4-33 帰国
シオン冥王国の王城、玉座の間にて人々が集まっていた。
中心人物は言うまでもなく冥王ドレッド・オーバーロード。そしてその左右を将軍と側近が固めている。
彼らの視線は今、ドレッドの前に跪く3人に向けられていた。
ロディアス天守国の英雄ジェイク・マックス、ブリアンダ光国の『光の剣士』マリア・ロイヤル、そしてテュール律国の『天才軍師』エンデバー・フライヤーである。
(なんで俺が!?)
他の2人よりも格の落ちるエンデバーが、自分が呼ばれた理由が分からないと心の中で疑問の声を上げた。それ以前に、この3人であることも不可解である。
政治に関する事ならば、もっと相応しい人物が各国にはおり、この場にはその者が出席するべきだと思えたのだ。
自分達は言うなれば戦闘専門。もしやすでに新たな戦争を計画しているのかと、エンデバーは玉座に座る冥王の表情を窺う。
初めて間近で見たが、噂通りの『不老』っぷりであった。これで傍に立つ老人と同じ年齢だと言うのだから驚きである。
「3人とも、よく来てくれた」
外見から伝わる若さそのままの、精悍な声がドレッドから発せられた。親しみすら込められたそれに、3人も自然と近しい感情を覚える。
「滅相も御座いませんッ!冥王様の御命令とあれば、いつ如何なる時でも馳せ参じまするッ!!」
その中でも特に大きな反応を見せたのがジェイクだ。
わずか数日前、殺意を持って大剣を振り下ろし、返り討ちに遭った相手に対する態度としては少しばかり異常であった。いくら宗主国の王とは言っても、心変わりを見せる時期としては早過ぎる。
無論、天守国の象徴である天子を丁重に扱ったのが要因の1つであるだろう。一時は天子の住処である悠久御殿を包囲してみせたが、最終的には何事もなく解放したのだ。
それでも、敗北に加えて従属という屈辱を受け入れるにはまだ足りない。その点をドレッドは重々承知しており、ゆえに次なる一手を即座に実行していた。
それこそが、各国における裏切り者の処刑である。
彼は戦争を有利に進めるため、敵国の人間を何人も自軍に引き入れていた。政府高官、貴族、果ては天子の血族までもが、母国を裏切り冥王国に加担したのだ。
裏切られた者達にしてみれば、彼らは紛うことなき敵である。そして始めから敵だった者よりも、裏切って敵になった者に対する憎しみの方が得てして強く、敗戦国の怒りの矛先はまず彼らに向いた。
それに関しては全てドレッドの予測通りであり、敗戦国の留飲を下げるための生贄として裏切り者達を処刑している。つまり、冥王国が背負うべき負の遺産を、その者達に肩代わりしてもらったという事であった。
特に天子に背いた者を罰した効果は大きく、天守国民の多くが簡単に冥王国を受け入れている。
余談だが、2人いる天子の兄を処刑した時などは「冥王、万歳ッ!!」の声が響いたのだとか。
戦時中だけでなく、戦後のことも見据えて動く。あまりの用意周到ぶりに、ドレッドの思惑に気付いた者達は誰もが戦慄していた。
だがその一方で、冥王国に対して恨みを抱き続ける者も残ってはいる。ここしばらくはその者達による抵抗が予測され、ドレッドは対策を講じる必要に迫られていた。
とは言っても今回はそれとは別件の集いであり、冥王たる彼の口調も穏やかなものである。
「そう気を張るな、ジェイク。別に大した理由があってお前達を呼んだわけではない」
「む!それは・・・申し訳ありませぬ・・・!」
「まあだが、元気そうで何よりだ。俺が刺した傷も、大分良くなったようだな?」
「はッ!完治とはなりませぬが、動くのに支障はありませぬッ!」
「加えて、話すのにも問題はないようだ。あの時は息も絶え絶えだったからな」
「むむ・・・!これは手厳しい・・・!」
などと言い合い、2人は笑い声を上げた。
その会話を隣で聞きながら、エンデバーは唖然とする。
今、彼らは自分達が殺し合ったことを楽し気に話していたのだ。死闘の末の友情と言えなくもないが、青年の目には不自然に映る。
しかし似た物同士である事を自覚している2人にとって、それは必然の和解。互いが浮かべる笑顔も、打算や思惑とは無縁のものであった。
「あの・・・それで、ボク達はどうして呼ばれたんでしょうか?」
そのような状況下で、マリアが本題を催促する。それもまた勇気のある行動であり、エンデバーは思わず少女の横顔に視線を移した。
この場で委縮しているは自分だけなのかと、人知れず小物感を覚えてしまう。
「ああ、そうだな。用件を伝えるとしよう。まず聞くが、お前達はグレンという男を知っているな?」
その質問は意外なものであり、答えを返すよりも先に3人は疑問を抱いた。何故そんなことを、と頭の上に疑問符が浮かんでしまうが、とりあえず頷きを返しておく。
「あいつについて詳しく知りたい。何か情報を持っていないか?」
それを聞きたいがために自分達を呼び付けたのだと理解でき、困惑した3人は互いに顔を見合わせた。あの時に見せた彼の実力を思えば興味を引かれるのも分かるが、尋ねる相手を間違えているように思える。
その人物は最終決戦後、同伴者である老人と共にいつの間にか行方をくらませてしまったのだ。別れの挨拶もなく、どこに行ったのかも分からない。
「あのー・・・それを何で俺達に・・・?」
他の2人に負けじと、恐る恐るといった感じにエンデバーが聞いた。ドレッドが知りたいのはグレンの素性であり、それならば本人に聞く以外ないのでは、という意味である。
「直接問い質しても答えなかったからだ。エルフ共にも聞いてみたが、口止めされているようだったからな。お前達はあいつと少なからず交流があったんだろう?何か、あいつの祖国や正体について聞かされたことはないか?なんでもいい」
「いや・・・俺は特に・・・」
そう言って、エンデバーは自分に情報がないことを告げる。これといって込み入った話をしたわけではないため、グレンについて知っている事はあまりなかった。
「う~~む・・・・吾輩は確か・・・グレン殿の祖国の名を聞いたはずなのでありますが・・・」
代わって、ジェイクが唸るように報告する。彼は確かにグレンからその話を聞いており、国がある方角まで教えられていた。
けれども簡単に流した話題である事と、時間が経っていることもあり記憶には残っていない。
「思い出せんか?」
「申し訳ありませぬ・・・」
「そうか。――ならばマリア、お前はどうだ?」
ジェイクも力にはならず、ドレッドは最後の1人であるマリアに話を伺う。視線を移すと少女は困ったような顔をしており、答えを聞かずとも知らないことは明らかであった。
「ボクも、あの人についてはそれ程・・・。一緒にいたお爺さんについてだったら、少しお話を聞きましたけど・・・」
「一緒にいた老人?もしや『黄金の拳士』のことか?」
「え・・・?誰ですか?」
『黄金の拳士』という呼び名に覚えがなく、マリアは疑問を返す。かと言ってドレッドも本名を知っているわけではないため、どのように説明しようかと思い悩んだ。
「あの時お前さんを逃がすために残った奴のことじゃよ、マリア」
そこで、見かねたアレスターが手助けをする。年老いた顔に更なる皺を刻んで微笑んでおり、そこからは少女への親しみを感じられた。
それに応えるようにマリアも照れくさそうに笑い、まるで祖父と孫のようなやり取りを見せる。
「なんだ、お前達。随分と仲が良いじゃないか」
「え?そ、そうですか?」
「お前に扱き使われたからのう。役得というものじゃよ」
そう言って、アレスターは小さく笑った。
「ふん・・・まあいい。それで、その者は何と言っていたんだ?」
「確か、自分は一国の君主に仕える執事だって言ってました。それも女性の」
「なに?という事は、グレンの国は女王が統べているのか」
ドレッドのこの考えは、グレンとヴァルジの出身国が同じだという勘違いから生まれたものである。同行していたのだから不自然な発想ではなく、誰も否定はしなかった。
「そういった国は多くない。いいぞ、これで大分絞れた」
ドレッドは自分が掴んでいる他国の情報を思い出し、それを候補として記憶しておく。童心に返ったと言うのだろうか、まるで宝探しをしているかのような感覚に、自然と気分を良くしていた。
しかしその中に正解はなく、また正解に近づくための手掛かりもないため、遠回りになるのは確実だろう。
「マリア、そいつは他に何か言っていたか?」
「いえ・・・特には・・・。ボクが覚えていないだけかもしれませんけど・・・」
「・・・そうか」
結論として、わざわざ呼び付けたにも関わらず、3人からは決定的な情報を何も聞き出せなかった。その事に少しばかり落胆したドレッドであったが、責める相手はいないと話を終わらせる。
「分かった。お前達の協力に感謝しよう」
「あまりお役に立てず、申し訳ないのであります・・・」
ドレッドからの言葉に、3人の中で最年長者であるジェイクが率先して頭を下げる。それに倣って他の2人も一礼すると、冥王は応えるように軽く微笑んだ。
「もう用はないんだが、このまま帰っては足を運んだ甲斐がないだろう。お前達にはこれから、ここにいる連中と共に働いてもらう予定だ。滞りなく連携が取れるよう、親睦を深めていくといい」
そして、そのような事を言ってくる。これは予想だにしない展開になったと、3人とも驚いた表情をしながら顔を上げた。
同時にドレッドの両隣に並ぶ将軍達に視線が移り、彼らの姿を失礼と思われない程度に軽く観察する。最初に見た時から思っていた事だが、個性的な者から没個性的な者まで、様々な雰囲気を漂わせた人材で構成されていた。
彼らは『1人1人が英雄級』と評される程の実力を有しているとの事で、冥王国の戦力層の厚さを実感できる。そのような者達とどうやって仲良くなればいいのか、非常に社交的なジェイクを除き、マリアとエンデバーは少しばかり気後れしていた。
「それでは各自解散してくれ。――ああ、アレスターとロキは残れよ。話がある」
とりあえず言われた通りにするしかないと、3人は立ち上がった。
すると突然、将軍達の中から1人の女性が歩み寄ってくる。その者は鋭い眼差しをマリアに向けており、それに気付いた少女は何事かと狼狽えた。
けれども逃げるわけにはいかず、緊張しながらも待ち構える。そして目の前にまで来た女性は、急停止するとマリアの顔をじっと睨み付けた。
「お前が『光の剣士』だな?」
美しい顔立ちとは裏腹に、目付き同様のきつい言葉遣いで話し掛けられる。それに怯んだマリアであったが、小さな声で「は、はい・・・」と返事をした。
それに応えることなく、女性は少女の顔を観察し続ける。何も出来ないマリアは体を強張らせ、じっとその視線に耐えるしかなかった。
しかし程なくして、ふいに女性の表情が――若干ではあったが――柔らかくなる。
「ふーん・・・・・・可愛いじゃねえか」
ぼそっと呟かれた言葉は、意外にもマリアの容姿に対する賛辞であった。いきなりの出来事であったが褒められると嬉しいもので、少女は反射的に笑みを作る。
「あ、ありがとうございます・・・」
「駄目だよ、セレちゃん。マリアちゃんが困ってるよ」
そう言って、また別の女性が会話に加わってくる。最初に話し掛けてきた女性と比べて優しそうな印象を受けるが、それはどちらかと言えば些末事であった。
マリアの視線は当たり前のように、その女性の大きく露出した胸に釘付けになる。例え同性であったとしても見入ってしまうくらいには豊満であり、眼前にまで来るとその迫力はさらに増した。
ドレッドと話をしている時から認識していた事だったとしても、その魅力には抗い難く、隣に立っているエンデバーなどはだらしなく鼻の下を伸ばしている。
「ごめんね、マリアちゃん。突然でびっくりしたよね?」
「え・・・!?あ!いや!確かに、ちょっと大き過ぎるなとは思いましたけど・・・!」
「うん?なんのこと?」
「な、なんでもありません!こっちの話です!」
必死に誤魔化そうと、マリアは勢いよく頭を振った。それをどう思ったのかは分からないが、女性からは笑い声が聞こえてくる。
「ふふふ、可笑しなマリアちゃん」
「おい、ファディア。私がマリアを困らせてるとはどういう事だよ?」
そんな彼女に対し、最初に話し掛けてきた女性――セレが文句を言った。
「だってセレちゃん、自己紹介もまだでしょ?それなのにいきなり『可愛い』だなんて。私の時にも忠告したけど、そういうのはもう少し仲良くなってからの方がいいよ?」
