幕間 天示京での一夜
悠久御殿から帰った後、グレン達は翌日の『三か国会議』に備えて宿屋で休んでいた。
しかし、特に何か準備するような事もなく、食事も終えたため3人揃って部屋で過ごしている。
3人、という事は当然ニノも同室であった。これは彼女の身の安全を考慮した上での行動であり、ニノもそれで納得している。
彼女がエルフである事はすでに多くの者に知れ渡っているはずなので、慎重になり過ぎても損はない。どのような人物が、ここ天示京にいるのかも分からないのだ。
最悪1人でいる所を攫われるという事も考えられ、用心は徹底しなければならなかった。
風を通すための戸も完全に閉められ、鍵も掛けている。出入り口は言わずもがなだ。
とりあえず宿屋の周りに不審な気配は感じられないため、グレンもどっしりと腰を下ろして床に座っていた。彼にしてみれば、椅子もベッドもないため仕方なくだ。
そう、天守国にはベッドがないようで、床の上に寝具を敷いて眠るのだと言う。
やはり遠い異国での暮らしは珍しい体験をするものだ、とグレンはしみじみと思った。
「やはり少し違和感がありますな・・・」
そう語るのはヴァルジである。
彼は今、宿屋に備えられた寝間着に着替え、我先にと寝具の中で横になっていた。老人であるから夜が早い、という訳ではない事だけは理解しておいて欲しい。
「眠れそうですか?」
「眠れるには眠れるでしょうが・・・。床との距離が近いだけで、こんなにも景色が違うものなのですな・・・。まあ、目を瞑れば関係ありませんか」
戦士にとって、休息とは鍛錬と同じくらいに重要である。
そのため、グレンもヴァルジも場所を選ばず眠る事が出来た。野宿の経験もあり、それ以上の条件である現状に過剰な文句を言うつもりはない。
「明日は大事な交渉の日です。寝坊なんて事にならないようにしたいですね。ジェイクが迎えに来てくれるという話でしたので、心配は無用だと思いますが」
「本当にお優しい方ですな、ジェイク殿は。グレン殿が嫉妬する程の人気ぶりも、理解できるというものです」
「ですから、嫉妬などしていません。彼に抱くのは尊敬だけです」
「ほっほっほっ。そういう事にしておきましょう。またニノ殿に怒られてしまいますからな」
ヴァルジは面白そうに言うが、グレンにとっては触れて欲しくない話題である。ニノもこの部屋におり、当然この会話を聞いているのだ。
ただ、話に入って来る訳でもなく、膝を抱えながらグレンの事をじっと睨み付けているだけであった。加えて、グレン達からは見えなかったが、彼女の尻尾がぴんと立ってもいる。
これは先程の会話が理由なのではない。部屋に入ってからというもの、ずっとこの状態なのだ。
そんなニノの瞳からは怒りや軽蔑ではなく、明確な警戒が見て取れた。
一体、どうしたというのか。
「なあ、ニノ・・・。私の事を警戒しているようだが、どうしたんだ・・・?」
グレンの問いにすぐには答えず、ニノは短い静寂を作り出した。
それでも口を開き、
「分からないか・・・?」
と彼に向かって問い質す。
「すまないが、全く分からない。何か、君に失礼を働いたか?」
「いや・・・まだ働いてはいない・・・」
「『まだ』・・・?」
意味が分からないと言いたげなグレンの言葉を聞き、ニノは彼に向かって指を突きつけた。
「い、いいか、グレン!?私は、確かにお前の事を信用した!だからこそ、同室を許可している!し、しかし!だからと言って、全てを受け入れたつもりではない!今夜、私に指一本でも触れてみろ!今後一切、口を利かんからな!」
どうやら思い過ごしをしているようであった。
しかも、例に漏れなくグレンが精力旺盛であるという方向でだ。
「あのな・・・ニノ・・・。お前は、大きな勘違いをしている・・・」
溜息を吐きたい衝動を抑えながら、グレンはこの部屋唯一の女性に語り掛ける。ニノは警戒を解くつもりはないようだが、話を聞いてくれる様子ではあるようだ。
「いいか?私はお前が思う程、男としての本能に正直な男ではない」
グレンの意見を聞いても、ニノはあまり納得していなかった。
「・・・証拠はあるのか?」
「証拠はないが、証言ならばある。ヴァルジ殿に聞いてみろ」
言ったグレンと言われたニノは、横になっているヴァルジに揃って視線を移す。しかし、当の老人は「すぴー」と小気味良い寝息を立てながら就寝していた。
いや、先程まで意識のしっかりしていたヴァルジが、この短時間で眠れる訳がないため、狸寝入りである事は明白である。おそらく、巻き込まれたくないと考えたのだろう。
それは正しい選択なのだが、グレンとしては証言者がいなくなった事になる。
