4-10 三か国会議
「――16歳・・・!?」
天示京での一夜が明けた翌朝、グレンは自分達を迎えに来たジェイクから『三か国会議』が開かれる会場までの道中、他の2か国について話を聞いていた。その際、ブリアンダ光国の『光の剣士』マリア・ロイヤルの話を聞いて、このような驚きの声を上げる。
若干16歳という年齢で戦場に出ているという事実が、グレンには衝撃的だったのだ。
彼自身、初陣は17歳であるが、大人顔負けの体格の良さがあったため、そこまで違和感のある絵面ではなかった。
加えて、マリアがほとんどの戦場において単騎で活躍している、という話を聞いたせいで驚きが増してもいた。当時グレンが戦闘に参加する際には、例え彼が強大な力を有していたとしても、騎士や兵士などの頼れる仲間が傍におり、決して孤軍奮闘をしていた訳ではない。
正直な所、少女1人に国防を任せるブリアンダ光国をグレンは情けなく思う。
「年齢で判断してはいけないのである、グレン殿。マリア殿は若いながらも、宝剣『選び、導く絶対秩序』に選ばれた存在。実際に会った事はないであるが、過去の『光の剣士』の功績を伝え聞くに、相当な手練れである事は間違いないのである」
「そうか・・・?16歳と言えば、私の国ではまだ成人前の年齢だ。そのような少女を戦場に――あまつさえ主戦力に据えるなど、考えられんな・・・」
「そうせざるを得ない事情があるのである。ブリアンダ光国は『光の剣士』が強過ぎるが故に、強兵を怠って来たのであるよ。それで問題なかったのが、今でも通用してしまっているのである」
それは正に、グレンの友人であるアルベルトやシャルメティエが危惧していた事態と同様であった。
1人に頼り切ってしまったがために、他の者が精進を怠ってしまう。向上心も対抗心もなく、ただ依存心だけが残り続ける状況。
国として、なんと恐ろしい事か。
『選び、導く絶対秩序』という剣さえあれば、何度でも『光の剣士』を生み出せるという利点が国に悪影響を及ぼす結果になってしまっている。
グレンには、そう感じられた。
「確かに、『光の剣士』は手強い相手でしたな・・・」
そんな思考の中、グレンとジェイクの後ろを歩くヴァルジが昔を思い出したかのように語る。
「なんと!ヴァルジ殿は『光の剣士』と手合わせした経験がおありか!?」
「ええ。武者修行と称して、異国の強者には手当たり次第に勝負を挑んでおりましたからな。いやはや、昔は無茶をしたものです」
40年前、ヴァルジはエルフの森があるこの地方を訪れていた。
ならば必然、他の国にも向かったであろう事は想像に難くない。修行と称した旅なのだから、そこで出会った猛者と衝動的に戦いたくなるのも彼の母国――ヴォアグニック武国の者であるならば当然である。
実戦的な経験が、最も効率よく力を伸ばすのだ。
「して!勝負の結果は!?」
相手を傷つける事が苦手であるジェイクであっても、勝負事が嫌いな訳ではないのか、ヴァルジに向かって興味津々に問い掛けた。
男であるならば、戦士であるならば、至って一般的な行動であろう。
「無論――あ、いえ。なんとか勝利を収めましたな。互いに死力を尽くした素晴らしい戦いでした」
「なんとなんと!先代か先々代の『光の剣士』だとは思うのであるが、ヴァルジ殿も見かけによらずお強いようでありますな!」
「強かった、と表現していただいた方が適切ですな。今の私に、当時のような力はありませんので」
これは嘘である。
筋力や体力は若い頃の方があったが、40年間で研ぎ澄まされた技の水準に天と地ほどの差があるからだ。はっきり言って、今の方が数倍は強い。
しかし、それを言っては予期せぬ事態に巻き込まれる可能性があり、ヴァルジは偽りを答えていた。それをグレンも察しており、当然の如く何も言わない。
逆に、ジェイクの興味をヴァルジから引き離そうと彼に話し掛ける。
「ジェイク。君の言い様だと、『光の剣士』には実力差があるようだが、そうなのか?」
「らしいのである。吾輩も比べた訳ではないのであるが、剣を扱う者によって発揮される力が異なるようなのであるよ。その中でも先々代は有数の実力者であったとの話である。ヴァルジ殿は、どちらと戦ったのでありますかな?」
しかし、やはり興味はヴァルジの実力であるようだ。
それに対しては老人も、
「さあ?どちらでしょうな?」
と、揶揄うようにして誤魔化す。いや、むしろ誤魔化すようにして揶揄った。
グレンと異なり、ジェイクを揶揄うのは面白いのかもしれない。
「むむむ。これは興味が尽きないであるな。今度ぜひ、その話を伺いたいのであります」
「ほっほっほっ。いずれ、そのような機会がありましたならば」
上機嫌に笑うヴァルジ。彼とて、なにも自分の実力を絶対に知られたくない訳ではない。
むしろ自慢したいくらいであったが、今は時期が時期だ。少しでも戦力となるならば、どこの国も1人でも多くの戦士を求めるであろう。
ジェイクに本当の事を伝える機会が来るのだとしたら、それは恐らく冥王国との戦争が収まってからである。それまでは、ただ黙するのみだ。
「期待しているのであります。酒でも酌み交わしながら、聞きたいものでありますよ」
「私は酒を嗜みませんので、その時はジェイク殿の酌をして差し上げますよ」
「なんと!老人の酌であるか!これはまた奇怪な!!」
何が可笑しいのか分からなかったが、ジェイクは大声を出して笑った。
街中に響き渡りそうな程の笑い声は、実際に響き渡ったようで、家々の中から彼の名を呼ぶ声が聞こえる。やはり、平民には相当な人気者のようだ。
「――おい・・・!」
その時、今までずっと黙っていたニノが苛立たし気に声を発した。
外套を深く被っているため相変わらず表情は分からないが、それでも怒りが容易に伝わる程に低い声である。
「さっきから騒がしいぞ・・・!少し黙れ・・・!」
この発言は別に、エルフである彼女が人間嫌いだから、という理由で行われたのではない。
これから開かれる『三か国会議』に出席するにあたって、ニノも気を張り詰めているのだ。
失敗をしたら、エルフ族がどうなるかは分からない。最低でも、三か国いずれかでの保護を確約してもらえるのが望ましかった。
ジェイクに頼めば天守国で保護してくれそうなものだが、彼からはすでに、
『天子様より、会議への出席の御許可が下されたのである。あとは、吾輩とエルフ殿達の頑張り次第なのであるよ』
と、言われてしまっている。
彼もエルフ族に対して協力的ではあるのだが、そこまでの決定権はないようで、天子と呼ばれる存在の指示をそのまま受け取っているだけであった。
悪い、とは言えないが、もう少し効果的に動いてもらえたらと思うのは都合が良過ぎるだろうか。
ニノの焦りは、そのような自分勝手な思考すら生んでしまっていた。
「ニノ、落ち着け」
そんな彼女に向かって、グレンが静かに声を掛ける。
ニノの緊張を男3人は理解しており、だからこそ楽し気な会話を繰り広げて彼女の緊張を解してやろうとしていたのだ。
示し合わせた訳ではなく、そうしたいと思わせる程の切迫感を彼女は纏っている。気付いてはいないが、尻尾も逆立っていた。
「私は落ち着いている・・・!」
「それが落ち着いていない、と言っているんだ。もう少し気を楽にした方が良い。一族の事を思えば難しいとは思うが、そのような状態ではまともな思考が出来なくなるぞ」
「分かっている・・・!だが、仕方がないだろう・・・!私の言動如何で爺様やマキさん、他の皆の命運が決まるんだ・・・!気を張りもする・・・!」
グレンに対しても苛立たし気に言葉を発するあたり、ニノの緊張は相当なものであるようだ。他の2人はそれを察し、彼女に何か語り掛けはしなかった。
しかしグレンに対しては、ジェイクがこっそり耳打ちをする。
「グレン殿。気を昂ぶらせた女子には、気障な台詞が効果的であるよ」
「気障・・・?一体、どのような?」
「『君は笑っている時が一番可愛いよ』とかである」
「なっ・・・!?普段、君はそんな事を女性に語っているのか・・・!?」
「ランフィリカは、特に怒りやすいであるからな。それに、これくらいは普通なのである」
それは彼の基準なのか、ここら一帯の国に言える事なのか。
もし前者なのだとしたら、それがジェイクの人気の理由の1つでありそうであった。もし後者なのだとしたら、それもまた異なる文化の特徴である。
とにかく、到底グレンの口を突いて出る台詞ではなかった。
「私には無理だ・・・」
「何を言っているのである、グレン殿。こういう時に女子を支えてこその男。別に口説く訳ではないのであるからして、身構える必要はないのである」
なんだか、ジェイクが女性に人気な理由が分かってきたグレンであった。
容姿は人の好みとして――強く、優しく、気遣いが出来る。加えて、全く下心なしに甘い言葉を囁くのだ。
天守国の現状であるならば、不安を覚える民は多いに違いない。そういった中で頼もしい男性に優しくされれば、つい身を任せてしまいたくなるもの。
もしジェイクが手の早い人間であったならば、何人もの女性と関係を結んでいただろう。
「君は凄いな・・・」
「グレン殿も出来るはずである。さあ、エルフ殿を励ますのであるよ」
ここまで頑ななのは、やはりニノの事が心配だからだろう。
不安を抱く彼女に何かしてやりたい。しかし、自分では逆に不機嫌にさせるだけ。ならば、仲間であるグレンかヴァルジにやらせよう。
そういった発想が、彼の中に生まれているのだ。
グレンにばかり勧めるのは、老人であるヴァルジには荷が重いと判断しているからである。
「さあ!さあ!!さあ!!!」
ぐいぐいと詰め寄られ、流石のグレンも顔を逸らす。男同士だと言っても、ジェイクの髭面は間近だと迫力があった。
「分かった、分かった・・・。確か『笑っている顔の方が良い』だったか・・・?」
「そうなのである。出来るだけ優しい声色で言うと、効果的なのであるよ」
などと言われたが、そのまま口にするのは憚られ、グレンは自分なりの言葉で語る事を決める。
ニノに向かって立ち止まると、彼女も足を止め、何事かと鋭い目付きでグレンを睨んだ。他の2人は少し離れた位置で成り行きを見守っている。
「なんだ・・・?」
グレンの行動の意図が分からず、ニノは低い声で問い質す。グレンは少し恥ずかしそうにしながら、それでも彼女の目を見ながら、こう言った。
「ニノ、君は・・・・不機嫌にしているよりも・・・その、なんだ・・・笑顔でいる方が・・・あー・・・う、美しいぞ・・・。エルフの森で見せた、あの笑顔・・・あれは素晴らしいものだった・・・。だから・・・だから?・・・笑顔のままでいてくれ・・・?」
話している最中に急速に恥ずかしくなっていったグレンは、最後を疑問形する事で逃げた。はっきり言って、だらしないの一言に尽きるのだが、彼にしてみれば自分へ合格点をあげたい気持ちである。
指揮官の評価は如何に、とグレンはジェイクの方へ顔を向ける。
彼も苦笑いを浮かべながらであったが、親指を立ててグレンの健闘を称えていた。ヴァルジはと言うと、震えている所を見るに、頑張って笑いを堪えているようだ。グレンをよく知る人物ほど、先程の彼の言葉には違和感を覚えるため仕方のない事だろう。
(はあ・・・)
とりあえずの試練は乗り越えたが、顔が熱い。