「ああンッ!?可愛いと思った奴に『可愛い』っつって何が悪いんだよッ!?」
まるで喧嘩を始めそうな程の恫喝であったが、それが普通なのか、相手の女性――ファディアは平然としていた。慌てるマリアに対して、これまでと変わらぬ笑みを向けてくる。
「セレちゃんはね、可愛いものが大好きなの。部屋なんて凄いんだよ。ヌイグルミで一杯なんだから」
「へ、へぇ~・・・」
言動からは想像できない趣味があるものだと、マリアは戸惑いしか返せない。けれども、セレという女性の人となりが少しだけ分かったような気がした。
「おい、ファディア!なんでお前が私の紹介をしてンだよッ!」
「えー、別にいいでしょ?知らない仲じゃないんだし」
「勝手にすんなっつってンだよッ!」
「それじゃあ今度はセレちゃんが私の紹介をしてよ。それでおあいこでしょ?」
「お前の紹介なんて簡単だろうがッ!見ての通りの『デカ乳女』ッ!それ以外に何があんだッ!」
「ええー!ひっどーーい!!」
と、ファディアは抗議したが、それにはマリアも納得した。一挙手一投足に連動して揺れるそれは、彼女を表す最も特徴的な部位と言えるだろう。
(何をどうしたら・・・こんなになるんだろう・・・・)
気付けば両手を伸ばしそうになっている自分がおり、マリアは間一髪の所で我に返った。そしてその手をファディアが掴んできたため、少女はびくっと肩を震わせる。
「わわ!すいませ――!」
「もう、そんなことないよ!――ね、マリアちゃん?」
しかし怒っているとかではないようで、知らぬ間に進んでいた会話の結果、ファディアが何かに対して同意を求めてきた。話を聞いていなかっため答えようがないのだが、少女はとりあえず無言で頷いておく。
「ほらー!私とマリアちゃんは仲良しになれるの!ファディアとマリアで響きだって似てるでしょ!?」
「どういう理屈だ、てめえッ!そんなんだったらワジヤさんだってそうだろうがッ!!」
言い返すためにセレが持ち出した名前は、将軍の1人である男のものである。声が大きいため彼にも会話は聞こえており、部屋を去ろうとしていた途中で振り返っていた。
「あ、ほんとだー!今まで全然気付かなかった!――ワジヤさーーん!お揃いですねー!」
離れたワジヤにファディアが手を振ると、彼は困ったように苦笑いを浮かべながら会釈をする。彼女を含む『第一黄金世代』と、それ以前に将軍となった者では性格に大きな差があり、一方的な苦手意識を持たれてしまっているのだ。
不仲ではないため支障はないのだが、服装の関係もあって非常に顔を合わせ辛くしていた。ちなみに、それに気付いている者は少ない。
「これから皆でお風呂に入るんですよー!ワジヤさんもどうですかー?」
故に、このような反応に困ることを言ってくる。揶揄うためとかではなく、純粋に聞いてくるのだから余計に質が悪かった。
問われたワジヤは全力の遠慮を見せ、足早に部屋を去って行ってしまう。
「あ・・・あのー・・・・・・お風呂って・・・?」
そして、いつの間にそんな話になっていたんだと、マリアがおずおずと問い質した。おそらく自分が呆けている時に決まったのだろうが、どうしてそうなったのかが分からない。
「ほら!さっき王様が『親睦を深めるように』って言ってたでしょ?だからね、お風呂!」
「え?ちょっ・・・え?親睦を深めるのとお風呂に・・・何の関係が・・・?」
「なんだ知らねえのか。裸の付き合いってやつだよ」
率直な疑問に対しては、セレから答えが飛んでくる。そういう言葉があるのは知っているが、少しばかり段階を飛び越しているのでは、と少女は思った。
「い、いきなり過ぎじゃないですか・・・・?」
「馬ッ鹿。私達は出来るだけ早く親しくなる必要があんだよ」
「それは・・・どうしてですか・・・・?」
訳が分からないと尋ねたその時、セレの眉が吊り上がる。それは明確な怒りの意思表示であり、彼女の荒い言葉遣いに気圧されていたマリアは軽く恐怖を覚えてしまった。
その荒ぶる感情を抑えることなく、セレは憎たらし気に語ってみせる。
「ンなもん決まってんだろうがッ・・・!あの野郎をぶっ飛ばすためだよッ・・・!」
「え・・・?あの・・・野郎・・・・?」
要領を得ず、マリアは小首を傾げた。自分が怒らせたのではないと知って安心できたが、誰に対しての苛立ちなのかと疑問に思う。
「グレンって野郎のことだよッ!あいつには返さなきゃならねえ借りがあンだッ!!」
ここまでの流れから察するに、それが恩義を感じてのものでない事くらいはマリアにも分かった。グレンという人物については少ししか知らないが、恨みを持たれるような人ではなかったはずだと違和感を覚える。
「一体、グレンさんと何があったんですか?」
「セレちゃんはね、汚されちゃったの」
戦績を、という意味でファディアから説明が入る。
「え!?け、けが・・・穢された!?」
しかし言葉足らずであったために、マリアの中では誤解が生まれてしまった。
目の前にいるセレは――性格を除けば――魅力的な女性であるため、その話に信憑性を持たせてしまっている。
「いや、でも!そんなことするような人には見え――!」
なくもないな、と少女は言葉を詰まらせた。
見た目だけに関して言えば、グレンという人物はそういった欲求が強そうな男性である。温和で紳士的な性格であることも知っているが、美女を前にしてそれを保てるかどうかは疑問であった。
魔が差した、と言うのだろうか。
皆無ではない可能性に、マリアは少女として戦慄する。
「あいつだけは絶対に許さねえッ!だがな!今の私じゃ勝てないのも事実だッ!だからマリア!お前も協力しろッ!!」
「ええッ!?」
セレの言いたい事を総括すると、どうやら辱められた恨みを晴らすため、一緒に戦って欲しいとのことであった。
その話が事実ならば手を貸すのもやぶさかではないが、未だ半信半疑であるマリアは答えを決めあぐねる。それを見て取ったセレは、決意を促すように拳を打ち合わせた。
「私とファディア!そして『光の剣士』であるお前ッ!この3人であのクソ野郎をぶっ殺すンだよッッ!!」
「そのためには仲良しにならなくちゃでしょ?だから、お風呂で洗いっこしよ」
「洗いっこ!?」
補うように語られたファディアの言葉を聞き、マリアの顔が赤くなる。一緒に風呂に入るくらいならば許容できるが、洗ったり洗われたりは抵抗があった。
その反応を受け、セレは少し残念そうにする。
「なんだよ・・・?なんか文句でもあンのか?」
「文句・・・という程ではないですけど・・・流石にちょっと・・・」
「大丈夫、大丈夫。セレちゃんは洗うのがとっても上手いんだよ?」
「いや、そういう問題では――」
「マリアちゃん、声出しちゃうかも」
「ええ!?」
一体どんな洗い方を、とマリアは良からぬ想像をする。発言からファディアがそれを経験済みなのは理解でき、2人の関係にも変な勘繰りをしてしまった。
まだ部屋に人が――と言うよりも、主君がいるのにも関わらずこのような会話を繰り広げているあたり、その点については意外と周知されている事柄なのかもしれない。
だからと言って、乗り気になれるかどうかは別の話である。
「できれば・・・遠慮したいんですけど・・・・」
控えめに、けれども確かな言葉で拒否を示した。
それが意外にも予想外だったようで、セレとファディアは少しだけ寂しそうな表情を見せる。おそらく自分よりも年上であろう2人の落ち込み様に、マリアの胸はちくりと痛んだ。
「あ!で、でも!一緒にお風呂には入りますよ!?」
そのためすぐにそう付け加えると、セレとファディアはたちまち笑顔になった。彼女達の反応を見て「子供っぽい」と思うのは、決して間違いではないし失礼でもないだろう。
「よっしゃッ!だったら早速行くとするぜッ!」
「このお城にはね、将軍専用のお風呂があるんだよー」
「そ、そうなんですか」
豪華だな、と思いながら、マリアは将軍2人に引き連れられ、玉座の間を後にする。
そして静かになった部屋の中、彼女達の会話を聞いていたエンデバーは扉をじっと見つめ続けていた。
(マリアちゃんと・・・お姉さん達が一緒にお風呂・・・)
美少女1人と美人2人、それらが一糸まとわぬ姿で集うのだと言う。それは妄想を膨らませるのには十分な情報であり、青年の心は無意味に高まっていた。
「君がエンデバー君だね」
その時、彼の肩に誰かが触れる。驚いて顔を向けると、長身痩躯な男性が微笑みかけてきていた。
「え、あ、はい!そうです!えっと・・・そちらは?」
「小生はカシューンと言う。どうだい、エンデバー君?小生達も親睦を深めるため、共に同じ湯船につかろうではないか」
「え゛・・・?」
いきなりな提案に、エンデバーはかなりの嫌悪感を含んだ返事をする。女性陣のやり取りを見て思い付いたのだろうが、男同士となると素直に喜べなかった。
先の戦争における母国の被害が大きいこともあって、完全に冥王国を受け入れられているわけでもないのだ。
あまり良い絵面も想像できず、エンデバーは苦笑いを浮かべる。
「いや・・・俺は別に――」
そう言って拒否しようとした矢先、カシューンが顔をぐいっと近付けてきた。そして青年だけに聞こえるように、ぼそりと耳打ちをする。
「男風呂は、女風呂と隣接している」
「――ッ!」
それだけで、エンデバーは全てを理解した。
彼が何を言いたいのか、何をしたいのか、そして自分が何をするべきなのかを正確に把握する。
「カシューン将軍・・・ッ!」
「理解が早くて助かる。何を隠そう、小生は今まで幾度となくその難関に挑んできた。しかし奴らは手強く、これまでにも多くの犠牲者が出てしまっている。その負の連鎖を断ち切るため、今日こそ悲願を成就させたい」
「そのために俺を・・・!?」
「エンデバー君、君が知略に富んでいるのは聞いている。小生には武力があるが、策を考えるための知恵がない。しかし今、その2つが揃った。力を合わせ、共に桃源郷を目指そうではないか」
「は・・・はい!」
巧みに直接的な表現を避けつつ、2人は同意を得たとばかりに固い握手を結ぶ。そして意気揚々と扉に向かって行くのだが、彼らが辿り着く前にそれは開き始めた。
「あ、エンデバーさん」
そこからひょこっと顔を出したのはマリアである。彼女達の後に続こうとしていた2人は、ぎょっとして動きを止めた。
「な、なんだい、マリアちゃん!?」
「?――なに驚いてるんですか?」
「驚いてなんかないよ!ですよね、カシューン将軍!?」
「う、うむ・・・!」
いつの間に仲良くなったんだろうという疑問はさておき、マリアはエンデバーに向かって剣を差し出した。それは鞘に納まった『選び、導く絶対秩序』であり、どうしたのかと不思議がる。
「すいません、エンデバーさん。これ、預かってもらっていいですか?」
「え?『選び、導く絶対秩序』を?」
「はい。危うく忘れるところだったんですけど、お風呂にピーちゃんを連れてはいけませんから」
「別にいいけど・・・。だったら適当なところに置いておけばいいんじゃない?」
「それだと誰かに盗られちゃうかもしれないじゃないですか?一応ボクの国にとっては大事な物なので、そういう事態は避けたいんです」
「う~ん・・・その心配はないと思うけど・・・」
傍に立つカシューンへの配慮を見せつつも、最終的にエンデバーは剣を受け取ることを承諾した。『選び、導く絶対秩序』を渡した少女は、礼を告げると即座に姿を消す。
「ふう・・・危ない所だったな、エンデバー君」
自分達の邪な目的を悟られずに済み、安堵したカシューンがそう呟いた。しかし応える声はなく、どうしたのかと隣に立つエンデバーに目をやる。
「カシューン将軍・・・!この剣・・・なんだか悲しんでいるような気がします・・・!」
などと、震える声で告げてきた。
ブリアンダ光国の宝剣『選び、導く絶対秩序』に意思があるのは周知の事実であるが、それは持ち主である『光の剣士』のみが知覚できるもの。
俄かには信じられないと、カシューンは確認のため剣に手を伸ばす。
「むッ!確かに・・・確かに小生にも感じられるッ!しかし、何故だ・・・?」
「俺、マリアちゃんから聞いたことがあるんですけど、『選び、導く絶対秩序』って男らしいんですよ」
「剣に性別があるのか・・・!?」
「男の人格ってことだと思います。だからこいつも、俺達と同じ事を考えていたんじゃないでしょうか?」
