4-32 終戦
同盟軍が籠る砦は、依然として冥王国軍に包囲されている。
その光景を、『戦神』のモルガン、クリス、ガーネは遠巻きに眺めていた。
「エンデバーさん達、大丈夫でしょうか・・・?」
ほとんど赤の他人とは言え、ガーネは少なからず交流のあった人物の安否を心配する。一期一会と割り切れない、少女らしい反応と言えた。
「あれから丸一日が経つけど、特に目立った動きがないものね。冥王国の方も、一体なにを考えているのかしら?」
不可解といった感じのモルガンの言葉に、他の2人は黙って頷く。彼女の指摘は正にその通りであり、冥王国が待機している理由が3人には理解できなかった。
圧倒的に優勢なのだから攻め込めばいい。大軍を用いた戦闘に関しては素人でしかない彼らであったが、その発想が間違っていると思うほど無知でもなかった。
「そんなに攻め辛い砦なんでしょうか?」
「攻め込む動きすら見せていないから、そういう事じゃないと思う。まるで、何かを待っているような気がするわ」
「何かって、何です?」
「それが分からないから、分からないんじゃない」
冥王国の意図が、という意味である。
「う~ん・・・クリスさんはどうですか?」
『戦神』の3人には今、同盟軍と冥王国の戦争を見届けるという役目が与えられていた。それを出来るだけ詳細に記録し、彼らの主であるジェウェラ大神官に伝えなければならないのだ。
それが『戦いの神クライトゥース』に仕える者の使命。
自分達の信仰心に従い、彼らもそれに誇りを持って当たっている。けれども最後の一手がこうも勿体ぶられると、遊びに興じる暇もできるというものであった。
それゆえの問答。この行為自体に、彼らも意味を見出してはいない。
(おそらく、交渉でもしているんじゃないか?)
クリスの答えは、口を動かさずに発せられる。彼らは秘術『念話』によって心の声での会話が可能であり、他の2人にはしっかりと青年の声が届いていた。
そのため、ガーネが首を傾げる。
「交渉ですか?一体どのような?」
(それは分からないが、この戦いにも始めた理由があるはずだ。それを満たすものである事は確実だろう)
「戦う理由ですか・・・。そう言えば、冥王の目的って何なんでしょうか?」
(分からないな。領土拡大とかではないのか?)
それはあまりにも無難な回答であり、至って自然な発想であった。そのためガーネも頷くことしかできず、別の可能性を模索することもしない。
もとより、あまり興味もなかった。
「でも、交渉にしたって時間が掛かり過ぎじゃない?追い詰められた同盟軍に、冥王国の要求を飲む以外の選択肢なんてないと思うけど」
モルガンの指摘にも、少女は理解できると頷く。どのような意見にも否定を返せないのは、やはり正解の見当がつかないからだろう。
両軍の沈黙はそれ程に長く、そろそろどちらかが動いても不思議ではなかった。
「ところで――」
視線は同盟軍と冥王国軍を捉えたまま、ふいにガーネが零す。これまでと同じく他愛のない会話であると思われ、モルガンとクリスは顔を向けずに話を聞いていた。
「あそこには、グレン様もいらっしゃるんでしょうか?」
しかし、その名を聞いてしまっては反応せざるを得ない。『戦神』にとって彼は、神にも等しい存在であるのだ。
「そっか・・・・グレン様も同盟軍に同行していらっしゃったんだっけ・・・」
天示京で会ったのが最後であるため、彼の現状について詳しくは分からない。けれども、同盟軍に属するエルフ族に力を貸しているのだから、今あの場にいてもおかしくはなかった。
そしてそれは、『戦神』にとって大きな意味を持っている。
(ならば、お救いした方がいいのか・・・?)
同盟軍全ては無理であっても、グレン1人を逃がすくらいならばクリス達でも可能であった。秘術にはそのためのものが存在し、3人が連携すれば難なく達成できるだろう。
指導者であるジェウェラに確認を取るまでもなく、為すべき行動である事は確実である。
しかし、クリスのその提案に対し、他の2人は即座に応じる素振りを見せなかった。
「いや・・・必要ないんじゃない・・・?」
「ですね・・・」
グレンの力を伝え聞き、そして実際に目にした事のある2人には、自分達の助力など不要だと思えたのだ。それは救助を持ち掛けたクリスも同様であり、例え大軍に囲まれていようとも、さしたる危機とは思っていなかった。
グレンならば、たった1人で冥王国軍を壊滅させることができるだろう。
彼らの間には、そういった無言の共通認識が生まれていた。
「――あ!あそこ!何か騒いでいるようですよ!?」
その時、ガーネがある1点を指差す。そこは砦に複数ある門の1つであり、その前で冥王国兵が何やら騒いでいるようであった。
もしかしたら、何か動きがあるかもしれない。
任務に集中するため、3人は口を閉ざした。
「いい加減にしろやッ!!」
「いつまでこうしてるつもりだッ!!?」
砦の外で騒いているのは干民達である。獲物を前にした約1日分の『おあずけ』に、彼らの苛立ちも頂点に達しようとしていた。
個としては価値がなくとも、数が揃えば気が強くなるもので、自分達の生殺与奪を握る上官に向かって声高に不満を唱えている。
そんな敵兵を眼下に見ながら、見張りをしている同盟軍の兵士達は戦々恐々としていた。
冥王国軍の不可解な沈黙。それ自体は停滞しか生まず、追い詰められた状況に変化はない。
しかし無慈悲と言われる冥王ドレッドが見せた僅かばかりの躊躇とも思え、同盟軍の間には「これ以上の戦闘はないのでは」という憶測が流れていた。
自軍に目も当てられない程の損害は出たが、辛うじて死を免れた者にとっては縋り付きたい可能性である。
否定と肯定を繰り返し、誰もが冥王の真意を探ろうと議論を重ねた。けれども結論など出るはずもなく、人生最後となるかもしれない日が沈みかける程の時間が経っている。
そこで目にした干民達の動き。冥王国の再攻撃も近いのではと、同盟軍の間に不安が蔓延し始めていた。
「どうしよう、ニノ!?ねえ!どうしよう!?」
その中で最も狼狽えたのがエルフ族である。彼らは美しく、滅多にお目に掛かれないことから希少価値も高い。
そこから、戦争で欲望を発散する干民にとって最高の戦利品となるのは明白であった。砦の外で騒ぐ者の中には、エルフを我が物にしようと企んでいる者も多いだろう。
結末としては等しい死でありながら、それまでの過程が人間とは比較にならない程の苦痛であると思われ、彼らの顔には絶望が浮かんでいた。
「大丈夫。グレンの言う通りなら、もうこれ以上の戦闘はないから」
しかし、エルフ族を率いるニノには落ち着きが見える。それは信じる者がいるからであり、彼女にとっては今この時間も恐怖とは無縁であった。
けれどもそれは共有できるものではなく、安心しろと言うだけでは物足りない。
「どうしてここにいない人のことを信じられるの!?他国との交渉に向かったって言ってたけど、もしかしたら逃げたかもしれないのに!」
「彼はそんな臆病者じゃない。ここを出たのだって、自分の意思ではないのよ?」
グレンが砦を抜け出したのは、天守国の英雄ジェイクからの要請によって天示京にいる天子を救うためである。それを聞き入れる前、彼は冥王国への降伏を提案していた。
そこには無関係ゆえの無責任さはなく、ただただ自分達への思いやりがあったのだ。逃げたなど、考慮するのも愚かしい。
「でも!その人が出て行ってどれだけの時間が経つの!?逃げたとしか考えられないでしょ!?」
「落ち着いて。怖いのは分かるけど、グレンを非難したって何も変わらないのよ?」
「それは・・・そうだけど・・・!」
おそらく、不安の捌け口が欲しいのだろう。恐怖を口にするのは憚られるため、代わりの言葉を必要としているのだ。
この状況では止む無しと、ニノも怒りは覚えない。
しかしその苦痛も、すぐに終わりを迎えると思われた。
(グレンの言っていた時間まで、あと少し・・・)
どうやら何らかの約束を取り付けたようであり、それまでは冥王国も大人しくしていると彼は言っていた。冥王と直に言葉を交わしたとの事で、実際これまでに何の行動も起こしていない事から、信じるに足る情報である。
そしてその制限時間が訪れる前に、同盟軍は降伏する手筈となっていた。すでに上層部では話が付いており、そのための使者も選抜されている。
今頃、決断を下すかどうかの話し合いをしているのだろう。
その場にニノがいないのは、待機している冥王国軍の動向を探るためであった。手を出して来ないとは言っても、確実にそうだと油断できるはずもなく、動ける者で一応の用心に努めている。
その役目には、エルフ族の優れた聴覚が生かせた。砦の外壁からも監視はできるが、見逃す可能性もあり、彼らの耳が敵兵の怪しい動きを察知するのに役立つと思われたのだ。
