4-8 天子
ジェイクの家を後にし、グレン達は天子のいる『悠久御殿』へと向かう。
その道中もやはり様々な人物にジェイクは捕まっていたが、ある位置を境にそれがなくなった。
周りに建つ家々に目をやれば、派手な色をした屋根や飾り付けが多く、事前に説明された『貴人の家は色合いを見ただけで分かる』というのを実感できた。
つまり、ここからは貴族街なのだ。
「君の話した通り、派手な家が多いな」
「どれも由緒正しき家柄の御屋敷なのである。吾輩などとは比べ物にならない程に高貴な方々が住んでいるのであるよ」
そして、その最高峰が天子と呼ばれる人物。
これから会うロディアス天守国の象徴とは、どのような人物なのだろうか。ティリオンのような王ではない事だけは確かだろう。
「ジェイク殿、つかぬ事を伺いますが――」
「なんであるか、ヴァルジ殿?」
きょろきょろと辺りを見回すヴァルジに問われ、ジェイクは歩きながら後ろを振り向く。それが危ないとでも言うように、ランフィリカに髭を引っ張られて前を向かされていた。
「人影が見当たらないのですが。皆さん、家に閉じ籠っているのですかな?」
それにはグレンも違和感を覚えていた。
家の中に人の気配があるため無人という訳ではないが、敷地内の庭にすら誰もいないのは不思議である。時折、こちらを覗くような視線も感じられ、あまり良い気分はしなかった。
「それは・・・」
そして、口籠るジェイク。
何かあるな、と思わざるを得ない感じだ。
「貴族達は皆、ジェイクの事が嫌いなんですよ。強く、民からの人気も絶大。おまけにミコト様にも気に入られているんで、妬んでいるんですね」
「こ、これ!ランフィリカ!」
代わりにランフィリカが答えてくれる。
どうでもいい事だが、どうやらヴァルジには敬語を使うようだ。
「何よ!本当の事じゃない!全く、貴族が聞いて呆れるわよ!自分達が碌な武勲を上げられないからって、ジェイクを皆して避けるなんて!浅ましいったら、ありゃしない!この国唯一の汚点ね!」
ランフィリカは聞こえよがしに大声で叫んだ。
何の音もしない貴族街に彼女の声はよく響くため、ジェイクは大いに慌てる。
「や、やめるのである・・・!そんな事、貴族の方々に聞かれでもしたら・・・!」
「聞こえるように言ってるからいいのよ!大体!アンタが、そんなんだから貴族達が舐めた態度を取るんじゃない!戦いの時みたいに、もっと堂々としていられないの!?」
「あれは、相手が敵であるからして・・・」
「だったら、貴族も敵だと思えばいいじゃない!?どうせ何も出来ない味方なんだから、敵と同じでしょ!?」
「意味が分からないのである・・・。それよりも、もう少し声を・・・」
何とかランフィリカの口を閉ざそうと奮闘するジェイクであったが、暴走する彼女を止める事は出来ないようだ。あたふたする姿が戦場におけるものとはかけ離れており、随分頼りない。
そんな2人が騒ぐ中、ニノがグレンの服を軽く引っ張る。
「ん?どうした?」
グレンが問うと、耳を近づけるよう指で合図を送って来た。不思議に思ったグレンであったが、指示通りに身を屈める。
そして、彼女はこう耳打ちをした。
「あの娘の言っている事は本当だ。家の中から、2人を罵る声が僅かだが聞こえてくる」
エルフは耳が良い。そのため、家に潜む者達の会話を捉えていたのだ。
そしてその事実は、天守国の貴族がフォートレス王国の貴族のように、誇りと義務に生きている訳ではない事を物語っていた。
「そうか・・・」
ジェイクとランフィリカには気の毒な事だが、グレンがしてやれる事は何一つない。
そのため、ただ一言呟くだけで終わりとした。ニノもその事実以上に伝えたい事がないようで、すぐに口を閉ざす。
「これは、悪い話題を振ってしまいましたな・・・」
話の発端となったヴァルジが、申し訳なさそうに呟いた。
それを聞き、騒いでいた2人――とりわけランフィリカは動きを止める。今度は逆に彼女が申し訳なさそうな表情をしたが、何故かジェイクはそれ以上に落ち込んでいた。
「気にしないで、お爺さん。悪いのは全部、貴族なんだから」
ランフィリカの主張が変わる事はなかったが、この話題はそこで終わりとなる。
王国では珍しい平民と貴族のいがみ合いを見たことで、グレンは母国への誇りをさらに強めた。帰ったら、この気持ちを国王であるティリオンに伝えようと心に決める。
「お恥ずかしい所をお見せしたのである。さあ、先を急ぐのである。天子様の御殿はもうすぐであるからして」
それから、5人はこれといった会話もなく歩を進める。
そしてしばらくすると、目的地と思われる建物が目に入った。