マリアの中に宿っていたピースメイカー。彼はあわよくば、少女達の裸を拝もうとしていたのだろう。
そのために声を押し殺し、持ち主が自分の存在を忘れて風呂に入ってくれることを期待していたのだ。
しかしそれは叶わず、すんでの所で気付かれてしまった。その悲しみは男ならば理解でき、また同情するに足る事態である。
悲痛に顔を歪めながら、カシューンは『選び、導く絶対秩序』の柄を握った。
「エンデバー君・・・今ここに第3の仲間が加わった・・・!我らは夢を叶えるため運命が巡り合わせた同志・・・!ピースメイカーの無念を晴らすため、共に戦場へと赴こう・・・ッ!」
「・・・・・・・はい!」
この時2人は、ピースメイカーから「お前らぁ・・・ッ!」と感動した声が聞こえたような気がした。
それは剣に宿った意思の声なのだろうか。聞こえるはずのない感謝に、2人は笑みを浮かべて頷き返すのであった。
「なーんか面白いことやってんなー、お前ら」
そんな茶番を繰り広げていると、何者かがカシューンの肩に腕を回してくる。エンデバーが目にしたその者は、左目に大きな傷跡のある男であった。
「ザ、ザンテツさん!?」
「よお、カシューン。風呂に行くんだって?折角だから、俺もご一緒させてくれよ」
そう言われ、カシューンとエンデバーは激しく動揺した。
急いで顔を近づけ、小さな声で会議を始める。
「ちょっとカシューンさん!この人は敵ですか!?味方ですか!?」
「敵だ!ザンテツさんは覗きのような不埒な行為を嫌う!むしろ堂々と女風呂に突撃した方が好まれるくらいだ!」
「そんなことしたら俺らが死にますって!なんとかして追い払えないですかね!?」
「無理だ!ザンテツさんは間違いなくこちらの思惑に気付いている!前大将軍は伊達ではない!」
強大な壁の出現に2人は途方に暮れる。
そんな彼らに向かって、扉を開けたザンテツは声を掛けた。
「おら、さっさと行くぞ。左腕がなくなってからというもの、体を洗うのが大変なんだ。いつもはメイドに手伝わせるんだが、今日は特別にお前らにやらせてやるよ」
なんて嬉しくない事を、とカシューンとエンデバーは苦々しい想いをする。女風呂を覗こうとしていたのに、なにが悲しくて男の体を洗わなければならないのか。
夢見た桃源郷が遠退くのを感じ、2人と1本は肩を落とした。そしてザンテツに率いられ、渋々と玉座の間を退出していく。
「・・・やっと静かになったか」
2組分の掛け合いが終わると、現大将軍であるガロウが疲労感を込めた声で呟いた。そこから彼の普段の苦労が察せられ、ジェイクは朗らかに笑う。
「戦場とは勝手が違うようであるな」
「あいつらは戦力として優れている分、余計に扱い辛い。これからはお前も、その苦労を味わうことになるだろう」
相手の親し気な態度を意外とも思わず、ガロウは言葉を返した。ジェイクは宿敵と定めた相手であったが、今となってはそれを引き摺る必要もないだろう。
「ついて来い。お前にはやってもらいたい事が山ほどある」
「言っておくであるが、吾輩は頭を使ったことは苦手なのであるよ」
それに僅かな笑いを返すと、ガロウは歩き出す。戦いを通じてお互いを知り合った者同士、多くの言葉は不要であった。
大将軍に続いてジェイクも扉を抜け、玉座の間にはドレッドとアレスター、そしてロキリックの3人が残る。
「どうやら、上手くやっていけそうだな」
これまでのやり取りを見て、ドレッドが他の2人に対してそう語り掛けた。心配はしていなかったが、それを目の前で見せられると安心できるものである。
「ガロウ大将軍はいいとして、他の者は気が抜けているだけなのでは?」
けれども厳しいロキリックが、不満気に苦言を呈した。
それに同調するように、アレスターも頷く。
「確かにのう。むしろこれからが大変だと言うに」
冥王国を含む4か国には長い戦いの歴史がある。それに終止符が打たれたのだから喜ぶべきことなのだろうが、大きすぎる変化は得てして快くない事態をも招くものだ。
当然、ドレッドもそれを理解している。
「それについて話をしようと思っていたところだ。――ロキ、不穏な動きはあるか?」
「だらけ、と申し上げさせていただきます。戦後の反乱分子としては比較的弱々しい組織ですが、すでに結託している者達を確認しました。そこに、これまでの戦争で快楽を知った干民が加わる恐れもあるかと」
「だろうな。都合の良い駒を増やし過ぎた反動か。まったく、自業自得というやつだな」
ドレッドは困ったとばかりに語ってみせるが、それを聞いた瞬間アレスターが小さく笑う。
「ドレッドよ。お前さん、悪い顔をしておるぞ」
老人の言う通り、冥王の顔には全て計画通りといった感じの笑みが見えた。
ドレッドが生み出した『干民』という地位に属する者は、戦争を除いた生活の中において一切の快楽や娯楽を許されていない。そのような苦境でも反発が起こらなかったのは、これまで絶えず戦争があったからである。
つまり終戦を迎えた今は、彼らにしてみれば最高の遊び場を奪われたに等しい状況なのだ。新たに侵攻を開始しようにも、流石に今日明日とはいかないだろう。
そのため干民達が欲求不満に陥ることが予測され、そんな彼らを利用しようと接触する者も出てくると思われた。
しかしそれは、ドレッドにしてみれば願ってもない展開なのである。
「仕方がないだろう、アレスター?干民は最下級の民ではあるが、奴隷でも犯罪者でもない。不安要素を多く抱える者達だとは言っても、簡単に始末していい連中ではないんだ。もしそのような事をすれば、他の民に俺への不信感を植え付けることになるだろう。しかしそれが自ら俺と敵対し、『殺してくれ』と挑んでくるのならば僥倖でしかない。笑みも見せるというものだ」
「お前は本当に、善人なのか悪人なのか分からんのう」
そう言って、アレスターは笑った。
隣接する3か国を取り込んだ今、冥王国には干民のような、数だけの不安定な戦力は不要である。むしろ犯罪を起こす危険分子として認識してよく、それを削減する口実ができて嬉しいとドレッドは言っているのだ。
使える者は使い、使えなくなった者は容赦なく切り捨てる。これまで一貫して彼が行ってきた事であるため、今さら異論などなかった。
「ならば、しばらく放置いたしましょうか?」
ロキリックの確認に対し、ドレッドは頷く。
「そうだな。監視は続け、程よく肥大化したところで一気に叩く。適度に干民が加わるよう、調整を怠るな」
「御意。その点については御心配なく。監視の方もミシェーラに任せれば万全でしょう」
彼女の魔法ならば情報収集など容易いため、ロキリックの意見は正しいように聞こえた。しかしドレッドは手を振り、それを否定する。
「ああ、それは駄目だ。あいつは少し休ませてやれ」
「休む?そう言えば、先程の集まりにも出席していなかったようですが」
「あいつには無理をさせていた。他国の監視をするため、睡眠時間を極力削っていたんだ。目の下の隈もひどいものだっただろう?そのせいで折角の器量好しが台無しだ。体調もここ暫くは崩しっぱなしだった。できれば休みを取らせてやりたい」
「なんと慈悲深き御言葉。ミシェーラもさぞ報われることでしょう。しかしそうなると、ミリオも同様の理由ですか?」
先程の場には全ての将軍が集まっていたわけではなかった。任務で来れなかった者もいるし、ミシェーラのように暇をもらっている者もいる。
ミリオという女性もそうだと思ったためロキリックは確認したのだが、そうではないと、ドレッドに代わってアレスターが首を横に振った。
「いや、ミリオはまた違う理由じゃよ」
「となると・・・まさか、また怠け癖を・・・!?」
彼女の性格を熟知しているロキリックが、有り得そうな事態に表情を凍らせる。今さら怒鳴りつけるような一件ではないが、将軍として相応しくないのも事実であった。
そのような臣下の心配に対して、今度はドレッドが補足をする。
「そうではない。どうやら先日の戦いの際に、ガロウの奴がミリオと約束をしたようでな。その約束通り、3日間の休暇を取っているというだけだ」
「ああ、なるほど。ガロウ大将軍が許可しているのならば」
と言って、ロキリックは安堵とともに納得した。
「これから今までとは違う意味で忙しくなる。そのためには休息が必要だろう。日頃の行いのせいとは言え、あまり目くじらを立ててやるな」
「御意」
「だがまあ、休んでばかりいられんのも事実だ。グレンの国を探す必要もあるしな」
そこでドレッドは先ほど話題にしていた男の名を持ち出した。竜を倒した者の母国と同盟を結ぶため、まずはその国自体を探さなければならないのだ。
「冥王様。それについてなのですが、本当に宜しいのですか?」
「ん?何がだ?」
「あの者の国と同盟関係になることです」
それがどういう意味で問われているのか、ドレッドは理解していた。けれどもすぐには答えず、臣下の考えに耳を傾ける。
「あの者は竜を倒しました。いえ、倒してしまったと言っていいでしょう。月食竜もそれが余程の屈辱だったのか、あの者の名前を聞いてこの地を立ち去っています。今後、報復に動かないとも限りません。最悪の場合、竜の国総出で攻め込むことも考えられるかと」
もしそのような事態になれば、人間の国など瞬く間に滅ぶだろう。例えグレンが抵抗しようと、彼1人だけでは埋められない程の戦力差が存在しているのだ。
「仮にそうなった時、同盟国となっていれば我が国にも被害が及ぶ可能性があります。冥王様があの者に興味を抱いているのは存じておりますが、それだけの危険を冒す必要があるのでしょうか?」
まだ可能性の1つではあったが、ロキリックの危惧している事は的確であった。竜に狙われた国に関わるよりも、無関係でいる方が安全なのは明らかだろう。
「確かにお前の言う通りだ。しかしロキよ、同盟というものがそんなに容易く結べると思うか?それも今まで交流のない、利害の一致すらない国とだ」
そう問い掛けられた瞬間、ロキリックは「なるほど」と言って笑みを見せた。それだけで自分の不安が杞憂であったと悟り、全てを見通している主君に敬意を抱く。
「つまり冥王様は、あの者の助力があったとしても簡単には同盟を結べないとお考えなのですね?」
「その通りだ。グレンが強権を用いない限り、慎重な連中が時間を使うだろう。あいつがそういう奴でないことは分かっている。少なくとも、年単位で調整が必要になるはずだ」
「その間に竜の国が攻め込めば他人事で済む、というわけですね?――いえ、冥王様のことです。あの者が戦死することすら希望しているのではないでしょうか?」
「希望しているとは言い過ぎだが、それでも構わないとは考えている。グレンがいなくなれば当初の計画通り、この手で大陸統一を叶えられるのだからな。無論、生き残っても構わない。その結果が導くのは竜の全滅だ。人間が敵わない唯一の存在がいなくなれば、種族としての平和も築けるだろう。未来の同盟国にそのような者がいるのも、手札としては強力だしな」
知られざるドレッドの思惑を聞かされ、ロキリックは自然と心を震わせた。あらゆる点において自国に都合が良く、そこに気付く彼を流石と思う。
反射的に頭を垂れ、堪らず主君を賛美した。
「感服いたしました、冥王様。あの男であろうと竜であろうと、冥王様にとっては都合のいい駒でしかないのですね」
臣下の言葉は少々贔屓目に解釈したものであり、ドレッドは短く笑い声を上げた。しかしそれは照れ隠しや上機嫌の類ではなく、自身の考えを含めたこれまでの会話を無意味と断定したためである。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、おそらくそのどちらにもなりはしないと思うぞ?」
「ん・・・?それは何故でしょうか?」
手のひら返しとも取れる否定に、ロキリックは姿勢を正してから真意を問い質した。彼には冥王の意見が妥当と思われ、何か不確定要素でもあるのかと訝しむ。
「考えてもみろ。もし竜が傷付けられただけで暴れるような連中ならば、この辺りはとっくの昔に人が住めない環境になっているはずだ」
「昔・・・?」
今ではないという点に着目し、ロキリックは少しばかり思案する。そしてすぐに答えは導き出され、合点がいったと口を開いた。
「なるほど、『破壊の女神シグラス』ですか」
「そういうことだ。遥か昔にその者が竜を討ったのは有名な話だが、それに対し竜の国が何かしらの行動を起こしたという話は聞いたことがない。もしあったとしたら、この地には大きな傷跡が残っているはずだ」