普段はあまり感情を表に出さないグレンであったが、今回ばかりは顔を赤くさせている事を自覚する。全くもって恥ずかしい心地であった。
(これでニノが緊張を解してくれていなかったら、恥の上塗りだな・・・)
思いながら、グレンはニノに視線を戻す。
そして目にするのであった。真っ赤に染まり切った、エルフの顔を。
「お・・・おおおおおお、お前は馬鹿か!?こんな時に、何を言ってるの!?」
少し口調が可笑しいのは、興奮し過ぎて素が出ているからである。
普段ニノが凛々しい口調を心掛けているのは、彼女の決意の表れであり、他人に見くびられないようにするための防衛手段であった。そして今、その防衛線はグレンの言葉によって瓦解したのだ。
「す、すまない・・・。君を励まそうと思ってな・・・」
「だからって、あんな・・・!もっとあったでしょ・・・!?」
「と、言われてもな・・・。あれは私の案ではなく、ジェイクの助言通りなだけで・・・」
「なっ・・に・・・・!?では、本心ではないの・・・!?」
それは誤解であった。
グレンはニノの事を美しいと思っているし、その笑顔も素晴らしいと感じている。言葉で言い表せられない程の美を備えていると誰もが思うだろうし、それを羨む者もいるだろう。
それが当たり前と思える程に、ニノは素晴らしい女性である事は確実だ。
が、それを伝えるよりも早く、彼女は機嫌を損ねてしまった。
ニノの目付きが、その感情を悠然と物語っている。
「やはり貴様も人間だな、グレン・・・!都合の良い言葉を述べ連ね、エルフの信頼を裏切るんだ・・・!見損なったぞ・・・!」
「待て・・・!それは誤解だ・・・!」
「五月蝿い・・・!もう二度と、お前の前では笑わん・・・!」
そう宣言して、ニノはグレンの横を通り、ずかずかと歩いて行ってしまった。
どうしたものかと呆然とするグレンの視界の隅で、ジェイクが片手で顔を覆う。
「うかつだったのである・・・!人間とエルフの価値観が違う可能性を、考えていなかったのであるよ・・・!」
想定外の誤算に戸惑うジェイクと彼に踊らされたグレン。
2人の男は、己の失態を心の底から悔やむのであった。
しかし実の所、結果としては上々である。なぜならばニノは今、全く緊張を感じていなかったからだ。
先程のグレンへの怒りが、期せずして彼女の緊張を解していたのである。
奇しくも、グレンの祖国の王であるティリオンが、帝国の皇帝アルカディアに取った行動と同じ成果を生んでいたのだ。
そんな事を知りもしない男達は少しだけ気を落としつつ、ニノに追いつこうと移動を再開するのであった。
ニノに追い付き、再びジェイクの先導に従って辿り着いた所は、昨日訪れた悠久御殿に比較的近い場所にある建物であった。
とは言っても、小屋のような造りであり、人が暮らせるような広さはない。上から見れば、正六角形の形をしているのが分かるだろう。
一面ずつ離された扉が計3箇所備えられており、それぞれに異なる絵が描かれていた。
扉が3枚ある理由は、この建物が三か国同盟を機に建てられたからであり、それぞれの扉が各国専用の入り口となっているからである。
専用の入り口がある事に特別な意味はない。ただ、出入り口前で代表者同士が鉢合わせをし、外で口論を始めるのを防ぐためであった。
議論をするのならば、声の漏れない屋内で――それが建築時の設計思想である。そのため、植林によって遠方を見渡せない構造にもなっていた。
「来たな、ジェイク」
「おお、フィジン殿。良き朝であるな」
3つある扉の1つ、太陽の絵が描かれてある扉の前に天子の護衛であるフィジンが待っていた。昨日見た青色の鎧ではなく、同色のゆったりとした長衣を帯で腹に結ぶことによって着つけており、初めて見た者達に風格のある美しさを感じさせる。
動きにくそうではあったが、今から入るのは議論の場。戦う必要などありはしないのだから、別に着飾ったとしても問題はなかった。
「今日はよろしくお願いするのである。我々の手で、何としてでもエルフ族を救いましょうぞ」
「ん?何か、勘違いをしていないか?」
ジェイクの言葉に、淡々とフィジンは返す。
「勘違い、であるか?」
「言っておくが、私は別に他国の説得に協力するつもりはない。ミコト様が受け入れるというのならば、天守国はそうしよう。しかし、テュール律国やブリアンダ光国の説得はお前達がするのだ。昨日ミコト様が仰った事を忘れたのか?」
確かに、昨日ミコトは『説得は貴方と彼女達に任せる』と言っていた。それはつまり、この4人で他の2か国を説き伏せねばならず、何の後ろ盾もないに等しい。
天子の許可が下りた事で安心していたジェイクは、それをすっかり忘れていたのだ。そのため、「あ!」と声を上げ、それが初耳であるグレンとヴァルジは少なからず戸惑いを覚える。
しかし、ニノはジェイクと天子のやり取りを聞いていたため、狼狽えた様子はなかった。
「それはすでに承知の上だ。エルフ族の安寧は、エルフである私自らが掴み取る」
フィジンの目を真っ直ぐ見据え、ニノはそう言い切った。
弱々しい立場でありながら見事な口上を述べた女エルフに対し、フィジンも軽く笑みを返す。
「見事だ。我らに縋り付くだけかと思っていたが、意外と侮れぬ。――いいだろう。気が変わった。話し出す切っ掛けくらいは作ってやる」
「おお!フィジン殿!」
歓喜の声を上げたのはジェイクだけであったが、他の3人も同様にフィジンに対して感謝の念を覚えていた。特にニノは、思わず頭を下げてしまった程である。
「礼儀も弁えているようだな。これならば、ミコト様に恥を掻かせることもないか」
おそらく、会議の前にいくらか注意事項を伝えようとしたのだろう。良いと言うまで口を挟むな、稚拙な論理を語るな、といった所か。
しかし、その心配はないと判断されたようで、フィジンはニノから視線を外し、今度はジェイクに顔を向けた。
「では、ジェイク。お前に言っておく事がある」
「む?何であるか?」
「エルフに関わる事以外、お前は口を挟むな」
その理由を、それを語ったフィジン以外の者は察せられなかった。
あるとすれば『頭が悪いから』という言い返す余地のない乱暴な理由であったが、それにしても一切の介入が禁じられるのは不本意であろう。
ジェイクとて、国のために命を賭けて戦う兵士なのだ。少しくらいの発言権を与えられても、分不相応とはならないはずである。
「な、何故であるか・・・?」
「分からないか?ならば、逆に問おう。何故、お前は今まで会議に参加させてもらえなかったと思う?」
そう、実を言うとジェイクが三か国会議に参加するのは、これが初めてなのだ。何度も参加していると吹聴していた訳ではないため意外な事実ではないのだが、故意に不参加を強制されていたのだと知れたら話は別である。
一体、何が問題なのだろうか。
「やはり・・・吾輩の頭が悪いからであるか・・・?」
「そうではない。いや、そうでもあるか」
「う・・・!」
「だが、それだけではない。ジェイク、お前は甘すぎるんだ」
「甘い?」
彼女が何を言いたいのか、グレン達には何となく分かってきていた。
「他国から助力を請われた時、お前は何も考えず了承するに違いない。『困っているのならば』『罪なき民が傷つけられているのならば』とな」
「それの何が悪いのであるか?」
「道徳的には悪くない。しかし、考えてもみろ。お前がこの国を離れたら、それだけ国の防衛力が落ちる事になるんだ。現状、冥王国の主力はテュール律国に注力しているため、我が国が本格的に攻め込まれる可能性は少ないだろう。だが、その情報が何らかの原因で漏れ出たとしたら、どうだ?」
「どうだ、と聞かれても・・・。第一、漏洩しなければいいだけの話なのである・・・」
ジェイクの言葉に、フィジンは小さく笑う。
そこには明確な侮蔑が込められていたが、同時にジェイクの善人ぶりを「お前らしい」と褒めてもいた。
「ならば言い方を変えよう。仮にお前を含む多大な戦力が、今最も苦境に立たされているテュール律国に助力に向かったとしよう。しかし事もあろうに、その情報が漏れてしまった。何故だと思う?」
「それは勿論、冥王国の密偵が嗅ぎ付けたのである。軍とは巨大な生き物。それが動くのだとしたら、多少の音は漏れ出るはずであるからな」
「他には?」
「む・・・!他・・・!?」
自信満々の答えに対し、即座に別の回答を提示しろと言われたジェイクは大いに慌てる。
そのためすぐには出てこず、会議が控えている事からフィジンは早々に待つのを止めた。
「だから、お前は会議に参加するべきではないんだ。お前は、他国を『仲間』だと思い込んでいる。信じ切っている。それがどれだけ国の不利益を招くか、少しは考えてみろ」
「ど、どういう事なのであるか・・・?」
自国の政治的事情に関して、ジェイクは不干渉であった。知ろうともしなかったし、知らされもしない。ただ、天子の命に従っていれば良いと考えたからである。
そんな彼に対し、フィジンは現実を突きつけた。
「何故、テュール律国がシオン冥王国に密告した可能性を考えない?」
それは、あまりにも残酷な仮定。同盟国の裏切りを可能性の1つにいれるなど、誰が考えられようか。
しかし、同盟関係の内情を熟知しているフィジンにとっては至って自然な発想であり、もし仮に自国が苦しめられているのならば同様の行動を取ると断言できる。
だが、それでもジェイクには信じられない考えであった。
「な、何を言うのであるか・・・!?そのような事・・・!同盟国が裏切るなど・・・!」
「勿論、表向きの同盟関係は維持されたままだ。しかしテュール律国にしてみれば、お前という戦力を招き入れるだけでなく、厄介な冥王国軍を天守国に押し付ける事が出来るかもしれない最善の一手なんだ。国の為政者ならば、迷わず取る手段に違いない」
「し、しかし・・・!それは結局の所、フィジン殿の憶測でしかないのである・・・!実際、どうなるかは――!」
「では、試してみるか?」
フィジンの問いに、ジェイクは目を見張る。
「間違いなく――いや、すでに何度もあったが――律国の代表者は天守国にお前の助力を、光国に『光の剣士』の助力を要請するだろう。その時になったら、お前はそれを承諾するが良い。その後、ミコト様とこの国がどうなるか、お前自身の目で確かめてみるんだな」
挑発的な物言いに、ジェイクは怯む。
しかし彼の中の正義は、それに異議を申し立てる事を選んだ。
「か、仮に・・・吾輩が国を離れた事が密告されたとしても・・・すぐに踵を返して戻ればいいだけなのである・・・」
その穴だらけの反論を聞き、フィジンは再び笑う。
「どうやら、お前はまだ他国を信用したいらしいな。冥王国がこの国に攻め入ったという情報を、律国が教えてくれると思っている。ライムダルが苛立つ程のお人好しは、すぐには変えられんか」
フィジンの言葉に返すことが出来ず、ジェイクはただ項垂れるだけであった。
そんな彼に向かって、先程まで言葉責めをしていた女性は優しく声を掛ける。
「勘違いするなよ、ジェイク。私は別に、お前を虐めようとしている訳ではない。ただ、何を守るべきか――その優先順位を間違えるなと言いたいんだ」
「優先順位・・・?」
「そうだ。お前が守るべきはミコト様であり、この国だ。他の国やその民の事など、気に掛けなくていい」
