4-24 懇願
天守国の英雄ジェイク・マックスは、天子の住まう悠久御殿にて、神妙な面持ちでひれ伏していた。彼が前にしているのはこの屋敷、そしてこの国の主である天子――アメノミコト・ユラトフルベ・センリノーツである。
ジェイクは今、先刻の会議で決められたエルフ族の秘宝『理弓』の使用に関して、土地の支配者であるミコトに伺いを立てていた。
大量の魔素を凝縮して放出する『理弓』は、山1つを殺す程に全てを枯らす。そのため、その許可を得ようとしているのである。
「天子様。何卒、御許可を」
同盟軍の勝利のため、延いては天子の身の安全のため、ジェイクは誠意を込めて言葉を紡ぐ。彼の事を気に入っているミコトがその願いを断るはずもなく、閉ざされた瞳を英雄に向けながら優しく微笑んでいた。
「面を上げなさい、ジェイク。貴方の頼みとあれば、その程度の願いを叶えるのに支障はありません。――フィジン。ジェイクの望み通り、よしなに」
「仰せのままに」
ミコトの両隣には、彼女の親衛隊であるフィジンとライムダルが仕えている。2人とも現在の緊迫した状況をよく理解しており、決戦に向けての準備には助力を惜しまなかった。
天子の守護を第一とするため彼女達が戦場に出る事はないが、それはジェイクにとっても頼もしい限りである。それだけで何の憂いもなく命を捧げられると、固く決心することができた。
「それでは急ぎ行動せねばなりませぬので、吾輩は失礼させていただきまする」
「あ。待って、ジェイク」
退室しようと立ち上がったジェイクに対して、ミコトはまだ話があると制止を掛ける。冥王国が刻一刻と近づいているため急を要したが、天子の命令とあれば従わざるを得なかった。
「何用で御座いましょうか?」
「今は戦の前ですから我が儘を言いませんが、戦いが終わり次第すぐに帰って来るようにしてください。貴方の武勇を、貴方の口から聞かせて欲しいのです」
彼女の現状を理解していない発言に対して、ジェイクを含む3人は呆れを覚えなかった。
天子であるミコトは争いに関して無知であり、心に負担を掛けまいと、同盟軍が窮地に立たされている事実を誰一人として伝えていなかったのだ。
そのため、今回も自国の英雄が大活躍して勝利を導くのに疑いはなく、彼が死を覚悟している事など知りもしない。ミコトの中には、冥王国への恐怖など欠片もなかった。
「ははっ!必ずや!」
しかし、それで良いとジェイクは考えている。自分の命運ごときで天子の心を乱す必要はないと、本来ならば不義とされる嘘まで吐いた。
その代償として、冥王国の進軍は命懸けで止めてみせる。
次の戦で敗北を喫すれば、間違いなく冥王国軍は天示京にまで至り、天子たるミコトの身柄を拘束するだろう。どのような待遇になるのかは分からないが、それが天守国の民にとって苦々しい結果であることは語るまでもない。
それだけは絶対に阻止せねばと、ジェイクはミコトに会って更に意思を固めている。
「では、失礼いたしまする」
そう言って、ジェイクは部屋を出て行くため歩き出す。このような時、ミコトの眼が見えなくて良かったと思うのは不敬だろうか。
背中に天子の視線が注がれようものならば、自責の念に堪えかねて全てを白状してしまいそうである。彼とて、ミコトとの別れを惜しんでいない訳ではないのだ。
(振り返ってはいけないのである、ジェイク・マックス・・・!天子様には、いつものように安らかなる日々を過ごしていただかなくては・・・!)
振り返った所で、目の見えないミコトが彼の異変に気付けるはずもない。それでも後ろ髪を引かれるような想いがするのは、死にゆく己に対して、天子の口から別れを惜しむ言葉を聞きたかったのだろうか。
(天守国の戦士として、なんと女々しい・・・!)
ジェイクは自身の中にある心残りを捨て去り、最後の扉を潜った。引き戸が閉められる音を背中で聞き届け、もはや迷いのない歩みを進める。
かつて親衛隊として警護を任された悠久御殿とも、これでおさらばであった。出口へと向かうまでの間、ジェイクは最後の思い出とでも言うように周りに目を配る。
痛みのない壁、埃のない廊下、高価な調度品、そして美しい庭。
外に出た彼の前には、小石で作られた白色の湖が広がる。初めてこの光景を見た時は、ひどく驚いたものであった。
そう言えば、異国と異種族の客人に見せた時も、感銘を受けた様子だったのを思い出す。その時の感想を聞いてはいなかったが、きっと称賛を口にしてくれるだろう。
(む・・・!いかんのである・・・!昔を懐かしみ始めているであるな・・・!)