ドレッドが統治するシオン冥王国、そしてその属国であるロディアス天守国、ブリアンダ光国、テュール律国が抱える領土は、元は1人の王によって支配されていた。その者の力は単騎で竜を越え、成し遂げた偉業は今でも語り継がれている。
しかしそれ以外については不思議と詳細が知られておらず、竜による報復があったという伝承も存在しなかった。
「となると、だ。竜という種族は『やられたらやり返す』ような性格をしていないと思っていいだろう。そこから察するに、竜の国がグレンに接触する可能性は限りなく低い」
「冥王様の仰る通りかと。今思い返せば、エルフの弓で負傷したにも関わらず、月食竜は目立った動きを見せませんでした。あのような出来事を己の中で消化できるくらいには、彼らも寛容という事なのでしょうか?」
「おそらくは・・・な」
そう言って竜に対する分析を終えると、ドレッドは一息つく。結局のところ自身のやるべき事は変わらず、それを再確認しただけの会話であった。
けれどもその点について臣下と共有できたのは有意義なことであり、今後の国家運営に関する滞りを事前に排除できたはずである。加えて、議題に対する結論も出せた。
「さて。これで分かっただろうが、グレンの故郷を探しても別に問題はないという事だ。これもお前に任せようと思っているんだが、やってくれるか?」
「無論でございます」
冥王からの新しい要請をロキリックは即座に受け入れる。色々と抱える彼であったが、戦闘や諜報で他の者に後れを取る分、こういった時に貢献できるため迷惑だとは思っていなかった。
むしろ取り掛かる仕事の優先順位を自分で決められ、それに割く人員も自由にできる。
当然、グレンの国を探すのは後回しだ。これは別にロキリックが彼のことを個人的に嫌っているからではなく、今の冥王国にとって必要性が低いと判断したためである。
忠実な臣下であるロキリックは、主君に相談しても納得してもらえるであろうと信じていた。それこそ、相談する必要がないくらいに。
「それでは、早急に取り掛かりたいと思います」
「ああ、色々と押し付けてしまって悪いな」
それが期待の裏返しである事を知っているため、ロキリックは光栄に思いながら頭を下げる。そしてこれで話が終わったと、今まで黙っていたアレスターが軽く伸びをした。
「まったく、お前さんらの話は肩が凝るわい」
「まあ、お前は教育専門だからな」
「そうやって大事に育てた子供を、どこかの誰かさんが儂に黙って敵地に送り込んだりもしたがのう」
それは戦時中に下したドレッドの判断について言っているのであり、友人からの非難には冥王も気まずそうな顔をする。
「だからそれは何度も謝っただろう?それに、気まぐれで『名もなき祭壇』を送り込んだわけではないぞ」
「ほう。ならば、その正当な理由を聞かせてもらうとするかのう。まさかグレンとかいう男に吐いたような嘘を、儂に対してまで語るわけではなるまいな?」
「当然だ。いいか――?」
アレスターを説得しようとしたドレッドであったが、その言葉は途中で止まる。彼の台詞を遮るかのように、玉座の間の扉が開かれたからだ。
冥王の許可なく入室できる者は限られているため、それ程の地位に就く者が訪れたのだと3人は視線を向ける。そんな彼らの前に姿を現した人物は、休みを取っているはずのミシェーラであった。
彼女は丁寧な一礼をしてから入室し、ドレッドの目前にまで来ると再び頭を下げる。
「どうした、ミシェーラ?」
落ち着いた歩みから火急の用ではないと判断し、ドレッドはそこまで待ってから用件を尋ねた。姿勢を正したミシェーラの顔は以前よりも幾分か血の気が通っており、彼女本来の美しさが戻ってきているように見える。
冥王と言えども男であるため、にやけそうになるのをなんとか堪えた。
「お話の途中申し訳ありません・・・ドレッド様との謁見を希望する者がおりまして・・・」
多少健康を取り戻したとは言っても、ミシェーラの話し方に変化はなかった。体調に関係なく、それが彼女にとっての普段通りなようだ。
「俺に客か?知らせに来たという事は、会った方がいいという事なんだな?」
「はい・・・」
どうでもいい相手だと判断したのならば、ミシェーラが何かしらの理由を付けて追い返すはずである。少なくともそうではないのだから、会う意味のある人物なのだろう。
「そいつは何者だ?」
「ダムタという名の男です・・・」
そう言われてもドレッドに覚えはなく、正体不明の訪問者の名に眉を顰める。ロキリックも同様であり、主君の反応を窺うように視線を寄越していた。
「聞いたことがない名だな。誰だ、そいつは?」
その問いに対して僅かでもミシェーラから動揺を見て取れたのは、彼女に活力が戻ってきた証拠であろう。そしてアレスターが深い溜め息を吐いたという事は、その人物とドレッドは会ったことがあるという事なのだ。
「ドレッドよ・・・お前は相変わらず興味のないことをすぐ忘れるのう・・・」
「ん?と言うことは、俺はそいつと面識があるのか」
「コホッ・・・死亡したアスクラの元部下です・・・」
ミシェーラから答えを聞かされても、ドレッドはまだ分からないといった様子である。しかしアスクラという名前には心当たりがあり、その人物が遠い異国で死んだことは覚えていた。
彼はユーグシード教国に差し向けた工作員だったはず。それが多くの仲間と共に、何者かに殺されたという話も同時に思い出す。
それを伝えたのは、果たして誰であったか。
「――ああ、あいつか」
顔は覚えていないが、ドレッドは以前そのようなやり取りをした男がいたのを思い出した。確かアスクラを殺した者を探り、好きに処理するよう命じていたのだ。
おそらく、その結果を報告しに来たのだろう。死んだ者に未練はないため追い返しても構わないが、それだけではない可能性がミシェーラの行動によって示唆されてもいた。
もしその程度の話ならば、代わりに彼女が聞いておけば十分だからである。どうやら直接会って話を聞かなければならない程の情報を、ダムタという男は掴んだようであった。
「いいだろう、連れて来い」
ドレッドからの了承を得ると、ミシェーラは一礼してから下がっていく。
そして少しの間を置き、1人の男を連れて戻ってきた。その者はそこら辺にいるゴロツキと同じという感想しか覚えない、つまらなそうな輩として皆の目に映る。
「へ・・・へへへ・・・。ど、どうも・・・お久しぶりです・・・」
汚い顔に精一杯の愛想笑いを浮かべ、ダムタはドレッドに挨拶をした。彼が怯えているのは、当然ながら冥王を恐怖してのことだ。
別に取って喰うつもりはないのだが、それを教えてやるような間柄でもないため、ドレッドは構わず話を進めた。
「アスクラを殺した者の調査が終わったようだな?」
「は、はい・・・!今日はその御報告に・・・!」
「いいだろう。話せ」
その言葉に、ダムタは生唾を飲み込む。ドレッドは気にもしていなかったが、実は彼の発言には不自然な部分があったのだ。
シオン冥王国とユーグシード教国の間にはかなりの距離があり、ダムタが指示を受けてから往復できる程の日数はまだ経っていない。あまつさえアスクラ殺害の犯人を突き留めて処理するなど、とてもではないが実行可能とは言えなかった。
つまり、彼が調査を終わらせて戻ってきたというのは嘘なのである。
それでも教国に滞在していた当時に情報収集は済ませてあり、ここに顔を出せるくらいの材料は持ち合わせていた。ただ1つ不安要素があるとすれば、アスクラを殺した人物への対処が未達成――それ以前に実行する勇気がないため、ドレッドの心証を悪くしてしまうことである。
そこでダムタはこれまで冥王国内に身を潜め、全てを打ち明ける機会を窺っていたのだ。逃亡も考えたが、追手を差し向けられるのでは、という心配があった。
それでも待った甲斐はあり、おあつらえ向きに今は戦勝直後。ドレッドの機嫌もすこぶる良いと思われ、失態や矛盾に対する多少の御目溢しを期待しても間違いではないだろう。
その望みに賭けようと冥王のもとを訪れているのであり、悟られぬよう彼なりに平静を装って言葉を紡ぐ。
「あの後・・・冥王様に命じられた通り、すぐにユーグシード教国に向かいまして・・・!まずそこで、必死こいて情報を集めたんですよ・・・!そして手を尽くした結果・・・やっとのことで仲間を殺した奴の情報を掴みましてね・・・・!へへ・・・!なんでもフォートレス王国とかいう国の、グレン=ウォースタインとかいう男の仕業らしくて・・・!ああ・・・そうそう・・・!それで聞いてくださいよ・・・!どうやらそいつ、その国の英雄とか言われてるらしいんですよ・・・!なんでも『斬撃を飛ばす』とか・・・『山を斬る』とかいう伝説を残しているようで・・・!まあ、嘘なんでしょうけどね・・・!へへへ・・・!勿論・・・そんなことを聞いても俺はビビリませんでしたよ・・・!単身フォートレス王国に乗り込んで、そいつをぶっ殺してやろうと思いまして・・・!でも、間が悪いって言うんですか・・・?グレンとかいう奴は旅に出てて不在だったんですよ・・・!いつ帰るのかも分からないらしくて・・・!それで・・・途中経過だけでもお伝えしようと・・・戻って来た・・・っていう・・・・」
台詞の最後で歯切れが悪くなったのは、ダムタも自身の説明に不安を覚えたからである。彼にとっては虚実を織り交ぜた言い訳でしかなく、『だから何もしていません』と語っているだけに過ぎないのだ。
自分を守るために話を作った部分もあり、弁明としては穴だらけである。
奇跡的に事実と噛み合った点もあったが、ドレッドやその側近を前にしては嘘と見破られるのは時間の問題であった。
しかし今回、彼らはそれに気付いてはいない。それがどうでもいいと思える程のことを、ダムタは語ってみせたのだ。
「もう一度話してみろ」
「・・・・・・え?」
ドレッドから返ってきた最初の反応がそれであったため、ダムタは戸惑いの声を漏らした。自分の説明が下手だったのかと思ったが、冥王の顔がそうではないと言っている。
「もう一度、『どこ』の『誰』がアスクラを殺したのか・・・話してみろ」
「え・・・っと・・・・フォートレス王国の・・・グレン=ウォースタインという男が・・・・」
そこが重要な点であることは分かるが、ダムタはドレッドの聞き方に違和感を覚えた。部下を殺した怨敵の情報を忘れまいとしているのではなく、探し物の詳細を尋ねるかのような声色なのである。
答えた後に冥王が笑い声を発したのも違和感のある反応であり、ダムタはその状況に唖然とした。何に対して笑ったのか、彼には全く分からない。
「なんだ・・・この偶然は?別人だと思うか、お前達?」
抑えられない笑みを残しつつ、ドレッドが臣下達に問う。やはりダムタには不可解なことであり、彼も自分が聞かれているのではないと分かっていた。
「おそらく本人かと」
そう言って、最初にロキリックが肯定する。なんら確証はないが、あの者ならば一国の英雄と呼ばれていても不自然ではないと思えたからだ。
グレンをあまり良く思っていないで彼であっても、あの戦闘力は評価しているという事である。
「儂もそう思うのう。そう言えば以前、そこの男が『国が斬られた話』をしておったが・・・あやつの実力を思えば、あながち作り話ではないのやもしれん」
そして次にアレスターが同意する。竜を倒した者と同じ名前で強大な力を持つ、そんな存在がいる偶然など、彼の知っている常識と歴史の中にはなかった。
残ったミシェーラの考えは聞かずともいいだろう。ここにダムタを連れてきたこと自体が、すでに彼女の答えである。
「なるほどな・・・。俺とグレンの因縁は、そんな所から始まっていたのか・・・」
「如何いたしましょうか、冥王様?」
たった今判明したのは、グレンが取った自分達の計画への明確な妨害行為である。そこからロキリックは、何らかの反応を見せた方がいいのでは、と聞いていた。
「別にどうもしない。お前の考えが間違っているとは思わないが、今更そのようなことを言われても戸惑うだけだ。それよりも、グレンの故郷の名を知れるとは重畳。早急に調べ上げ、連絡を取れ」
しかしドレッドは水に流すようであり、どうせそうだろうと思っていたロキリックは特に異論を挟まずに頭を下げる。
「えっと・・・それで、俺はどうすれば・・・・?」
