3-16 犠牲
ユーグシード教国に来てから3日目の朝、グレンは起床する。
部屋の中に時計が置かれていないため正確な時刻は分からないが、おそらく彼にしてみれば早い時間帯だろう。
少しだけぼうっとする頭を無理やりにでも叩き起こし、グレンは部屋を出る。
向かうは、エクセの部屋だ。
会議が終わってからというもの、グレンはエクセの事が気になってしょうがなくなっていた。その原因としては、今回の主犯格と思われるリットーに出会っていたと言うのが大きいだろう。あの老人のエクセを見つめる視線には嫌悪感を覚え、普段めったに他人を毛嫌いしないグレンであっても相容れない人物であると断定せざるを得なかった。
そのような存在が、あの少女と同じ街にいる。それがグレンには堪らなく不快であり、不安であった。
それゆえ、グレンの足は自然とエクセの過ごす部屋に向かって動き出していたのだ。
エクセの部屋の前まで来ると、グレンは扉を叩こうと手を上げる。しかし、それは途中で止まった。
「ふむ・・・」
考えてみれば、彼の抱えているもやもやとした思いは不安からくる杞憂である可能性が高い。用心に越したことはないが、それのみを理由に少女の部屋を訪れるのは如何なものかという考えが生まれてもいた。
突然の訪問にあの子も驚くだろう。グレンはそう考える。
そうしてしばらくの間唸りながら悩んでみるも、結局彼は扉を叩くことにした。気持ち控えめのノックをして、少女の返事を待つ。
「・・・ん?」
しかし返事はなく、グレンの不安は少しだけ強さを増した。
そのため、今度は少し強くノックをする。それでも言葉は返ってこない。
(まさか・・・!?)
グレンの不安は加速する。
続いて、彼は取っ手に手を掛けた。軽く捻ると鍵が掛かっていることが分かる。しかし、部屋には窓があり、そこから何者かが侵入した可能性もあった。
「仕方ない・・・!」
意を決したグレンは取っ手を握る手に力を込め、思い切り引っ張ることで扉を外して見せた。少々乱暴だが、状況が状況だ。ジェウェラには後で謝罪をしておこう、とグレンは考える。
そして、部屋の中に入るとすぐにエクセの所在を確認した。
少女は、寝間着のままベッドの上で小さな寝息を立てて眠っていた。
(無事か・・・)
その愛らしい寝顔にグレンは安堵する。杞憂だと分かっていた事柄であっても、そうではないと判明しただけで彼の心は安心感に満たされていた。
しかし扉を破壊した音ですら起きないとは、もしかしたらエクセはこの国での生活に疲れているのかもしれない。
グレンのように他国での暮らしに慣れているのならば別であったが、おそらく国外での生活が初めてであるエクセには負担が大きいのだろう。自分のために付いてきてくれた事に改めて感謝しつつ、グレンは部屋を出て行こうとする。
その時、眠るエクセの隣で何かが動いた。それは全身をシーツに覆われていたため判別が容易ではないが、どうやら人のようだ。エクセがベッドの真ん中ではなく、少し端に寄って眠っているのもその者が原因なのだろう。エクセしか目に入っていなかったグレンは、その者の存在に今まで気づいていなかった。
「ん~~~・・・?あれ~・・・・?旦那っち~・・・?」
寝ぼけ眼を擦りながら起きた人物はレナリアであった。どういった理由で2人が一緒のベッドで寝ているのかは分からなかったが、この数日で実に仲良くなったようだ。
「なんで部屋に旦那っちがいるっすか~・・・?」
レナリアの服装は装備を外しており、下着姿であったため視線を外しながらグレンは答える。
「いや、少し不安になってな。起こしてしまって、すまなかった」
「も~・・・、旦那っちは心配性っすね~・・・。アタシが付いてるんだから、お嬢は大丈夫っすよ~・・・」
「そうか。それは悪かった。私の用はもう済んだから、眠りに戻ってくれ」
「うい~・・・」
そう言って、レナリアは再びベッドに横たわる。
しかし、すぐにがばっと起き上がると、
「なんで部屋に旦那っちがいるんすか!?」
と、先ほどと同じ疑問を先ほどより大きな声で聞いてきた。
「だから、少し不安になってだな」
「いやいやいや!確か鍵を掛けておいたはずっすよね!?あれ!?そうっすよね!?」
そうでなければなんと不用心な、という思いを込めてレナリアは狼狽する。
「ああ、その事に関しては問題ない。しっかりと鍵は掛かっていた」
「じゃあ、なんで旦那っちが部屋の中にいるんすか!?」
当然の疑問をレナリアは口にした。その事に関しては質問されるだろうと予想していたが、さすがにやり過ぎたと後悔していたグレンは口を閉ざす。
その態度に、レナリアは彼女なりの回答を頭の中で構成した。