当然、外の喧騒もうるさい程に聞こえている。
まだ指揮官と思しき人物が抑えてはいるようだが、降伏交渉の際に弊害とならないかが心配だった。暴れられたのを対処した結果、抵抗の意志ありと見なされては笑い話にもならない。
過剰な反応をしないよう、監視の者に注意を促した方が良さそうであった。
「――ニノ!」
しかし足を動かそうとした直前、大声で名前を呼ばれる。
振り返ると、こちらに向かって走って来る同族の姿を捉えた。急いではいるようだが慌てているわけではなく、何用かとその場で待つ。
「どうしたの、リクオ?」
そして目の前に辿り着いた知人に向かって、息を切らせている理由を問い質す。僅かに乱れた呼吸を整えた後、彼はまず南を指差した。
「南門で、なんだか凄そうな人が『入れてくれ』って言ってるんだ。お前に話を通してくれれば分かるって」
そう言われ、ニノはすぐにグレンのことを思い浮かべる。ひどく曖昧な形容ではあったが、彼を言い表すには適しているように思われた。
「もしかして、グレンが帰って来たの?」
「ああ、そう、そうだ。そう名乗っていた。良かった、知り合いだったのか」
安心したように語られた知人の台詞に、ニノは疑問を抱く。特に親しくしていたわけではないため、声や名前を覚えていないのは理解できるが、グレンのような外見をした人物を簡単に忘れられるとは思えなかったからだ。
自分と一緒にいる所も何度か目にしているはずであり、わざわざ確認を取らずとも砦の中に入れるくらいの信用は築けていても違和感はない。
「どういうこと?グレンだったら、貴方も知っているでしょう?」
「そう言われても・・・なにせ全身を鎧で隠しているからさ・・・」
「鎧・・・?」
その点についてはニノも訝しむ。彼が防具を身に着けている所など見たことがないし、持ち出した記憶もなかった。
もしかしたらグレンの名を騙った別人の可能性があり、おのずと警戒心を強める。
「・・・少し見てくる」
とりあえず見れば分かるため、ニノは持ち場を離れることを仲間に告げた。
外壁の上を移動し、南門が備わっている場所まで向かう。途中、砦を囲む冥王国の軍勢の様子をうかがったが、どこも先程いた地点と同じような騒ぎが見られた。
それに怯えた仲間に何度か呼び止められるも、さしたる時間を掛けずに辿り着く。そして対応に困っている兵士を尻目に、胸壁の隙間から静かに外をうかがった。
「――ッ!?」
しかし直後、件の人物と目が合ったためすぐに体を引っ込める。
頭部全体を覆う兜によって相手の目線は隠れており、本当に目が合ったかは分からないが、はっきりとこちらを見上げていた。
微かな物音を察知したと言うのだろうか。それとも単なる偶然だろうか。
いずれにせよ、一目見ただけではグレンと分からない。
「ニノ、顔は出すな」
そう結論付けたのも束の間、全身鎧の戦士から声が掛かる。多少こもってはいたが、それはグレンのものであり、ニノの不安は一瞬にして払拭された。
「グレン!」
今度は大きく身を乗り出し、彼の姿をしっかりと視界に収める。なぜ鎧を身に着けているのかは、この際どうでもよかった。
グレンがいないよりかは、いる方が何倍も心に余裕が生まれる。そのためニノの顔は自然と綻ぶが、そんな彼女に向かって、どこからか1本の矢が放たれた。
それは部隊から抜け出し、隠れ潜んでいた冥王国の干民による奇襲である。誰か手頃な獲物がいないか待ち伏せている所に、ニノが姿を見せたため行動に移したのだ。
グレンだけはその存在に気付いており、先程の警告はこれを危惧してのものであった。
干民が門の前で待機していた彼を狙わなかったのは、全身を鎧で固めた相手に弓矢が通じるとは思えなかったからである。つまりは何ら思惑のない、単なる暇つぶしの行動であった。
普段ならば絶対に命中することのない距離と腕前ではあったが、放たれた矢は運悪く正確にニノを捉えている。
しかし当然、彼女に届くよりも前に、グレンの右手がそれを捕まえた。
ニノの目の前で、矢がへし折られる。
「うわッ!!」
唐突な出来事に驚き、男エルフが尻もちをついた。先程まで下にいたはずの戦士が瞬時に移動してきたのだから、無理のない反応であろう。
ニノも呆然としていたが、ややあってグレンに顔を向ける。
上から見ていた時と同様、赤黒い鎧がその目に映った。全身に返り血を浴びているかのような色合いではあったが、そのような残酷さとは程遠い、雄々しき気高さが感じられる。
燃えた夜。焦げた太陽。そう表現するのが相応しい。
「良い腕をしている」
言いながら、グレンは手に持った矢を外に向かって放り投げた。それが落下音を生じるには幾分かの時間を要し、それだけ今立っている壁が高いという事が分かる。
それについて言いたい事はあったが、驚くのも今更だと、ニノは言葉を飲み込んだ。
「お帰りなさい、グレン・・・!今のは・・・?」
「冥王国の者だろう。兵の数が多いと、ああいった命令を無視する者が出て来る」
「だったら、追い返すくらいした方が・・・!」
「心配ない。すでに気絶させておいた」
自分を助けるついで、という事なのだろう。
頼もしすぎる一連の言動に、ニノの尻尾はこの日初めて大きく揺れた。
「それよりも、ジェイク達は今どうしている?」
「え・・・?あ・・・えっと・・・多分、話し合いをしている所だと思う」
「そうか。彼に話があるんだ。そこまで案内してくれ」
グレンが砦を抜け出した理由を知っているため、ニノは黙ってそれに頷いた。
「失礼する」
壊してしまわないようニノに扉を開けてもらい、グレンは会議の場に足を踏み入れる。
そこにはロディアス天守国、ブリアンダ光国、テュール律国の代表者が屯しており、彼の知っている者も何人かいるのが見て取れた。
おそらく、重い沈黙に支配されていたのだろう。突然の闖入者には誰もが驚いて振り向いたが、その顔は一様に陰鬱な雰囲気を纏っている。
それでもグレンの今の格好に危機感を覚えた何名かが、反射的に武器を手に取って立ち上がった。
「だ、誰ですか!?」
その中の1人、ブリアンダ光国の『光の剣士』マリアが問い掛ける。『選び、導く絶対秩序』を手にした姿が、なんだか懐かしく思えた。
「驚かせてすまない。私だ。グレンだ」
「む!?グレン殿!?」
続いて言葉を発したのは、ロディアス天守国の英雄ジェイクである。何を隠そうグレンの帰還を一番心待ちにしていたのが彼であり、立ち上がった際に感じた腹部の痛みも忘れる程に歓喜した。
「よくぞ戻ったのである!しかし、その鎧は?」
「色々とあってな。服が破れてしまったため、仕方なく着ている」
説明するつもりがなかったため、そう言って誤魔化しておいた。
それでも唯一人、したり顔で頷いている老人がいる。それはヴァルジであり、『紅蓮の戦鎧』について僅かでも知っているのは彼だけであった。
この老人ならば不用意な発言はしないだろうと、グレンも忠告はしない。
「なるほどなのである。――して、グレン殿!首尾は如何に!?」
そしてジェイクも鎧についてはどうでもいいのか、すぐに話題を変えた。彼が聞いているのはオトアキナ学術国の助力が叶うかどうかという事であり、隣国に赴いた成果をグレンは告げる。
「すまない、交渉には失敗した。全て私の責任だ」
「む・・・ッ!そう・・・で・・・あるか・・・・」
詳細は省いたが、グレンは包み隠さず事実を話した。そのような結果になったのも自分のせいだと白状したが、ジェイクはそれを糾弾しない。
ただ力なく、椅子に座り直した。
「本当にすまなかった、ジェイク」
「いや、いいのである・・・!むしろ、降伏するのに心残りがなくなったのであるよ・・・!」
口ではそう言いながら、ジェイクの顔には悲壮感が見える。彼なりの気遣いなのだろうが、失意を隠し切れてはいなかった。
心配したランフィリカが声を掛けるが、ジェイクは何の言葉も返さない。そのような気力すら湧かないらしく、予想以上の反応にグレンの胸には痛みが走った。
そこで、ここに来るまでに考えた失態の埋め合わせについて提案する。
「ジェイク。その代わりと言っては何だが、同盟軍に降伏する意思があることを、私が冥王に伝えよう」
「む・・・?グレン殿が・・・?」
ジェイクだけでなく、彼の言葉には同盟軍の誰もが意表を突かれたと驚愕する。ほとんどの者にとってグレンは部外者でしかないため、どのような意図があるのかと怪しむ者さえいた。
その疑惑通り、彼はそれ以上の行動を起こすつもりであったが、失敗に終わるかもしれないため秘密にしておく。
「グレン殿。そのようなこと、貴殿が背負う必要はないのである。天子様をお救いできない事を気に病んでおられるのかもしれないが、元を辿れば吾輩達の失態。挽回など、考えなくとも良いのであるよ」