何故かは分からないが上機嫌になったドレッドを確認し、ダムタが控えめに尋ねた。内心は救われそうな状況に歓喜していたが、それを曝け出すほど彼は愚かではない。
「ん?――ああ、お前はもういいぞ。下がって休め」
それが労いの言葉ではなく、『用無しだから消えろ』という意味のものだとはすぐに理解する。けれども自由の身になれたわけであり、ダムタはそそくさと退出した。
「さて、話が逸れたな。今後の対応だが――」
そう言って、ドレッドはロキリックを見る。
グレンの母国に対して何をするのかを聞いているのであり、見つけてしまったのならば仕方ないと、忠実な臣下は即座に答えた。
「では冥王様の御言葉として、同盟を希望する旨を記した文書を信用できる者に届けさせましょう」
「そこにグレンの名を載せるのを忘れるなよ。それともう1つ、関係作りの切っ掛けを提案したい」
「切っ掛けですか?それは一体どのような?」
確かに必要な手順だと思われたが、今ここで発表する程のものなのかと全員が訝しむ。こういった交渉事に意外性は必要なく、それくらいの常套手段ならば他の者も心得ているからであった。
戸惑う臣下の顔を見回し、ドレッドは楽し気な笑みを浮かべる。そして告げられた彼の提案は、その場にいる全員を大いに驚愕させたのだった。
エルフ族と別れ、グレンとヴァルジはひっそりと帰路に就く。
『捕らわれた同族を全員助けたら、必ず貴方に会いに行くから』
その道中、最後にニノから掛けられた言葉がグレンの頭の中では何度も繰り返されていた。彼女達の仲間には様々な事情で捕らわれの身となっている者がいるらしく、今後のエルフ族の活動目標はそのような者達を救うことになるのだと言う。
『それまでは、これで我慢して』
別れの際、そう言ってニノはグレンに口付けをした。彼女自身にとっても勇気を出した行動だったようで、直後に顔を真っ赤にして黙り込む。
突然の出来事にグレンは固まり、ヴァルジが声を掛けるまで2人とも身動き一つ取らなかった。
女性と久しぶりに果たしたその密接な触れ合いは彼の中に確かな歓喜を生み出し、どれだけ雑念を振り払おうとも、どうしても男としての期待感を抱いてしまう。
それでも母国に辿り着く頃には高揚感も薄れ、知人と顔を合わせても怪しまれない程度には落ち着きを取り戻していた。
そして王都までの道すがら、見慣れた光景を目にして自分が本当にフォートレス王国に戻って来たのだという事を実感する。やはり生まれ故郷とは良いもので、顔を知らない赤の他人でさえも親しみを感じられた。
出国した時よりも外気が涼しいのは、それだけの月日が経ったからだろう。いくつかの街を通り過ぎた際、人々の服装の変化にグレンは気付く。
自分もそろそろ衣替えか、などとヴァルジと他愛のない会話を重ねていると、2人の乗る馬車が次第に減速していき、最終的にゆっくりと止まった。
グレンはついに、王都ナクーリアへと帰り着いたのである。
逸る気持ちを抑えて馬車から降りると、出迎えに来てくれていたのか、真正面に知人の姿を捉えた。これはヴァルジが手紙で帰還を知らせてくれていたからであり、そういった習慣のないグレンは老人の粋な計らいに対してすでに感謝を告げている。
そんな彼が一心に見つめる先は、もちろん――。
「グレン様!」
そう、エクセである。
グレンの帰還を世界中の誰よりも心待ちにしていた少女は、最愛の英雄に向かって走り出していた。それを迎える彼も自然と笑みを浮かべ、全身を歓喜に包まれる。
そして、それ故に気付かなかった。エクセの身に今、様々な魔法道具が備わっている事を。
筋力を強化する『諸星の指輪』、跳躍力を向上させる『飛燕の耳飾り』、そして身に着ける者に勇気を授ける『波紋の首飾り』。それらが少女の心と体に力を宿しているのだ。
走る速度を緩めることなく、エクセは両腕を広げるとそのままの勢いでグレンに飛びつく。2人の間にある少なくない身長差も、今の少女ならば問題なかった。
そして例え身体能力を向上させていたとしても、グレンならばエクセの華奢な体を受け止めるなど造作もないことである。再会の抱擁とは照れ臭い気もしたが、彼は咄嗟に腕を構えた。
だが、それでは終わらない。それだけで終わらせるのならば、少女は始めから魔法道具などに頼りはしなかった。
一緒にグレンを出迎えに来たミミットとトモエも、友人であるエクセを緊張した面持ちで見つめており、どことなく様子がおかしい。さらに奇妙なのが、他の参列者にグレンの元同僚であるメリッサと、彼女の妹分であるレナリアがいることだ。
2人は応援しているような、それでいて楽しんでいるような表情をしているため、グレンが目にしたのならば彼女達の悪巧みを警戒したはずである。
しかし彼はエクセ以外の存在を正確に認識しておらず、その違和感に気付かないまま少女を抱き留めた。
そして次の瞬間、2人の唇が静かに重なる。触れたと思ったら離れた程度の束の間であったが、それは確かに現実として起こったことであった。
「ひゃ、ひゃああああ!ほんとにやった!」
「やってのけたわね・・・」
その光景にトモエは興奮し、ミミットは半ば呆れながらも友人の勇気に恐れ入る。彼女達に続き、メリッサとレナリアが頭上高く掲げた手を打ち合わせて喜びを共有していた。
それらを背中で聞きながら、エクセは静かに着地する。そして自身が取った大胆な行動を振り返り、猛烈な勢いで顔を赤くしていった。
「あ・・・あの・・・!グレン様・・・!い、今のは・・・その・・・!」
グレンのことを直視できないのか、少女の目線は下を向いている。自分がこのような真似をした理由を話そうとしているらしいのだが、気が動転して頭が回っていないようであった。
そのため、先にグレンが落ち着きを取り戻す。
「ここまで歓迎してくれるとは・・・驚いたよ」
彼の声に言葉ほどの驚愕が見られないのは、事前にニノとの経験があったからだろう。だからと言って嬉しくないわけはなく、グレンは己の中の興奮をなんとか抑え込んでいた。
2人の異性からの積極的な好意は鮮烈な思い出として脳裏に刻み込まれ、彼は自分の人生にこれまで以上の彩りが加わったような感覚を覚える。嬉しいことは続くものだと、しみじみと思うのであった。
その態度を大人の余裕とエクセは受け取り、少しばかりの安心感を手にしてグレンを見上げる。
「はしたない女だと・・・軽蔑なさいましたか・・・・?」
続いて何時ぞやのものと同じ問いを聞いてくるが、無論そのような事はない。むしろ感謝を告げても不自然ではなく、グレンが軟派な性格だったのならばそうしていただろう。
流石にそこまではしないが、否定はすべきだと思い至る。
「そんな訳ないじゃないか。ねえ、グレン?」
しかし、彼よりも先にメリッサがそれを口にした。楽しそうに笑いながら、ゆっくりとした足取りで2人に近付いて来る。
そしてここで初めて、グレンは彼女を含めた他の女性陣がいることに気が付いた。
「メリッサ・・・!?何故お前がここに・・・!?」
他の3名は共通した知人であるためエクセと一緒にいても不思議ではなかったが、メリッサまでいる事にグレンは少しばかり驚く。
エクセと面識があるとは聞いたことがないし、わざわざ自分の帰還に立ち会うような女性ではないと知っているからだ。
「ご挨拶だね。国の英雄様の御帰還を歓迎しに来たってのに」
そう軽口を返されるが、それを鵜呑みにするほどグレンは素直ではなかった。何か裏があるに違いないと考え、その結果、すぐに先程のエクセの行動と繋がる。
「まさか・・・!お前がエクセ君に何か吹き込んだのか・・・!?」
少女らしからぬ、とは思っていたが、それが誰かの入れ知恵なのだとしたら納得できた。あのような真似をさせる者がエクセの知り合いにいるとは思えず、必然的にグレンは目の前の女性を疑う。
「『吹き込んだ』とは人聞きが悪いねえ。アンタの帰りが遅いからって、寂しがってたこの子の相談に乗ってあげてただけだよ」
言いながら、メリッサはエクセの頭を優しく叩く。グレンがいない間に親しくなったようであり、少女も特に異論がありそうな様子を見せていなかった。
「それよりもグレン。アンタ、この子を見て何とも思わないのかい?」
「ん?」
言われている意味が分からないと、グレンはエクセをよく観察してみる。そして今更ながらに、少女が薄く化粧をしている事に気が付いた。
持ち前の愛らしさを残しつつも大人びた美しさが強調できているのは、メリッサの指南によるものだろうか。かつて一度だけ見たことのあるエクセの化粧姿を思い出し、その時よりも魅力的だとグレンは感心する。
仄かに鼻孔をくすぐるのは香水に違いない。少女の隣に立つメリッサも普段ならば香りを纏っているが、今ばかりはエクセに気を遣って控えているようだ。
そして記憶が正しければ、少女が着ている服は国を出る前に自分が買ってあげた物である。出迎えの格好として選んでくれるとは、男心をくすぐる行いと言えた。
「ほら、何とか言ったらどうだい」
そんな少女に対する賛辞をメリッサが催促してくる。エクセも緊張した面持ちで見つめてきているため、グレンは言葉選びに気を付ける必要があった。
そこで彼が思い出したのは、異国で学んだ気障な台詞である。『君は笑っている時が一番可愛いよ』と言うのは、今この場でも間違った行為ではないだろう。
「そうだな・・・確かに素晴らしいが・・・エクセ君は何より笑顔が魅力的だ。それが見られれば、旅の疲れも癒えるというものだな」
一度でも経験すると慣れるもので、かつては躊躇った甘い言葉も思ったより抵抗なく語ることができた。自分には意外とそういった素質があるのかもな、と冗談半分にグレンは思う。
そしてその甲斐あって、エクセは赤面しながらも喜んでくれていた。自分の言葉によってこの笑顔が見られるのは、男冥利に尽きるというものである。
「なーんか・・・怪しいねえ」
「怪しいっすねえ」
しかし、そのやり取りを見たメリッサは釈然としない様子であった。いつの間にか近くまで来ていたレナリアも同調し、2人揃ってグレンに疑いの眼差しを向けてくる。
「な・・・何が怪しいと言うんだ・・・?」
その理由が分からず、発言の意図を伺う。けれども彼の声には微かな震えがあり、無意識にそれを察してしまっているかのように思えた。
自然と、メリッサの目付きも鋭くなる。
「随分と余裕があるみたいじゃないか、グレン。私の知る限り浮いた話の1つもなかったアンタが、どうしてエクセから口付けされて冷静でいられるんだい?」
「アタシもそれが変だと思ったっす。今までの旦那っちだったら、間違いなくもっと慌てたはずっすよ」
「おまけに、らしくないスカした台詞。一体どこでそんなの覚えたんだか」
「怪しいっす。怪しさ限界突破っす」
「どうやら、旅先で女日照りだったって訳じゃないみたいだねえ」
メリッサから鋭い指摘を受け、グレンは一瞬たじろぐ。彼女のその洞察は少女達にも聞こえており、喜んでいたエクセと、それを揶揄っていた友人2人が反射的に視線を向けてきた。
「馬鹿なことを言うな・・・!お前達が考えているような事など何もなかった・・・!」
「へえ、そいつは悪かったねえ。何せアンタ、色男だからさ」
「お前はまた、心にもない事を・・・」
メリッサの冗談に対し、グレンは呆れたように言葉を返す。彼がこのような反応を見せるのは、やはり相手が旧知の仲だからだろう。
「俺も長旅から帰ったばかりで疲れているんだ。お前の戯言に付き合っている暇などないぞ」
「おや、つれないねえ。でもまあ、それならそれでいいさ。ちょいとヴァル爺さんに挨拶でもしてくるよ」
そう言って軽く手を振ると、メリッサは歩き出す。向かう先ではヴァルジが笑顔で佇んでおり、彼の主が心配していたような事にはなっていなさそうであった。
「あの、グレン様・・・」
そしてメリッサが去った後、エクセがおずおずとグレンに声を掛ける。元同僚に構う気力はなかったが、この少女は別だと返事をした。
「どうした?」
「気のせいかも知れませんが・・・グレン様、少しお痩せになられましたか?」
エクセの心配そうな声を聞き、グレンは自分の頬に手を触れる。空腹なのは自覚していたが、それが見た目に影響するまでとは思っておらず、少女の言葉に少し動揺した。
「そうかな?」
「はい。最後にお顔を拝見した時よりも痩せられたと思います」
再会してから気になっていたのか、確認に対して今度は断言を返してきた。それを聞いていたミミットとトモエは「分からない」といった風に顔を見合わせていたが、そうであるという自信がエクセにはあるらしい。