「しかし、冥王国に対抗するためには一致団結しなければ・・・!」
「そうとは限らない。律国を攻め切った冥王国は多少なりとも疲弊しているだろう。こちらが防衛に専念すれば、容易くは攻め込めまい。時間を掛けて更に疲弊させれば、撤退に追い込む事も出来る」
それもまた希望的観測に近い。
それでもジェイクにはそれが正論に聞こえ、納得できてはいなさそうではあったが、承知はしたようだ。そういう考えもあるのか、と頻りに頷いている。
そのやり取りを見ていたグレンは、概ねフィジンの意見に賛成であった。
優先すべきは己の君主であり、国である。
王国のように安定した平和を維持できるようになったのならば、他国に気を配る事も許容されるだろうが、そうでないのならば控えるべきなのだ。
しかし、ジェイクはそれをしようとしている。だからこそ、フィジンは釘を刺したかったのだろう。
これから加わる会議の中で、無用な約束をさせないために。
「さて、長話をしてしまった。我が国の英雄も、己のすべき事を理解してくれたようだ。中に入るとしよう」
そこで、ついにフィジンが小屋の中に入る事を告げる。
先程のやり取りもあり、最も強くジェイクの心臓が鼓動した。次にニノの物であったが、一度解消した緊張感に再び苛まれることはない。その目には、確かな覚悟が秘められていた。
そんな2人の気持ちなど関係なく、フィジンはいともあっさりと扉を開ける。
その瞬間、2人の人間が言い争っている声が聞こえた。
「ふざるけるなッ!なんのための同盟だッ!?」
「少なくとも貴国だけのためではないッ!自分勝手な物言いも大概にしてもらおうッ!」
「我が国がどれだけの損害を被っていると思っているッ!?男は死に!女子供は犯され!あろうことか、自国の軍に対する盾に使われているんだぞッ!?」
「そうなったのも全ては貴国の騎士達の不甲斐無さが原因では!?御自慢の『黄龍鉄騎猛攻騎士団』はどうなさったのかな!?」
「自国の民が人質にされて、手を出せると思うのかッ!?」
「手を出さないから敗北するのではないか!いくら自分の地位が大事だからと言って、汚れ仕事も出来ないようでは先はありませんな!」
「貴様ぁッ!!言わせておけば!!」
言い争っていた男の1人が、口論相手に掴み掛ろうとする。それを、後ろに控えている2人の男達が必死になって止めた。
「抑えてください、サロジカ代表・・・!我々は頼む側なんです・・・!」
「その通りです・・・!それに、ここは議論の場・・・!暴力はいけません・・・!」
部下と思われる2人に宥められ、男は椅子に座り直す。椅子とは言っても、簡素な造りの物が1つずつ置かれているだけであり、この建物自体の単純さを表していた。
口論していた男達の間には小屋と同様に六角形の形をした机が用意されており、他には何もない。
本当に議論するためだけの場所なようだ。
「まったく・・・後ろの2人の方が立場をよく理解している。どちらかが代表を務めた方がいいのではないか?」
その挑発的な言葉に再度感情を爆発させそうになる律国代表ではあったが、今度は耐える事に成功した。
大きく息を吐き、心を落ち着かせる。国のため国のため、と何度も心に念じた。
「もういい。放せ」
まだ自分の肩に手を置く部下に向かって、テュール律国の代表であるサロジカは命じる。その声は、2人の知っている平時の彼の物だった。
「おや?フィジン殿、いつも通りの遅い御到着で」
サロジカの口論相手だった男は小屋に入ってきたフィジンを視界に納めると、皮肉を込めた挨拶を投げ掛ける。それに動じず、加えて応えず、フィジンは黙って天守国側の椅子に腰掛けた。
それに軽く舌打ちをした音が聞こえる。
「ん!?まさか!後ろの方は、ジェイク殿では!?」
無礼な音をかき消すように、ジェイクを目にしたサロジカが叫んだ。
名を呼ばれたジェイクは気まずそうに会釈をする。期待の込められた声なだけに、それに応えられない立場を悔やんでいた。
「フィジン殿!もしや天守国は、ジェイク殿を我が国に派遣してくださるのですか!?」
そして、当然のようにサロジカは歓喜する。
今まで姿を見せなかった者が会議の場に加わるという事は、何らかの変化が生まれるに違いないからであった。それはきっと自分達の望み通りのものだろうと、テュール律国の代表は予想したのだ。
「勘違いなされるな。ジェイクは別件での参加だ」
「別件?」
そう問い質したのは、サロジカの口論相手である。
その男はブリアンダ光国の代表――とは言っても、テュール律国のように最高権力者ではない――であるレッチアーノという名であった。
「待っていただきたい!別件とはどういうことですか!?再三にわたる救援要請を無視し続けた挙句、別の問題を持ち出すつもりですか!?」
サロジカの悲鳴に近い叫びを聞きながらも、フィジンは眉一つ動かさない。最早、聞いているのかも分からなかった。
それが彼女の恐ろしい所だ、と他の国の代表は思う。何を考えているのかも、何をしたいのかも推測できない。ここまで掴み所のない人間がいるのか、と心底驚愕していた。
勿論それはフィジンなりの外交術であり、彼女の本来の人柄ではない。こういった場に合わせた自分になり切っているだけであるが、演技とは思えない程の迫力を秘めていた。
「落ち着いていただきたい。確かにそのつもりだが、まずは三国の現状についての話し合いが優先。別件については、また後ほど」
「それは別に構いませんが、貴国の英雄以外の3人は何者ですか?」
レッチアーノはグレン達をじろじろと見回しながら聞いた。
特に外套で姿を隠したニノには厳しい視線を送る。
「その別件に関係する者達だ。であるからして、今触れる必要はない」
「ならばしばしの間、外で待っていてはもらえないですかね?このような重要な会議の場に部外者を立ち入らせるなど言語道断。フィジン殿のような方でも、この程度の初歩的な失態を犯すのですな」
そう言うと、レッチアーノは声を上げて笑った。
この男の一連の行動を見て、グレンは彼が何をしたいのかが分からないと眉根を寄せる。
まず、相手国への敬意が欠片もない。こういった場での互いの立場は基本的に対等のはずであり、そうでなくとも無意味な挑発は避けるべきである。
グレンはかつて親友であるアルベルトから、
『いいかい、グレン?礼儀や敬意というのは心に着る衣服のような物なんだ。親交の浅い相手に裸を見せたら気味悪がられるように、心の裸を見せても不快がられるだけなんだよ。勿論、僕と君のように強い絆で結ばれている者同士ならば別だけどね。――え?気持ち悪いって?はっはっはっはっ!ほらね!礼を欠いた君の発言でも、僕は笑って許せてしまう!これが親しい証拠なんだよ!』
と教えられていた。
(今思い返しても、やはり気持ち悪いな・・・)
とは思ったが、あの友人の言っていた事は正しかった。自分が言われた訳ではないが、フィジンに対して無礼な発言をする男にグレンは不快感を覚える。
当の彼女は全く気にはしていないようだが、それでも場は剣呑な雰囲気に包まれていた。
「それはすまなかった。では、4人は外で待機させておこう」
「待っていただきたい!4人という事は、ジェイク殿もですか!?彼にはぜひ、我が国の現状を聞いていただきたいんです!」
「サロジカ代表。予め言っておくが、ジェイクは貴国に助力するつもりはない。ここに来るまでの道中、その意思をはっきりと示していた」
「そこを何とか!話だけでも聞いていただきたい!この通り!」
そう言って、サロジカは頭を下げた。
彼がここまで必死なのは、言うまでもなく自国のためではあるが、フィジンの語ったジェイクの意思が彼の本心ではない事を見抜いていたためでもある。
ジェイクが敵対者を傷付けられない程のお人好しであるという話は彼の耳にも届いており、苦しむ自分達を見捨てられるはずがないと考えたのだ。そのため話さえ聞いてもらえれば、きっと力を貸してくれるだろうと予測していた。
そんな彼に向かって、レッチアーノが苦言を呈す。
「いい加減にして欲しいな、サロジカ代表。貴国の惨状を、より多くの者に伝える事になるんですよ?それを言い触らされでもしたら、テュール律国の歴史に泥を塗る事になるでしょうよ」
「そのような泥ならば、私が塗れよう!今は一刻を争う時なのだ!次に冥王国が攻め込む街に関して、不確かながら情報を入手した!その街での迎撃に力を貸していただきたい!」
「これは驚いた!『不確かな情報』ごときを鵜呑みにするのか!それが冥王国の流したデマである可能性も考慮に入れるべきではないかな!?」
「無論したとも!だが、冥王国軍の動きから推察するに、その情報は信用に足るものだと判断した!」
「話にならんな!その街がすでに冥王国の手中に堕ち、集まった戦力をもろともに壊滅させる作戦であるやもしれんのに!」
「それは杞憂だ!すでに我が国の『黒虎精鋭明峰騎士団』が街に出向いている!住民に避難をさせるためにな!」
「ならば心置きなく戦える!後は貴国の全戦力を以って、冥王国と戦えば良い!」
「何も分かっていないようだな!?我が国を襲っているのは冥王国の将軍であり、『いたぶり尽くせり』の称号を与えられた、あのグンナガンなんだぞ!!」
その名がサロジカの口から出た瞬間、グレンの隣に立つニノが突然しがみ付いてきた。少し意表を突かれたグレンであったが、ニノの体が小刻みに震えているのを感じ、何も言わないでおく。
他人の口から出た仇の名を聞き、姉が殺された時の恐怖を思い出したに違いない。安心させるために手の1つでも握ってやるべきなのだろうが、そんな大胆な事までは出来なかった。
だがしかし、彼女との約束は別だ。ニノの仇である男――グンナガンは必ず殺す。
思いもよらぬ所で標的の居場所を知る事ができ、この会議の場でグレンだけが密かに喜びを覚えていた。
「グンナガンと言えば、勝つためならば何でもするという、あの?」
サロジカとの会話は続いており、興味深いとばかりにレッチアーノが問う。その面白そうな表情に、テュール律国の代表は苛立ちを覚えた。
「そうだ!先程も言ったように、奴らは捕らえた女子供を部隊の最前列に並べ、盾として進軍してくる!そのせいで遠距離での攻撃は行えず、奴らの数が生きる接近戦での勝負に持ち込まれてしまうのだ!数を物ともしない近接戦闘の猛者――ジェイク殿のような戦士が、我々には必要なんだ!」
最後の台詞は、そのジェイクに向かって発せられた。
しかし彼はサロジカと目を合わせようとせず、気まずそうに顔を伏せている。そのため彼に代わり、フィジンが口を開いた。
「サロジカ代表。もう一度言うが、ジェイクが貴国に助力する事はない。それだけは、この会議の中で理解しておいてもらいたい」
「ははっ!それは残念だ!言っておきますが、我が国の『光の剣士』も同様!なぜならば、自国を守るのに精一杯ですからな!」
何が可笑しいのか、レッチアーノは心底面白そうに宣言する。
同盟関係を結んでいるはずの2か国から助力を断られ、サロジカは意気消沈したように見えた。彼の表情からは先程までの熱は消え失せ、絶望すら感じられた。
「ここまで言っても駄目か・・・!なんのための同盟だ・・・!」
絞り出された声は狭い小屋の中で静かに響く。彼の後ろに控える2人の部下も、自国の代表に対して掛ける言葉を持たなかった。
しかし、そこでフィジンが言葉を発する。