「いや・・・それとは少し違うと言うか・・・」
そう、これは挽回ではなく罪滅ぼしなのである。
円満に事が進むはずだったのを、グレンの個人的な感情で台無しにしてしまったのだ。それに自責の念を感じ、何とか償おうとするのは至って自然な発想である。
そして、その過程を大勢の前で説明する事に対し気が引けてしまうのも、人並みの自尊心を持つ者ならば当然の感情であった。
とりあえず真実は隠したまま、グレンは話を進める。
「君達は・・・昨日の決戦で体力を消耗しているだろう?これ以上の無理は禁物だ」
「し、しかし・・・!」
「私は冥王と面識もある。冥王国の者に話を繋いでもらう事もできるが、直接話した方が確実だ」
「だったら、ボクでもいいんじゃないでしょうか?」
2人の会話にマリアが割って入る。手を上げて主張された意見は、確かに一理あるものであった。
そしてそれは会議で決まった事であるし、少女も納得して受け入れた使命である。それを奪われることに嫌悪感を覚えたわけではなかったが、無関係な人間に任せてしまえるような役目だとは思っていなかった。
「ボクだったら冥王のもとまで飛んで行けます。妨害に遭うこともないですし、それくらいの体力も残っていますから」
あくまでグレンに対する気遣いを感じさせつつ、マリアは彼の意見を退ける。
冥王の傍には敵戦力の主力がいるはずであり、そこに単身で向かおうとする彼女の覚悟はとても勇敢だと思えた。少女だからと甘んじることなく、『光の剣士』として最後まで役に立とうとする姿勢は健気の一言である。
しかし、グレンにとっては受け入れられない事でしかなかった。
「いや、それには及ばない。君のような子供が、そのような役目を負う必要はないんだ」
「こ・・・子供って・・・!もうそんなことを言っている場合じゃないはずです!ここにいる皆だって、ボクに任せるべきだと納得してくれました!」
「その決断が間違っていると言うつもりはない。だが、代わりの者がいるのならば任せるべきだ」
「待ってください・・・!それがグレンさんだって言うんですか・・・?もし何かあったら、怪我じゃ済まないかもしれないんですよ・・・?」
これはグレンの実力に疑問を持っているからではなく、彼の身を案じたがために出た問いであった。当然グレンもそれは理解しているし、問題ないという自信もある。
「大丈夫だ」
そのため淡々と返したのだが、マリアを含む大勢の者が怪訝な顔つきになっていた。あれだけの大軍勢を前にこのように豪語できるとは、この男は相当な実力者か命知らずであると、疑いと呆れの混じった視線を向けてくる。
彼の実力を幾分か知っているニノやジェイクも、今回ばかりは半信半疑といった感じであり、やはりヴァルジだけが真実だと受け入れていた。
それでも、沈黙が議論に変わる頃、ジェイクが大きく膝を叩く。
その理由を誰もが察し、即座に口を閉ざした。
「分かったのである・・・!冥王のもとへは、グレン殿に行っていただくのであるよ・・・!」
ジェイクは決意を込めた眼差しでグレンを見つめる。本当に大丈夫なんだなと、問い掛けられているような気がした。
「待ってください!どうして――!?」
「まあ、別にいいじゃないか、マリア」
未だ納得できないと講義しようとする少女に対し、ロイドが肩に手を置いて制止を掛ける。彼はこの場においてグレンが記憶している数少ない人物の1人であり、そうするだけの価値がある人格者であった。
「な・・・なんでですか、ロイドさん!?」
「私も、君が交渉に赴くのに反対だからだ」
「ええ!?」
「先程は確かに賛成したが、それも他に選択肢がなかったからだ。ジェイク殿の傷が癒えていない今、このような使命を確実に果たせられるのは君しかいない。そう考えていた。だがグレン殿も言っていた通り、子供に任せるには重すぎる役目だ。引き受けてくれると言うのならば、頼んでみてもいいだろう」
「で、でも!それでグレンさんに何かあったらどうするんですか!?」
「確かにその心配はある。こういった時の使者は丁重に扱われるものだが、それを良しとしない者がいないとも限らないしな。歴史上、首だけになって帰って来た者もいるくらいだ。だが――」
ロイドは今のグレンの姿を見る。
マリアやジェイク程の力を持っていなくとも、彼も戦士の端くれ。その姿から、何か異様な気配を感じ取るくらいはできていた。
「――グレン殿ならば、無事に冥王のもとまで辿り着けるはずだ」
「なんですか、それ・・・?根拠はあるんですか・・・?」
「ない。なんとなく、だ」
しかし上手く言い表せられるようなものではなく、ロイドは適当な理由で済ませてしまう。それにはマリアも呆れたが、同時に諦めにもなったようで、深い溜め息を1つ吐いた。
「分かりました・・・もう知りません・・・」
と言いつつも、グレンに危機が迫った時は助けるつもりでいた。それによって冥王国との交渉に支障が出る可能性もあったが、第三者が勝手にやった事と言えなくもないと少女は考える。
それでも雰囲気が険悪になるのは必至であり、そんな中で交渉が上手くいくのか分からなかったが、それ以上は何も言わなかった。
そして――すでに無気力になっているのか――他の者からの異論もなく、グレンの提案が受け入れられる運びとなる。
「そう言えば、冥王の剣はどこにある?」
部屋を出て行こうとした矢先、グレンが思い出したように聞いた。それは彼がジェイクを助けた時、その体に深々と突き刺さっていた物であり、冗談まじりに持ち主から返すよう言われていたのだ。
再会の手土産としては、丁度良いだろう。
「あ。それだったら、俺が保管してます」
そう言ってきたのはエンデバーであった。寝る間も惜しんで逆転の手を考えていたのだろうか、青年の目の下には隈があり、この場にいる者の中でも特に疲弊しているように見える。
それでも立ち上がると、少しふらついた足取りで部屋を出て行き、しばらくしてから戻って来た。
その手には刀身を布で包んだ剣が持たれており、見覚えのある黒い柄から冥王の物だと判断する。
「すまないな」
礼を言い、グレンはそれを受け取った。
そしてそのまま、静かに部屋を出て行く。その背中をニノがすぐに追い、少し遅れてジェイク、マリア、ロイドの3人が続いた。
当然グレンはそれを認識していたが、理由を問い質すようなことはしない。そんな彼には聞こえないようにしながら、マリアはロイドに話し掛ける。
「なんでロイドさんもついてくるんですか・・・?」
「ん?グレン殿が気になるからに決まっているだろう?」
「え・・・さっきは『大丈夫だ』みたいな事を言っていたくせにですか・・・?」
「ああ、違う。心配という意味ではない。ただ単に、彼の秘められた力を見れそうだと思ったんだ」
「それって!グレンさんの実力を知りたいから危険な場所に向かわせたって事ですか!?」
大声を発する少女の口を、ロイドは急いで塞ぐ。聞こえていない訳はないのだが、グレンは振り向くことなく歩を進めていた。
一安心といった風に溜め息を吐くと、マリアから手を放す。
「声が大きい。そして人聞きが悪い。それはあくまで副産物であってだな。決して興味本位の行いではないぞ」
「それでも不謹慎だと思います」
「む?そうであるか?」
隣で会話を聞いていたのか、ジェイクが疑問の声を漏らす。その言葉を聞く限り、どうやら彼もロイドと同じ期待を抱いていたようであった。
「ええ!?ジェイクさんもですか!?」
「そこまで驚くような事ではないのであるよ、マリア。グレン殿は敵将に囲まれた吾輩を救い出せるほどの猛者。すでにやった事をもう一度やるだけなのであるからして、戦場を抜ける事など造作もないことなのである」
「そう!それを聞いて私も耳を疑った。一体どれほどの実力者なのか、ぜひ確かめたい」
「うむ。戦士としての血が騒ぐであるな」
男2人の意気投合ぶりを見て、マリアは大いに呆れる。この窮地に開き直りと思えるほどに高揚しているのは、彼らが心の底から敗北を受け入れているからなのだろうか。
まだ戦闘が起こると決まったわけではないのだから、グレンの強さを見せてもらえるかは分からない。
それでも何かあった時に助けられるようマリアは同行しているため、彼らの期待が場違いなように感じられた。
「もー・・・これだから男の人は・・・」
(いや、こいつらの興味は間違っちゃいねえよ)
思わず出た呟きに対し、体内に宿っているピースメイカーが応える。彼は以前グレンを警戒すべきだという旨の発言をしており、ロイド達と同じ立場なようであった。
マリアは理解できないと眉根を寄せるが、反論はせずに歩き続ける。
そして辿り着いた先は、北門側の外壁の上であった。
(あれ・・・?)