「異国の料理が口に合わなかったせいだな・・・。実を言うと、国を出てから満足に食事を取れていなかったんだ」
「それは大変です!グレン様が帰られると聞いて、腕によりを掛けた御食事を用意しておきました!急いで屋敷に帰りましょう!」
「おお・・・そうさせてもらえると助かる。帰ったら、まずエクセ君の手料理を食べたいと思っていたんだ」
「ふふ、光栄です。もちろん食後のデザートもありますので」
それを聞いたグレンは堪らずにやけそうになり、不自然な動きで口元を隠す。彼が帰国後にエクセとの再会を望んでいたのは言うまでもないが、その次に彼女の手料理を食したいと思っていたのだ。
そこに甘味が加われば、もはや言うことはない。
完璧すぎる歓待に、グレンの心は踊っていた。
「随分と嬉しそうじゃないか、グレン」
そこで、ヴァルジを引き連れてメリッサが戻ってくる。知人に迂闊なところを見られてしまったと、グレンは軽く咳払いをして恥ずかしさを紛らわした。
「お前には関係ない・・・」
「帰るのを待ってくれている女がいるのは良いねえ。英雄様に相応しい御身分だ」
「揶揄いたいだけなら先を急ぐぞ。エクセ君の料理が冷めてしまう」
「グレン殿、少々お待ちを。その前に、協力してくださった事に礼を言わせてください」
背を向けようとしたグレンに対し、ヴァルジが旅の締め括りとするため頭を下げる。今回の長旅は彼の依頼から始まったのであり、協力者に感謝を示すのは当然の行いと言えた。
「後日、何らかの形でお礼をしたいと思います。ご希望の物がおありでしたら、何なりとお申し付けください」
「顔を上げてください、ヴァルジ殿。私はそこまでの事はしていません。むしろ良い経験をさせてもらいました」
無論、これは老人を気遣っての台詞である。
別に『良い経験』とまでは思っていなかったが、ヴァルジが気に病まないよう言葉を選んでいた。
「そう言っていただけると助かります。ですが、お礼は必ずさせていただきますので」
「本当に気にしないでください」
「いえいえ、そうもいきません。縁もゆかりもないエルフ族のために協力してくださったのです。その御恩にはしっかりと報いさせていただきますよ」
そこまで言われてしまっては断り辛く、グレンは老人の提案を受け入れることにする。ここで善意を無下にしたとあっては、せっかくの大団円も台無しになってしまうだろう。
笑みを見せる2人の間では無言の了承が済まされ、これにて全てが完了となった。
そんな達成感すら覚える彼らであったが、周りで騒ぎ始めた女性陣の声に意識を戻される。どうやら、ヴァルジの語った『エルフ族』という言葉に反応したようだ。
グレンにとっては親しみ深くなった異種族であっても、王国の人々にとっては物珍しいままなのである。
「そう言えばエルフはどうだった、グレン?美男美女ぞろいって聞くけど、実物を見た感想は」
そしてやはり、話題になるのはエルフ族の容姿であった。それを聞くメリッサの表情には含みがあり、彼女がどのような回答を期待しているのかが伝わってくる。
「噂通りだ。それ以上は説明のしようがない」
そのため、グレンは無難に答えた。実際あの作り物のような外見を上手く説明できそうになく、それならば想像に任せた方がいいと判断したのだ。
それが過度な期待だったとしても、あの種族ならば問題なく応えられるだろう。
「なんだい、つまらない男だね。もう少し話題を膨らませる努力をしなよ」
「そうは言ってもな」
「アタシも知りたいっす、旦那っち。エルフなんて、この辺りじゃ話にも聞かないっすもん」
姐に続いて、レナリアも興味を示してくる。彼女の言う通り、王国のみならず周辺諸国を含めてもエルフ族と面識のある者はほとんどおらず、基本的には無関係な存在として認識されていた。
そういった事情があるため関心を引かれるのは当然のことであり、少女達も期待を込めた眼差しでグレンを見つめてくる。
以前ヴァルジからエルフ族について話を聞かされた時、自身も似たような感情を抱いたのを彼は思い出した。仮に逆の立場だったのならば、彼女達に近い反応を見せただろう。
それゆえ邪険にするわけにもいかず、どう説明するべきかと思考を巡らせる。
「グレン殿、今ここで説明する必要はないのでは?」
しかし、ヴァルジがそのような意見を口にした。
それは女性陣の願いを退けるものであったが、老人は別の意味合いで発言している。
「いつになるのかは分かりませんが、いずれはエルフ側から王国を訪れるのです。その時を楽しみにしておくのも良いと思われますぞ」
確かに、とグレンは思った。
それに関しては2度の別れの際に欠かさず宣言されており、そこから必ず果たされる約束に違いないと言っていいだろう。ならばエルフについて知るのはその時が相応しく、自分の出る幕はないと思えた。
「へえ、それはどういった経緯なんだい?」
そしてヴァルジの発言に対し、一早くメリッサが反応する。他の者も興味を刺激されたのか、老人の言葉に集中していた。
「長くなってしまうので省きますが、グレン殿がエルフ族のために尽力してくださったのです。それに恩義を感じ、改めて感謝を告げるために王国を訪れるつもりだと言っていたんですよ」
「そいつは面白いねえ。じゃあ、エルフをこの目で拝めるってわけだ」
「そういう事になりますな」
ヴァルジが肯定を返すと、周りで話を聞いていた少女達が嬉しそうな反応を見せる。それくらいの出来事になるという事であり、明日には王都中に話が広まっていそうであった。
「――でさ、一応聞いておきたいんだけど。それって来るのは男?女?」
だがメリッサの唐突な問いにより、場の雰囲気は一瞬にして不穏なものになる。グレンの心臓が力強く脈打ったのは、何か良からぬ事が起こると予感したからであろう。
先程の説明の中で、ヴァルジはグレンとエルフの関係性に言及していた。メリッサはそこから何かあったに違いないと当たりを付け、怪しいと思われる情報を探ろうとしているのだ。
老人もそれを察しており、どうしたものかと答えを詰まらせている。
「どうしたんだい、ヴァル爺さん?答えると何かまずいのかい?」
「い、いえ・・・!そのような事は・・・!」
などと言っている声がすでに狼狽えていた。
このままでは要らぬ誤解が生じると、ヴァルジは心を落ち着かせるために咳払いをする。そしてグレンの立場を悪くしないよう、適切な表現で事情を話した。
「誤解なきようお願いしたいのですが・・・おそらく女性の使者が来ると思われます。エルフの族長が私の友人でして、その孫娘がグレン殿と親しくしていたのですよ」
「へえ・・・」
メリッサの声が低くなったのは、決して聞き間違いなどではないだろう。自身を見つめる少女達の視線も鋭く突き刺さり、グレンは居心地の悪さを覚える。
「そうかいそうかい。それじゃあ、やっぱりさっきの予感は正しかったってわけだ。国に女を残してるのにも関わらず、うちの英雄様はエルフの娘と楽しくやってたみたいだねえ」
「あー・・・旦那っち、やっぱりやっちゃったっすか・・・。アタシがあれだけ注意したのに・・・」
王都を出る際、レナリアはグレンに対して『浮気は厳禁』と伝えていた。それはエクセを想っての忠告であり、彼も当然の事として遵守を宣言している。
しかし今、それに背いた可能性を示唆させる情報がヴァルジよりもたらされてしまった。もちろん彼にそのような意図はなかったのだが、男と女では受け取り方が違ったらしい。
そしてそれにより、英雄の帰りを歓迎する空気は一転、グレンに対する疑惑によって重苦しいものへと変わっていく。あまりの衝撃に、エクセなどは両手で口元を抑えていた。
これに関しては全くの誤解でしかないのだが、エルフ族の美しさが事前知識としてあるため、それに拍車を掛けてしまっても仕方がないのだろう。
「グレン・・・様・・・?」
「ご、誤解だ・・・エクセ君・・・!」
このままでは濡れ衣を着せられると、グレンは慌てて否定をしてみせた。事実、彼は旅先での誘惑には抗っており、何一つ恥じる所なく王国に帰って来ている。
普段の行いも品行方正なのだから、必死の説得を試みれば理解は得られるはずであった。
「聞く必要はないよ、エクセ。こういった時、男は平気で嘘を吐くものなんだからさ」
だがしかし、ここにはメリッサがいる。
したり顔で語る彼女は、全てお見通しと言わんばかりであった。
「メリッサ、お前・・・!」
「おや、違うってのかい?私としてはその方がしっくり来るんだけどねえ。さっきのアンタの落ち着きっぷりとかさ」
「それはお前だけだろう・・・!」
「へえ、言うじゃないか。それじゃあ、自分は潔白だって言いたいわけだ?」
「む、無論だ・・・!」
「だったら、絶対にそうだとエクセの目を見ながら誓ってみせなよ」
「むっ・・・!?」
メリッサからの指示に戸惑い、グレンは僅かに狼狽える。それを誤魔化すようにエクセに視線を向けると、少女は彼をじっと見つめてきていた。
自分を信頼してくれているその無垢な瞳を前にしては、安易に立場を取り繕う様な台詞は口にできない。『誓い』というのは気軽な行為ではなく、自身に何ら負い目がない時に行うものなのだ。
仮に嘘を吐くのならば、それを一生貫き通す覚悟が必要である。後になって「あれは嘘だった」では、失う信頼も大きいだろう。
そして諸々の事情を考慮すると、この場で「相手とは何もなかった」と伝えるのは非常に危険だと思われた。
いつになるかは分からないが、件の女性は必ず王都を訪れるのだ。彼女は比較的率直に好意を伝えてくるため、『何もなかった』が通用しない機会が訪れる可能性は高い。
かと言って認めるのも変な話であり、どう言えばいいか分からないグレンは沈黙する。実際に何もなかったわけではないというのも、言葉の選択肢を狭める要因となっていた。
きっぱりと言い切れない不甲斐なさは彼の中に罪悪感を生み出し、本能がエクセから少しだけ視線を外させる。その信じられない光景を目にしてしまい、少女は驚きに目を見開いた。
「はあ・・・決まりだね。グレン、アンタ向こうで女を作ってきたね?」
「ま、待て・・・!そこまでの事は――!」
「はっ!慌てるとボロが出るもんだ。『そこまでの』って事は『ある程度』はあったって事じゃないか」
「うっ・・・!?」
「ますます墓穴だ。そこはすぐに否定しなくちゃねえ。『その通りです』って言ってるようなもんだよ」
畳み掛けるようなメリッサからの責めに、グレンはぐうの音も出なくなる。何故ここまで追い詰めてくるのかは分からなかったが、自分が窮地に立たされている事だけは理解できた。
先程まで視線を寄越していたエクセが、今はもう顔を伏せてしまっているのだ。
「エクセく――」
どうすればいいか分からず、とりあえず名を呼んだグレンであったが、それを拒絶するように少女は背を向けた。予想外の対応には言葉も途切れ、彼の額には嫌な汗が浮かび上がってくる。
感動の再会はすでに、修羅場へと様相を変えていた。
「・・・・・・グレン様」
「は・・・はい・・・」
焦るグレンに対し、エクセが背を向けたまま声を掛ける。返事が思わず敬語になってしまっていたが、そのことに彼は気付いていなかった。
それが自然と思える程の状況であり、2人の間には今、絶対的な上下関係が形成されているのだ。
「グレン様がどのような女性と親しくなろうと・・・私にそれを咎める権利はありません・・・。むしろグレン様ならば誰に好かれても当然だと、納得さえします・・・」
「む・・・?そ・・・そうか・・・・?」
「ですが・・・」
なんだか許してもらえそうな流れであったが、直後に放たれた言葉にグレンは固唾を呑む。瞬時にして心臓が激しく鼓動し、少女からの裁きを心から恐怖した。
可能ならば続きを聞きたくはなかったが、それが許される立場ではないだろう。
一切の躊躇いを見せず、エクセが判決を下す。
「ですが、今後しばらく――――食後のデザートは抜きにしますっ!」
そう言い放つと、少女は走り出してしまった。立ち止まることも振り返ることもなく、グレンの視界の中でエクセの背中が小さくなっていく。
「待っ――!エク――!エクセくーーーーーーーん!!」
英雄と呼ばれる身でありながら、グレンはあまりにも情けない声を上げる。彼の人生において、エクセの作ってくれる甘味はそれだけ重要な地位を占めているのだ。