「気を沈めるな、サロジカ代表。ジェイクは貸せないが、他の者を紹介しよう」
「他の者・・・?」
微かな希望を持って問うサロジカに向かって示す様に、フィジンは背後に立つグレン達に少しだけ振り向く。
「この者達だ」
フィジンがそう言ったせいで、2か国の代表が揃ってグレン達に視線を寄越した。まだニノに寄り添われているため、グレンは非常に気まずい気分になる。
特にレッチアーノの視線が痛く、予期せぬ展開に疑いを持っているようだ。
「それで、この者達はどういった素性の者なので?」
「この者達はエルフとその護衛だ」
「エルフ!?何故、エルフが!?しかも人間が護衛をしているだと!?聞いた事ないぞ、そんなの!」
「事実そうなのだから仕方ない。それとも、その過程を説明しなければならないか?」
「い・・いいや、結構だ・・・!しかし、何故エルフがここに・・・?」
考えるレッチアーノは、外套で姿を隠すニノに視線を注ぐ。グレンとヴァルジが人間である事は一目瞭然なので、残る彼女をエルフと考えるのは当然であった。
「ニノ・・・。おい、ニノ・・・。天守国の者が機会を与えてくれたぞ・・・」
話題に上がっている事に気付かないニノに対して、グレンは小さく声を掛ける。
それで我に返ったのか、ニノは顔を少しだけ上げた。
「すまない・・・。大丈夫だ・・・」
グレンから体を離すと、ニノは自身の顔を露わにする。
誰の目にも明らかなほど彼女の顔色は悪く、その美貌に少しだけ陰りが見えていた。それを見たレッチアーノは、さらに訝しんだ目付きになる。
「なるほど・・・。その耳、確かにエルフのようだな・・・。――で?そのエルフが何をしてくれると言うのかね、フィジン殿?」
「それはエルフ本人が話すべきだろう」
そう言うと、フィジンは黙った。
つまり、ここからはニノが尽力しなければいけない時間だ。
「お初にお目に掛かる・・・。私はエルフ族の長クロナッドフェウグスタスの孫ニンフィノフィロフェルフィンと言う・・・。今回、この会議の場に参加させてもらったのは他でもない・・・。エルフ族を狙う冥王国に対抗するため、我々エルフ族も同盟に加わらせてもらいたいのだ・・・」
未だ気を持ち直してはいなかったが、ニノはなんとかそこまで言った。
頑張ったな、とグレンは心の中で称賛を送る。どうやら、かなり彼女に対して感情移入してしまっているようであった。
しかし、それはニノと親しい者だけであり、テュール律国とブリアンダ光国の代表はそれぞれに否定的な表情を浮かべていた。
「我が国の要請は突き放しておいて・・・このような・・・ぽっと出の連中には・・・手を貸すのか・・・!?ふざけるのも大概にしてくれ・・・!」
「これは傑作だ!まさかエルフが人間を頼るとはな!自分達の同胞が何をされたのか、全く知らないと見える!」
レッチアーノの言葉には不快感を覚えたが、ニノはそれについて問い詰めない。
ある程度は理解しているため、それを許すまではいかなくとも、今ここで糾弾しようとは思わなかった。大切なのは一族を守る事だ。
「都合の良い事を言っていることは分かっている・・・。しかし、エルフ族存続の危機なのだ・・・。頼む、力を貸してくれ・・・!」
「吾輩からも頼むのである。エルフ族は冥王国に対抗する力を持っていないのであるよ。奴らがその気になれば、瞬く間に滅んでしまうはずである。そのような悲劇を見過ごしてはならないのであるからして」
ニノの言葉にジェイクも続ける。
それを受け、レッチアーノが問い掛けてきた。
「それで?エルフは、我々に何をしてくれるのだ?」
その問いは当然、対等な立場としての同盟参加なのだから頼るばかりとはいかない、という事である。ニノはここで、自分達の強みを売り込まなければいけなかった。
「我々エルフは独自の術法を使い、物を作り出すことが出来る。罠、武器、住処など、必要に応じた物を提供しよう。勿論、それだけではない。微力ではあるが、戦闘にも参加する」
「ほう・・・。一応聞いておくが、数はどれくらいだ?」
「300だ」
そう言った瞬間、場が凍った気がした。
グレンが初めてエルフの戦力を聞いた時と同様に、彼らもまた戦闘員の乏しさに驚いていたのだ。そして、同じくらいに呆れてもいた。
「ははははははははッ!!300!?たった300!?それで交渉になると思っているのかな、このお嬢さんは!?」
レッチアーノの笑い声が小屋の中を満たす。笑っているのは彼だけであったが、テュール律国の者達も失望に近い念を抱いていた。
その感情はありありと表情に現れており、ニノは悔しい想いを胸に宿す。しかし、それで終わってはならず、慌てて言葉を紡いだ。
「不甲斐無い戦力である事は分かっている・・・!だからこそ、こうやって助けを求めているのだ・・・!満足な力にはなれないが、少なくとも邪魔にはならない・・・!我らには弓の腕もある・・・!」
「そう言われてもな!我らは毎度、多い時は数万の敵を相手にしているんだ!そこにたった300の弓兵が増えても、有難くともなんともない!むしろ連携が取れず、邪魔になる可能性の方が高いと考える!それに、その300人を迎え入れるだけではないのだろう!?」
流石に国の代表を任されているだけあるのか、レッチアーノは同盟参加以上の要望がある事を見抜いていた。
「あ、ああ・・・。戦えない者達を含めた約1000人のエルフが住む場所を、提供してもらいたい・・・」
「まったく!今まで、どこに隠れ住んでいたのか!そのような人数を受け入れる訳がないだろう!?住む家もなければ、食料もない!役に立つか分からない連中を、どうして迎え入れられるだろうか!?」
戦力として使う事と定住させる事は異なる。
安全地帯という物は基本的に限られた領域であり、それを余所者に割く国がそこかしこにある訳がなかった。
「家ならば、自分達で作る・・・!食料も、ある程度ならば我慢する・・・!もし戦う以外に出来る事があるのならば、何でもする・・・!頼む・・・!どの国でも良い・・・!」
「戦力として以外、と言われてもな。一体、何をやれるのか――いや、待てよ・・・」
言いかけ、レッチアーノは思案する。
「ああ、そうだ・・・。君達エルフには、相応しい役柄があったな・・・」
そして何かを思いついたのか、彼は下卑た笑みを作った。その顔には人間の欲が現れており、ニノはこういった表情が大嫌いであった。
「兵士達を慰めるためならば、使ってやらん事もない・・・」
「どういう事だ・・・?」
最早、ニノを含む全員が何を言いたいのかを理解していた。しかし真意を確認しなければならず、静かに問い質す。
そして、レッチアーノは予測された答えを口にした。
「女エルフ全員、娼婦になれ。それくらいしか、貴様達に価値はない」
その言葉を聞いて、ニノは猛烈な怒りを覚える。拳は力強く握られ、奥歯を軋むほどに噛み締めた。
しかし、口は閉ざす。
ここで怒鳴り散らしては、彼らの心証を悪くするだけである。ここまで耐えなければならない程に、エルフ族は儚い立場なのだ。
それでも、彼女の代わりに異議を申し立てる者がいた。
「ふざけるなであるッ!!!」
そう、ジェイクである。
グレンとヴァルジも腹を立てていたが、彼らの怒りは静かな怒りだ。対して、ジェイクの怒りは燃え盛る炎のよう。その業火が、レッチアーノに迫る。
「貴殿は、それでも心を持っているのであるかッ!?一族の命運を背負った1人の女性に対して、なんたる暴言ッ!!少しは慈悲を感じないのであるかッ!?」
「それを貴方が言いますかッ!?先程、自身もテュール律国の要求を突っぱねたではないですかッ!?『助けてくれ』と縋る者を蹴飛ばしたのは、貴方も同様でしょうッ!?何故、私だけが糾弾されなければならないッ!?」
「わ、吾輩の場合は・・・天子様を御守りするため、仕方ないのであるからして・・・!」
「本当に天守国の方々は、天子がお好きなんですねぇッ!?あれもこれも、全て天子のため!引き籠っているだけの者に、どうしてそこまで――」
「――レッチアーノ殿」
自国の君主に対する暴言に対して、フィジンが静かに声を発する。冷たい、とても冷たい声であった。
「ミコト様への侮辱は、この国では死罪に値する。そして、その刑を執行する権利を私とジェイクは持っているんだ。先程のは聞かなかった事にしてやるが、次はないと心得よ」
声だけでなく冷たい視線に見つめられ、レッチアーノは喉を鳴らす。
女に怯えさせられたという屈辱が彼の中に生まれたが、それをフィジンに仕返す事はできなかった。代わりに、エルフで解消する事を決める。
「こ、これは申し訳なかった・・・!つい、心にもない事を・・・!ですが!それもこれも、全てこのエルフが不当な要求をしてきたせい・・・!全ては、エルフの責任です・・・!」
「まだ言うであるか・・・!この――!」
レッチアーノの責任転嫁に文句を言おうとしたジェイクを、肩に触れる事でニノが止めた。
振り返ったジェイクの目には、彼女の決意の籠った眼差しが映る。
「エルフ殿・・・」
ジェイクの呟きに応えず、ニノは1歩前に踏み出した。
あれだけ恥を掻かされ後にそのような行動が取れるのは、彼女の心が強いからであろう。
「頼む・・・!我らを同盟に加えさせてくれ・・・!」
そう言って、頭を下げた。
あくまで下手に出るニノの心構えに、彼女の傍にいる者達は感激すら覚える。フィジンですら、天子を侮辱したレッチアーノへの怒りを忘れる程に心動かされていた。
天子であるミコトがエルフの同盟参加を拒否しなかったのは、間違いではない事を確信する。
「もういい・・・」
そんな中、今まで黙っていたサロジカが声を発した。それはとても弱々しく、呆れと諦めが込められているように聞こえた。
「こんな話をするために我々は集まったのではない・・・。エルフの娘よ、お前がいると場が乱れる・・・。今すぐ、出て行ってくれ・・・」
すでに同盟に参加している自国を放っておかれては、サロジカも新たな勢力を歓迎する訳にはいかなかった。それが戦力として微々たる物であるならば猶更である。
彼にとっては、邪魔以外の何物でもなかった。
「待ってくれ・・・!会議の妨げになったのならば謝る・・・!だが、こちらとしても――」
「出て行けと言ったのが聞こえなかったのかッ!!?お前達が純粋に我々の力になりたかったのならば歓迎もしただろうッ!だがな!自分達が危機に陥ったから力を合わせようだなんて、調子の良い事を聞いてやると思うのかッ!?お前達が今まで何をしてきたッ!?お前達に今、何が出来るッ!?冥王国に滅ぼされそうな連中を仲間に加えて、何かが変わると思うのかッ!?少しは頭を使って考えろッ!!」
それはテュール律国の立場になって考えれば、至極真っ当な意見だった。
ニノも相手がそう考える事は予測していたし、それに対する交渉材料もいくつか用意している。それでも、サロジカの目は何を言われても受け入れないと主張していた。
「分かっている・・・!今まで傍観者であった事、本当に申し訳ないと思っている・・・!」
だが、ニノは語る。今この場で口を閉ざす事は、一族全体を見捨てる事に繋がるからだ。
エルフを蔑む言葉がなんだ。
エルフを見下す眼差しがなんだ。
そんなもの、あの時すでに経験したではないか。
(姉様・・・!父様、母様・・・!)