歩きながらも違和感を覚えてはいたが、そこは出入り口の前ではない。包囲する冥王国の軍勢が見える、比較的安全圏とも言える高所であった。
このような所で何をするつもりなのかと、グレンについてきた者だけでなく、監視を任されている兵士達も狼狽えている。
しかし当の本人は意に介さず、変わらぬ足取りで胸壁へと向かっていた。
そしてその間際で立ち止まると、ゆっくりと振り返ってから口を開く。
「では、行ってくる」
その言葉の意味を理解するのに、全ての者が少しだけ間を置いた。
けれども察するのは容易い状況であるため、
(あ、飛び降りる気だ)
と、誰もが思い至る。
「ちょ!ちょちょちょちょちょちょ、ちょっと待ってください!」
当然無謀だと考え、マリアが止めに入った。
グレンの腕を両手で掴み、力を込めて引っ張る。しかし、びくともしない。
「ええ!?なんで!?」
「どうかしたのか?」
少女の突然の行動を訝しみ、グレンはその理由を尋ねる。むしろそう聞く理由を教えてくれと怒鳴りたくなる程の質問であったが、ここはぐっと堪えた。
「無茶なことは止めてください!こんな高さから飛び降りたら死んじゃいます!大体、どうして門から出ないんですか!?」
「いや、門を開けたら敵兵が雪崩れ込んでくるかもしれないだろう?入れるつもりはないが、無用な戦闘はなるべく避けたい。それに、門を開けるのに不快感を示す者もいるはずだ。こちらの方が混乱も起きず、私1人で外へ出られる」
「え・・・!?あ・・・!ま、まあ・・・確かに・・・・そう・・・ですけど・・・・・!」
意外と真っ当な理由が返ってきたため、マリアも納得しかける。
しかし、おかしな点は別にあると、すぐに否定するように頭を振った。
「――って!違います!ボクが言いたいのは、ここからじゃ無事に外に出られないって事です!グレンさんは空を飛べないでしょ!?」
「確かに飛べはしないが・・・おそらく大丈夫だろう。この鎧も着ていることだしな」
「どういう理屈ですか!?むしろ重さで潰れちゃいますよ!」
「まあ・・・なんと言うか・・・・・見ていてくれ」
まるで説得は無理だと諦められたかのような態度に、マリアは不満を覚える。親切を押し付けるつもりはないが、心配している相手にそれは失礼だろう、と。
だったらもう止めはしないと、少女はグレンの腕を放す。
飛び降りる直前になれば、どうせ怖気づくだろうと考えていた。
「すまないな」
そんな少女に謝罪をし、グレンは最後の足場の上に立つ。
そして一切の躊躇を見せず、軽やかにその身を投げ出した。
「え・・・!?えええええええええええええええ!?」
自分の予想と反した展開に驚愕し、マリアが大声を上げる。他の者も同等の衝撃を受けており、その光景を見た全員が、グレンの安否を確認しようと急いで胸壁に駆け寄った。
そして地面を見下ろしたと同時に、大きな落下音を耳にする。しかしそれ以外の――悲鳴や肉体の破損する音は聞こえてこず、グレンが無事に着地できたという事を理解した。
「な・・・なんでですか・・・・?」
少女の言葉足らずな疑問は、隣で口をあんぐりとさせているロイドに向かってされた。とは言っても彼にも分からず、これまでの会話を踏まえて無難な回答を告げる。
「やはり・・・グレン殿の着ていた鎧のおかげじゃないか・・・・?」
「それでここから飛び降りても大丈夫になるのかな・・・?この壁、どれくらいの高さなんだろ・・・?」
「分からんが・・・グレン殿の鍛え抜かれた肉体を加味すれば・・・納得はできるか・・・?」
「ボクはできません・・・」
「ほら・・・筋肉ってことで・・・・」
最後に発せられた冗談は無視し、マリアは地面に降り立ったグレンの様子を観察する。
彼は何事もなく歩き出しており、唐突な事態に唖然としていた冥王国の兵士達も後退っていた。
(このまま大人しくしてくれていればいいが)
その光景を見ながら、グレンは思う。
彼が身に着けている兜――『神の目』によって冥王がどこにいるのかは見えており、そこまで一直線に向かうことはできる。しかし相手の心証を悪くしないよう、冥王国の兵士はできるだけ傷つけたくないと考えていた。
そのため、人が密集しているこの場を無理に駆け抜けようとは思わない。
現状、進む先が面白いように割れていくため、黙って歩き続けるに留まっていた。
けれども多勢という状況は余裕を生みやすく、大して進まない内に冥王国の兵士がグレンを囲み始める。未だ襲い掛かって来るような者はいないが、彼を睨み付ける視線からは、もう道を開ける気が感じられなかった。
仕方ないと、グレンは立ち止まる。
「私は同盟軍の使者だ!冥王に御目通りを願いたい!」
そして自身の要件を声高に告げた。目的を知られれば対処されると思い黙っていたが、このような状況になってしまえばそれも無意味だろう。
警戒心を刺激しないよう、左手に持った冥王の剣を掲げる。
「これは再会の約束として預かった冥王の剣だ!道を開けてくれ!」
それが本物だと見極められる者がいるかどうかは怪しい所だが、グレンはそう言って周りの敵兵を牽制した。彼を襲えば冥王の顔に泥を塗る事となり、黙って見送るのが正しい選択である。
しかし即座に道を開けるでもなく、かと言って真偽を確かめるでもなく、冥王国の兵士達は徐々に距離を詰めてきていた。彼らは干民であり、自分達だけでは戦闘か逃亡以外の行動を思い浮かべられなかったのだ。
装備は強固だが相手は1人。必然、戦うことを選ぶ。
それをグレンも察していたが、別に慌ててはいなかった。周りを囲む兵士達の練度は低く、威嚇をしてみせれば戦意を喪失するだろうと思えたからである。
おあつらえ向きに今、グレンは自身に向かって飛んでくる矢を捉えていた。常人ならば死角から迫るそれも、彼にとっては不意打ちではない。
直前まで引き付け、顔を向けることなく大太刀で斬り払う。
『ぐあああああああああああああああああああああッッ!!!』
それと同時に、干民達の断末魔が響き渡った。
「――っ!?」
予想だにしない光景を前にして、グレンは声も発せない程の驚愕を覚える。迂闊――それ以外の言葉が思い浮かばない程に、彼の行動は軽率であった。
グレンの持つ大太刀『雪月花』は、持ち主の実力に応じてその切れ味を増す。彼ほどの剣士が持てば、刀を僅かに抜くだけで斬撃を発生させることが出来た。
無論、それを失念していたわけではない。母国では『無刀一文字』と称されるその技は、彼の知っている限り、敵意さえ込めなければ発動しないはずだったのだ。
しかし、今のグレンは神の鎧を纏っている。それによって強化された肉体には、もはや攻撃する意思の有無など関係なく、刀を抜くだけで周囲を斬り裂くだけの力が宿っていた。
加えて矢を斬り払った時、意図しない『真空斬り』が放たれる。それは直線上に存在する干民達を蹂躙し、死の道を作り上げた末に漸く静まった。
結果として、大太刀を抜き放った際に数百人が、矢を斬り払った時に数千人が、ついでに死ぬ。『紅蓮の戦鎧』と『雪月花』の相性があまりにも良過ぎたがための力の暴走――予期せぬ大惨事であった。
(ぐっ・・・!)
余さず捉えた惨状に、グレンは自身への怒りを抱く。例え故意でなかったとしても、それで許されるような範疇を遥かに超えた事態であった。
制御の利かぬ強大な力など、赤子の拳にも劣る。
かつて経験した苦渋を、グレンは再び味わうのだった。
(落ち着け・・・!今はとりあえず、使命を果たすことだけを考えろ・・・!)