まだ大分距離があるため全容を把握でき、巨大な建造物である事が一目で分かる。入口の門の前には大きな橋があり、その下には同様に大きな池が広がっていた。
橋を渡る際に視線を落としてみると、色鮮やかな魚が泳いでいるのが見える。食用と言うよりも、観賞用といった感じだ。グレン達に向かって、集団で口をパクパクとさせる仕草には不気味さを覚えた。
(変わった魚がいるんだな・・・)
異国では生き物にも驚かされる。
とりあえず、土産話程度に記憶しておこうと思うグレンなのであった。
(おっと・・・)
彼がそんな事を考えている間にも、5人は橋を渡り終わる。
そこから舗装された道を少し進むと、先程から存在を主張している大きな門に行き当たった。
警護の者がいる所を見るに、『悠久御殿』へ辿り着くための関所と言った所か。
「これはジェイク殿。よくぞ参った」
手に槍を持った女性が親し気にジェイクに語り掛ける。その武器が魔法道具である事がグレンには分かった。
服装としてはランフィリカとは少し異なる宮女の制服を身に着けているが、槍を突き出す際に前へ出る側の肩や肘、そして胸には申し訳程度の防具が備えられている。
それと同様の装備を身に着けた女性が、他に数名いた。
「うむ。天子様にお会いするため参上仕ったのである。客人もいるが、話は伺っているであるか?」
「ええ。エルフ族の使者とその護衛との事だが、相違ないな?」
「その通りである。こちらから――」
「良い。私などよりも、ミコト様に話して差し上げてくれ。貴方との会話を心待ちにしておられる」
「そうであるか。では、急ぎ馳せ参じねばならぬであるな」
ジェイクがそう言うと、警備の女達はゆっくりと扉を開けて行く。その間、ジェイクと会話をしていた女がグレンの傍まで歩み寄り、手を差し出した。
「ここから先は武器の持ち込みを禁じている。こちらに渡してもらえるか?」
またか。
とは思ったが、君主を守護するためには当たり前の規則であり、文句は言えない。
母国では、その功績からあらゆる場所での帯刀を許可されているグレンであったが、無名の存在でしかない天守国では我が儘も通らなかった。
せめて丁重に扱ってくれる事を願うばかりである。
幸い、警備兵の女は鍛えているようで、大太刀を受け取っても地面にぶつけるような真似はしなかった。
「では、行くのである」
同時に扉が開き切ったようで、ジェイクが皆に声を掛ける。彼を先頭に、5人は悠久御殿へと足を踏み入れた。
その瞬間、白い小石が一面に敷き詰められた空間が一同を迎える。まるで一個一個が毎日洗われているかのように美しく、そこにあるだけで見る者を楽しませてくれた。
遠くには手入れされた草木や石で囲まれた池も見え、エルフの森の自然な美しさとは異なった人工的な美しさを感じられる。
進行方向には足場と思しき平たい石が等間隔で置かれているが、そのどれもが美しく磨かれているため、初めて訪れた者には土足で踏むという行為が躊躇われた。
しかし、ジェイクとランフィリカが迷いなく実行しているのを見て、2人に倣うように足場を進んで行く。
そして、視線の先に悠久御殿を捉えた。ジェイクに説明してもらったように瑠璃色の屋根と純白の外壁が特徴的な建物である。
事情を知らない者でも高貴な人間が住んでいると理解でき、実際この国の最高権力者がこの中にいるのだ。
景色が美しいせいもあるだろうが、その事実によって幻想的な雰囲気に包まれたグレンは少しばかり緊張していた。
そして、それは彼だけではない。他の4人も同じであった。ここに立ち入って以来、誰も口を開いていないのが証拠である。
神と崇められる存在の血を引くだけの事はあるのか、とグレンはぼんやりと考えた。
そんな思考の中で足場を渡り終わると、今度は階段に行き着く。
近くで見ると分かるが、この階段を含む建物は木材で作られているようだ。屋根だけは石材が使われていおり、近くで見ると鮮やかな瑠璃色がより美しく感じられる。染料は何を使っているのだろうか。
「遅いぞ、ジェイク」
階段を上がっている最中、ジェイクがまたもや女性に声を掛けられた。その声は少し低く、声の主の髪が短いせいもあり、一見しただけでは性別の判断がつかない女警備兵が階段の上に立っている。
「これでも急いで参ったのであるが・・・遅かったであるか?」
「無論だ。例え瞬きの間であっても、ミコト様の御心に陰りが見えるような事があってはならない。心せよ。我らは神の血を引く御方のために存在しているのだ」
やけに物々しい言葉遣いをする女性だな、とグレンは思った。