そう、これはグンナガンによって死ななければならなかった者達のためでもあるのだ。
諦めてはならない。退いてはならない。
新たな決意を瞳に宿し、ニノは説得を試みようとした。
だが――。
「それ以上、何か言ってみろ・・・!冥王国よりも先に、私の国がエルフを滅ぼす・・・!」
この時、サロジカはかなり頭に血が上っていた。そのため不要な発言が口を突いて出てしまい、国の指導者として低俗な宣戦布告をしてしまう。
脅しのようなものであったが、国の代表者として活動してきた彼の経験が、その言葉に力を帯びさせてしまっていた。
それを聞いた瞬間、ニノは自分の体から感覚がなくなったような気がした。
立っているのに宙を漂うような感触。それを言葉で現すのだとしたら、やはり絶望が適切だろうか。
サロジカの言葉には、そうならざるを得ない程の拒絶が込められていた。
「やはりそうなりますか。まったく、これだけ話し合って何も進展がない。邪魔者がいなければ、もっと有意義な時間を過ごせたものを」
サロジカに同調するようにレッチアーノもニノをなじるが、それは今回に限った話ではない。何も決まらない会議を、今まで彼らは繰り返してきたのである。
ニノは、その不満をぶつける格好の標的になってしまったのだろう。そして、そのせいで彼女の進む道は閉ざされてしまったのである。
あまりにも悲劇的な展開ではあったが、それもまた人間との関わりを断ってきたエルフの自業自得とも言えた。
いずれにせよ、最早この場にニノの居場所はない。
「――くっ!」
「ニノ!」
それを悟ったニノは小屋を出て行ってしまった。
グレンの制止の声も届かず、彼女の背中が遠ざかって行く。
「さて、これで議論が進められる。サロジカ代表も、幾分か頭が冷えたのでは?」
「ああ・・・見苦しい所をお見せした・・・。さあ、まだ問題は山積みだ・・・。会議を再開しよう・・・」
まるで共通の敵を退けた仲間のように、サロジカとレッチアーノは微笑みを浮かべる。
その光景が、グレンには堪らなく不快だった。立場の弱い者を2人して責めておいて笑っていられる性根が、彼の苛立ちを刺激していく。
「いや、今日はここまでだ」
それは、サロジカの言葉を受けてのフィジンの台詞であった。
「フィジン殿。ここまで、とは?」
「今日の会議はこれで終わりという事だ」
サロジカの問いに、フィジンは淡々と答える。
実を言うと、彼女も2人のニノに対する言動に苛立っていたのだ。そのため、このような状態で議論は出来ないと解散を申し出たのである。
「ま、待っていただきたい・・・!まだ、我が国を救う手立てが・・・!」
「いいや、ここまでだ。サロジカ代表、貴殿の状態は些か普通ではない。これではまともな議論など出来ないだろう。また明日、同じ時刻に会議を開く。それまでに冷静さを取り戻しておくことだ」
そう言って、フィジンは立ち上がる。
続いてレッチアーノが、最後に渋々といった感じにサロジカが立ち上がった。
「――待て」
その3人に向かって、声が掛けられる。
それは誰であろう、グレンの物であった。
「全員、もう一度席に着け」
3国の代表を前にして、グレンは淡々と命令をする。
その言動に、フィジンを除く2人が怒りを露わにした。
「なんだ、貴様は!?たかがエルフの護衛の分際で!口に気を付けろ!」
「その通りだ!雇い主が去ったのだから、君達もさっさと追い掛けるべきだと思うがね!」
レッチアーノの苦言に、サロジカが同調する。
そして、グレンはそのどちらにも答えない。ただ自分の言いたい事だけを告げる。
「ニノを連れ戻して来る。それまで待っていろ」
そう言うとグレンは、返事を聞かずにニノが開け放したままの扉へと進んだ。そんな彼の背中に向かって、やはり2人は怒号を飛ばす。
「ふざけるなッ!何様のつもりだッ!」
「私も疲れたんでね!何と言われようが、帰らせてもらうよ!」
その言葉を聞き、グレンは立ち止まる。そして、ゆっくりと刀に手を掛けた。
当然、その光景を見たレッチアーノとサロジカ、そして彼の部下達は狼狽する。
「き、貴様!この場で武器を抜くという事は、それぞれの国を敵に回すという事になるんだぞッ!」
「場を弁えぬ愚か者がッ!エルフよりも先に死にたいのかッ!?」
喚く2人に向かって、グレンは最後にこう告げた。
「貴様ら3人、ただの1人でもここから出てみろ。例外なく、全員殺す」
言ってから、グレンは刀の鍔を少しだけ押し出す。
綺麗な抜刀音が響いたが、それは聞く者の耳によっては死刑宣告のように届いた事だろう。心の底から怯えるサロジカやレッチアーノとは対照的に、フィジンだけがその言葉に笑みを零す。
だが、その微笑みもすぐに驚愕へと変わった。
フィジン達が囲む机、それが何の前兆もなく真っ二つに切り裂かれたからである。その直後、グレンが刀を納める音が聞こえ、さながら自分がやったと誇示しているようでもあった。
最後通告を含めて、これらは全て単なる脅しである。本当に実行するつもりなど微塵もなく、彼らがその場を去ったとしても、グレンに出来るのは落胆する事だけだ。
しかし、3人が椅子に座り直した音を背中で聞き、グレンは安堵する。
急いでニノを連れ戻そうと、彼女の去って行った方へ小走りに駆けて行った。
傷心のニノは早々に走るのを止め、失意を抱きながら歩く。
本来ならば、あそこは食い下がるべきであった。そう出来なかったのは、やはりエルフ族の非力さと都合の良い事を言っているという負い目があったからだろう。
事実を言われ、ニノは逃げてしまったのだ。
彼女とて、エルフ族が本当に何も出来ない存在だとは考えてはいない。『豊穣の女神スース』から伝えられた術法もあるし、弓の腕にも心得がある。
誰もがそうであるように、ニノも自分達に誇りを持っていた。
しかし、それを悉く笑われた。自尊心を傷つけられ、気を沈めるニノの瞳には涙が滲む。それを誰かに見られまいと外套を深く被り、それを零すまいと指で拭った。
その時、視界の先に2人組の男を捉える。
どちらも痩せた体格をしており、肌を多めに露出した軟派な服に身を包んでいた。エルフ族の男に引けを取らない顔立ちは、高い身長と相まって彼らに多大な魅力を備えさせている。
楽しそうに談笑している2人の男に自分がエルフである事を悟られないよう、ニノは顔を伏せて歩いた。
しかし、少しは訝しむべきであっただろう。会議の場より然程離れておらず、一般人の姿を見る事のないこの場所を歩いている者達が、どのような人物であるかという事を。
(・・・?)
