してください」
予想外の言葉にわたくしは視線だけでヴィルフリート様とオルトヴィーン様を見ました。二人がケントリプスの言葉に気付いていないということは、手に握らされた物は盗聴防止の魔術具でしょう。
「……何のお話かわかりませんけれど……」
「夕食後も今朝もディッターに挑む騎士のような目をしていた方が何をおっしゃるのです?」
知らぬ振りをしてみてもケントリプスに通じなかったようです。
「……ケントリプス、わたくし、わかりやすかったですか?」
「いいえ。わかりやすければ、コルドゥラが力ずくで寮へ連れ帰ったでしょう」
どうやらケントリプスは周囲には知らせないまま、協力をしてくれるつもりのようです。ケントリプスにとっては非常に危険性が高い行為です。どうしてこのようなことをしてくれるのかわかりません。
……何故?
そう問いたくなりましたが、わたくしは問いを呑み込みました。今重要なのは、ケントリプスに問いかけることではないのです。ヴィルフリート様に求婚できそうな唯一の機会を逃さないようにすることでしょう。一人で何とかしなければならないと思っていましたが、協力してくれる者がいるのです。それだけでとても心強く感じられました。
「心強いです。ケントリプス、オルトヴィーン様をお願いします」
「オルトヴィーン様の求愛を退けることになりますが、よろしいのですか?」
「求愛は嬉しかったですし、傷つけたくないとは思いましたけれど、わたくし、ヴィルフリート様に求婚できる数少ない機会を逃すことはできないのです」
「全力で補佐します」
そう言ったケントリプスがわたくしの手から魔術具を取り除きます。文官棟を抜けるようにして外へ出ると、周囲から雪が全く見えなくなりました。薬草園が広がり、その向こうには花畑まで広がっています。その中にいくつもの東屋が見え、東屋へ続く道が白い石でできていました。
「シュルーメの花が見えるのはどこの東屋だ?」
ヴィルフリート様が首を傾げてそう言いました。無理もないでしょう。貴族院には東屋がいくつもあります。ローゼマイン様によると、貴族院ははるか昔王族が住んでいた聖地だったそうです。広い庭があり、何らかの催しの際には休憩場所として使われたに違いありません。
「わたくし、シュルーメの花も目にしたことがありません」
いくつかある東屋のどれが一番シュルーメの花を見られる場所か、すぐにはわからないと思っていると、ケントリプスとオルトヴィーン様が「こちらです」と一つの東屋を示しました。
「ケントリプスは知っているのですか?」
「ラザンタルクがハンネローレ様をお連れしたいと言っていた東屋ですよ。朝、ラザンタルクを止めた手前、私がハンネローレ様とここにいる状況は少々気まずく思います」
「……ラザンタルク、怒るでしょうね」
雪の中の貴族院で、そこだけ春の彩りが見える不思議な庭にある白い東屋へ入ると、側近達は東屋の周囲に立ちました。
「あれがシュルーメの花ですよ、ハンネローレ様」
オルトヴィーン様がそう言って一つの花を指差しました。細い花びらがたくさんついた赤い花で、わたくしの手のひらほどの大きさです。十から二十くらいの花が固まって咲いています。
「この辺りは去年までは雪に埋もれていた場所で、今年初めて見ることができた花です。ドレヴァンヒェルの北西に群生していて、下級騎士の痛み止めにも使われます。雪がなくなると咲く花なのでフリュートレーネに救い出されたゲドゥルリーヒというお話があるほどです」
「とても美しい赤ですもの。ゲドゥルリーヒと言われても納得できます」
オルトヴィーン様のお話を聞きながらシュルーメの花を眺めていると、ケントリプスが軽く息を吐いてわたくしの手を取りました。
「シュルーメの花を見たのでしたらハンネローレ様はこちらへ。側近達をこれ以上困らせないように、お話を早く終わらせましょう。オルトヴィーン様はこちらにお願いします」
ケントリプスはわたくしを座らせると、オルトヴィーン様を一番離れた席に案内しました。ヴィルフリート様が不満そうに眉を寄せます。
「何故其方が席を決めるのだ?」
「婚約者候補がいることを知りながらハンネローレ様に求愛した方を近付けることはできません」
ケントリプスに反論されたヴィルフリート様は少し不満そうにわたくしの隣に座りました。上級貴族が差し出がましいことを口にしていると思っていらっしゃるのでしょう。
ケントリプスがちらりとわたくしを見ました。わたくしがヴィルフリート様を押さえ込み、ケントリプスがオルトヴィーン様を抑えるために都合の良い場所になっています。
……座ったままでは無理ですね。少し腰を浮かして体を捻り……。
隣とはいっても少し距離が離れています。どのように動けばヴィルフリート様を逃がさずに押さえ込むことができるのか、目測で距離を測り、頭の中で効率の良い動き方を考えていると、オルトヴィーン様が盗聴防止の魔術具をわたくしとヴィルフリート様に差し出しました。
「ハンネローレ様の名誉のため、東屋に入ることは許したが、話は領主候補生で行うことだ。それは呑み込んでほしい」
ケントリプスが了承したのでわたくしは盗聴防止の魔術具を手に取り、朝の会話を始めます。
「ダンケルフェルガーの貴族がエーレンフェストとの婚姻を希望し、ヴィルフリート様やシャルロッテ様からご紹介をいただきたいそうです。でも、以前お話をした限りでは、アウブ・エーレンフェストは大領地との縁談をお望みではなかったでしょう?」
「そうなのか? ドレヴァンヒェルにもエーレンフェストの貴族に興味を持っている者は何人かいるのだが……」
わたくしの質問に、オルトヴィーン様が興味深そうにヴィルフリート様を見ました。大領地という括りになればドレヴァンヒェルも同じです。
「エーレンフェストの方針によっては、わたくし、領主候補生として彼等に説明し、ご迷惑をかけないように立ち回るつもりです。ですから、教えてくださいませ」
「恐れ入ります。アレキサンドリアとの関係上、エーレンフェストは上位領地の振る舞いを覚えていかなければならなくなりました。ツェントとの約束によりエーレンフェストから貴族を出すことはできませんが、ダンケルフェルガーを始めとした上位領地の輿入れをアウブ・エーレンフェストは歓迎するつもりです」
ヴィルフリート様は笑顔でそう言いました。やはりアレキサンドリアの誕生によってアウブ・エーレンフェストは方針を変えざるを得なかったようです。エーレンフェストが上位領地との関係を望み、ダンケルフェルガーがエーレンフェストとの繋がりを必要としているならば、わたくしは求婚によって利を配ることができるでしょう。
「そうですか。では……」
わたくしは少し腰を浮かせ、できるだけ素早い動きでヴィルフリート様に体重をかけてのしかかり、反撃されないように押さえ込みます。驚きに大きく見張られた深緑の目が間近にありました。
「わたくし、ヴィルフリート様の光の女神になりたいと思っています。わたくしに求婚の条件をくださいませ」
求婚に向かって暴走を始めたハンネローレ。
ヴィルフリートと二人きりになるはずが何故か四人で東屋へ行くことに。
シミュレーション通りにヴィルフリートを押さえ込むことには成功しました。
次は、ヴィルフリートの返答です。