王国の民が国王に捧げる忠誠心とは異なる――生まれてから当然のようにある宿命のような言い回しである。王のために戦う事を誉れとするのではなく、天子のために死ぬ事を美徳とするような感じだ。
簡単に言えば、『行き過ぎている』といった所か。
神の血がそうさせるのだろうが、国王に忠誠を誓うグレンであっても一歩引いてしまうような人物である。だからこそ、天子の住む御殿の警護を任せられているのだろうと思われた。
「尤もなのである。では、吾輩は先を急ぐので」
「ああ。お前はいつも通りミコト様の御前まで、他の者は『十の間』だ。いや、確かエルフは女だったな。ならば、その者だけ『八の間』までを許可しよう」
その言葉に、仕組みを解さない3人は戸惑う。許可された部分があるという事は、不許可の領域もあるという訳であり、それを侵さないか不安を覚えた。
だが、流石にランフィリカから説明が入る。
「とりあえず歩きながら説明します。付いて来てください」
公私が切り替わったのか、彼女も丁寧な口調で指示をしてくる。従うしかない3人は、ジェイクとランフィリカに続いて悠久御殿に足を踏み入れた。
「これからミコト様とお会いします。でも、はっきり言ってジェイクのついでだと思ってください。ないとは思いますが、ミコト様が御声を掛けない限り無駄話をしない事。それと、今から向かう場所は『一~十の間』に部屋が分かれています。その先にミコト様の『天子の間』があるんですけど、許可された区域から先は絶対に出ないでください。例外なく、処罰の対象です」
早歩きで目的地まで向かう最中、それに匹敵する早口でランフィリカは捲し立てる。
先程言われた『十の間』や『八の間』とは、そう言う事らしい。
「男性2人は『十の間』、エルフの人は『八の間』まで許可されましたね?決して間違えないでください。許可された領域までならば、好きな部屋にいてくれて構いません。その時の姿勢は出来れば座っていてください。立たれると、こちらとしても警戒してしまいます。貴方達の目的を考えれば、それは避けたいでしょう?」
ニノだけが軽く頷く。
「返事がないのが不服ですが、この御屋敷の中では何をしようと無駄ですから。貴方達には常に監視の目が付き、自由行動は許されません。少しでも不穏な動きを見せたら、即座に捕縛させてもらいます」
(ああ、だから何人か付いて来ているのか・・・)
自分達が屋敷に入って以降、数名の者に見張られている事をグレンは理解していた。当然その者達は姿を見せてはおらず、移動する音すら聞こえてこない。
しかし、グレンとヴァルジには気配を悟られてしまっていた。特にグレンに関しては位置まで把握できており、先手を打って攻撃しようと思えば即座に行える状況である。
(する必要はないがな・・・)
見張られるという境遇に慣れていないグレンは、少し身構えてしまっている自分に気付く。エルフ達にも見張られはしたが、今回の視線には強烈な敵意が込められていた。
それ故、反射的に迎撃態勢になっているようだ。
このような心持ちで協力を仰いでは失礼であるので、気分を変えようとグレンは軽く深呼吸をした。
「――特に、剣士の人!」
ふいにランフィリカから呼び掛けられ、グレンは意識を彼女に向ける。彼が思案している間にも宮女の説明は続いていたのだが、全く聞いていなかったため話の繋がりが分からなかった。
「自分は何をしても許されるって考えているかもしれないけど、それは大きな間違いですからね。最悪、腕の1本、足の1本は覚悟しておいてください」
グレンの見た目から、ランフィリカは彼をかなり警戒しているようだ。ニノの時もそうであったが、『英雄』という肩書きを外しただけで、色眼鏡で見られてしまうのは仕方のない事だろうか。
グレンは、そんな自分と親しくしてくれている王国の知り合いに感謝の念を抱いた。
「ランフィリカ。グレン殿は、そのような御仁ではないのである。他者を尊敬し、他国の王にも敬意を払う立派な方であるよ。吾輩が保証するのである」
そう言えば、ここにもグレンと親しくしてくれる人物がいた。
ジェイクと交わした会話の実りが、まさかここで自分を救う形になるとは思わず、グレンは自身の過去の行いを評価する。
「アンタが、そう言うなら・・・いいけどさ・・・。――でも、ジェイクの信頼を裏切ったら承知しないからね!」
今までグレンの方を見ずに言葉を発していたランフィリカも、最後の一言だけは振り返って宣言をした。言われたグレンは、黙って頷く事で了解の意を伝える。
それを見届けると、ランフィリカは再び前を向いた。
「この街に入った時にも思いましたが、ジェイク殿の異常な人気は少しばかり理解できかねますな・・・」