2人の男達が、彼女の前に立ちはだかるように止まった。
その意図が理解できず、ニノは困惑する。迂回しようと向きを変えるが、彼女が足を踏み出すよりも前に、男の1人がいきなり頭の覆いを外してきた。
「なっ!?」
思わず驚きの声を上げてしまったニノとは対照的に、男達は愉快に笑い合う。
「ほら、兄さん!やっぱり、こいつがエルフだったんだよ!」
「兵士達の言っていた通りだ。本当に、エルフがこの街に来ていたんだな」
話しぶりから、天守国の者である事は分かった。しかし、依然何をしたいのかが分からなく、ニノは軽い恐怖を覚える。自分1人だけで人間に会うのが、これ程までに心細いものだと彼女は初めて自覚した。
そのため、急いで引き返そうとする。
その彼女の腕を、兄と呼ばれた男が掴んだ。
「待てよ。もっとよく顔を見せてみろ」
居丈高な態度、無礼な物言い。
男達の言動にはエルフに対する興味というよりも、美術品を品定めしたいような雰囲気があった。ニノの顔を覗き込んでくる視線には礼儀の欠片もない。
「放せっ・・・!」
「すごいよ、兄さん!長い耳に、美しい顔!本当の本当にエルフだ!僕、初めて見たよ!」
「それだけじゃないぞ、弟よ。エルフには、尻尾があるんだ」
「本当!?それは知らなかったなあ!」
ニノの言葉を無視し、2人で会話を繰り広げる男達。
「放せっ・・・!!」
「でも、力は弱そうだね。腕も細いし。女だからかな?」
「話によると、男も似た様なものらしい。――そうだ、弟よ。俺が抑えているから、こいつの服を脱がしてやれ。獣のような尻尾を見てやろう」
兄の方の言葉に、ニノは驚愕を露わにする。相手の尊厳を考えない無礼極まりない発言だった。
そして、弟の方も賛同したような笑顔を見せる。
「それはいいね!どんな風に生えているのか、見てみたいし!」
なんの躊躇もなく、男はニノの服に手を掛けた。
腕を掴む手もろとも振り払おうと、ニノは激しく暴れる。
「や、やめろっ!!」
「おっと。やはりエルフは気丈だな。以前抱いたエルフも、こんな感じだった」
「え!?兄さん、エルフと寝た事があるの!?」
手を止め、弟が兄に問う。
「ああ。『優華街』という街に、ガレオン商会の娼館があるだろう?そこに1人、女エルフが囲われているんだ」
「へー!知らなかったなあ!」
「暴れるから両手を縛る必要があったが、かなり良かったぞ。尻尾をいじってやると羞恥に顔を歪めるから、そこを攻めてやるのが最高に快感だった」
「兄さんは相変わらず、女を虐げるのが好きだね」
「それはお前もだろう。――そうだ、弟よ。良い事を思いついた。このエルフ、僕達で飼うとしよう。エルフは長命で劣化もかなり遅いから、死ぬまで楽しむことが出来るぞ。娼館の店主も言っていたが、正に娼婦になるために生まれてきたような存在だ」
「それは素晴らしい考えだよ、兄さん!名前はなんて付けよう!?首輪はどんな素材が良いかな!?」
「それは後で考えるとしようじゃあないか。今は、こいつを家に持ち帰るのが先決だ」
「それもそうだね!楽しみだなー!早速今夜、遊ぼうよ!」
「ああ。きっと長い夜になるぞ」
はしゃぐ男達を見ながら、ニノは呆然としていた。
(なんだ・・・こいつらは・・・?)
完全に自分を物扱いしている。同じように手足を持ち、自我を持つエルフを玩具としか見ていないのだ。
おそらく攫われたであろう娼館のエルフに同情する気も起きなかった。
ただただ怖い。殺された姉と同じような目に遭わされそうな予感がして、ニノは体を震わせる。
「あ、兄さん。こいつ、怖くて震えてるよ」
「じゃあ、名前は『ビビリ』だな」
「えー!格好悪い!せめて『ビビ』にしようよ!」
「じゃあ、『ビビ』だ。――来い、ビビ。お前のご主人様の家に連れて行ってやる」
力を込めて引っ張ろうとする男に、ニノは必死になって抵抗した。恐怖に声も出なかったが、それでも力の限りに刃向かう。
「お。思った以上に力があるぞ」
「頑張れ、ビビ!兄さんに負けるな!」
――狂っている。
2人に対する印象は、それに終始していた。ニノの抵抗すら遊びと捉え、楽しみ姿は無邪気と言うより狂気であった。
彼らの人生に何があり、どうしてこうなったのか。それを考察するのすら汚らわしい。
ニノはただ、一心不乱に抵抗した。
「――あ」
その時、彼女の腕を掴んでいた手を兄が放す。必然、ニノは後ろに倒れ込みそうになるが、それを支えてくれる者がいた。
「大丈夫か、ニノ?」
言うまでもなく、彼女の後を追いかけていたグレンである。
彼の登場によりニノの恐怖は薄れ、縋り付くようにして抱き付いた。それを、グレンは優しく迎え入れる。人目があろうとなかろうと、今この状況で恥じる程グレンは男を隠してはいない。
そして、ニノに無礼を働こうとしていた2人を睨む。しかし、彼らはグレンの方を見ておらず、むしろ彼の背後を気にしているようであった。
振り返ると、ヴァルジとジェイクが走って来ているのが見える。
彼らもまたニノを連れ戻そうと小屋を飛び出したようで、グレンの腕の中にニノがいる事を確認すると安堵の表情を浮かべた。
それでも、傍に立つ2人組の男を認めた瞬間、ジェイクの顔が憎悪に歪む。
人の良い彼にしてみれば珍しく、明確な嫌悪感を表に出していた。
「おお、良かったですな。早々にニノ殿を見つけられたようで。さ、早く戻るとしましょう」
2人のもとまで辿り着いたヴァルジが、傍に立つ男達の事など気にせず、そう言った。
ニノにちょっかいを出そうとしていたのだろう、という程度にしか考えていない。
しかしジェイクは異なり、怒りの声を男達にぶつけた。
「貴様ら・・・!エルフ殿に何をした・・・!?」
表情だけでなく、言葉まで荒々しい。
ジェイクが初めて見せる殺意に、グレンとヴァルジは少しだけ驚いた。
「別に。迷子のエルフを見つけたから、助けてあげようと思っただけだけど?」
「そうそう。本当に優しいよね、僕達って」
いけしゃあしゃあ、と言うのが相応しいくらいに2人は嘘を吐く。グレンも全てを見ていた訳ではないため否定はしなかったが、彼らを知るジェイクはそれが嘘であると見抜いていた。
「そんな戯言を信じると思うであるか・・・!?貴様らが何をしたか、吾輩は忘れていないのである・・・!」
「おいおい。まだ僕達を疑ってるのかい?勘弁してくれよ。まったくの濡れ衣だよ」
「そうそう、兄さんの言う通り。称号を貰ってからジェイクも変わっちゃったね。昔は平民らしく、僕達にへこへこしていたのに」
「あの時は貴様らの方が位が上であったから、そうしたまでの事なのである・・・!心の中では、いつでも殴ってやりたい気持ちで一杯だったのであるよ・・・!」
「おお、怖い怖い。本当称号って邪魔だよね、兄さん?ただの平民が僕達よりも偉くなっちゃうんだから」
「正に、だな。ライムダルやフィジンも、称号を貰った途端に僕らのことを見下すようになっちゃって。国の先が思いやられるよ」
「本当、本当」
2人の国を想う気持ちなど全く込められていないやり取りに、ジェイクは更なる苛立ちを覚える。
そのため、2人に対する呪いの言葉を呟いた。
「それは貴様らの自業自得なのである・・・!この・・・!汚らわしい『なりそこない』め・・・!」
その言葉を聞いた瞬間、今まで飄々としていた2人の表情が一変する。目が座り、ジェイクに向かって怒りの眼差しを向けていた。
「その名で僕達を呼ぶなよ・・・!ミコトに気に入られているからって、調子に乗っていると・・・殺すよ・・・?」
「行こう、兄さん・・・!こんな醜い男の顔、一刻も早く視界から消し去りたい・・・!」
機嫌を悪くした2人は、それ以上口を開く事も振り返る事もなく、この場を後にする。彼らの背中が小さくなっていくのを見届けた後、ジェイクはニノに謝罪をした。
「申し訳ないのである、ニノ殿・・・!まさかあの2人が、こんな所に来るとは・・・!」
「あの無礼な若者達は、どういった人物なのです?やけに偉ぶっていましたが」
ヴァルジの問いに対して、ジェイクはすぐには答えない。
そんな彼に向かって、グレンが聞く。
「奴らは、この国の貴族か?」
だとしたら、なんと愚かな存在か。自分の生まれ持った地位を絶対的な物だと信じている振る舞いは、あまりにも醜い。
自国の貴族と比べて、グレンは彼らを心の中でそう罵った。
「違うのである・・・。もっと厄介な存在なのであるよ・・・」
「厄介・・・?」
グレンの予想が当たらずしも遠からずと言いたいのか、ジェイクはそう表現した。
「どういう意味だ?」
「あの者達は・・・天子様の兄なのである・・・」
だからか、とグレンは思った。
男でありながら天子を名前で呼んでいたのには気付いており、その理由が兄妹であるというのならば納得できる。そして、国の最高権力者の身内ならば相当な地位に就いているのだろう。
「天守国では、長子を次期君主に据えないのですな」
グレンやヴァルジの中では、王族の長男――そうでなくとも、一番最初に生まれた子を跡継ぎとするのが常識であった。
それが男であろうと女であろうと構わなかったが、わざわざ後から生まれた子供を選ぶ理由が分からなかった。
「『天子』を継ぐ者は、『煌髪』を持っていなければならないのであるからして・・・」
「『こう髪』・・・とは・・・。天子の、あの発光する髪の事か・・・?」
一目見れば忘れられない。あの光を放つ髪が、天子の名を継ぐ条件なのだという。
思い返してみれば、確かに先程の2人の髪は発光しておらず、ミコトのような神々しさはなかった。
「そうなのである。あれこそが神の血を濃く受け継いだ者にしか現れない『天子』たる証明。今の天子様も、『煌髪』を持つが故に『天子』になられたのである。あまりにも高貴な髪であるがために、異性は触れる事すら、同性の者であっても切る事が許されていないのであるよ」
だから、あれ程長かったのだ。
グレンはミコトの5m以上ある長い髪を思い出し、その状態に一応の納得をした。
「そして、それを持たないがために先程の2人は天子の『なりそこない』という訳か」
ジェイクが彼らに放った一言。それが2人を激しく苛立たせたのは明白であった。
つまり、『なりそこない』とは天子になれなかった神の血筋の者への蔑称なのだ。
「本来ならば、そのような言葉を使うべきではないのである・・・!しかし、あの者達ほど、この言葉が相応しい者はいないのであるよ・・・!」
「何か、訳ありのようだな」
それも先程の会話で、少しだけ話題になっていた。
ジェイクが言うには、彼らは何らかの罪を犯したのだ。
「一体、何があったのです?」
それに興味を持ったヴァルジが問う。
グレンはあまり興味がなかったが、それでも聞いておいて損はないと考えていた。
「むう・・・」
しかし、ジェイクは唸るばかりで話そうとはしない。こういった反応を彼は一度だけ見せた事があり、その時は天子に関するものであった。