拳を握り締めたくなったが、両手に1本ずつの刀剣を持っているためそれもできず、グレンは自分にそう言い聞かせることで苛立ちを抑え込む。
彼が狙った抑止は必要以上の効果を発揮しており、誰も行く手を阻もうとはしなくなっていた。逆に遠ざかろうと、上官の制止も聞かずに逃げ惑う。
恐怖が広がれば混乱も広がり、冥王国軍は完全に統率を失っていた。
グレンは大太刀を鞘に納め、その中を重い足取りで進んで行く。冥王への言い訳はどうしようかと、鎧の下では少なくない汗を掻いていた。
「ん・・・?」
その時、ふいに空を見上げる。この戦場において唯一人、彼の力を正しく理解し、正しく脅威と受け取った存在の殺意を感じ取ったのだ。
それは空に佇む破壊の権化。月食竜という名の、冥王国最強の戦力である。
(何者ダ・・・あヤツ・・・!?)
彼は確かに見た。人間という枠を優に超えた、圧倒的なまでの一撃が放たれるのを。
『光の剣士』などの強者には敬意を抱くこともあったが、それを見た際には純粋な寒気を覚えてしまう。恥とすら思わないその感情が、絶対的な強者である月食竜の中にグレンへの敵対心を生じさせていた。
(あノ者は・・・危険すギる・・・!)
今ここで対処しなければ、同等の刃がいつか自分達に届くこともあるだろう。
虫けらと蔑む人間であったが、こちらを見つめる全身鎧の戦士だけは別格。滅さなければならない、恐ろしき害虫であった。
敵と定めた脅威に向かい、月食竜は口を大きく開けて破壊の力を収束させる。
狙いは言うまでもなくグレン。被害は大地に及ぶだろう。
今や同盟軍も冥王国軍も関係ない。眼下にいる多くの人間を死滅させる力が、彼らの手の届かない場所で形作られていた。
そう、本来ならば止める術のない絶望的な状況。空を飛べるマリアでさえも不足であり、気付いた時にはもう遅い。
死の宣告は、無言のまま済まされていた。
(まずいな・・・!)
その緊急事態を、グレンは自分のせいだと考える。とは言っても正確にではなく、自分が冥王国の兵士を殺したために竜を怒らせてしまったのだと捉えていた。
間違った解釈なのだが、どのような理由にせよ見過ごせるわけがない。
(届くかどうか分からないが・・・やるしかないか)
そう決め、膝を少しだけ曲げると、グレンは跳んだ。
『飛ぶ』でも『翔ぶ』でもなく、跳んだ。つまりは単なる脚力による跳躍であり、木に成る実を取るかのような動きである。
けれどもそれは地面をへこませる程の衝撃を生み、彼の体を空高く打ち上げた。
その光景を、一体どれだけの人間が目にしたのだろうか。恐怖と混乱が支配する地上において、それが可能だった者は僅かしかいない。
話して聞かせても、きっと誰も信じてはくれないだろう。
地に這いつくばるだけの人間が、空に君臨する竜の鼻先に飛び移ったなどと。
「――っと」
「ナッ・・・ナに・・・ッ!!??」
月食竜にとって、それは油断が招いた事態であった。
空という絶対不可侵な領域において、極少数いる例外を除けば、人間に対抗できる手段など皆無。そう思っていたがための不覚である。
少なくとも、グレンの動向に注目していれば避けることはできた。ニノが放った『理弓』の矢によって翼を傷付けられていたという事情はあったが、それでも空で人間に触れられるなど、竜にとっては想像できない次元の話である。
だからこそ気付かず、グレンの手は月食竜に届き得た。
「キ・・・貴様・・・ッ!」
『咆哮破』を霧散させ、月食竜は目の前の人間を睨み付ける。その2対の瞳の中に、グレンは自身に対する憎悪を見た。
それは、彼が鼻先に立ったことを無礼と思ったからではない。月食竜が抱いた怒りは、竜と人との間にある、連綿と受け継がれてきた上下関係に起因していた。
古来より、竜とは人に恐れられる存在である。力を束ねても敵わぬ上位者に対し、人間は不干渉を条件に安寧を確保しなければならなかった。
種族としての差は大陸の歴史が証明しており、それを覆されたのはただの一度のみ。その者は例外中の例外として周知され、二度目はないと世界が理解していた。
しかし今、それに背く者が1人。
種族を越えて共通した認識を否定するのは無礼ではなく、もはや裏切りに等しい行為である。
そう、月食竜は――グレンの裏切りに苛立っていたのだ。
「待ってくれ!まずは非礼を詫びよう!こうする事でしか話を聞いてもらえないと思ったんだ!」
しかし彼はそれに気付かず、鼻先に立ったことを謝罪する。もともと戦う気はなく、説得をするため仕方なく飛び移っていた。
「こちらに争うつもりはない!先程のは事故だ!」
「事故ダと・・・?貴様ッ・・・何ヲ言ってイるッ!」
だが噛み合わない。
種族の違いが如実に現れた結果なのだろうか。これまで起こった出来事に対する感じ方が、彼ら2人では決定的に異なってしまっているのだ。
「信じてくれ!私は同盟軍の代表として、降伏する意思を伝えに来ただけだ!」
「黙レッ!貴様ノ蛮行は許さレざるモのだッ!」
「仲間を殺されて苛立つのは分かる!しかし、これ以上の戦闘は誰も望んでいない!」
「ナに・・・ッ!?貴様、まサか・・・ッ!すデに我が同胞ヲ討ったト言うノか・・・ッ!?」
「・・・・・・ん?」
この時、グレンが会話の違和感に気付く。目の前の竜を怒らせた原因が、自分の思っているものと違うような気がしたのだ。
先程の光景を目にしているのならば、『まさか』などという言葉は使わないはずである。さらには『同胞』という表現も気に掛かり、それが冥王国の兵士を指していないのは彼にも分かった。
高い確率で勘違いをしたように思え、それを肯定するかのように、竜の巨体から膨大な殺気が放たれる。
「許さヌッ!その罪、死デ償えッ!!」
激昂した月食竜は、グレンを握りつぶそうと手を伸ばした。3本の指が彼の周囲を覆い、一切の慈悲無く即座に閉ざされる。
例え鎧を纏っていようとも、竜の筋力ならば人間を握り潰すなど造作もないことであった。人の血で汚れるのは忌避すべきであったが、大罪人は残酷に殺すのが妥当である。
「ヌッ・・・!?」
しかし、その手は空を切る。
巨体を誇る竜であったが、その動きは決して緩慢ではない。動体視力も並みいる生物を遥かに凌駕しており、標的が躱そうとしたところで反応するのは容易なはずであった。
だが手中に獲物はおらず、月食竜は全身鎧の戦士を見失う。
「落ち着いてくれ。貴方は誤解をしている」
僅かな焦りの中、直後に聞こえた声に反応した。
内側にある2つの瞳を寄せ、自身の眉間を前にして立つ戦士を辛うじて視界に収める。
「おのレ・・・ッ!!」
「頼む、私の話を聞いてくれ。私は貴方の仲間を襲ったりは――」
誤解を解こうとするグレンであったが、月食竜は聞く耳を持たず、彼の周囲に光弾を展開させた。
自爆覚悟。加えて交渉の余地なし。制止を掛ける間もなく、攻撃が開始される。
(仕方ない・・・)
悩む時間すら与えられなかったため、グレンは現状に対する解決策を早々に決断した。光弾が着弾するよりも前に右拳を握り、月食竜の眉間に向かって重い一撃を叩き込む。
瞬間、地上の騒ぎを打ち消すほどの爆音が轟いた。天高くまで響き渡ったそれは、夜空で輝き始めた星々すら驚かせただろう。
地上にいる者達は言わずもがな。一変して誰もが動きを止め、反射的に上空を見上げる。
そして、その光景を目にした。
巨大な竜が、空を舞う大陸の王者が、流星の如き速度で落下していたのだ。
(うえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッッ!!!!!?)
マリアにしか聞こえない大声で、ピースメイカーが絶叫する。
グレンが飛び降りてから絶えず彼の様子を窺っていたため、何をしたのかを勘違いの余地なく理解していた。
「月食竜さんが・・・落ちてく・・・・」
(なんだあ、あいつ・・・?ほんとに人間か・・・?)