「まいったな・・・」
思わず頭に手をやるグレンであった。
そんな彼を見たせいか、ニノも考えを少しばかり改める。
「ま、まあいい・・・。そこまで言うならば、信じてやろう・・・。よく考えたら、ここにはヴァルジもいるんだ・・・。お前も軽率な行動は取れないはず・・・」
それでも未だ警戒心は残っていたが、彼女の過去を知れば決して理解できない行動ではない。むしろ、この程度の対応で済んでいるあたり、信頼しているというのは本当なようだ。
「もうそれでいい・・・」
と、グレンが諦めの言葉を呟いた時、閉め切った戸を叩く音が聞こえた。
トントン、と規則的な打音だ。
グレンは反射的に迎撃態勢を取り、同時にヴァルジも上半身を起こした。
しかし、ニノは2人程の反応を見せず、すっくと立ち上がると音のする木戸に向かって歩き出す。
「――おい」
「安心しろ。おそらく爺様の手紙鳥だ。里を出る際、連絡を寄越すと言っていた」
エルフの森への入口がある山は、グレン達が突破した罠がすでに張り直されている。それに加えてヴァルジの脅しもあり、しばらくは冥王国の脅威に晒される事はないだろうと考えられた。
それでも何かあっては問題であるため、エルフ族の長であるクロフェウはニノ達に近況を知らせる事にしたのだ。
勿論、孫を安心させるためでもある。
そのニノは叩かれる戸の前まで辿り着くと、躊躇なく少しだけ隙間を作った。そして、そこから手を出し、すぐに引き戻す。
グレンの目に、小鳥を手に留めたニノの姿が映った。
絵になるな、と思わず考えてしまう。
「ニノ、それは?」
「『手紙鳥』と言っただろう?エルフは鳥に手紙を運ばせ、離れた相手と連絡を取るんだ」
「ほう・・・」
珍しい連絡手段だ、とグレンは思った。
そんな彼を他所に、ニノは慣れた手付きで鳥から手紙を外す。
そして、さっと中身に目を通した。
「良かった・・・。冥王国の奴らは、まだ姿を見せていないようだ・・・」
喜びの言葉を呟くニノの感情に合わせて、彼女の尻尾が左右に振れる。
失礼だとは思ったが、グレンはその様子をじっと見つめてしまっていた。下手をすれば彼女の尻を眺めているように見え、あまり褒められた行動ではない。
しかし、エルフの尻尾というのが物珍しく、どうしても目が行ってしまうのだ。
また仮にニノの尻を眺めていたのだとしても、グレンも男なのだから異常な行動とは言えないだろう。後ろ指を指される謂れはないはずだ。
「ありがとう。爺様の所へお帰り」
そんな彼の視線の先では、ニノが再び鳥を放っていた。尻尾は依然振れており、グレンはそこに目を合わせながらも彼女に問う。
「返事は書かなくてもいいのか?」
「なんだ、知らないのか?『返事がないのは、良い知らせ』と言う――」
グレンの方へ向きながら、そう言うニノの言葉が途中で止まる。
不思議に思ったグレンは動かなくなった尻尾から目を離し、彼女の顔を視界に納めた。
そして、彼の体も硬直する。
なぜならば、ニノが怒りの表情でグレンを睨み付けていたからだ。
「グレン・・・!お前、今・・・どこを見ていた・・・!?」
「い、いや・・・別に・・・どこも・・・」
しどろもどろという表現が適切なくらいに、グレンは狼狽した。素直に「尻尾を見ていた」と言っても怒りを買いそうであるし、他に適切な言い訳も思い付かない。
そして、ニノがどんな結論を持っているのかも容易に察せられる。
「そうか・・・?私には、私の下半身を眺めていたように見えたんだがな・・・!」
「ば・・・馬鹿を言うな・・・。確かに君は素晴らしい女性だ・・・。だが、全ての男が君を邪な目で見る訳ではない・・・」
「ほう・・・!それは本音か・・・?」
「む、無論だとも・・・!だが、誤解を招いたのならば謝罪をしよう・・・!少し、君の・・・そう!君の服が気になってな」
「服・・・?」
この時、グレンはエクセ達と服屋に行った時の事を思い出していた。あの日グレンは、数々の服を試着する少女達に思い付く限りの称賛を送らなければいけなかった。
その時の経験を今、生かす時である。
「ああ。私の国で売られている服とは、また違った趣を感じたものでな。少し、開放的と言うのか?肌の露出が激しいとは思うが、動きやすさに関しては問題がなさそうだ」
実際、エルフ族の服装は露出度が高い。それを隠すために肩掛けや腰巻を身に着けているのだろうが、今は室内であるためニノも外している。
それ故、肩から先、へそ周り、膝から下の肌を目にする事が出来ていた。
人によっては眼福ものであり、グレンにとっても害ではない。そして、それを称賛するための言葉が先程のものだ。