宮女の解説が終わったと判断したヴァルジが、ぼそっとグレンに囁く。そこには言葉通りの「信じられない」という感情が込められていた。
確かに、ジェイクは女性に好かれるような美男子ではない。決して酷男という訳ではないが、長い髭が女性に好かれるかと言えば疑問であった。
しかし、それはグレンやヴァルジの生まれた国での価値基準。もしかしたら、大陸の西では顔の良さなどは二の次で、強さや優しさが女性に好かれる要素なのかもしれない。
だとしたらジェイクは正に当てはまった人物であり、老若男女問わず好かれるのも納得がいく。
納得できた所で、だからどうしたという話なのだが。
「・・・彼は、素晴らしい人間ですから」
とりあえず、ヴァルジにはそう返しておいた。
老人も理由を議論するつもりはないようで、小さく笑い声を上げるだけで会話を終わらせる。
いや、終わらせなければならなかった。なぜならば、目的の部屋のすぐ目の前に辿り着いたからである。
わざわざ説明されなくとも理解できた。
壮大な山の絵が描かれた4枚1組の金色の扉。それが国の頂に座する者の部屋でなくて何だと言うのか。
異国の者達には馴染みのない構造で出来た扉であり、木材で出来た骨組みに金紙の下地が張られていた。建物の屋根といい、染色技術に関しては今まで訪れたどの国よりも発達している事は確実である。
4枚全てが引き戸であり、扉の上下にある2本の溝に填め込まれているようだ。中央の2枚が室内側の溝に、端の2枚が室外側の溝に設置されている。
縁が厚く、紙の扉であっても多少は頑丈に作られていた。
この扉の先に、天子がいる。
「いい?くれぐれも粗相のないようにね」
最終確認として、ランフィリカがグレン達に忠告した。
グレンとニノは頷いたが、ヴァルジは質問があると手を軽く上げる。
「1つ伺いたいのですが、ニノ殿の格好はこのままで宜しいのですかな?」
ニノは変わらず全身を外套で包み隠しており、貴人と会うには失礼に当たる姿をしていた。ここまでの過程で注意を受けなかった事から問題ないとされた可能性はあったが、天子と面会する直前になってヴァルジは不安を覚えてしまったのだ。
もし、自身の仕える皇帝にそのような格好で会おうとする者がいたならば、ひどく叱りつける所である。
「問題ありません。ミコト様には関係ありませんから」
だが、やはりランフィリカは問題ないと断言する。
天子が寛容な人物なのか、始めから3人の事など気にしないのか。どちらにしても、このままで大丈夫ならば、そうするだけである。
ニノとしても、外套で身を隠す事で人間に囲まれながらも安心感を得ているため、心の中で安堵していた。
「では、行きますよ。――ランフィリカです!ジェイクとエルフの使者をお連れしました!」
皆に声を掛けた後、ランフィリカは部屋の中に向かって到着を告げた。
瞬間、中央の2枚の引き戸が左右に開く。
いきなりの対面かと思われたが、グレン達の視界には誰一人として映っていなかった。代わりに、先に開いた扉と同じ4枚1組の引き戸が少し離れた位置に見える。
それでも全く同じという訳ではなく、描かれている絵が異なっていた。先程開いた物には山が、そして向こう側にある扉には川が描かれており、上を見れば『十』と書かれた看板が掲げられている。
どうやら、ここが『十の間』であるようだ。
そして、その扉もすぐに開かれた。さらに奥に見えるのは鳥の描かれた物。説明通りならば、『九の間』という事なのだろう。
続いて順に、奥に続く扉が開いて行く。
庭、獣、池、色鮮やかな魚、花、街並み、巨大な竜の絵が順に公開され、最後に太陽の描かれた扉が登場した。しかし、そこまで来るとかなりの距離があり、グレン達の目には鮮明に映っていない。
そこで、先程のランフィリカの言葉の意味を理解した。これだけ距離があれば、相手の格好など気にならないはずだ。そう言った意味で「関係ない」と言ったのだろう。
そこまで開くのを見届けたジェイクとランフィリカは、少しばかり緊張した面持ちで部屋の中に入り、他の3人もそれに続く。
扉の後ろには左右に宮女が控えており、彼女達が扉を開けたのだと理解できた。同時に、警護係でもあるのだろう。身を潜める監視役と同様の視線が、来訪者である3人に突き刺さる。
それとは別に、ランフィリカが「さっき説明した通りに」とでも言うようにグレンとヴァルジの方へ目線を寄越したため、2人とも「分かっている」と頷いて見せた。
『十の間』の中央まで来ると、グレンとヴァルジは立ち止まり、言われた通りに座って待つ。床には上質な布地が敷かれており、長時間座っていても尻が痛くなることはなさそうであった。
(ん?)