問われたマリアは答えない。
そのような事は、問題ではないような気がしていた。
「ねえ・・・ピーちゃん・・・今のボク達だったら、月食竜さんに勝てると思う・・・?」
(え・・・いや・・・無理だろ・・・。昨日は調子乗って『勝てるかもしれねえ』って言ったけど・・・無理だろ・・・。だって俺、魔法道具だし・・・)
「だよね・・・」
竜に魔力を伴った攻撃は効かない。それは『光の剣士』であるマリアの攻撃を弾くほどであり、そのため人間が竜に対抗する手段はないと言われてきた。
「じゃあ、グレンさんはどうやって・・・?」
などと考えても答えは単純である。要は、自分の力のみで竜の巨体に攻撃を加えたのだ。
装備によっていくらかの強化はされているだろうが、それを加味しても異常な事実である。固く厚い鱗を前にそんな事ができるのならば、人間は竜の扱いに苦労しない。
信じられない現象には納得のいく答えが要求され、グレンの姿を思い浮かべた後、少女はある結論に辿り着いた。
「やっぱり・・・筋肉なのかな・・・?」
(いや!それはぜってえちげーからッ!!)
すかさず入ったピースメイカーの否定の言葉と同時に、月食竜が地面に激突する。逃げ遅れた冥王国兵が下敷きになったが、轟音が悲鳴を、土煙が惨状を覆い隠した。
けれども結果は予測でき、竜に遅れて落下しながら、グレンは顔を顰める。繰り返された思慮の浅い行動に、彼は自分自身に対する呆れを覚えていたのだ。
先の戦闘での弱体化が残っているという訳でもあるまいに、考えが足りず、無駄な被害ばかり出してしまっている。
これに対し、疲れているというのは言い訳だろうか。
体が、ではない。心が疲れているのだ。
とにもかくにも、この地では色々なことを経験し過ぎた。止めとばかりに子供達との戦闘もあり、グレンは精神に多大な疲労感を抱えてしまっている。
未だ解消されない空腹も恨めしい。着地の際の衝撃が腹の中にこれでもかと響いたのは、おそらくそれが原因だろう。
自覚した不調がグレンの歩みを更に重くするが、目的地まではあと僅かであるため、気にせず土煙を抜けた。途端、視界の先に大勢の冥王国兵が登場する。
ここまで来ると全てが正規兵で構成されており、装備や練度にも違いが見えた。竜を落としたグレンの姿を見ても逃げ出さないのは、彼らも国を想って戦っているからなのだ。
それでも襲い掛かっては来ず、グレンが近付けばすんなりと道を開けた。それを臆病と言うには、彼の成し遂げた偉業はあまりにも規格外すぎる。
そのため冥王国兵の中には、グレンに尊敬の眼差しを向けている者までいた。しかし同時に、恐ろしいと怯える者までいる。
人間は、竜には絶対勝てないはずであった。つまり、それを覆した者は人間ではないのだ。
自分達と同じ姿をしながら遥かに勝る力を持ち、敬意と畏怖を一身に集める彼をして、人は何と呼ぶのが相応しいのだろうか。
「まったく・・・お前は奇跡か何かか?」
その一例とでも言うように、目の前にまで歩いてきた戦士に対して、冥王ドレッドは椅子に腰掛けたまま呆れたように言葉を発する。臣下であるミシェーラからの報告により、それがグレンであることは最初から分かっていた。
竜を倒した者を前にしても余裕に満ち溢れた態度を崩さないのは、ドレッドが不老不死であるためと、相手が礼儀を重んじているからである。
その信頼を損なわないよう、グレンはまず冥王に向かって一礼をした。
「お騒がせして申し訳ありません、陛下。まず、貴殿の兵を傷付けてしまった事をお詫び申し上げます。ですが、私に交戦の意思がない事だけは信じていただきたい」
「ああ、分かっている。お前の事情は全て理解しているつもりだ。干民達は気にするな。使い捨てに過ぎん。竜の方は気絶しているようだが、倒されたからと言って暴れるような者ではないだろう」
自軍に被害が出たのにも関わらず、ドレッドはかなり物分かりが良く、グレンは逆に戸惑ってしまう。こちらの事情を知っているというのも不思議であり、ここに来て何かしらの企みでもあるのかと警戒した。
けれども自分のやる事が変わる訳ではなく、グレンはまず冥王の剣を持ち主に返す。
「陛下。約束通り、こちらをお返しします」
「ああ」
淡々と応えると、ドレッドはそれを受け取るよう指示を出す。彼の周りには護衛として幹部格――将軍や側近が付いており、誰もがグレンに対して最大限の警戒心を持って臨んでいた。
その中から、参謀であるロキリックが歩み出る。グレンも彼のことは覚えており、睨み付けてくる者達の中では比較的冷静さを保っているように見えた。
傍に来たため、剣を差し出す。しかし、何故か受け取ろうとしない。
「グレン殿、剣を受け取る前に1つ忠告をさせていただきたい。冥王様に謁見しているというのに、顔を隠すのは無礼ではないですか?」
そして、グレンの非礼を責めてくる。
言っている事は至極真っ当な意見であり、失念していたと彼も反省した。『英雄の咆哮』を用いて身に着ける『神の目』は、内側から見れば兜などないような視界が広がるため、被っていることを忘れてしまうのだ。
「これは失礼を」
急いで兜を両手で挟み、脱ごうとする。だが、今のグレンの力を以ってしても外れる気配がしなかった。
今まで知らなかった事だが、どうやら鎧全体が1つとなっている構造らしい。無理しても仕方ないため、グレンは早々に手を放した。
「申し訳ない。どうやら外せないようだ」
「はい・・・?」
「構わん。ロキ、お前は剣を受け取って下がれ」
不服そうなロキリックであったが、ドレッドがそれを制する。そして主君からの命令通りに剣を受け取り、不承不承といった感じに下がっていった。
「さて、それでは本題に移るとしよう」
続いて、今この場での最優先事項に話が変わる。
「はい。私がここに来たのは他でもありません。同盟軍各国は、冥王国に対し降伏する意思を表明しました」
「分かった。冥王国はそれを受け入れよう」
それは、聞く者が聞けば奇怪と思われても仕方のないやり取りであった。国の勝敗を決める交渉が、たったの二言三言で終わってしまったのだ。
けれども2人の間では予めそのような取り決めがなされており、既定路線でしかない光景である。
「しかし、お前自らが出向いて来るとはな」
すでに終わってしまった事に興味はないのか、ドレッドは世間話を始めた。顔に笑みが見えるのは、戦争が終わった事による安堵だけでなく、話し相手に親しみを感じているからだろう。
けれども兜の下に隠れたグレンの顔に余裕はなく、ここからが本番なのだと緊張していた。
「実を言いますと、それには理由があるのです。陛下、私に挽回の機会を頂けないでしょうか?」
「挽回?どういう事だ?」
ミシェーラによる監視があったとは言っても、それは同盟軍の砦を出るまでと、『名もなき祭壇』に出会ってから別れるまで、そして砦に帰って来てからである。
それ以外の時については情報がなく、ドレッドもオトアキナ学術国におけるグレンの失態については知らなかった。
「話せば短いのですが・・・何分、お恥ずかしい話ですので・・・」
「言いたくないか。まあいい。それで、お前は何を望んでいるんだ?」
竜を倒すほどの強者が何を欲するのか、ドレッドはとても興味深そうに問い質す。
挽回と言っていたのだから、金銀財宝の類ではないだろう。果たして誰に、そして何に対する挽回なのだろうかと、期待感すら持って回答を待つ。
そして告げられた言葉は、頭を下げながら語られた。
「大変申し上げにくいのですが、降伏をした同盟軍に対し、温情を頂けないでしょうか?」
それこそが、彼なりに頑張って考えた失態に対する償いである。
敗戦国というのは得てして冷遇されるものであり、戦勝国に様々な面で支配されるのが当然であった。有形無形を問わず変化を強要され、苦い思いをしても文句は言えない。
グレンはそれに、手心を加えて欲しいと言っているのだ。
無論、無関係を装ってきた者が語っていい台詞ではない。この最終局面に顔を出し、勝利者に対して要求をするなど、出過ぎた真似以外の何物でもなかった。
実際、彼の言葉を聞いた冥王国の幹部たちは不快感を露わにしている。そしてグレン自身、自分がいかに厚顔無恥な物言いをしているのかを理解していた。
それでも同盟軍に属する知人を想っての行動であり、彼としても恥を忍んで実行するに足る申し出だと考えている。下げた頭を上げることなく、グレンはドレッドの返答を待った。
「ふむ・・・で、具体的にはどうして欲しいんだ?」
興味を持ってくれたのか、詳細を尋ねる言葉が返って来る。それによって生じた歓喜を抑えつつ、グレンは姿勢を正した。