普通ならば食事自体を抜きにされてもおかしくはないのだが、それに感謝する気力は湧いてこない。
グレンの全身はまるで麻痺したかのような虚脱感に襲われ、頭に靄が掛かったかのような感覚さえ覚える。
「ぐっ・・・!」
旅路の果てに迎えた望まぬ結末に、さしものグレンも苦悶の表情を浮かべた。これまで溜め込んできた疲労が一気に押し寄せ、ついには音を立てて地面に膝を突く。
「うわー・・・あの旦那っちが打ちのめされてるっすよ・・・・」
その光景を前に、レナリアが憐れみを込めて呟いた。流石にその状態のグレンを揶揄う気は起きず、どうしたものかとメリッサを見る。
ただ当の彼女だけは、楽しそうに笑っているのだが――。
「いやー、面白いものが見れたね。アンタのそんな姿、初めて見たよ」
妹分は遠慮したのにも関わらず、メリッサがグレンをおちょくる。度胸があるのか、それだけの仲なのか、周りで見ている少女達が肝を冷やす程の行いであった。
「よく見ておきな、あんた達。これが胃袋を掴まれた哀れな男の姿だよ」
追い打ちをかける彼女の表情に悪意はなく、純粋にグレンの境遇が可笑しいだけなのだという事は分かる。しかしそれに何も感じない程、彼もお人好しではなかった。
僅かに動いた左手が、大太刀を力強く掴む。
「メリッサ・・・!お前っ・・・・!」
「おっと」
怒りと共に鍔を親指で押し、グレンは斬撃を発生させた。動きのない一振りであるそれを、メリッサは両腰に備えた曲刀の内1本を抜き放って容易く防いでみせる。
傍から見れば原因不明な剣戟の音が、一瞬の攻防によって周囲に響き渡った。
「え!?え!?姐御と旦那っち、今なにをしたんすか!?」
メリッサが見せた突然の抜刀と、どこからともなく発生した金属音に驚くレナリア。しかしそれに応える声はなく、ただ刀を納める音が返される。
「ちょいとグレン、危ないじゃないか。私が『無刀一文字』を知らなかったら、玉の肌に傷が付くところだったよ」
「お前ならば問題なく防ぐと思っての事だ・・・!それよりも・・・!一体なんの恨みがあってこんな真似を・・・・!」
「理由?そんな物ありはしないよ。よく言われないかい?『久しぶりに会うと揶揄いたくなる』って」
それに関しては覚えがあり、過去を振り返ったグレンは顔を顰める。自分の知人はどうしてこう悪戯好きが多いのだろうと、悩ましい気分になっていた。
「まあ、安心しなよ。私だって、何もアンタとエクセを仲違いさせたいわけじゃないんだ。今度はアンタのために動いてあげるよ」
けれども埋め合わせはしてくれるらしく、メリッサは頼もしい微笑みを見せる。そして手を叩くと、この場に残ったエクセの友人に目を向けた。
「ミミット、トモエ。あんた達の出番だよ」
続いて掛けられた言葉に、2人の少女は揃って「え?」という返事をする。戸惑う彼女達に向かって、メリッサは指示を飛ばした。
「エクセは家に帰っただろうから、追い掛けて慰めておいで。この男が謝りやすいよう、それとなく擁護も入れてさ」
つまり、グレンとエクセの関係を改善させるために動けという事であった。彼らとは知らない仲ではないため、心得たとミミットとトモエは頷く。
そしてすぐに友人を追いかける2人を見送った後、メリッサは未だ立て直せないグレンに声を掛けた。
「ほら、アンタも立った立った。ここからが男としての踏ん張り所だよ」
決して性格が悪い訳ではない元同僚からの激励を受け、王国の英雄はゆっくりと立ち上がる。それでも足が動かないのは、エクセからの拒絶が相当堪えたからだろう。
「だらしないねえ。いいかい?男女の仲ってのは、一度ひびが入ってからが本番なのさ。そこから持ち直すかどうかが、2人の今後を決めるんだ。英雄って呼ばれてるんだから、恐れず立ち向かってみせな」
言ってから、メリッサはグレンの背中を力強く叩く。
それに後押しされたように、傷心の英雄は歩き出すのであった。
翌日、グレンは王城にて国王ティリオンに謁見する。彼の口添えもあって国を出たからだろうか、何をしてきたのか聞かせるよう言われたのだ。
すでに記憶が曖昧になっている部分もあったが、それでも大きな出来事に関しては漏れなく伝える。
全てを説明し終えると、黙って話を聞いていたティリオンは玉座の背もたれに深く体を預けた。
「なんつーか・・・・・随分と出しゃばった真似してきたなあ、お前」
エルフ族を助けに行ったかと思えば、異国間の戦争に介入するまでに及んでいる。勝敗に関わってはいないようだが、彼の実力を知るが故にティリオンは苦言を呈した。
当然グレンもそれは自覚しており、居心地悪そうに顔を少し俯かせる。
「言葉もありません。もっと早く帰ってくるべきでした」
「だがまあ、エルフ族を助けたのはお手柄だ。俺が一度も見ない内にいなくなるのは惜しいからな。出来れば何人か連れて帰って来てくれたら嬉しかったんだけどよ」
批判はここまでなようで、ティリオンは冗談を言って場を和ませた。こういった時、いつまでも引き摺らないのは彼の美点である。
「それでグレン、大陸西方の4大国が1つになったという事でいいんだね?」
次いで尋ねてきたのは、同席していたアルベルトであった。彼の他にシャルメティエとポポルがおり、グレンは見知った顔ぶれに懐かしさを覚える。
「そうだ。はっきり言って、どの国も戦力としては王国以上だったと思われる」
「それが1つに・・・。遠い異国だとは言え、恐ろしい話だね」
「大陸中を探しても、あれ以上はないだろう」
全てを知ったわけではないが、そう断じても支障ないくらいの規模であった。そのため、国を守る者としてアルベルトの懸念は当然であり、事情を知っているグレンであっても否定はしない。
「いえ、それよりも竜の国の方が脅威なのでは?」
しかしそこで、シャルメティエから異論が挙がる。
グレンは話の中で竜についても触れており、山1つを消し飛ばした出来事を皆に語っていた。しかし国としての認識が薄く、言われてから自身の間違いに気付く。
「魔法が~効かないんだっけ~?怖いわ~」
そして説明せずとも知っていたのか、ポポルが魔法使いとして竜の特性に言及した。けれども間延びした話し方はそのままであり、緊迫感はあまり感じられない。
「そんな存在すら仲間にしちまうシオン冥王国・・・か」
だが逆にティリオンは思う所があるようで、誰にともなく呟きの声を漏らした。国王として抱いた不安にも感じられ、それを吐露するかのようにグレンに語り掛けてくる。
「なあ、グレン。シオン冥王国ってことは、その国の王は『冥王』を名乗ってるわけだよな?」
「はい」
どのような意図があって聞いているのかは分からなかったが、その通りであったため即座に肯定した。それを受けてティリオンは思案を始め、ややあってから言葉を返す。
「他国のことだからあんま言いたくねえんだけどよ・・・恥ずかしくねえのか、それ?」
何を気にしているのかと思ったらそんな事か、とグレンは脱力した。同時に、そこに触れてしまったかと、国王の行動に恐れ入る。
「あちらの国には、そういった文化が根付いていますので・・・」
とりあえず、そう言ってシオン冥王国を含む国々を擁護しておいた。
「――ま、何にせよ。色々あってお疲れさんって所だな」
そして最後は雑にまとめられる。確かに様々な脅威が垣間見えた旅路ではあったが、現状どうにかなるという訳でもないため、もしかしたらそれくらいが丁度良いのかもしれない。
一先ずグレンも気分を変え、とりとめのない話題を国王に振った。
「私としては、帰って来てからの方が大変でしたが」
これは勿論、エクセを怒らせてしまった事を指している。
あの後、グレンはファセティア家の屋敷に帰り、拗ねてしまった少女の機嫌を直すのに全力を尽くしたのだ。最終的には女性陣の協力もあって、『今後エクセを連れずに国外へ出ないこと』を条件に許しを得ている。
竜を倒した者が少女1人の御機嫌取りをしなければならないなどと、異国の知人が知ったらさぞ驚くことだろう。しかしこの場にいる者達は、止む無しとそれぞれの表情で笑っていた。
「それならメリッサから聞いたぜ。エクセに浮気がばれたんだって?」
「浮気ではありません」
どうせそんな感じで伝わっているだろうと思っていたグレンは、ティリオンの言葉にも動じずに返答する。それを聞いた国王は、部屋に響く程の大声で笑った。
「隠すな隠すな。男の甲斐性ってやつだよ。それに、もう許してもらったんだろ?」
「ええ、まあ」
おかげで食後のデザートにも有り付け、グレンは久しぶりに十分な食事を取ることができていた。体も活力に満ち、調子が戻ってきた事を実感する。
「でもグレン、今後は穏便に頼むよ。君とエクセリュート嬢の仲に何かあったら、王国の未来に支障が出るからね」
そのような満足感に浸る彼に向かって、アルベルトは警告をした。この友人はグレンの力を後世に残そうと計画しており、お節介ながらもエクセとの仲を気に掛けているのだ。
それ自体は有難迷惑であったが、叱責する程ではないと溜め息を返しておく。
「あ、そういや」
その直後、ティリオンが何かを思い出したかのように言葉を発した。何かあったのかと、グレンが詳細を尋ねる。
「どうかしましたか、国王?」
「『王国の未来』で思い出したんだけどよ。こんなもんが届いてたぜ」
言いながら、ティリオンは懐から1枚の封筒を取り出した。ひらひらと振って見せるが、それが何なのかグレンには皆目見当がつかない。
「それは?」
「お前が今さっき話したシオン冥王国からの親書だ。同盟を結びてえんだとよ」
「なっ!?もう来たんですか!?」
グレンが上げた驚きの声を耳にし、他の者達は妙な引っ掛かりを覚える。ティリオン以外の者は手紙の存在を知らなかったため、シオン冥王国が同盟締結を打診している事に驚いたのだが、彼だけは別の理由だと思われたからだ。
「いきなり『シオン冥王国』だの『同盟』だの書かれてあって訳分かんなかったけどよ。お前の名前も書いてあったしな。何かあったに違いねえと思って、その話を聞くために今日は呼び出したんだわ」
「申し訳ありませんでした・・・。まさかこんなにも早く冥王国が接触して来るとは思わず・・・」
正に想定以上の早さである。確かに短い期間で特定されるとは思っていたが、それでもエルフ族と別れてからまだ大した時間は経っていない。
ゆっくりとした帰路だったという事を加味しても、帰国してすぐに親書が届くなど誰が予想できようか。一体どのような手段で情報を入手したのかと、グレンは冥王国の手際の良さに驚愕した。
「どういう事か説明してくれるね、グレン?」
それでもアルベルトから事情を話すよう要求されたため、急いで思考を切り替える。
「折を見て話そうと思っていたのですが、実は――」
そう前置きし、グレンはティリオンに向かって冥王とのやり取りを話し始めた。
シオン冥王国が大陸統一を目的に動いていること、フォートレス王国とは戦いたくないこと、その代案として同盟締結を希望していることを簡潔に伝える。
「――フォートレス王国の名は出さずに別れたのですが、私の名前は伝えてありまして。どうやら、そこからこの国を特定したようです」
「まあ、お前はこの辺りじゃ有名人だからな。名前と実力が分かってりゃ簡単に探せるだろ」
それはグレン自身も思っていた事であり、同意するように頷く。しかしティリオンの顔はどこか曇っており、別の部分では納得していないという不服が見受けられた。
「しっかし、大陸統一ねえ・・・」
その原因が冥王国の目的だと、不快気に言葉を発する。グレンという戦力を有しながらも、他国に攻め込まない彼だからこその異議であった。
「陛下、そのような願望を抱く国と手を結ぶ必要はありません。この大陸を1人の王が統べるなど、傲慢な野心と言えるでしょう」
平和を愛する国王に対し、正義感の強いシャルメティエが進言する。
単純に解釈すれば冥王国の目標は世界征服であり、その一端を担えとフォートレス王国に言っているに等しいからだ。王国騎士団副団長にしてみれば、至極当然な意見であった。
しかしそれは事実と少し異なり、補足しなければならない点があるとグレンは口を開く。
「言い忘れたが、冥王国の目的は『世界平和』だそうだ。他国を侵略しようなどとは考えていないらしい」
そう言われ、不可解だとシャルメティエは眉を顰めた。
「自ら戦争を仕掛けておいてですか?私にはとても信じられません」