座ったグレンの隣に、何故かニノも座った。確か、彼女は『八の間』まで入る事を許可されたはずである。
不思議そうに見つめるグレンであったが、ニノに横腹を殴られた事で視線をジェイク達の背中に向け直した。別に『十の間』にいても良いという話であったため、問題はないはずだ。
少し時間を掛け、太陽が描かれた扉の前まで辿り着いたジェイクは、ランフィリカに何やら話し掛けていた。両手を広げて直立しているのを見るに、どうやら身嗜みを確認してもらっているようだ。
それをグレンは動きでしか確認出来なかったが、ニノには彼らの会話まで聞こえていた。
「だ、大丈夫であるか?天子様にお会いできる格好であるか?」
「何度も言わせないで。格好なんてミコト様には関係ないの」
「し、しかし!御傍にはライムダル殿とフィジン殿が仕えているのである!あの2人に無様な格好を見られたら、後で叱られるであるよ!」
「馬っ鹿ね。ミコト様がお気になさらない事を、お二方が咎めるはずないじゃない」
「むむむ・・・。そうであるか・・・?」
「そうよ。それよりも、ミコト様をお待たせする事を咎められかねないわ。そうなったら私も怒られるんだからね。もう開けるわよ?」
「う、うむ・・・」
すると、2人は扉の前に正座し、頭を下げる。
グレン達もそれに倣った方がいいかと思ったが、これだけ距離があれば別に構わないと判断した。
「ミコト様。ジェイクをお連れしました」
ランフィリカの報告を受け、最後の扉がゆっくりと開かれていく。太陽が2つに割れるという演出じみた光景が展開される中では、そこから離れた位置に座るグレン達も思わず居住まいを正した。
そして、扉の間から光が零れ出る。
貴人の放つ威光を錯覚したのではない。確かな輝きが部屋の中から溢れ出て来ていた。まるで、こちらに照明を向けているような眩しさである。
間近で見たのならば目が眩みそうであり、だからこそ2人は頭を下げているのだろう。
遠く離れたグレン達でさえも目を細めてしまいそうな輝きの発生源は何なのか。光に慣れてきた目が、その者を捉える。
天子――アメノミコト・ユラトフルベ・センリノーツ。
ロディアス天守国の象徴であり、絶対的存在。神の血を受け継ぐ偉大なる女性だ。
輝きの源は間違いなく彼女であった。天子の髪が、光を放っているのだ。
(銀・・・?いや、白か・・・?違う・・・!これは・・・髪が発光している・・・!?)
天子の真上にある天窓から日の光が差し込んでいるせいもあるが、グレンの目にはミコトの髪が自ら光を放っているように見受けられた。
日の光を受ける雪のように、キラキラとした輝きである。そこに上から差し込む太陽の反射光も加わり、眩しいと感じたのだ。
光を強く反射するというだけでも理解できないのに、髪が発光しているという事実が加わっては最早人間と判断して良いか迷う所である。
しかも、それが恐ろしく長い。ミコトは床よりも一段高い上座に置かれた、足のない椅子に座っており、そのため彼女の髪の大部分が床に接触していた。
身長よりも長く、5m以上はあるのではないか。
見た目からして普通ではない。神の血を引く存在というのは伊達ではないようだ。
その天子は片手の平を上に向けて前方へ差し出すと、
「――名を」
と言った。
ニノの耳に届いたのは若々しい声。
姿はぼんやりとしか見えないが、天子とは未だ少女であるようだ。
「ははっ!『天駆勇壮』ジェイク・マックス!ただ今、御前に参上仕りました!」
そのような若者であってもジェイクはさらに平伏し、言われた通りに名乗りを上げる。彼の大声が、グレン達にも聞こえるくらいに響いた。
「良く来てくれました、ジェイク。ランフィリカも、ご苦労でした」
「勿体ない御言葉です」
こちらは落ち着いたように返す。
そのやり取りを遠目で見ていただけのグレンであったが、少しだけ違和感を覚えた。会話の内容が聞こえている訳ではないため思い過ごしの可能性もあるが、どうにも気になる。
ジェイクとランフィリカに話し掛ける際、ミコトが彼らの事を見ていないような気がしたのだ。顔は前方を向いているのだが、視線が2人を捉えていない。と言うよりも、瞼を開けていないように見えた。
(もしや・・・目が見えないのか・・・?)