死を覚悟したためか。
ジェイクは、自分の状態が不安定になっているのを感じた。
「止まれ、ジェイク」
そんな彼に向かって、語気の強い制止が掛けられる。その声には覚えがあり、ジェイクは振り返ると同時に発言者の名を呼んだ。
「これはライムダル殿。如何なされたのであるか?」
それは先程までミコトの傍に仕えていたライムダルであった。彼女は赤色の鎧を鳴らしながら、苛立ちを浮かべた表情でジェイクに近づいて来る。
そして傍に立つと、彼に向かって疑問を飛ばした。
「貴様、先程ミコト様に偽りを申したな?」
死ぬと分かっているのに帰ると約束した事についてだろう。
天子への虚言が重罪だという事は理解していたが、あそこではああ言うしかなかった。それをライムダルが理解していないはずはなく、ジェイクは少しだけ困惑する。
「も、申し訳ないのである・・・!どのような罰でも受ける所存であるからして・・・!」
「いいや、許さぬ。貴様の犯したその罪、例え死を以てしても償うことはできない」
無難な対応かと思われた謝罪も、にべもなく罰せられてしまった。これには困り果てたジェイクは、どうしたものかと口を噤む。
そんな彼を睨み付けたまま、ライムダルは続く言葉を発した。
「貴様が罪を償う手段は唯一つだ、ジェイク。生きて帰って来い。生きて帰って再びミコト様にお会いするのが、貴様に残された唯一無二の贖罪だ」
それは、彼女なりの激励なのだろうか。鋭い目つきを向けられたままであるため素直には受け取れないが、死ぬなという気持ちだけは伝わった。
「ライムダル殿・・・!」
今まで厳しい態度で接せられてきた人物からの温かい言葉に、ジェイクの瞳が少しだけ潤む。今初めて、彼女と心を通わせた気がした。
「取り違えるな。私は別に貴様の心配などしていない。全てはミコト様のためだ。貴様が死んだと分かった時、ミコト様がどれだけ悲しまれるか、馬鹿な貴様でも分かるだろうが」
だが、その感動は彼女自身によって粉砕される。口調や表情から、照れ隠しとかではなく、本心から言っているようであった。
「う・・・うむ・・・」
「なんだ、その返事は?まさか、この私がお前に温情を施すと思っていたのか?馬鹿もそこまでくると幸福だな。ミコト様のために身命を賭すなど、天守国の民ならば当然の事だ。誰が戦死しても、私は悲しまん」
そこまで言うと、ライムダルはジェイクに背を向ける。本当に一連の台詞を言うためだけに来たようであり、これ以上の会話は不要と判断したようだ。
少し寂しいような気もしたが、彼女らしいと言えばらしい行動であった。とりあえず頭を下げ、ジェイクは帰路に就く。
その間にも、彼は多くの者達と出会った。ほとんどが戦う力の持たない老人や子供であり、不安や期待を彼に打ち明けてくる。
「英雄様よ、儂らぁどうなるんですかのぅ?」
「ジェイク様ー、今度も勝てるんだよねー?」
「ジェイク様、天子様は何と仰っていましたか?」
「悪い敵なんかやっつけてね!」
「頑張って、英雄様!」
自分を信じてくれる者の言葉を聞くたび、ジェイクの中から死への恐れが消えていく。生き残れるという希望ではなく、この者達の希望となるためならば死んでも構わないと思えているのだろうか。
まるで勇気を分け与えられているような感覚に、ジェイクは不思議な高揚感を覚えた。
「皆の者!万事、吾輩に任せるのである!皆に害を為す不届き者には、我が正義の剣が裁きを下すのであるよ!」
そのため、集まった人々に向かって己の覚悟を声高に宣言した。それがどれだけ無責任な行動かは彼自身よく分かっていたが、今この場では許される行いだろう。
守るべき民の笑顔を見れて、ジェイクも満面の笑みを浮かべる。思えば、今度の戦いはこれまでにない物を背負って戦わなければならないのだ。
天子という国の象徴、民という国の基盤、そして皆が暮らす天守国という領土。
英雄と呼ばれて久しいが、彼は今までこれらを失うような戦いを経験したことはなかった。最初で最大の戦が、もう数日で始まる。
「では皆の者!吾輩は戦の準備があるので、これにて失礼するのである!」
ジェイクの余裕に満ち溢れた姿を見て、皆は安堵の表情とともに彼に声援を送る。家に着くまで続いたそれは、戸を閉じると同時に鳴り止んだ。
「お帰りなさい、ジェイク」
それと代わるようにして、家の中から声が聞こえた。またもや勝手に入り込んでいたのか、ジェイクの幼馴染であるランフィリカがそこにいた。
宮女の制服を身に着けていることから、ジェイクが街の人々と話をしている間に先回りして、悠久御殿からこの家まで駆け付けたようだ。少しだけ息を切らしているのが、彼には分かった。
「ランフィリカ・・・どうしたのであるか?」
「親衛隊のお二人から聞いたわ・・・。ジェイク・・・貴方、死ぬ気なの?」
幼馴染からのその問いには、さしものジェイクとて笑顔では答えられなかった。沈痛な面持ちで黙り込み、どう説明すべきかと頭を悩ませる。
「やっぱり・・・そうなんだ・・・」
しかしその反応だけで、ランフィリカは彼の真意を知ることができた。幼い頃からの付き合いが長く、どういった時にどういった表情をするかなど、自分の事のように理解しているのだ。
「ランフィリカには・・・隠し事はできないであるな・・・」
白状するように言うジェイクに対して、ランフィリカは詰め寄る。そしてその勢いのまま、国の英雄に体を預けた。
「ラ、ランフィリカ・・・!?」
「ジェイク、勇敢な貴方にこんな事を言うのは間違ってるって分かってる!でも言わせて!」
そして、彼の顔を見上げると、
「お願い!今度の戦いには参加しないで!」
と、ランフィリカは己の望みを打ち明けた。誰も言わなかった、言ってくれなかった台詞を耳にし、ジェイクは自分の心が少しだけ揺れ動いたのを感じる。