「それは尤もだが、現に冥王の口から直接語られている。エルフ族の保護も確約してくれた」
「グレン殿は人が良過ぎます。そのような約束など簡単に反故にできるのです。信用できません」
「まあ、確かにそうなんだが・・・」
自身も冥王に向かって「そこまで信用していない」と言った手前、シャルメティエの意見には頷くしかなかった。それでもあのような状況で語られた事を、単なる口約束だと考えたくないのは我が儘だろうか。
「それに、平和を築くのならばもっと穏便な手段があったはずです。それを選ばず武力に頼るという事は、冥王という男の戦好きを表していると言えるでしょう。我が国と同盟を結ぼうとしているのも、グレン殿の力を利用しようとしているからだと思われます」
さらに続くシャルメティエの意見は極々一般的なものであり、だからこそ否定できない説得力があった。グレン以外の誰もが頷き、彼女の考えを肯定している。
「では、やめておいた方がいいのか?」
皆の受け入れ難いという態度に不安を覚え、グレンは堪らず問い質した。このままでは同盟締結は難航しそうであり、冥王に手を貸さなければならない立場であるために少し困惑する。
グレン自身はあの王にそこまで悪い印象を持っていないため、簡単に諦めるのは気が引けた。試しに説得でもしてみようかとも思ったが、それよりも先にアルベルトが意見を口にする。
「いや、そうとも言えないよ」
それは、グレンの質問に対する否定であった。
先程はシャルメティエの意見に頷いたのにも関わらず、騎士団長である彼は別の可能性を示してくる。
「どういう事です、アルベルト殿?」
「最初に言っておくけど、別にシャルメティエ嬢の考えが間違っているというわけではないよ?ただ、冥王国の規模を考えると手を組んでも間違いではないと思ってさ」
「ほう、そいつはなんでだ?説明してみな」
ティリオンが詳細を求めると、アルベルトは一礼してから自身の考えを述べる。
「まず、単純に戦力差の問題が挙げられます。先程のグレンの話だと、冥王国は竜すら仲間に引き入れている模様。それを上回るグレンが王国側にいるのは事実ですが、兵数の差は圧倒的です。対処しきれず、手痛い打撃を受けるでしょう。それこそ、勝ったとしても国として機能しないくらいに」
月食竜はすでに冥王国を去っていたが、それをグレンが知らなかったため、そのような説明になっていた。
そこから導き出された友人の考えには誤解があると、グレンが軽く挙手をする。
「1つ訂正させてくれ、アルベルト。俺は確かに竜を気絶させはしたが、別にあの者よりも強いというわけではないぞ?」
「え?それはどうしてだい?」
思ってもみなかった真相を聞かされ、アルベルトは発言の意図を尋ねた。口振りから謙遜とかではなさそうであり、グレンも事実として淡々と答える。
「竜は空を飛ぶ。あの時はまだ俺でも届く高さにいたが、さらに上昇することくらい可能だろう。そうなると、俺では手も足も出せなくなる。逆に竜はその位置からでも攻撃ができるはずだ。俺が竜に触れることができたのは、相手が油断していたからに過ぎない」
そしてその油断も、一度の敗北があれば修正されるだろう。となればグレンが竜に対抗できる術はなく、もしその時が来たら厳しい戦いを強いられそうであった。
「なるほど、そうだったんだね・・・。それだとやっぱり、戦闘は絶対に回避しないと・・・」
「でも~それだったら~、なんで~王国と戦いたくない~なんて言うのかしら~?」
グレンと月食竜の相性は誰でも気付けるくらいに単純であり、それ故にポポルの疑問は妥当なものと言える。しかしだからこそ、答えを見つけるのも簡単であった。
「んなもん、グレンが怖えからだろ?」
王国側が竜と戦いたくないように、冥王国側もグレンと戦いたくない。
どちらも割に合わない損害は御免という、戦争では当たり前の理由であった。
「陛下の仰る通りかと。それに、王国にはグレン殿だけでなく我々もおります」
流石に相手が強大過ぎるため、シャルメティエもグレンを戦力として数えつつ国王の意見に賛同する。
「――と、このように現状の戦力的には良くて五分五分。今後冥王国が他国を吸収することを考えれば、その差は広がっていくでしょう。それでもまだ戦いに発展しないかもしれませんが、周辺諸国を掌握され、経済的に苦しめられる可能性もあります。冥王国とは友好関係を築いておくのが得策かと」
逸れてしまった話を戻し、アルベルトがそう結論付ける。
王国とすでに協力関係にあるルクルティア帝国は問題ないだろうが、その他の国々を取り込まれては確かに脅威であった。直接的にしろ間接的にしろ、苦しめられるのは確実である。
「ま・・・そうなるわなあ」
そしてその事については聞く前から理解していたのか、ティリオンが小さく零した。それは諦めのようにも聞こえたが、どちらかと言うと妥協だろう。
冥王との約束を果たすため、最後にグレンが確認を取る。
「では、冥王国とは同盟を結ぶ方向で?」
「は?そんな訳ねえだろ」
しかし、あっさりと否定されてしまった。
国王の意思は尊重されるべきであるため異論などなかったが、それだとこれまでの会話と外れた結論になってしまう。ティリオンの思惑を理解できないグレンは、素直に理由を聞いた。
「何故ですか・・・?冥王国との仲違いは互いに不利益しかないという話になったはずでは・・・・?」
「ああ、勘違いすんな。別に冥王国と友好的な関係にならねえって事じゃない。ただ同盟を組む段階じゃねえなってだけだ」
そこでティリオンは、先ほど見せた冥王国からの親書をもう一度ひらひらと振る。
「それに関しては向こうも理解しているらしくてな。同盟締結が了承できない場合、関係を築くために交流を図りたいと言ってきてる」
「交流ですか。具体的にはどのような?」
「なんか色々と書いてあったが、まずは留学生を受け入れてもらいたいらしい。普通は国交を結んでからだろうに、中々面白いことを言ってきやがる」
「はあ・・・なるほど、留学生です――」
その言葉の意味を理解した瞬間、グレンの全身に悪寒が走る。
冥王国、そして学生。この2つの条件に当てはまる存在に、彼は痛いほどの心当たりがあったからだ。
「ま、待ってください!もしや!その学生と言うのは――!」
「お、なんだ。こいつに書いてあったことは本当だったんだな。お前が冥王国の学生と親しくしていたってよ」
あながち間違いではないが、決して正しくもない。都合の良いように捻じ曲げられた情報に、グレンは驚愕していた。
おそらく、冥王はあの出会いを利用するつもりなのだろう。
そして彼の妙手はティリオンの興味を思いのほか刺激しており、このままでは狙い通りになりそうであった。言うなれば子供の使者という事なのだろうが、そのせいで警戒心が薄くなっているのだ。
それ故にグレンは戦慄する。何を隠そう、自分の苦労が約束された未来に。
「こ、国王!それは少し考え直した方が良いかと!」
必死に、せめてもの抵抗を試みる。先程は国王の意思を尊重しなければ、と思った彼であったが、こと今回に限りはその範疇を越えていた。
交流を図るならば別の手段でも代用できるため、なんとかならないかと気持ちを焦らせる。
「恥ずかしがんなって。向こうも、お前に会えるのを楽しみにしてるみてえだぞ?」
「それは・・・なんとなく分かりますが・・・・」
「その証拠に――ほらよ。お前宛ての手紙まで寄越してきたぜ」
すでに手に持っている物とは異なる、別の手紙をティリオンは懐から取り出した。それを受け取りに来るよう差し出されたため、嫌な予感しかしなかったが、グレンは国王のもとまで向かう。
座るティリオンに対し一礼をしてから手紙を手にし、下がってから開封する。
そこには、このような事が書かれていた。
「ウィキ・ラ・セクトゥム。
我ら名もなき祭壇の怨敵たる罪深き刃よ。
神々の狂気に彩られた運命の歯車は今、我が翼を檻より解き放った。
再び相見える時、汝の前に真の絶望が降臨するだろう。
覚醒の日は近い。
震えて待て。
――『闇の殺戮執行者』ネオ・ザ・〈鮮血の王冠〉
またの名をニャオ・テンペスト
追伸
パパとママからは本名じゃなくても良いってちゃんと許可をもらいました!」
「聞いたぜ、おっさん!どっか遠い国の英雄なんだってな!
どおりで強えわけだぜ!
でもよ!俺だって負けっぱなしじゃ終わらねえからな!
そっち行くのはもちっと先だから、それまでにもっと強くなってみせるぜ!
覚悟しとけよな!
――『進撃雷帝』アギト・バルファージ」
「私の『高貴なる朱』を壊した件だけど、今回は特別に許してあげます。
留学を引き受ける代わりに、お父様が新しく作ってくれるって言ってくれたの。
きっともっとすごい物になると思うわ。
私と『高貴なる朱・弐式』の初陣相手は勿論おじさんよ。
絶対に驚かせてあげるんだからね!
――『紅炎咲夜』クーリエ・オーバーロード」
「肌寒く感じる風が吹き始めた今日この頃、師匠におかれましては如何お過ごしでしょうか。
要らぬ心配だとは思いますが、体調管理にはお気を付けください。
再会の折、貴殿の正式な弟子になれる事を心待ちにしております。
――『七色使い』シン・ツクヨミ」
「留学とか勘弁してくれ。
――ルキヤ・イクトニス『万象を拒絶する者』」
「前回、敗北。次回、挑戦。
新作試験、協力希望。報酬、望みのままに。
――マテリアナ・オーバーロード『創って壊す』」
「おじさまへ。
私、おじさまとの再会が待ち遠しくて仕方ありませんの。
毎日毎晩、おじさまのことばかり考えてしまいますわ。
愛するジェシカとガイノフも、おじさまに会いたいと言って聞きませんのよ。
そちらに到着次第紹介したいと思いますので、楽しみにしててくださいね。
――チュティ・フィラルン『傷ヲ求メ狂ウ華』」
「グレンさん、逃げてください。
チュティが書いてるジェシカとガイノフって、あいつが集めてる刃物の名前なんですよ。
それで何をしようとしているかは言わなくても分かりますね?
歯止めが利かなくなるかもしれないんで、俺達が着くまでに隠れる所を本気で探しておいた方がいいと思います。
――『底と頂』ユーヴェンス・ボージキノイド」
最後まで読み終わると、グレンのこめかみを一筋の冷や汗が伝う。
知らない名前があるなとか、名前の後ろに称号が書かれているのはニャオが付け足したんだなとか色々と思う所はあったが、結論としては恐怖を覚えた。
「国王・・・やはり考え直した方が・・・・」
そう告げる声も、どこか弱々しい。
そして予想とは違う反応が返ってきたことで、ティリオンは意外そうな顔をしていた。
「あ?なんだよ。お前、乗り気じゃねえのか?」
そこまでではなかったが、そうであると躊躇いがちに頷く。
するとティリオンは「まいったな・・・」と言いながら頭を掻いた。
「実を言うとよ。お前を驚かそうと、もう了承の返事を送ってんだわ」
「は!?いつですか!?」
「さらに実を言うとよ、この親書が届いたのはお前が帰って来る前なんだわ。だから2、3日前だな」
衝撃の事実を知り、グレンの表情が固まる。
どうやら冥王国の情報収集能力は想像の遥か上を行っていたらしく、もはや手遅れなのではないかと頭の中が真っ白になった。それでも気を奮い立たせ、呆けている暇はないとすぐさま扉に向かって歩き出す。
「おい、グレン。どこに行くんだ?」
ティリオンに問われ、グレンは振り返ってから答えた。
「この件に関しては熟考する必要があると思われます・・・!ですので、返事を回収しに行ってきます・・・!」
「今からか?」
「今からです・・・っ!」
そう言って、退出の挨拶をしてからグレンは去っていく。そんな彼の慌てた様子を見た者達は、一体どうしたのかと不思議そうにしていた。
けれども部屋を出たグレンに自分の奇行を気にする余裕はなく、扉が閉じられると同時に全力で走り出す。冥王国はここより西にあるため、とりあえず西に向かって王都を飛び出した。
不眠不休で走り続け、行く先々で国王の手紙を探して回る。
そしてその結果、グレンは最終的に目的物の在処を突き止めることができたのであった。
しかしそれは直前に国を出ており、エクセと『1人で王国を出ない』という約束をしていた彼には手の届かぬ代物と化してしまう。
つい先日まで大変な思いをしていたグレンであったが、本当の苦労はまだこれからだったのだと、自分の未来に不安を覚えてがっくりと肩を落とすのであった。