可能性としては、それが一番有力である。
いかに君主といえども、仕える者を粗末に扱って尊敬の念を集められる訳がない。己を護り、国のために尽くす民を蔑ろに扱って得る物など反感くらいであろう。
それはそれとして、グレンが立てた予測――それは正しかった。
天子であるミコトは目が見えない。これは生まれつきのものであり、天守国の者であるならば誰でも知っている事であった。
それ故、彼女の傍には宮女のみならず2人の護衛が常に控え、生活の補助をしている。これは大変名誉な職務であり、時に『親衛隊』と称される事もあった。
実際、2人の女性が今も天子の左右に立っている。
その者達が、先程ジェイクが名前を上げたライムダルとフィジンであった。悠久御殿において唯一武器の所持を認められた者達であり、ジェイクに負けず劣らずの凄腕である。
その身は、それぞれ綺麗な赤と青の鎧に包まれており、装備に関しても天守国の染色技術が発揮されてる事が分かった。戦場に出たのならば、間違いなく存在感を放つだろう。
しかし、やはり目を引くのは天子であるミコトだ。
「面を上げなさい、ジェイク。いえ、もう上げているのかしら?」
見えない彼女は冗談を交えながらも、ジェイクに対し顔を上げる許可を出す。しかし、ジェイクは頭を下げたまま、ミコトに向かって言葉を発した。
「いえ!滅相も御座いません!吾輩などは、天子様の御尊顔を目に映す事すら恐れ多く!今もまた、その御威光を目の端に映すだけで感無量でありまする!御声から察しますと、本日の天子様は御機嫌麗しいようで、その事実に民にも笑顔が溢れる事でしょう!勿論!吾輩も――」
「――ジェイク」
「――そう!名を呼ばれるだけで、天にも昇る喜びを感じる心地であります!これ程の名誉を授かるのは些か恐縮ではありますが、天子様が御望みとあるならば吾輩の名前などいくらでも呼んでくださいませ!そうそう、呼ぶと言えば――」
「――ジェイク」
「――天子様より頂いた『天駆勇壮』という称号も、今や隣国にまで轟き伝わる勢いであります!これも偏に、天子様が素晴らしい名を御与えくださったが故!今後はこれを大陸全土――いえ!未来永劫語り継がれるようにしていきたいと思っております!誠心誠意!真剣至誠!御期待くださいますよう――」
「ジェイクッッ!!」
天子に代わり、傍に仕える女性の1人――赤色の鎧を身に着けたライムダルが叫んだ。
その表情には怒りが込められており、逆側に立つフィジンも同様に攻撃的な目つきをしている。
「貴様ッ!ミコト様の御言葉を妨げるとは何事だッ!!英雄と持て囃され、己が分を忘れたかッ!?控えろッッ!!!」
その怒号はジェイクの声よりも強く部屋の中に響き渡り、言われた本人ではない者達をも怯ませた。
では、言われたジェイクはと言うと、その顔面にびっしりと汗をかいている。
「も、申し訳ないのである!吾輩とした事が・・・!斯様な罰でも受ける所存であります!天子様!御採決を!!」
「ミコト様の御意思を貴様が勝手に決めるなッ!何が悪いか、何も分かっていないようだなッ!?」
「むむ・・・!申し訳ないのである、ライムダル殿・・・!吾輩、頭が悪いのであるからして・・・!」
「そのような事を言い訳にするなッ!貴様に称号を授けたミコト様に、恥をかかせるつもりかッ!?」
「い、いえ・・・!決して、そのような事は・・・!!」
声の大きな女性だ、とグレンは思った。同時に、ジェイクに同情もする。
理由は分からないが、ライムダルという女性はジェイクの事を嫌っているようだ。いや、貴族街においてランフィリカが説明したように、彼女も――貴族かどうかは分からないが――ジェイクに対して妬みの感情を持っているのかもしれない。
(そう言えば、俺も最初の頃は貴族達に嫉妬されていたとアルベルトが言っていたな・・・)
出る杭は打たれる、という事なのだろうか。
あまりにも突出してしまえば嫉妬も湧かないだろうから、ジェイクと彼女の実力差はそこまでないに違いない。だとしたら、中々に優秀な人材の揃った国である事が窺える。
ただ、ジェイクがへこへこしている所を見るに、地位には大きな差があると思われた。
その2人のやり取りを止めるため、もう1人の護衛――フィジンが口を開く。
「双方、そこまで。天子様の御前である。児戯にも等しい争いは控えなさい」
「これは申し訳ないのである、フィジン殿・・・!」
「そうは言うが、フィジン!この男は、これくらい言ってやらねば分からんのだ!」
まだ食い下がろうとするライムダルに対し、フィジンは先程ジェイクに向けた物と同様の目付きで睨み付けると、
「――控えなさい」
と、静かに言い放った。
護衛の中にも序列があるのか、ライムダルは「分かったよ・・・」と言って口を閉ざす。それで場が静まり返るが、すぐに小さな笑い声が発せられた。
他ならぬ、ミコトの物である。
「相変わらず、2人は仲が悪いのですね。無理に親睦を深める必要はありませんが、共に私の愛すべき民です。無益な争いはお止めなさい」
天子の言葉に、ジェイクとライムダルは揃って「はは!」と返事をした。顔を伏せたままのランフィリカは、安心したように静かに溜息を零す。
「ランフィリカも気苦労が耐えませんね。かく言う私も同様ですが」