逃げたい訳ではない。恐れている訳でもない。
それでも、自身の立場を慮ってくれる言葉には感謝を覚えた。
「ありがとうなのである、ランフィリカ。だが、心配は無用なのであるよ。吾輩は死ぬ気で戦うつもりであるが、死ぬつもりはないのである。必ずや、再びこの街に帰って来ると約束するのである」
「嘘よ!どんなに強い貴方でも、今回ばかりは無理だろうってライムダル様が仰っていたもの!『それが天守国の戦士としての務めだ』なんて言われたけど、本当に貴方でなくてはいけないの!?」
自惚れのないジェイクは、その疑問に対して肯定できない。頼もしい仲間ならば自分がいなくとも作戦を成功させられると信じているし、彼らがそれを可能なくらい強いことも知っている。
しかし、そんな戦友たちを後ろから見ている訳にはいかなかった。
「誰ならば良いという話ではないのである。此度は国の危機、延いては天子様の危機なのである。少しでも戦う力のある者は、戦列に加わらなければならないのであるよ」
「そんな・・・!どうしても、行くと言うの・・・?」
逡巡すら見せず、ジェイクは頷く。
見下ろすランフィリカの表情には衝撃が映ったが、彼女はそこで終わるほど弱くはなかった。
「じゃあ!私も行くわ!」
「なんと!?」
意外な宣言をされ、ジェイクは狼狽える。
「馬鹿な事を言ってはいけないのである!ランフィリカは宮女!天子様の御傍に仕えるのが役目なのである!わざわざ危険な戦場に出る必要はないのであるよ!」
「宮女だろうと関係ないわ!国の危機だと言うのなら、ミコト様のために戦うのに男も女もないはずよ!」
「それはそうかもしれないであるが・・・ランフィリカよ、戦の心得は?」
「ないわよ!だから、後ろの方で雑務でもしているわ!それなら文句ないでしょ!?」
戦場に出ないと言うのならば、逃げるのも容易いと思われた。そういう事ならば無理に止める事もないか、とジェイクは考える。
彼女の言う通り、天子のためならば男だろうと女だろうと動くのが天守国の人間であった。
「まったく、ランフィリカには敵わないであるな。その気丈ぶり、逃げ出した他国の民に見せてあげたいのであるよ」
「当然よ!未だ戦う気を見せない貴族連中と同じになんて、なりたくないもの!」
彼女の勇気の源は、そういった貴族への反発意識もあるのだろう。言葉通り、ロディアス天守国の貴族達は国の危機だと言うのに戦線に加わる様子を見せていなかった。
しかし、それを咎める者はいない。
絶対的な立場にいる天子は戦況を知らず、称号を得た事で貴族以上の地位に立った者たちは基本的に彼らと関わりを持とうとしなかった。それが互いにとって好都合ではあったが、結果として称号持ちと貴族の連携不足を生み出している。
特にジェイクが天子に気に入られ始めてからはそれが顕著となり、来たる最終決戦にも貴族は参加しない。その異常事態が話題にならない程、この国は水面下で軋轢を抱えていた。
「貴族の方々にも、きっと何か考えがあるはずなのである・・・。それを悪く言ってはいけないのであるよ・・・」
「何かって何よ!その何かをするためにどれだけの時間を掛けるつもり!?冥王国はすぐそこまで来ているのよ!?」
ランフィリカの言葉はいつだって現実的である。自分を叱りつける時も、客人を連れている時も、いつだって正しい事を言っていた。
それでも国の窮地なのだから、貴族もきっと動いてくれるに違いないとジェイクは信じている。もしそうならば、最終決戦における勝機も少しは見出せるというものであった。
「ランフィリカ・・・今は信じるのである・・・。天子様と宗主シグラス様の御加護があらん事を・・・」
祈りにも似た望みは、果たしてどのような結末を迎えるのだろうか。
冥王国が向かって来ているという情報が入って以降、天示京には数多くの物資が届いていた。脱走兵が多く出たとは言っても、国の行く末を案じる者はいるという事である。
特に、『黒虎精鋭明峰騎士団』団長であるセノシィが、戦力になれない代わりにと、馬や食料を大量に送ってくれていた。当然、親の金で買われた物であるのだが、彼女の両親もそれを快く受け入れてくれている。
戦わない者であっても力になれるという事であり、それを示すかのように天示京の住人は物資の仕分けを手伝っていた。
そしてその中には、グレンとヴァルジの姿も見える。
彼らは直接戦闘に参加する予定がなく、何もしないでいるのはどうかと思い、今この場で少しばかり手を貸しているのだ。
馬を引き入れたり、食料を倉庫に運ぶ作業をこなしていく。
力仕事の得意なグレンは大活躍し、小さな子供から『怪力おじさん』という称号をもらっていた。言うまでもなく遊びであり、名乗るつもりも全くなかったが。
「グ、グレン様・・・!?」
そんな中、彼の事を『怪力おじさん』ではなく、敬称をつけて呼ぶ者が現れた。顔を向けると、テュール律国で出会った『戦神』の3人が驚いたような顔をして立っており、手にはグレンと同じ物資を抱えているのを目にする。どうやら、彼らも作業を手伝っているようだ。
しかしそれを元の位置に戻して、3人――モルガン、クリス、ガーネはグレンのもとへ駆け寄る。そしてすぐさま、モルガンが問い質した。
「グレン様!?何故まだここに!?確か、お帰りになられたはずでは!?」
テュール律国において冥王国軍を撃退した後、グレンは彼女らに帰国を告げていた。それ以来の再会なので事情を知っている訳もなく、いないと思っている人物が目の前に現れたための驚き様である。
別れを言った手前、少しだけ恥ずかしく思えたが、グレンは表情を変えずに答えた。
「ああ、少し事情があってな。君達の方こそ、何故この街に?――いや、1人足りないな」