せめて「似合っている」くらいは言うべきだったが、それでもニノは少し嬉しそうである。
「そ、そうか?私達の森は1年を通して温暖な気候だからな。これくらいの服が丁度良いんだ。肩も足も動かしやすいから、農作業や狩りにも支障はない。グレンも、森に戻ったら着てみるといい」
そう言われ、グレンは自分がエルフの服を着ている姿を想像する。
言うまでもなく男物の服を着ている姿を思い描いたのだが、比較対象が美しい男エルフであるため、かなり不気味なものとなっていた。
「いや、遠慮しておくよ・・・。その服は、君達エルフにのみ似合いそうだ・・・」
「ふむ・・・確かにそうかもしれないな。人間には尾がないから、後ろに穴が開いてしまう」
その光景を、またもやグレンは思い描く。最早、完全に変質者であった。
そのような残酷な想像を振り払うため、グレンは思い付いた言葉を発する。
「その事なんだが、ニノ。君達の尻尾は、感情によって動きを変えるのか?」
先程、手紙を読んでいたニノは一族の無事を知った事で尻尾を左右に揺らしていた。
小気味よく揺れる尻尾にグレンは見入っていたが、同時にエルフの感情との関わりにも興味を持ったのだ。学者ではないため、単なる好奇心から生まれた問いである。
「クロフェウ殿からの手紙を読んだ君は非常に嬉しそうだった。その時から君の尻尾が、こう、左右に振り出し始めてな。中々に愛らしい光景だったな」
彼なりにしみじみと語るグレン。
これは本音であり、飾り気のない意見である。
そして、それはつまり事実を物語っているという事であり――。
「なるほど・・・!つまり、じっくり観察していたという訳だ・・・!」
と、先程の誤魔化しが無駄になる結果となってしまう。
「ま、待て・・・!私が見ていたのは君の尻尾であって、決して君の尻ではないぞ・・・!」
「同じ事だ・・・!お前は今、私の信頼を裏切ったんだ・・・!」
「だから待て・・・!『裏切り』は言い過ぎだ・・・!ヴァルジ殿からも何か――」
そう言って、グレンが視線を向けると、ヴァルジは再び「すぴー」と眠っていた。
いや、先程まで体を起こしていたのだから眠っている訳はないため、狸寝入りを再開したのは明白である。やはり、巻き込まれたくないと考えたのだろう。
「どんなに言い繕ったとしても、お前も人間の男のようだな、グレン・・・!私に欲情し、襲う機会を虎視眈々と狙っていたのか・・・!」
「人聞きが悪すぎる事を言うな・・・。尻尾を見ていただけだと言っているだろうが・・・」
「だから、それが悪いと言っているんだ・・・!」
正確な事は不明だが、エルフにとって尻尾とは注視されたくない部分である可能性があった。もしかしたらニノだけの話かもしれないし、エルフの女全体に言える事なのかもしれない。
しかしそうなると、露出されている理由がグレンには分からなかった。室外では腰巻で隠し、室内ではそうしない事から恥部とまでは言えないようだ。
尻尾を見られるという状況が、一体どのような意味を持つのか。この理解の難解さは、やはり種族を異ならせるせいだろう。
いずれにしろ、気分としては露出度の高い女性の胸元を見ていたら怒られたといった感じだ。そりゃ見るだろう、と言いたくなる。
しかし、こうなったら弱いのは男の方である。謝罪以外の手段はない。
「理由は分からないが、すまなかった・・・!何と言うか・・・君の尻尾の・・・毛並みが美しかったためにだな・・・!つい、目が行ってしまったんだ・・・!」
言いながら考えた弁明であり、グレン自身これで許してもらえるとは到底考えられなかった。しかし、どのような部位にしろ他人から褒められるというのは心地の良いものであるため、少なくとも怒らせるような結果にはならないだろうという期待も持つ。
そして、言われたニノは怒るでも喜ぶでもなく、その顔を羞恥に染めていた。
「ば、馬鹿か、お前は!そのような恥ずかしい台詞、よく言えたものだな!?」
「は・・・?」
「ま、まさか・・・触りたいとか言うつもりか!?そんなの駄目だからな!少しでも怪しい素振りを見せたら、大声を出すぞ!」
「い、いや・・・私は別に・・・」
もう何が何だか分からなかった。
どういう訳なのか知っていそうなヴァルジは、今も狸寝入りを続けている。口元に少しだけ笑みが見て取れるため、この状況を楽しんでいるようだ。
(はあ・・・国を離れて・・・エルフと会って・・・こういった事ばかりだな・・・)
グレンは早く母国に帰りたいと考えるとともに、親しくする者達は何をしてるのだろうかと思いを馳せるのであった。