こんな時、顔を隠しているのが本当に悔やまれる。ならば『紅蓮の戦鎧』を解除すればいいと思うが、それをしては衣服が破れた不格好な姿を晒すだけであり、逆に失礼だ。
それ以前に帯刀ならびに先制攻撃と、気付けばすでに無礼は重なっている。それでも受け入れてくれているあたり、やはり冥王ドレッドとは寛容な人物だと思われた。
そのような相手ならば真摯に話を聞いてくれるはずだと、グレンは交渉を試みる。
「・・・出来るだけで良いのです。敗戦国の文化や国民、歴史を丁重に扱ってはいただけないでしょうか?」
「それでもまだ抽象的だな。だが、言いたい事は分かった。要は敵国の指導者を処刑したり、国民を不当な地位に落とすなと言いたいわけだ」
「・・・はい」
「安心しろ。無論、そのつもりだ」
「え・・・?」
その確約は、グレンにはかなり意外に聞こえた。兜の下では驚きに表情が固まり、自分で願っておきながら「どういう事だ?」と疑問に思う。
しかし、それはドレッドという人物を詳しく知らないためだ。彼は真に平和を望む勇者であり、そのためには自分の手を汚せる革命家であった。
故に支配はすれども侵略せず、あくまで力による安定を目的としている。それは臣下の者達も知っており、冥王の言葉に動揺も異論もなかった。
「さしあたって天守国、光国、律国には冥王国の属国となってもらうが、それ以上の何かを望むつもりはない。それぞれの国の象徴も、そのままにするつもりだ。特に天子は人気者だからな。権力はくれてやれないが、俺と同等の地位に置こうと考えている」
それは、敗戦国に施す慈悲としては異例に感じられた。あまりにも好条件であったため、むしろ裏があるのではと疑ってしまう程である。
けれども足りない点もあると、グレンだけは気付いていた。
「陛下。そこに、エルフ族の保護も加えていただけないでしょうか?」
そう言う声に引け目が感じられたのは、やはりドレッドの提示した条件が良過ぎたからだろう。これ以上をまだ望むのかと、叱責されても仕方のない態度であった。
「エルフ?――ああ、そう言えば、同盟軍にはそんな奴らもいたな。正直なところ、残すには値しない種族だと思っているんだが」
「そこを何とか。冥王国のみならず、この地域の国々がエルフ族を下に見ていることは知っています。しかし、彼らとて無能ではありません。我々には扱えない力を持っているんです」
「魔素を使った術法か。加えて、竜すら傷付ける神の弓。・・・確かに、以前までと評価が変わったのも事実だ」
一体どこまで知っているんだと、グレンは冥王国の情報収集能力に驚愕する。けれども説明の手間が省けたわけであり、都合が良いと言えばそうであった。
「その通りです。またそれだけでなく、彼らは人間と共存できます。蔑ろにするには惜しい存在かと」
「ふむ・・・」
言われたドレッドは、顎に手を当て考える。その姿を、グレンは緊張感を持って眺めていた。
生きてきた年月が長いせいか、冥王ドレッドはあまり感情を面に出さない。無表情とは違うそれは、本音を隠しているのではなく、外部の出来事を受け入れる心の許容量が大きいように感じられた。
こういった人物を器が大きいと言うのだなと、グレンは密かに思う。
「――分かった。ならば、冥王国の領土内にエルフ族が住めるよう特区を設けよう」
「なッ・・・!?」
その申し出にはグレンも驚いたが、声を上げたのは彼ではなくロキリックであった。それがどれだけの譲歩かを理解しているからであり、他の臣下も主君の言葉に動揺を隠せない。
「冥王様!何故そこまでの御配慮を――!?」
「その通りだ、ロキ。これは破格の待遇と言っていい。かと言って、別に俺はエルフ共をそこまで評価しているわけではない。――これがどういう意味か分かるか、グレン?」
急に話を振られ、グレンは戸惑う。そんな頭では正解など導き出せるはずもなく、「いえ・・・」と首を横に振った。
「教えてやろう。これはお前に恩を売るためのものだ。お前がエルフ族の保護を願ったから、俺はそれを受け入れた。分かるな?つまり、お前は俺に借りが出来たんだ」
確認を取るようにドレッドは言う。グレンもそれくらいならば受け入れるのに弊害はなく、了解したと頷いた。
「分かりました。しかし、その借りはどのように返せばいいのでしょうか?」
「それだ。問題はそこなんだ、グレン。どうやら俺はお前に非常に興味を持ってしまったらしい。出来れば新たな戦力として迎え入れたいくらいだ。しかし、前回も言った事だが、それはお前も納得しないだろう?」
「はい。私にはすでに忠誠を誓う方がいますから」
「そこでだ。俺はお前の国と同盟を結びたいと考えている。お前の国がなんという名前か、教えてくれないか?」
ここまでで一番衝撃的な台詞を、ドレッドは語ってみせた。信じられないといった感じにグレンの動きは固まり、しばらく無言が続く。
けれども結局、答えは1つであった。
「申し訳ありません。それに答えることはできません」
「そうか・・・やはり無理か。恩を着せれば何とかなると思ったんだがな」
「私の母国は私の物ではありませんので、この場で名を出す資格が私にはないのです。それに、同盟というのがただの口実で、そちらの国との争いに発展しないとも限りません」
「そうは言うが、遅かれ早かれそうなるかもしれないんだぞ?」
「ん・・・?それはどういう意味でしょうか・・・?」
冥王の顔には笑みが見える。そのため冗談のようにも聞こえたが、周りにいる将軍達の反応がそうではないと物語っていた。
ここでそれを話すという事は、最悪の場合グレンとの戦闘に移行しかねない。竜すら倒す者との戦いに、彼らの緊張感は自然と高まっていく。
それでも止める者がいないのは、誰一人として怯えてはいないからだろう。
「俺の――冥王国の最終目標は『大陸統一』だ。俺はそれを成し遂げ、大陸中に平和をもたらすことを夢見ている。となれば、お前の国にも侵攻する可能性があるという事だ。それが近い内か遠い未来かは分からないが、いずれは必ず辿り着くだろう。遅かれ早かれとはそういう意味だ」
知られざる冥王の野心を聞かされても、グレンはすぐに反応を返さない。表情も見えず微動だにしない彼の姿を見て、冥王国の者達は不気味に思った。
唯一顔色を変えないドレッドだけが、落ち着いた口調を保ったまま、続けてグレンに話し掛ける。
「それを聞いてお前はどうする?俺を止めるか?知っての通り、俺は不老不死の王だ。俺を止めない限り、俺の国も止まることはない。だが、老いることも死ぬこともない俺をどうやって止める?お前がどれだけ強くとも、死なぬ人間を殺すことはできまい」
まるで挑発しているかのような物言いは、先ほど自身で言っていたグレンに対する興味の表れであった。この者はどのような答えを出すのだろうと、兜越しに相手の目を見る。
(無難な回答としては地下深くの幽閉か、重しを付けて水の中に沈めるとかだが・・・)
不老不死だからと言って、ドレッドは自分が無敵だとは思っていなかった。対抗手段などすでに幾つも考えてあり、それを未然に防ぐため国全体の強化を計ったのだ。
自分の中に答えがあるのにも関わらずグレンに問い質したのは、彼ならばそれ以外を提示してくれそうだと思ったからである。つまりは単なる興味本位の質問であり、実際に戦争を仕掛けようなどとは思っていなかった。
これまでの計画を断念しなければならない程の存在が、現実として目の前に立っているのだ。強行するのは意固地というものである。
「そう・・・ですね・・・・」
そして長い沈黙の末、グレンが漸く口を開いた。
その瞬間、それぞれの鼓動を期待や恐怖が刺激する。武器を構える音も聞こえたが、ドレッドは仕方ない反応だと制することはしなかった。
「仮にそうだとすると・・・私としても見過ごすわけにはいきません」
「当然だな。国を想う者ならば当然の発想だ。それで?お前はどうすると言うんだ?」
「仮に――あくまで仮にですが、話し合いで解決できないとなれば戦うしかないでしょう」
「だが俺は不死の身だ。俺にお前は倒せないが、お前にも俺は殺せない。そのような状況で、どうやって俺を止める?」
「心苦しいですが、その時は陛下の味方を1人残らず殺すしかありません。例え不死であろうとも、たった1人では王にはなれないでしょうから。そうなれば、他国への侵略も諦めざるを得なくなるはずです」
グレンがそう言い切ると、再び沈黙が訪れる。
その荒唐無稽な不死への対抗策は、常人の言葉ならば歯牙にも掛けられないものであった。しかし彼であるならばと、多くの者が現実味を帯びた宣戦布告として受け取ってしまう。
グレンを前にしては、冥王国の将軍格とて力不足。緊張感が場を完全に支配し、張り詰めた空気が呼吸さえ止める。