グレンは辺りを軽く見渡し、欠員がいるのを確認した。その人物とは、テュール律国のロドニストという街で新たに『戦神』の仲間に加わった、『黄昏なるシュリオン』という秘匿名を持つ少女である。
「ジュリさんでしたら、ユーグシード教国に向かいました。ジェウェラ様にお会いして、正式に『戦神』の仲間に加えさせていただくんです」
「ジュリ?」
ガーネの説明の中で、グレンは聞き慣れない名前を耳にする。反射的に聞き返してしまい、その反応から少女も説明不足なのを理解した。
「あ、申し訳ありません。『ジュリさん』というのは、シュリオンさんの本名なんです。あの後、教えてもらったんですよ」
「なるほど。確かに、裏家業を営んでいる者が本名を名乗るはずはないか」
納得といった感じであったが、本当に聞きたいのはそれではなく、グレンは問い直す。
「それで、君達は何故ここに?」
「『戦神』の一員として、同盟軍と冥王国軍の最終決戦を記憶しようと思いまして」
再度の問いにはモルガンが答えた。
彼女達『戦神』は、ユーグシード教国で『戦いの神クライトゥース』に仕える大神官ジェウェラの指示で動いている。そのため、今回の戦争を歴史の一片として記録するよう、戦場となるロディアス天守国にまで後方支援という形で訪れていた。
もはや妨害できるような段階ではなく、彼女達の使命も変わらざるを得なかったのである。
「あ!もしかして!グレン様も戦場に立たれるのですか!?」
ここにいるという事は、何かしらの形で戦争に加担するという意思があるからに違いない。
そう判断したモルガンが、顔を輝かせながら問い掛けた。しかし、それはすぐに否定される。
「いや、そうではない。この地方で知り合った者達のことが心配で戻ってきてしまったが、これは彼らの戦いだ。余程の理由がない限り、手を貸さない方が良いだろう」
例を挙げるとするならば『復讐の助力』だろうか。しかし、それはすでに果たされており、それ以外でグレンが戦闘に参加する理由はない。
「だから、こういった荷物運びを手伝っている」
「なるほど。私達と立場は似たようなものなのですね」
言われてみればそうだな、とモルガンの言葉にグレンは妙な納得をした。ただ彼らとは違い、歴史的出来事の立会人になるなどという崇高な使命は持ち合わせていない。
「では、今後はどうなさるおつもりなんですか?」
そのため、続くガーネの問いには少しばかり頭を働かせる。
少女としては純粋な興味として聞いてみただけなのだが、その点についてはグレンの悩み所であり、戦争の結末を見届けるまではいようか、というくらいまでは決めていた。
エルフ族の今後の安否も気になるし、これまで出会った者達――ジェイク、エンデバー、マリアにロイドといった面々についても気掛かりである。
「特に決めてはいないが、まだこの地に留まるつもりだ」
とりあえず、ガーネの質問にはそう答えておく。
彼らと出会う前ならば「他国の出来事だ」で済ませたものを、とグレンは心の中で自嘲した。やはり少しでも親睦を深めた者が危機に陥るとなると、気が気でなくなるのが人情である。
国を出る前、同行を依頼したヴァルジに向かって放った言葉を、今更になって訂正したいグレンなのであった。
(む・・・そう言えば、ヴァルジ殿が傍にいるんだったか・・・)
ルクルティア帝国の皇帝に仕えるヴァルジと、目の前にいる『戦神』の3人は直接的ではないが確執がある。そのため鉢合わせるのはまずいと、グレンは辺りを見回して老人の所在を確認した。
そして、少し離れた位置で子供達と話をしているのを見つける。どうやらこちらの状況には気付いていないようであり、安堵したグレンはすぐに3人に向き直った。
「君達、悪いことは言わない。あそこにいる老人の前には現れないことだ」
その唐突な物言いに、どういう事かと3人は互いに顔を見合わせる。代表して、モルガンが理由を尋ねた。
「何故でしょうか?」
「あそこにいる方は、ルクルティア帝国の皇帝に仕える執事だ。君達の仲間が皇帝陛下を襲ったのを少なからず根に持っている。報復まではされないが、あまり顔を見せない方がいい」
それはヴァルジを想っての行動でもあるだろう。誰であろうと、好ましくない人物と出会って気分を害するのは避けたいはずだ。
そう思い立ったがために『戦神』の3人に知らせているのであり、老人に対する裏切り行為では決してない。
そして、その情報を得たモルガン達は、一様に沈痛な面持ちをした。
「そう・・・ですか・・・」
辛うじて、モルガンがそう呟く。全ては神の教えに順じた行動であるため、組織理念を変えるまでの行いが間違っているとは思っていないが、他人に恨まれるのは複雑な心境であることは確かであった。
罪を認めないのではなく罪と思っていないが、相手の気持ちも分かるという心地である。
『戦神』の者達にとってはジェウェラの教えに従うことが正しく、彼のために尽くすことが尊いとするために生まれる価値観なのだろうが、それを他人が理解するのは無理だろう。
グレンも、3人が罪悪感を覚えているとしか捉えていない。
「過ぎた事だ。実行犯でない君達が気を落とすことはない」
そう慰みの言葉を掛けるが、完全に吹っ切れる結果とはならなかった。それでも神の生まれ代わりと信じる者からの助言であるため、ありがたく聞き入れ笑顔を浮かべる。
それとほぼ同時に、グレンの傍に、ある人物が近寄って来るのが見えた。
「グレン、ここにいたのか」
それはエルフ族のニノであり、彼のことを探していたようだ。その顔には安堵が見えたが、何故かモルガンを視界に収めた瞬間、僅かに目付きが鋭くなったのを彼女だけが理解する。
(嫉妬・・・かしら?)