手で口元を隠しながら、ミコトは笑う。
天子が笑うというだけで、その場にいる者達は喜びを覚えた。
「――さて、報告がまだでしたね。それと、2人はまだ顔を上げていないのかしら?そのままの姿勢では大変でしょう?」
言われて、ジェイクとランフィリカは急いで顔を上げた。
そして、天子の尊顔を目にする。
相も変わらず神々しい――彼らは同時に、そう考えた。
キラキラと発光する髪は言わずもがな、何にも染まっていない紙のように真っ白な肌は一切の穢れを感じさせない。美人と評するに躊躇しない風貌であるが、比較的太く短い眉が彼女に愛らしさを備えさせている。
身に着けている装束も特徴的で、色彩豊かな衣服を幾重にも着込んでいた。どれもこれもが高級品であり芸術品であったが、着ている存在と比べると見劣りしていると言わざるを得ない。
盲目である事が如何程のものであろうか。
そう考えて当然と思えるほど、ジェイクとランフィリカは天子に常人とは異なる魅力を見出していた。
「で、では・・・御報告させていただきまする・・・」
それでも見惚れている暇はないと、ジェイクは口を動かす。これ以上粗相があっては、謝罪の言葉が尽きてしまいそうであったからだ。
「冥王国との国境付近――ニビナエ山の近くで冥王国軍と会敵。1時間に渡る戦闘の末、撤退にまで追い込むことに成功いたしました。我が隊の損傷は至って軽微。すぐにでも国境警備に戻る事が出来まする」
「また『撤退』か・・・」
そう言ったのは、ライムダルである。
「ジェイク。悔しいが、お前の実力は認めている――認めざるを得ない。しかし、敵兵にまで情けを掛けるその甘さ、その性根。何とかならないのか?」
その問いに対し、ジェイクはライムダルをしっかりと見つめながら答えた。
「申し訳ないのである、ライムダル殿。吾輩の考えは依然そのままなのである。『冥王を倒せば戦いは終わる。それ以外の者を手に掛ける必要はない』。そう信じているのであるよ」
「ならば、いつになったら冥王を討つのだ?その機会はいつ来る?もたもたしていては、お前の体が老いていくばかりだ。奴はいつまでも待つ事が出来るぞ。冥王が『不老』であるという噂くらい、知っているだろう?」
その事実に、会話を聞いていたニノは驚愕する。
聞こえないグレンとヴァルジを除き、他の者に動揺が見られない事から周知の事実であるようだ。
「分かっているのである。オン爺も、その可能性が高いと仰っていた。如何様にして、そのような力を手に入れたのかは謎であるが・・・」
「それが紛うことなき事実であるならば、それを軸に冥王国は結束していると思われる。お前の言う通り、冥王を倒せば今の戦争は小康を見せるだろう。しかし、そうなったら再び4か国で鬩ぎ合う状況に戻るだけだ。今のまま、敵兵を傷つけられぬままでは、その先を解決できまい」
「ライムダル殿の仰る通りなのである・・・。それでも・・・吾輩は・・・」
「他者を殺めるのは嫌か?図体ばかり大きく、中身が小心者なのは相変わらずだな。それを美徳とする文化も他所の国にはあるだろうが、我が国にはない。今一度、戦場に立つという事を考え直した方がいいだろう」
何も言い返せぬまま、ジェイクは頷く。
手を汚さぬ英雄など存在しない事は分かっている。自分がやっている事は単なる時間稼ぎ。それを民が勘違いして、英雄視するようになったのだ。
いずれは血に染まる時が来る。血に染まらなければならない時が来る。
覚悟は出来ていた。
しかし、今ではない。
ジェイクの見つめる先には、必ず訪れる最終決戦しか見えていなかった。
「そこまでにしてあげて、ライムダル。あまりジェイクを虐めないで」
そこで、ミコトから仲裁が入る。
この場で結論の出ない事を理解している護衛は、了解の返事をして姿勢を正した。
その時、グレン達の姿がライムダルの目に止まり、
「ジェイクよ。あれが記録にあった者達か?」
と、まるで仲直りの証かのように問い掛ける。
「そうなのである。――天子様。すでに伝わっているとは思いますが、先刻エルフ族の使者より同盟参加の打診がありました。あの者達も冥王国に苦しめられている模様。何卒、御慈悲を」
「私は構いません。しかし、他の2か国が何と言うかは別です」
意外にもあっさりと、ミコトは許可を出した。しかし、その言葉には他の国を説得するつもりがないという意思も含まれており、あまり朗報とは言い難い。
「フィジン、次の『三か国会議』はいつですか?」
「明日にでも、と。今朝の話し合いで決まりました」
「明日、ですか。最近、頻繁に開かれるようですね?」
「それだけテュール律国が打撃を受けている、という事なのでしょう。報告では、また1つ街を攻め落とされたようです」
「そうですか。それはお気の毒に。明日の会議でも、さぞ騒ぎ立てるのでしょうね?」
「いつもの事です」
「ふふ。よしなに、フィジン」
「仰せのままに」
あまりにも他人事な天子の物言いに、苛立ちを見せる者はいなかった。なぜならば、ミコトは『三か国会議』に出席しないからである。
したくないのではなく、する必要がないのだ。
ミコトは確かに絶対的な存在であるが、戦に関しては素人である。それを本人も自覚しており、戦争をより弁えている者達を会議に出していた。