「――ふはははははははははははははははッ!!」
そんな中、ドレッドの笑い声が響いた。心の底から楽し気に笑っており、溢れ出た涙を拭う仕草も見せる。
王としての余裕かと思われたが、違う。
ただただ面白い。その程度の感情のように感じられた。
他の者には理解できない反応だが、冥王たる彼だけは、グレンの言葉を軽く受け止めているのだ。
「なるほど、グレン!お前はあまり頭が回る奴ではないようだな!俺1人を止めるために大勢を殺すとは!だが気に入った!今の答えは、俺が今まで一度も考えなかったものだ!」
「はあ・・・・」
褒められたような貶されたような、礼を言うにも躊躇する言葉であり、グレンはそれだけ返す。その戸惑いと冥王の笑いが場を弛緩させ、先程まであった殺伐とした雰囲気は霧散していった。
「見込み通りと言うのだろうな。それが出来るだけの力をお前は持っているという事だ」
「無論、そうしたくなどありませんが」
「分かっている。しかし、疑問なのはお前のその腰の低さだ。強さというのは万国共通の権力。竜を倒すほどの力を持っているのならば、もう少し図々しく生きても良いと思うんだがな」
その助言に対し、グレンは眉を顰める。
「理解できかねます。そのような事をすれば、私だけでなく多くの者の悪評に繋がるでしょう。それが私の国の王にまで及ぶのは耐えられません」
「ほう・・・なるほどな。お前の生真面目さは生来のものというだけでなく、己の王に対する忠誠心から来ているのか」
つまりグレンの国には王がいるのだなと、ドレッドは引き出した情報を記憶する。
「はい」
「それを聞いて、ますますお前の国と交流を持ちたくなった。お前程の男が敬う王とはどのような人物なのか、この目で見てみたい」
そして再度、グレンに国の名を答えるよう促す。
しかし、彼の答えが変わることはなかった。
「申し訳ありません。どのような理由であろうと、国の名を教えることはできません」
「一応言っておくが、先程の挑発は冗談だぞ?お前の国を侵略するつもりなど――いや、違うな。お前と争う気など毛頭ない。その代案としての同盟締結だ。それでも気は変わらないか?」
国を束ねる者として、ドレッドの判断は迅速かつ柔軟である。
勝てない存在がいるのならば仲間にしてしまえばいい。結果として統一とはいかないまでも、望んだ安寧を実現させるくらいはできるだろう。
グレンの力を活用すれば、その時期を早めることすら可能に違いない。
当初の予定に固執するよりも、適した対応を取ることが最善と、冥王は会話の最中に結論を出していた。
「それでも出来ません。大変申し上げにくいのですが、私はそこまで陛下のことを信用してはいないのです」
しかし、突き付けられた言葉は明確な拒否であった。出会ってから大して時間が経っておらず、交わした言葉も膨大とは言えないのだから仕方のない反応であろう。
例えドレッドが敗戦国に慈悲を見せるような人格者だったとしても、彼が王であるからこそ、その一線は簡単には越えられないのだ。
そしてそれに関しては一理あると、ドレッドも頷いている。
「確かに・・・言われてみれば確かにそうだ。俺とお前は出会ってまだ日が浅い。信用しろというのも無理な話か」
「ご理解いただけたようで、助かります」
「しかしそうなると、俺がお前を信用し過ぎていたという事になるな。あいつらを向かわせたのは軽率な判断だったか」
彼の言う『あいつら』が何を指すか、グレンには当然心当たりがあった。
つい先程まで戦っていた、子供達のみで構成された部隊――『名もなき祭壇』のことである。
「それについては一言申し上げたい。何故あのような子供達を遣わせたのですか?」
そう言う声には若干の怒りが見えた。そこから、グレンがドレッドの指示を不服と思っていることが察せられる。
戦争に子供を駆り出すなど言語道断であるため、ばつが悪そうに冥王は笑った。
「まあ、そう怒るな。お前の相手としては最適だと思ったんだ。将軍達では無駄な戦力を割くだけになると思ってな。それに、『名もなき祭壇』にとっても良い経験になっただろう」
「経験・・・ですか?」
「そうだ。戦ったお前ならば分かると思うが、『名もなき祭壇』は強い。それこそ、冥王国の未来を担えるくらいにはな」
確かに、とグレンは頷く。
同時に大変だった事を思い出し、『紅蓮の戦鎧』でも癒せない疲れを心に感じた。
「しかし、強くなるのが早過ぎたとも言える。このままでは増長し、向上心を失ってしまう事も考えられた」
「まさか、それで私に彼らの相手を・・・?」
「その通りだ。お前ならば『名もなき祭壇』に力の差を見せつけ、自分達が井の中の蛙であることを思い知らせてくれると思ったんだ。俺とて、気まぐれで学生を使ったりはしない。全ては国の未来のためだ」
したり顔でドレッドはそう説明したが、全ては単なる建前である。当初はそのような事など考えておらず、グレンが機嫌を損ねるだろうと予測したがために、言い訳として述べ連ねていた。
その証拠に、事情を知るミシェーラが彼に向かって抗議の眼差しを向けている。視界の外であるためドレッドは気付かず、話し相手に集中しているグレンも同様であった。
「なるほど。国を想う気持ちは誰であろうと同じという事ですか」
「分かってくれたか。想定する手段に多少の違いは出るだろうが、見つめる先は共通している。良いように使ってしまって、お前には悪いと思うがな」
「いえ、お気になさらず。そういう扱いには慣れていますので」
そこでグレンは、母国と隣国の知人を思い浮かべた。別に都合よく使われた経験はなかったが、そう画策する者達がおり、自然と苦笑いが零れ出る。
「ほう・・・どうやら、お前の国にも抜け目ない連中がいるようだな。これは俄然興味が湧いてくる」
「陛下――」
「――分かっている。これ以上しつこく聞くつもりはない。だが、こちらで勝手に探す分には構わないだろう?」
「む・・・?」
そう来たかと、グレンは僅かに狼狽える。けれども言われた通り、確かに問題はなかった。
別にフォートレス王国とシオン冥王国が同盟関係になることを阻止しようとしているわけではないのだ。その切っ掛けを国王のあずかり知らぬ所で作るのに躊躇しているのであり、積極的に協力はできないというだけである。
「それならば、まあ・・・」
「よし。ではその時に同盟関係が成立するよう、お前が仲を取り持つんだぞ」
「え・・・?私がですか・・・?」
「当然だ。もう忘れたのか?お前は俺に借りがあるだろう?」
そう言えばそういう話をしたな、とグレンは思い出す。新たな提案は国の名を答えるよりも面倒なことになりそうであったが、この場は承諾しておこうと頷いて見せた。
「分かりました。お力になれるかは分かりませんが、約束しましょう」
「いい返事だ。なるべく早く見つけて使者を寄越す。そちらの王にも宜しく言っておいてくれ」
「・・・・・・はい」
少し遅れて返事をしたのは、母国の名を隠しても全くの無駄に終わる気がしたからである。
いくらここより遠い東にあるとは言っても、フォートレス王国と『英雄グレン』の名は周辺諸国に広まっており、その地域に足を踏み入れれば簡単に情報を入手できるだろうと思えた。
それこそ冥王国が本気になれば、ものの数日で辿り着けそうである。
つまり今か数日後かの違いでしかないという事であり、それに拘るのも強情過ぎるのでは、と逡巡したのだ。
しかし教えるのも今更なため、グレンは隠し通すことにした。
誰が王国探しを任されるのかは知らないが、心の中で「申し訳ない」と謝罪をする。
「さて、俺の用件も終わったことだ。そろそろ同盟軍の奴らを安心させに行ってやるとするか」
そこで、ドレッドがそう切り出した。
かなり話が逸れてしまったが、この場で最も重要なことは同盟軍が冥王国に降伏したという事である。その結果がどうなったか、知りたい者も多いだろう。
「そうですね。では、早速向かいましょう」
「ああ」
グレンの提案に返されたドレッドの言葉は短いものであったが、そこからは隠し切れない喜びが感じられた。幾人もの犠牲と数十年もの歳月の果てに念願を成就させたのであり、彼の全身を達成感が満たす。
それでも間を置かず立ち上がると、背を向けたグレンに続いて歩を進めた。馬を使えば早かったが、目的地までの道中、感慨に耽るのも一興だろう。
彼の顔には安らかな微笑みが見え、かつて勇者と謳われた者に相応しい輝きを湛えている。その笑みが絶えず見られるようになる日は、今後果たして来るのだろうか。
ドレッドの夢はまだ動き出したばかり。しかし今日ばかりは、それを忘れても構わないだろう。
4つの大国が織りなす戦争が今、ついに終わりを迎えたのだ。