グレンに向かって笑顔を浮かべていたのが気に食わなかったのだろうか。テュール律国においてもあまり縁のなかった女エルフに攻撃的な意思を向けられ、モルガンは疑問に思う。
いずれにしろ、それだけでニノがグレンの事を好いていると分かった。
「どうした、ニノ?」
しかし、返すグレンの言葉には特別な感情が見られない。もしかしたらと思ったモルガンであったが、まだ2人はそういった関係ではないようだと結論付けた。
「少し相談したい事がある。2人きりになれない?」
「ん?ああ、構わないが」
それでも親密な関係ではあるようだ。
恥じらいを見せながら尋ねるニノに対して、グレンはあっさりと承諾してみせた。
「という訳だ。3人とも、先ほど言った事に気を付けて行動してくれ」
最後にそう告げて、グレンはニノを連れて去って行く。
そんな2人の背中を見ながら、モルガンはある発想に思い至っていた。
「ねえ、2人とも。先程、グレン様は『戦いには参加しない』と仰っていたわよね?」
「え?そう・・・ですね。異国における戦争ですから、別におかしな話ではないと思います」
モルガンの問いにガーネがそう言葉を返し、クリスは頷くことで肯定した。
「でもね、それは覆る気がするのよ」
「ええ!?どうしてですか!?」
意外な見解に疑問の声を上げた少女に向かって、モルガンはいやらしい笑みを浮かべる。それだけで、他の2人は彼女が何を言いたいのかを薄っすらと察した。
「考えてもみて?同盟軍は今、危機的状況に追いつめられているのよ?その環境下で、グレン様のような強く、頼もしく、素晴らしい男性が隣にいてみなさい。確実に『助けてくれ』と懇願するに決まっているわ」
「それはそうだと思いますけど・・・グレン様がそう簡単にそれをお認めになるでしょうか?」
彼に対して尊崇の念を抱いているガーネであったが、出会って日の浅いグレンのことを深く理解している訳ではない。それでも、彼が安請け合いするような人間であるならば、この戦いはもっと好転していると思え、そうでない事から慎重な性格であると判断していた。
前回の戦いでは冥王国の将軍を斬りまでしたが、彼の中でしっかりと線引きがなされている事も分かっている。その功績を言い触らすような真似をしていないのが、何よりの証拠であろう。
「何を言ってるの。そういった男の頑なな意見を簡単に変えれちゃうのが、女のすごい所なのよ?」
しかし、モルガンはしたり顔でそう言った。
「どういう意味ですか?」
どういった類の話をしたいのかは分かっていたが、詳細を聞こうとガーネは踏み込む。クリスが「止めておけ」とでも言いたげな表情をしていたが、ここまで来たら最後まで聞きたかった。
「いい?女の体には、男を説得するための武器がいくつもあるの。いかにグレン様が偉大であっても、男である事に変わりはないわ。きっとこれから、あんな事やこんな事をして――」
「つまり色仕掛けですか!?グレン様がそんな手に――と言うよりも!エルフがそんな手段を取るとは思えません!」
「そんなの分からないじゃない?誰だって、追いつめられたら足掻こうとするものでしょ?命が懸かっているんだから、手段なんて選んでいられないわ」
それは納得のいく理屈であり、ガーネは口ごもる。この場にいる3人も過去に似たような事を経験し、今を迎えているのだ。
あのエルフに対してとやかく言うのは自分を否定するようなもの。そのため、3人はそれ以上口を開かず、グレンの助言通りにその場を去って行った。
では実際、グレンとニノはどうなっているのだろうか。
彼らは今ニノに割り当てられた部屋の中におり、グレンは彼女に背を向けられている所であった。部屋に入った早々その状態となってしまい、グレンもどうしたものかと困っている。
相談があるからと言って呼び出したのにも関わらず口を閉ざし続けるニノに疑問を覚えたが、それだけ言い出しづらい事柄であるのだろうと判断し、グレンは自分から話を振った。
「それで、相談とはなんだ?」
おそらく今度の決戦についてのものだとは思うが、詳細までは分からない。真摯に答えるべく身構えていると、ニノが薄緑色の髪を揺らして振り返った。
それと同時に、グレンに抱き付く。
「――む?」
「ごめんなさい・・・情けない姿を見せたくなかったけど・・・今はこうさせて・・・」
他の者がいる前では我慢していたのか、ニノは小さく弱音を吐いた。美しい女性に頼られるのは悪い気がせず、グレンもその身を任せている。
しかし何も言わないのも気まずく、
「怖いのか?」
と、いつも通りの口調を心掛けて声を掛けた。その答えとして、ニノは黙って頷く。