今回もまた、そうなのだろう。そして、それは彼が語った天子の男嫌いに関するものなのではないか。
先程の2人とミコトを組み合わせて、グレンは可能な限りの想像力を働かせた。
「やはり嫉妬か・・・?」
そこから来る幼少時代のいじめが、ミコトの男嫌いの発端となった可能性が高い。だが、ジェイクが受け入れられている事を考えると少し違うような気もした。
その答えとして、ジェイクは複雑な表情をしながら首を縦に振る。当たっているのか外れているのか、微妙な反応であった。
「素晴らしい推察なのである・・・。確かに、あの2人は天子様に嫉妬しているのである・・・。同じ両親から生まれたのに、扱いに対して圧倒的な差がある・・・。それを兄である奴らは許せないのであるよ・・・」
「しかし、それ以上の出来事があったようですな?」
でなければ、ジェイクがあのような物言いをする訳がない。
それは付き合いの少ないグレンとヴァルジにも分かっていた。
「う、うむ・・・」
「話してみてはもらえませんか?こちらとしても、ニノ殿を狙った2人の危険性を理解しておきたいのです」
もしかしたら、再びニノを狙って行動を起こすかもしれない。
その時どの程度の対応をすればいいか、それを今の内に決めておいた方が迅速に対処できるだろうとヴァルジは考えた。
言葉で追い返すのが限界なのか。最悪、命を奪っても良いのか。
友人から孫娘の護衛を任されているのだ。老執事の思考は決して間違いではないだろう。
「う・・・む・・・。確かに、そうであるな・・・」
グレンに抱き付き、怯えたままのニノの姿を目に納めると、ジェイクは小さな声で話し始めた。
「これは・・・まだ、吾輩が称号を頂く前の話なのである・・・。当時、吾輩は悠久御殿にて警備を任されていたのであるよ・・・」
「あそこでか?昨日見た限りでは、敷地内には女性しかいないようだったが」
「あの時は、まだ男も配属が許されていたのであるよ・・・。だからこそ、あのような悲劇が起こってしまったのであるが・・・」
その言葉により、この話題がそういった類の物である事を理解する。
ニノに聞かせていいか分からなかったが、わざわざ耳を塞ぐような真似をする事もないと判断した。
「ある夜、天子様の寝室に忍び込む者が現れたのである・・・。その者は、あろうことか天子様の御部屋を御守りする護衛兵だったのであるよ・・・。天子様はあの美貌に加えて、目がお見えにならない・・・。それを好都合と、狼藉を働こうとしたのである・・・」
天子という存在なのだから口封じに殺すことは出来ない。しかし、目の見えないミコトならば声を聞かれない限りは個人を判別できず、例え襲い掛かったとしても罪を逃れられる可能性があった。
そう思い至った男が、美しいミコトを手籠めにしようとしたのだ。
「御殿の庭を警備していた吾輩は、微かに聞こえた物音を訝しんで天子様の御部屋に向かったのである・・・!そこで天子様の口を塞ぐ男を目にし、怒りのあまり有無を言わさず首を刎ねたのであるよ・・・!結果として天子様には傷一つなかったのであるが、それ以来男に恐怖を覚えるようになってしまったのである・・・!吾輩には心をお開きになってくださるが、なんとお労しいことであるか・・・!」
それは確かに同情すべき出来事である。
しかし、それが全てではないのは確実であった。なぜならば、まだ天子の兄が話に出てきていないのだ。
「それで、あの2人はそれにどう関係しているんだ?」
「後の調査で分かったのである・・・!吾輩が首を刎ねた男が、その日までの数日・・・奴らと親しく話をしている所を何度も見られていたのであるよ・・・!そこで吾輩を含む『親衛隊』は確信したのである・・・!天子様の兄である2人が、男を天子様に嗾けたのだと・・・!」
それは自然な発想であったのかもしれない。
だが、いくら嫉妬しているからと言って、悪戯や虐めの度を超えてしまっているようにも感じる。あの2人の事を詳しく知らないグレンとヴァルジには、理解できない行動であった。
「ですが、何故そのような事を?実の妹に男を嗾けるなど、正気の沙汰ではありませんぞ」
「正に正気ではないのである・・・!奴らは明確に狂っているのであるよ・・・!そして、奴らはそれを自覚していない・・・!妹を天子の座から引きずり下ろすために男に襲わせるなど、常人の発想ではないのである・・・!」
「どういう事だ、ジェイク?」
純潔を失ったからと言って、天子としての地位が失われるとは考えにくかった。そうであるならば、後継者が育つ前に地位を剥奪される事になる。
異国の者にとって簡単には納得できない事だろうが、実を言うと、それは少しだけ当たっていた。
「天子という地位が継承される瞬間・・・それは、先程言った『煌髪』を持つ子供が生まれた時なのである・・・!つまり・・・奴らは妹を孕ませ、『煌髪』を持つ子供を産ませる事で地位を剥奪しようとしたのであるよ・・・!」
「な・・・なんだ・・・・・それは・・・?」
自分に何の得もない。嫌がらせ以外の何物でもない行動に、グレンは戸惑いの声を漏らす。
あまりにも不快。今すぐ追い掛けて消しておいた方が、誰のためにもなるのではないかと思えてしまいそうな連中であった。
「異国には・・・恐ろしい精神の持ち主がいるのですな・・・」
長い年月を生きてきたヴァルジも、そのような発想をする者を知らず、心の内に確固たる嫌悪感を宿す。
「ジェイク。そのような者達が、どうして街中を歩いている?捕らえ、隔離しておいた方が天子のためになるのではないか?」
「そうしたいのは山々なのである・・・!しかし、可能性が高いというだけで、確たる証拠がないのであるよ・・・!ライムダル殿やフィジン殿も必死になって調査したのであるが、手掛かりは見つからなかったのである・・・!」
天子の兄達が実行者と会話をしていたと言っても、その内容を聞いた者はいなかった。ジェイクが語った事柄も、全ては彼を含む天子側の人間の推論でしかなく、それを根拠に2人を捕らえる事は出来ない。
それだけの地位に、あの2人は未だ就いているのだ。
「そうか・・・。ならば、やはりニノは1人にはしておけないな。そのような連中だ、何をして来るか分からない」
「申し訳ないのである・・・。冥王国との戦いに人手が割かれ、街中の監視が行き届いていないのであるよ・・・」
「いや、気にするな。それよりも問題は――」
言いかけて、グレンは自分の体に顔を伏せるニノに視線を落とす。
エルフ族の境遇、冥王国の脅威、同盟国の非協力的な態度、ニノを襲った天子の兄。
様々な問題が山積みになり、グレンの頭の中を圧迫していく。普段あまり考え事をしない彼には、非常につらい状況であった。
それでも、放っては置けない。
せめてエルフ族の同盟参加だけでも成し遂げたかった。
「――ニノ、会議の場に戻るぞ」
グレンにそう声を掛けられ、ニノの体が少し強張る。それがフィジンを除く他の代表者への恐怖である事は考えずとも分かった。
心情としては無理に連れて行きたくはなかったが、ニノはエルフ族の代表なのだ。彼女なくして交渉は成り立たず、グレン達もそこまで甘やかす訳にはいかなかった。
それをニノも分かっているだろうが、一向に動く気配がない。
「すまない、ジェイク。私達は少し遅れて行く。君は会議に戻って、各国の代表を引き留めておいてくれないか?」
「む・・・分かったのである」
心優しいジェイクは傷心のニノを放って置けなかったが、それは自分の役目ではないと判断し、グレンの指示に従った。
足早に戻って行くジェイクの足音を聞きながら、グレンは再度ニノに語り掛ける。
「どうした、ニノ?お前らしくないな。怖いのか?」
グレンの口から発せられたのは慰めの言葉でなかった。
これは彼が鈍感であるからではなく、ニノにそれは不要と考えたためである。
「気をしっかりと持て。お前は強い。こんな所で足を竦ませるような女性ではないはずだ」
安っぽいと感じられる言葉ではあったが、グレンの口からはこれくらいの台詞が限界であった。もしここにジェイクがいたのならば、「なっていない」と苦言を呈した事だろう。
そのせいか、ニノも顔を隠しながら頭を振る。
「そんな事・・・ない・・・!駄目だ、私は・・・!人間が・・・怖い・・・・!」
「弱音はお前らしくないぞ。私に食って掛かるような気の強さがあるじゃないか」
「違う・・・!あれは・・お前の優しさに・・・甘えただけだ・・・!お前ならば・・・強く言い返してこないと・・・高をくくっていたから・・・!」
確かに、グレンはニノを叱りつけた事はない。それに気分を良くしたニノは、グレンに対しては強く出る事が出来ていた。
だからこそ、言い返してくる相手には怯んでしまう。そんな自分を、ニノは恥ずかしく思った。
「ごめんなさい、グレン・・・!私・・・全然・・・強くなんてなかった・・・!ただ・・・そう思い込みたかっただけだった・・・!」
心情を吐露する声が枯れ始める。
ニノの瞳からは涙が流れていた。
「ねえ・・教えて・・・!なんで、人間は・・・エルフを蔑むの・・・!?見下すの・・・!?私達が何をしたの・・・!?私達だって、自分を好きでいたいのに・・・!」
それに関して、グレンは答えを持ち合わせてはいなかった。
彼の母国では他種族との交流の歴史がないため、他の国が何故このようにエルフと接するのかが分からないのだ。姿形が少し違うだけではないか、と思ってさえいる。
「すまない、ニノ・・・。私には、この辺りの国に関する知識がない・・・。だから、お前が望む答えを教えてやることはできない・・・」
グレンは決して自論を唱えようとはしなかった。頭の足りない自分が作り出した嘘など、慰めにもならないと考えたからである。
代わりに、己の出来る最大限度の協力を申し出る事にした。
「だが、そのような答えを知る必要はないと思う。見返してやればいいんだ。エルフ族だって、人間に引けを取らないという所を見せてやればいい。勿論、私も協力しよう。先程、お前の仇がテュール律国を攻め込んでいると言っていたな?丁度良いじゃないか。姉の仇も討て、エルフ族の力を見せつける事の出来る絶好の機会だ」
グレンが必死になって紡いだ言葉を聞き、ニノは顔を上げてくれる。
その瞳には大量の涙が溢れており、彼女の顔中を濡らしていた。初めて見たニノの悲哀に満ちた顔であったが、グレンはそれすら美しいと思う。
「本当・・・?」
「二言はない。お前との約束は必ず果たそう」
そう言って、グレンは頷いた。
「グレン殿・・・!」
その時、ヴァルジが声を上げる。その理由を、グレンは理解していた。
過剰な力添えは認められない、と言いたいのだろう。確かに、エルフ族が自分達で平穏を勝ち取らなければ価値はない。いずれ去りゆく自分達が手助けをしたとして、その後の予期せぬ事態に対処できないままでは意味がないのだ。