「ま、まさかお嬢を夜這いしに!?――いや、今は朝っすね。じゃあ、朝這い!?」
「くだらない事を言うな。エクセ君の安否を確認したかっただけだ」
「またまた誤魔化しちゃって!確認したいだけなら、ノックでもすれば良いじゃないっすか!」
「ノックならばした。しかし、何も返事がなかったんでな。不安になり、扉を壊して入った」
「扉を壊した!?――あ、本当っす!壊れてる!」
ベッドから立ち上がり、扉の惨状を確認したレナリアが驚きの声を上げた。彼女は依然下着姿のままであったが、グレンも慣れてしまったのか、平然と直視している。
「すまなかったな。後で、ジェウェラ殿に直すよう伝えておこう」
「まあ、別にいいっすけど・・・。旦那っち、お嬢の事になると意外と見境ないっすね・・・」
それについてはグレンも戸惑っていた。今までこういった状況に置かれたことがなかったため、過剰に反応してしまっているのではないかと自分では思っている。
「エ、エクセ君はバルバロット公の娘なんだ・・・。それくらいで調度良い・・・」
とりあえず、そう言って誤魔化しておいた。
「はあー・・・、素直じゃないっすねえ、旦那っち。まあ、いいっす。そんな旦那っちに良い事を教えてあげるっす」
「ん?なんだ?」
下着姿のまま、レナリアは右手をさっと上げて見せる。
そして自慢するように、
「実は夜、お嬢が寝ている間にこっそりとそのおっぱいを揉んだっす」
と言った。
「お前は殺されたいのか?」
「うひい!予想以上に怖い怒り方っす!」
無表情のグレンから発せられた怒りの籠った台詞に、レナリアは本気の恐怖を覚える。
それでも気を取り直して本題を語った。
「と、とりあえず話を聞いて欲しいっす・・・!お嬢のおっぱいを揉んでみた感想なんすけど――」
本来ならばここで黙らせるのが正しいのだろうが、彼女の言う『良い事』が何なのか気になり、グレンは続く言葉を黙って待つ。
「もう、ふわっふわっ!ぷにっぷにっ!この年でこれなら、将来は姐御に匹敵する良い女になるっすよ!」
グレンの元同僚であるメリッサは確かに良い女だ。あの体つきは世の男どもを魅了し、彼女が肌を晒せば理性を保てる者などそうはいないだろう。
「で、それがどうしたというんだ?」
しかし、その事実からレナリアが何を言いたいのか、グレンには察しが付かなかった。と言うよりも、その程度ならばエクセを見ればすぐに気が付く。
そんな不可解だと言わんばかりのグレンに向かって、レナリアは親指を立ててこう言った。
「初夜が楽しみっすね!」
最早レナリアのそういった類の言葉にも慣れたのか、グレンは何の反応も見せなかった。
その代わりと言っては何だが、少し気になった事を聞いてみる。
「ところで、何故お前はエクセ君と共に寝ているんだ?」
ジェウェラからは各々1人ずつに部屋を与えられたはずであった。女性同士なのだから別段思う所はなかったが、それでもエクセとレナリアという組み合わせが気に掛かる。
「おお・・・、アタシの言った事は無視っすか・・・」
「いいから答えろ。どうしたというんだ?」
「・・・・・・シャル様にそうしろ、って言われたっす」
「シャルメティエにか?」
「はいっす。用心に、って」
「なるほどな。しかし、それでエクセ君に不埒な働きをするとは、呆れた奴だ」
「わーー!ごめんなさいっす!反省してるっす!」
その謝罪を聞きながら、グレンは未だ寝息を立てているエクセに視線を移す。これだけレナリアが騒いでいるのにも関わらず、少女からは起きる気配が感じられなかった。
(余程疲れているのだな・・・)
グレンは再びそう考えたが、彼の視線から何について考えているのかを察したレナリアが、その訳を教えてくれる。
「お嬢っすか?昨日、夜遅くまで2人で話し込んだっすからね。あんまり夜更かしした経験がないみたいで、ドキドキするって言ってたっすよ」
エクセのような優等生ならば当然だろう。
同じ屋根の下で暮らしたことのあるグレンは、少女が早い時間に床に入るのを知っていた。それでも、ここには親の目はない。少しくらい夜更かししても支障はないだろう。
故に、それについてはどうでもいい。
問題は、何を話したかだ。
「レナリア、エクセ君に何か吹き込んではいないだろうな・・・?」
「え!?・・・モ、モチロンス・・・。イ・・・イナイッスヨ・・・」
レナリアの不自然な抑揚の返事に、グレンは何か良からぬことを教えたと確信した。先日交わした約束がある以上、自分に関することではないとは思うが、問い質しておくべきだと判断する。
「答えろ。何を話した?」
「旦那っち、怖いっす・・・!お嬢の事となるとマジで怖いっす・・・!」
グレンの目に鋭く見つめられ、レナリアは両手で壁を作りながらそう言った。