彼女の抱える恐れを、グレンは情けないと思わない。むしろ打ち明けてもらえて誇らしいとさえ思っていた。出会ってからここまで色々な出来事があったが、それを共に経験したからこその親密さだろう。
あれほど気丈だったニノが自分にだけ心の内をさらけ出してくれている状況に、グレンは少なからず男としての優越感を覚えていた。
それが現状に即していないのは彼自身よく分かっていたが、本能的な部分なのでどうしようもない。それでも決して邪な気持ちは抱くまいと、心を強く持つ。
「爺様がね・・・。『理弓』を私に預けるって・・・」
グレンの覚悟を見計らったかのように、ニノが呟いた。
「そうか。大役だな」
エルフ族の長の血族なのだから、妥当な選択肢と言って良いだろう。異論を挟む気はなく、ニノならばやり遂げられるとグレンは思っていた。
「どうして、私なのかな・・・?」
しかし当の彼女は気後れしているようで、グレンに対して秘めたる想いを吐露する。冥王国最強の戦力である竜を倒す役目を背負っているのだ、その重圧は相当なものだろう。
思えば、ニノは族長の孫というだけで様々な役目を背負ってきた。エルフの森の防衛、同盟軍との交渉、冥王国軍との戦闘、そして今回の『理弓』の射手である。
ニノは決して強い女性ではない。グレンはニノを信じているため断じてそのようには思わないが、彼女自身がそれを理解していた。
度重なる苦境によって、ニノの心は知らず知らずの内に擦り減ってしまっている。追い打ちをかけるように竜が参戦し、エルフの森を山ごと消し去ってしまった。
だからこそあの時、グレンに共に戦ってくれるよう頼もうとしたのだ。そしてその想いは、再び彼女の中に生まれていた。
「ねえ、グレン・・・?私、怖いの・・・。自分が失敗するんじゃないかもって・・・怖くて仕方ないの・・・」
それがどれだけの死を招くか考えれば、ニノの怯えも理解できる。今回ばかりは、流石のグレンも厳しめの意見を言う気にはなれなかった。
「大丈夫だ、お前ならばできる。そうやって弱音を吐いても、最後にはやり遂げてきたじゃないか」
「それは貴方がいたから・・・!グレンが傍にいてくれたから・・・!きっと、私一人ではできなかった・・・!」
「そんな事はない。前にも言ったが、お前は強い。私などがいなくても、必ず使命を全うすることができるだろう」
誠心誠意、心を込めてグレンは言葉を紡ぐ。落ち込んだニノの心に届くように、優しく語り掛けた。
しかしニノは信じられないと、力強く頭を振る。見上げてきた彼女の瞳には、僅かな涙が浮かんでいた。
「お願い、グレン・・・!私と一緒に戦って・・・!貴方が傍にいれば・・・私も、少しは強くなってみせるから・・・!」
遂に、言って欲しくなかった台詞を言われてしまった。
それはグレンを悩ます懇願。彼の固い意志を唯一揺るがす事のできる言葉であった。
故に、グレンもすぐに答えを伝えられない。本来ならば承諾すべき事ではないのにも関わらず、それを即座に実行できない程に悩んでいた。
このままニノを見捨てるのは可哀想だ。そのような想いが彼の中を支配する。
数回ほど口を開き、閉じるを繰り返した後、グレンは己の意思を絞り出すようにして告げた。
「すまない、ニノ・・・」
それは苦渋の選択であった。
グレン自身、自分が動けばある程度は戦況を押し返せるのでは、という確信はある。しかし、それでは意味がないという考えは変わっておらず、やはり当事者の手で決着まで導かれるべきだと判断していた。
それがどのような結果にせよ、受け入れるしかないのである。国と国の争いとは、そういうものだ。
「どうしても、駄目なの・・・?」
その決断を聞き、切なそうに問うニノの顔をグレンは直視できない。後ろめたさから、思わず前言を撤回したくなる衝動に駆られる。
今が耐え時であった。
「ニノ・・・私は所詮、異国の人間だ。エルフ族や同盟国の歴史に関わるべきではない」
「違う!そんな事ない・・・!姉様の仇を取ってくれて、とても嬉しかった・・・!」
「それが限界だ。お前との約束があったから、そこまでの事をした。これ以上は何もない」
淡々と、グレンはニノの望みを断ち切っていく。同時に自身の迷いも振り払っていき、彼の中には確固たる拒否が生まれ始めていた。
心苦しいが、それが結論である。
それを理解したのか、ニノは僅かに俯いた。
「うん・・・分かってた・・・。貴方も、所詮は人間だって事くらい・・・」
耳を疑いたくなるような台詞を聞き、グレンは思わずニノの顔に目をやる。それは、捉え方によってはグレンを批判しているようであり、自分本位な発言のようにも思われたからだ。
(――ん?)