だが、グレンは意見を変えるつもりはなかった。
「仰りたい事は分かります、ヴァルジ殿。しかし、こう泣きつかれては情も動くというものです。どうやら私は、エルフ族に予想以上の情を移してしまっていたようです」
などと言ったが、これは事実と少し異なる。
彼がエルフ族――と言うよりも、ニノに肩入れしているのは事実であったが、先の提案を申し出たのは彼女の涙を見てしまったからであった。
もし彼の知人が――特にレナリアあたりが見たら、「また泣き落されてる」と笑った事だろう。しかし、その笑いは呆れではなく、間違いなく彼への称賛が込められているはずだ。
故に、ヴァルジも非難したいがために声を出した訳ではない。
「ああ、それは別に構いません。エルフ族が同盟に参加できるよう努めるのが、私達の使命ですから。ただ、『もしこの場面をグレン殿の御友人方が見たら、なんと申すでしょうな?』と聞こうと思っただけです」
そう言うヴァルジの笑顔が、グレンにはひどく悪いものに見えた。
冷静になって今の状況を分析すると、涙を流す美女に抱き付かれているという感じになる。傍から見れば、色恋沙汰が拗れたように映る事もあるだろう。
ヴァルジはそれを、「国に帰ったら皆に教えようかな?」と言っているのである。
「・・・・・・ヴァルジ殿・・・分かっているとは思いますが・・・」
「ほっほっほっ。ええ、分かっておりますとも。冗談ですよ、冗談」
場違い、とは思わなかった。
こういった場面で、この老人の軽口は非常に頼りになる。グレンはそう思うのであった。
見れば、ニノの目から零れていた涙も姿を消している。
「どうやら、落ち着いたようだな?」
グレンに聞かれたニノは、黙ったまま頷いた。
「では行こう。各国の代表者には待つよう言ってある。戻って、テュール律国に協力する旨を伝えなければ」
「でも・・・それを受け入れてもらえるかは・・・」
「分からないな。だが、その時は勝手に冥王国と戦ってしまえば良い。そして、手にした戦果を突きつけて、同盟参加を要求するとしよう」
「でも・・・エルフ族の戦力は頼りないし・・・」
「安心しろ。私とヴァルジ殿もいる。相手の戦力がどれ程かは分からないが――まあ、何とかなるだろう」
いや、何とかするつもりであった。
ニノの涙を見てしまったグレンに迷いはなく、グンナガン率いる冥王国軍を殲滅する決意を胸に抱く。
それを行き過ぎた介入と言う者もいるだろう。将軍という地位に就く存在が率いる軍を打ち負かす事は、戦争の勝敗に大きく関わってくるに違いないからである。
だが、もう決めたのだ。
当初の予定よりも大幅に拡大した手助けであるが、エルフ族の同盟参加を成し遂げるためにもそうするしかない。
ニノも、それで少しは安心してくれたようだ。
「分かった・・・。もう少しだけ・・・頑張ってみる・・・」
やけにしおらしくなったニノに戸惑いながらも、その言葉にグレンは笑みを作った。歳は彼女の方が上であったが、やはり見た目のせいで年下の女性が頑張っているように見えるのだ。
「でね・・・グレン・・・。1つだけ、お願いがある・・・」
「ん?なんだ?」
口調を戻そうと努めるニノの頼みを、グレンは受け入れるつもりで聞き返した。この際、ジェイクの助言にもあった気障な台詞を言う事も厭わないつもりだ。
「私のお腹に・・・触って・・・」
「は・・・?」
しかし、その申し出には疑問の声を漏らした。
ニノはこのような場面でヴァルジのように冗談を言う様な女性ではないため、本心からの願いである事は理解できる。
だからこそ、グレンは戸惑った。
「待て・・・どういう事だ・・・?」
「エルフ族には、勇気ある者にお腹を触れられると、その者の心の強さを分けてもらえるという言い伝えがある・・・。だから、グレンの勇気を・・・私にちょうだい・・・」
そう言うと、ニノは外套の前を開け、自身の腹部を曝け出した。
この瞬間、グレンはエルフ族が臍を丸出しにした服を着ている理由を察する。つまり、腹を触りやすいように作られているのだ。
これもまた他種族特有の風習であったが、彼にしてみれば非常に気まずかった。
ニノの服装はこれまでと変わっていないため、彼女の少しだけ露出した腹部も見慣れたものであったが、外套を捲って晒されると雰囲気が異なるものとなる。
なんだか如何わしい事をやっているような気がした。
「あ・・・っと・・・」
そのため、グレンも行動に移すのを躊躇する。
だが、ニノの縋る様な表情に加えて、待つように晒された腹部。
それを目にして何も感じない程、グレンは己の中の男を抑えきれている訳ではない。ただ、かと言って曝け出すような真似はせず、あくまでニノの要望に応える体で、仕方なく、本意ではないが手を動かした。
ゆっくりと近づけていき、遂にはニノの腹部に手を触れさせる。グレンの手は大きく、大部分が彼女の服の下に潜り込んでしまう形になってしまった。
「んっ・・・」
と、ニノが今まで聞かせた事のないような色っぽい声を出したせいで、グレンは変な汗をかき始める。
(何をやっているんだ、俺は・・・)
白昼堂々、異性の肌に手を触れさせている自分に、グレンは大いなる疑問を持った。屋外という事に加えて、ヴァルジの視線もあるというのに、だ。
その老人の視線も生温かく、言い知れぬ圧を感じた。
「も、もう・・・いいか・・・?」
己の手とニノの肌が同じ体温になり始めた頃――つまりは、それくらい長い時間触れ合った後――グレンはぎくしゃくしながら問い掛ける。
「あ、ああ・・・。ありがとう・・・。少し、気が楽になった・・・」
その言葉通り、ニノは落ち着いた表情をしていた。
「そうか・・・。何よりだ・・・」
グレンが腹から手を放すと、ニノは外套の前を閉じる。
そして急いで顔を外套の覆いで隠すと、深呼吸をした。
「よし・・・行こう」
その決意に満ちた声を聞き、グレンは一安心をする。恥を忍んで大胆な行動に出た甲斐があったというものだ。
しかし、未だ顔を隠したがっている所を見るに、ニノの人間への恐怖は健在である事が分かる。
本当に勇気を分け与えられたはずはないので、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
「ニノ。そうやって顔を隠すから恐怖心が芽生えるのではないのか?」
それでもグレンは、それを厳しく指摘する。口調や表情は至って平時のものではあったが、人によっては心を痛める一言であっただろう。
ニノならば恐怖心を克服できる、と信じているからこその苦言である。
「う、うるさい!今は、これでいいんだ!」
そう言うと、ニノは頭に被った外套を両手で力強く引っ張った。ぎゅっと押さえている様は、意地でも素顔を晒さないと言っているようだ。
「それでは駄目だ。少しでも毅然とした態度を各国の代表者に見せないといけないだろう?先程までの自分とは違うという所を見せなければ」
ニノに辛く当たったテュール律国とブリアンダ光国の代表者は、エルフの下手に出なければいけない立場を理解していたがために、あのような態度を取ったのだ。
そのような場合は、むしろ「手を貸してやる」くらい態度で臨むのが好ましいのかもしれない。協力を断られたとしても現状に変わりはなく、相手がこちらの戦力を過大に捉えてくれる可能性があるからだ。
今更そう思い至っても遅いのだが、グレンとしては少しでも変化を起こしたかった。もう一度ニノの涙を見るのは、出来れば避けたいのだ。
そのため、ニノの顔に被さった覆いを外そうと手を伸ばす。
「駄目っ!」
しかし、ニノは大きく後ろに飛びずさり、グレンから距離を取った。
その明確な拒絶に、グレンは戸惑う。
「どうした?そこまでの事か?」
「と、とにかく!今はこのままでいいんだ!戻ったら外すから!」
やたらと慌てるニノに向かって、グレンは怪訝な目を向ける。表情が伺い知れないため、怒っているのかも分からなかった。
「い、いいか・・・!?私が『良い』と言うまで、お前は私に触れるな・・・!分かったな・・・!」
「あ、ああ・・・。元より、お前に触れるつもりなどないが・・・」
意味の分からない約束を結ばされると、ニノは安心したように外套から手を放す。
そして、少しだけ乱れた衣服を正すと、
「――戻るぞ」
と、今度こそ歩を進めた。
グレンの横を通り過ぎる時には彼に対して警戒心を見せていたが、それ以外はいつもの彼女に戻っているように思える。
グレンは安心して、ニノの背中を見つめるのであった。
そんな彼の肩にヴァルジが触れる。老人の方へ顔を向けると、とても優しい笑みを浮かべており、彼もまたニノに元気が戻った事が嬉しいようであった。
「エクセお嬢様には、黙っておいて差し上げますよ」
いや、全く違う事を考えていた。
なんだか前にも誰かに同じような台詞を言われた気がしたが、グレンは特に言い返す言葉を用意しておらず、黙り込んでしまう。
それが面白いのか、ヴァルジは笑い声を上げながらニノの後を追いかけるのであった。
グレンも帰国した際の対応に苦悩しながら、後に続く。
会議の場に戻ると、そこにはグレンが脅した成果があったようで、各国の代表が全員揃っていた。
そしてニノが彼らに向かって、テュール律国への助力を申し出るのと引き換えに、エルフ族の同盟参加ならびに居住区の提供を希望する。
ブリアンダ光国のレッチアーノは相も変わらず拒否の立場であったが、テュール律国のサロジカは先程と打って変わって快く受け入れてくれた。
これは良心が痛んだ訳でも、エルフ族の評価が上がった訳でもない。ニノ達が戦力として加わるという事は、グレンも同様であると判断したためであった。
彼ならば多少なりは役に立つと考え、あわよくば自国の戦力として組み込もうと画策したのだ。
それが叶わない事なのは言うまでもないが、それを知る由もないだろう。グレン達にとっては嬉しい企みであり、それに気付かなくとも問題はなかった。
結果、グレンとヴァルジ、そしてニノを含むエルフ族の戦士達はテュール律国を目指す事になる。
その間、他のエルフはロディアス天守国で匿う、とフィジンが確約してくれた。そして、これもまた慈善ではない。
非戦闘員のエルフを天守国に留まらせておけば、必然的にニノも帰って来る事になる。そうなると、グレンも天守国に戻って来るに違いなく、エルフ族の安全が確保できれば天守国に帰属させる事もできるだろうと考えたのだ。
グレンが見せつけた事象が彼の力の切れ端であったとしても、そこから実力を察する事は容易く、やはり各国の思惑に巻き込まれる事態になってしまっていた。
それが表に出ないまま、会議は終了となる。
兎にも角にもエルフ族にとっては実りのある展開となり、ニノは大きな達成感に包まれた。
そして、その後の話し合いで、出来るだけ早くエルフの森に戻る事を決める。
決行は明日以降となるため、グレン達は一先ず、今日のニノの働きを労うのであった。