最終的な決定権は彼女にあるが、それまでは臣下の仕事だ。だからこそ、ほとんど無関係に感じてしまっているのである。
少し危機感が足りない理由は、自国にジェイクを代表とする猛者が集っているからであろう。加えて、彼らを信頼しているからでもある。
その者達の中には自国さえ、天子さえ守れれば良いと考えている者も多いため、他国への助力は消極的だった。それはブリアンダ光国も同様であり、冥王国の戦略通りに攻め込まれているテュール律国は敗北を重ねていた。
外から見ただけでは分からないが、この同盟関係は張りぼても同然である。冥王国に加担しないよう、内々に縛りつけているに過ぎないのだ。
やはり4か国で争ってきた歴史が長いせいで、心の底では相手を信用し切れていないのだろう。
いつ寝首を掻かれるか分からない。そういった心理戦にも似た状況が出来上がっていた。
「では、ジェイク。エルフの使いには『三か国会議』への出席を許可する旨を伝えておいてください。律国と光国の説得は、貴方と彼女達に任せます」
「ははっ!慈悲深き御言葉!感謝の言葉も御座いません!」
そう言って、ジェイクは再び平伏した。隣に座するランフィリカも同様に頭を下げる。
その天子とのやり取りをニノも聞いていたのだが、率直に言って喜んで良いか複雑な心境であった。1歩進んだようであり、何も変わっていないようでもある。
(いや・・・それは私次第か・・・)
この先には交渉が待っているのだ。
ニノは深呼吸をし、明日開かれる『三か国会議』に向けて気を引き締めた。
そんな彼女の耳に、その後のミコトとジェイクの会話が聞こえる。
「私はただ許可を与えたに過ぎません。本当に慈悲深いのはジェイク、貴方なのですよ?」
「滅相も御座いません!吾輩などは後先考えず突っ走っているだけでありまして!天子様の御心の広さに比べれば、無きに等しい物でありまする!」
大声を上げての主張に、ミコトは優雅に笑う。
「ふふ。相変わらず大袈裟ですね、貴方は」
「大袈裟などと!天子様程の御方であるならば、どれだけ誇張に表現したとしても足りませぬ!」
「それならば、もっと大袈裟に表現してみせて頂戴」
「む・・・!?むむむ・・・!!そ、そうでありますな・・・天子様の御心は正に・・・正に・・・」
しかし、これといった言葉が思い当たらず、ジェイクは口籠ってしまう。
それが面白いのか、ミコトは今まで一番大きな声で笑った。それでもやはり優雅さは失われず、ジェイクは照れと申し訳なさの入り混じった微妙な表情を浮かべる。
そして笑い声が止むと、天子は両手を差し出した。
「――ジェイク、我が元へ」
それは命令というよりも、頼みと表現した方が適切な感情が込められた台詞であった。忠実な臣下であるジェイクは理由も問わず、即座にミコトのもとへと歩み寄る。
そして自身の存在を知らせるため、天子の両手を優しく握った。
「天子様。御命令に従い、貴女様の御傍に」
「逞しい手ですね、ジェイク。ライムダルやフィジンよりも大きな手。この両手で、私の国を守ってくれているのですね」
「吾輩だけではありません。多くの民が、天子様のために命を捧げる所存であります」
ジェイクの主張に言葉を返さず、ミコトは手を離し、探すようにして彼の顔に触れた。そして、輪郭に沿ってジェイクの顔をいじっていく。
「長いお髭・・・固い頬・・・これが貴方なんですね、ジェイク・・・」
「い、いけませぬ・・・天子様・・・!吾輩のようなブ男に触れては、その御手が穢れてしまいます・・・!」
「ふふ。目の見えない私に、美醜を語るのですね。やはり貴方は優しい人」
くにくにと、ミコトはジェイクの頬を引っ張る。
掛けられた言葉とは少し雰囲気の異なる行動であり、ジェイクはどのような反応を返せばいいか迷っていた。それでも自分に出来るのは笑う事だと判断し、目の見えないミコトに向かって精一杯の笑顔を見せる。
もし、それを彼女が見れたのならば、間違いなく大笑いするであろう滑稽な絵面であった。
髭面の大男が、少女に頬を引っ張られながらも笑みを浮かべる。
遠くで見ているグレン達には何が起こっているのか分からず、近くで見ているライムダルとフィジンは必死に笑いを堪えていた。ランフィリカはジェイクの表情を見る事が出来ないため、ただ黙している。
「ミ、ミコト様・・・もうそろそろ・・・」
我慢の限界に近づいて来たフィジンが、なるべく表情を崩さないよう努めながら天子に声を掛ける。例え崩したとしてもミコトに分かるはずはないのだが、それが彼女の忠義であった。
「そうですね。いつまでもジェイクを止めておくのは、この国の不利益に繋がりますから」
そう言って、ミコトはジェイクの頬から手を離す。
少し名残惜しそうなのは、なにも彼女だけではなかった。
「では、ジェイク。今後とも、よしなに」
「はっ。仰せのままに」
彼にしては小さな声で了承の意を告げる。
天子の引見は、これにて終了となった。
結局、会話もなく終わってしまい、グレンとヴァルジは軽い失望を覚える。しかし、御殿を出た後にジェイクから天子とのやり取りを説明され、一先ず安心するのであった。
それでも、ニノは更なる緊張感を抱く。
これから本格的に始まるのだ。彼女と彼女の一族の命運を賭けた、あまりにも重大な交渉が。