しかし、そこにあったのは予想していたような怒りではなく、恥ずかしそうに俯いているニノの表情であった。なんだか様子がおかしいと、グレンはニノに声を掛ける。
「ニノ?」
「分かってる・・・!何も言わないで・・・!貴方が望んでいる事くらい、私にだって分かる・・・!」
いよいよもって変だと、グレンは眉間に皺を作った。
そんな彼から少し離れ、ニノは何も言わず自分の服に手を掛ける。いきなりの展開にグレンは戸惑い、それを止めるという行動が取れない。
慣れた手付きで肩掛けと腰巻を外すと、それを胸に抱き、ニノは彼に語る。
「いい・・・?私は初めてなんだ・・・。出来るだけ・・・優しくして・・・」
その瞬間、グレンはニノが何を理解したつもりでいて、何を受け入れたのかを察した。つまり、助力に応える代わりに、彼が彼女の体を要求していると思ったのだ。
ニノがそういった、変に性的な勘違いをする場面にはグレンも何度か出くわしている。しかし今回のはとびきり大きな誤解であり、彼としても驚愕を隠し切れない。
そのため返答は、
「――なあっ!?」
であった。
ただ、ここで誤解してはいけないのは、グレンがニノの勘違いを不服とは思っていない、という事である。男として当然、ニノのような美しい女性と関係を持てるのは歓喜の極みであるし、断る理由など皆無であった。
グレンとて、ニノに何の感情も抱いていないはずはないのだ。
「私では・・・不満・・・・?」
先程の驚愕による叫びがそう思わせたのだろうか、ニノが不安そうに呟く。
上目づかいで問い掛ける彼女の、服で身を隠すような仕草がまたいじらしく、グレンの煩悩を強烈に刺激していた。積極的に来られると一歩引いてしまうグレンであったが、消極的に来られると受け入れたい欲望を抱いてしまうようだ。
これはまずい、とグレンは心を落ち着かせる。しかし冷静になった頭で整理すると、何もまずい事などないのでは、とも思えた。
考えてみれば、ここにいるのは大人の男女である。それが肉体関係をもった所で、誰に咎められる訳でもなく、責任は本人達にあるだろう。
これが例えば――王国の知り合いを引き合いに出すとして――エクセやテレサピスのような未成年の少女であったのならば、グレンも一線を越えようなどとは考えない。例え少女達が望んだとしても、「それは駄目だ」と諭すだろう。
ルクルティア帝国の皇帝アルカディアもグレンとの関係を希望しているが、それはまた別の問題が浮上する。彼女は大人ではあるが、彼に対して純粋な愛情を持っていないのだ。
全ては自国のためであり、自分の身を差し出しているだけなのである。
他に愛する者がいるテレサピスも同様であり、互いにグレンとの子作りを画策しているが、それは悪く言ってしまえば彼を利用しようとしているに過ぎないのだ。
そんな条件では受け入れられず、グレンは拒否の姿勢を崩してはいない。ただ、心の底までそうなのかは、これまた別の話ではある。
では、ニノはどうか。
先述した通り、彼女は立派な大人だ。加えて、どう否定的に見てもグレンに対して並々ならぬ想いを抱いている。
それならば拒否する要素はなく、グレンとしても心置きなく手を出せるはずである。むしろ拒否する方が異常であり、本当に男なのかどうかを疑ってしまう程だ。
そう考えた瞬間、グレンの体温が急上昇し始めた。
未だ彼の中にある常識と理性が自制を促してはいるが、それもいつまで抑えられるかどうか。目の前にいるニノの甘い声に、いつまで耐えられるかどうか。
「グレン・・・?」
彼女らしからぬ艶っぽい声で名前を呼ばれ、グレンの心臓が大きく跳ねる。緊張ではなく、興奮がそうさせた。
反射的に生唾を飲み込んだ音が響く程に、今の彼の頭の中は空っぽである。もう流れに身を任せてしまってもいいのでは、と思い始めてしまってもいた。
その邪念を振り払えるのは、紳士かつ強大な戦士であるグレンくらいだろう。
「い・・・いいか!ニノ!まず言っておくが、男がお前に対して不満を抱くことはない!」
声が大きいのは、そうする事で躊躇いを捨て去ろうとしているからだ。
「それは私も同様であるし、お前の覚悟を台無しにするような真似はしたくないと思っている!」
「じゃあ・・・」
「だがな!」
自分が何を言おうとしているのか理解しているグレンの中で、彼の本能が語り掛けてくる。
勿体ない。馬鹿な真似はよせ。誰にも知られやしないよ。
それらを理性で抑え込み、グレンは言葉を続けた。
「そういった、自分の体を売るような行動は慎むべきだ!それだけお前が必死なのは分かるが、きっと後悔する!なんて軽率な真似をしたのだろうと、長い人生の中で嘆くはずだ!」
これが恋愛関係の末ならば、グレンも快く彼女と関係を結んだだろう。しかし、たった1人の男を戦いに駆り出すためだけに自分の体を捧げるのは間違っていると、彼は固く信じていた。
「だから、考えを改めた方が――」
「勘違いしないで・・・」
そんな彼の結論を否定するかのように、ニノがグレンの説得を遮る。その瞳は潤み、その顔は恥じらいに紅潮していた。
そのような面持ちで見つめてくるものだから、グレンも黙らざるを得ない。閉じた口の中で、再び生唾が喉を下る。
そんな彼に対して、ニノは素直な想いを白状した。
「他の誰でもない・・・貴方だからなの・・・。貴方だから、何をされてもいい・・・」
耳から入る情報に、グレンの中で歓喜が生まれる。男ならば当然の反応であり、非難されるような事ではないだろう。
そして、とどめとでも言うように、ニノは決定的な事実を告げる。
「グレン・・・私は・・・貴方を愛しているの・・・」
その言葉を聞いた瞬間、グレンの心臓が鼓動を早めた。興奮が体中を駆け巡り、喉から胸にかけて痒みにも似た感覚が滞留し始める。
油断すれば、呼吸も荒れ狂いそうな程の衝動が生じていた。ニノの全てが今や自分の物になるかもしれないという事実に、グレンは夢見心地な自分がいることに気付く。
ニノの体を頭からつま先までじっくりと眺め、その完成度の高い美しさに酔い痴れた。
(いや・・・駄目だ・・・!)
もうこのままなるようになってしまおうか、と思い始めた矢先ではあったが、その直後、彼の頭の中に母国で帰りを待つ者の顔が映し出される。王都を出る前、グレンはあの少女と軽率な行動は取らないと約束したはずであった。
それが辛うじて彼の中の男を抑え込み、僅かな冷静さを取り戻させる。
「ニノ・・・!お前の好意、それ自体はかなり嬉しい・・・!」
誰も見ていなければ、両腕を掲げていた程だ。
「しかし、やはり駄目だ・・・!」
彼自身、何が駄目なのかを明確に説明できなかったが、とにかくここでそれを受け入れるのは許されない行為だと思われた。
「お前のような女性が、交換条件として自分の体を捧げるのは間違っている・・・!正直、私はお前にそのような女になって欲しくない・・・!」
グレンもまた、ニノに好意を寄せている証だろうか。
男というものは、いくら気を引き締めようとも一途にはなりきれない。そのため、グレンはニノの清楚な部分に惹かれてしまっていたのだ。
「じゃあ、どうすればいいの・・・?」
唯一の方法も、彼の好みの問題で拒絶されてしまい、ニノは縋るように問い掛ける。始めは悩んだグレンであったが、過去に似たような出来事があったことを思い出した。
「そうだ・・・!もう一度、お前の腹部に触れよう。私の勇気を、今一度お前に渡す」
それはエルフ族特有の風習――勇気ある者が相手の腹部に触れることで、その心の強さを分け与える事ができるという言い伝えがあるのだ。グレンは再び、それを為そうと言っていた。
「お腹だけじゃなく・・・貴方だったら、尻尾まで触れていいのに・・・」
しかし、グレンの心が揺れ動くような言葉をニノが返す。先の決断を撤回したくなる程までに激しく揺さぶられるのは、やはり彼女が魅力的だからだろう。
「ま、まあ・・・それは、正しい段階を踏んでからだな・・・」
などと、一応の心残りは示しておく。
それを聞いてニノも納得してくれたのか、腹部をさらすように衣服をどけた。
分かってくれたか、とグレンも手を伸ばすのだが、その状態が果たして適切なのかは謎である。それでも一区切りという意味では、双方ともに異論のない落としどころだろう。
ただ、これまでのやり取りもあってか、前回よりもさらにニノの事を意識してしまっているのは言うまでもない。未だ誰も触れた事のないと知った彼女の柔肌は滑らかで、その気になれば自分の好きにできると知った今、グレンが抱く興奮は過去最大のものとなっていた。
彼ほどに強靭な精神力を持っていなければ、そのままニノを押し倒していたと間違いなく断言できる。漏れ出そうになる昂ぶりを隠そうと努めながら、グレンはニノの腹部から手を離した。
「さあ、これでもう安心だ。今のお前ならば、必ずや役目を果たせるだろう」
一応の体裁を保てるような事を言い、グレンはその場を締める。ニノに若干の不服が見られたのは、自分の覚悟が不完全燃焼してしまったからに違いない。
その姿を見て、グレンは自分のことを男として情けなく思ったが、紳士としては誇りに思えた。とりあえず、この場は何事もなく乗り切れそうだ。
「本当に・・・これで大丈夫かな・・・?」
「大丈夫だ。自分達エルフ族の言い伝えを信じろ」
「でも・・・」
今更ながら、グレンはニノが甘えたがりなのを理解する。
別に嫌な気分はしなかったため、優しく微笑んで見せた。
「安心しろ。戦場には私も同行する。お前の後ろで、その雄姿を見守っていよう。元々、最後まで見届けようとは思っていた事だしな」
愛する者の眼差しがあるのならばと、ニノは勇気を奮い立たして頷いてくれる。
それを受けてグレンも満足気に頷き、彼女の肩に手を置いた。それによってニノが一瞬だけ体を震わせたのを見て、余計な行動だったと反省する。
それでも体の影から嬉しそうに見え隠れする尻尾を目にし、彼女の期待に応えられなかった罪滅ぼしくらいにはなっただろうと捉えた。
「武運を祈る」
最後にそう伝えると、グレンは部屋を出て行く。そんな彼を引き留めるつもりはないのか、ニノも黙って見送ってくれた。
それはそれで良かったのだが、やはり少しばかりの心残りが生まれる。部屋に帰るまでの間、グレンの頭の中を膨大な後悔の念が支配していた。
その夜、「勿体なかったか」と思いながら寝付いたのは、彼だけの秘密である。