「いいから答えろ」
「べ、別に変な事は話してないっすよ!ていうか、アタシは基本的に聞いてただけっす!お嬢が旦那っちの話をしてるのを!」
「私の?」
「そうっす、そうっす!お嬢はもう旦那っちにベタ惚れっすよ!だから、安心して手を出して欲しいっす!」
エクセにそのように想われているのは素直に嬉しい。しかし、レナリアの言う事を真に受けることなく、グレンは小さく溜息を吐く。
「ん・・・」
それとほぼ同時に、エクセの吐息が耳に入った。もぞもぞとしている所を見ると、どうやら目が覚めたようだ。
「あ、お嬢。おはようっす」
体を起こしたエクセに向かって、レナリアが声を掛ける。起きたばかりの少女は、まだ少し眠たそうにしていた。
「おはようございます、レナリアさん・・・」
「眠たそうっすね、お嬢。もう少しゆっくりしてればいいのに」
「いえ・・・。そろそろグレン様の朝食を作らなければなりませんので・・・」
「私の事ならば気にしないでくれ。まだあまり空腹ではないから、もう少し眠っていてくれて構わない」
「そうですか・・・。では・・・」
そう答えて、エクセは再び眠りにつく。
しかし、先ほどのレナリア同様、もう一度勢いよく起き上がると、
「グ、グレン様!?」
と叫んだ。
「ああ、おはよう」
「え!?あの・・・!?え・・・!?何故、グレン様がここにいらっしゃるんですか!?」
「アタシが部屋に入れたっす」
ここで意外にもレナリアから援護が入る。
正直に扉を壊して中に入ったことを告げては、さすがのエクセもグレンに対する心証を改める可能性があったため、彼女にしては中々気の利いた対応であった。ただ、壊れた扉はそのままであるため、ほとんど意味はなかったが。
「そうですか、レナリアさんが・・・。――レナリアさん!?」
レナリアに視線を移したエクセが、驚きの声を上げる。彼女は未だ下着姿のままであったのだ。
「レ、レナリアさん!すぐに着替えてください!と言うか、何故そのような格好で出迎えるんですか!?ああ、グレン様!見てはいけません!」
エクセにそう言われ、グレンは今更ながらに視線を他所にやる。
「朝から元気っすねえ、お嬢。あ、髪がぼさぼさっすよ。とかしてあげるっす」
「え!?やだ・・!なんてはしたない・・・!見ないでください、グレン様!」
「む・・・!」
エクセにそう言われ、グレンは少しばかり心を傷つける。少女の恥じらいがそうさせたのだと思われるが、初めての拒絶であったため耐性ができていない彼の胸には痛烈に突き刺さった。
「す、すまなかった・・・。立ち去る事としよう・・・」
そのため、沈痛な心持ちで部屋を出る。とりあえずは、ジェウェラに扉の件を報告しに彼の部屋に向かった。
「それにしても、旦那っちの馬鹿力と意外な行動力には驚かされたっす」
朝食を済ませた後、グレンはエクセやレナリアと共に街中を歩いていた。
ジェウェラに扉の事を告げると、「気にしないでください。今日中に直すよう伝えておきますので」と言ってくれ、その間の時間潰しとして3人は外出しているのだ。ちなみに、エクセの私物はレナリアに与えられた部屋に移してある。
「一歩間違えれば、お嬢を襲いに来たと思われても仕方のない行為っすよ。お嬢に嫌われたくないとか言ってた割には、軽率な行為だと思うっす」
レナリアからのまさかの正論にグレンも口を閉ざす。今回の件は全てにおいて自分が悪いため、何の反論も出来なかった。
「いいんです、レナリアさん。私のことを気遣っての行為だと分かっていますから。グレン様も気になさらないでください」
しかし、エクセの慰めの言葉に彼の心も癒されていく。気にしないことはないが、気に病むことはないとグレンの落ち込んだ気分も晴れやかなものになっていった。
「お嬢もお嬢で旦那っちに甘いっすねー。まあ、昨日あれだけ言ってたんだから当然かもしれないっすけど」
「レナリアさん!その話は!」
「分かってるっす。女と女の約束っす。旦那っちには、黙ってるっすよ」
先ほど自分についての話をしていたと言っていたが、一体どんな事を話したのか。エクセの反応にグレンは少し興味を引かれたが、レナリアの発言からそれを知るのは無理そうだと判断する。
そのため、別の話を振った。
「先ほどは2人に対して、失礼なことをした。その侘びと言っては何だが、好きな物を買ってやろう」
「マジっすか!?」
「ああ。私もある程度の資金は持って来ている。気にせず、何でも言ってくれ」
「おおー!旦那っち、太っ腹っす!」
グレンは貧乏性である。
しかしだからと言って、時と場合によっては資産を惜しみなく消費することもした。例えば、自分の欲しい装備を見つけた時とか、である。
そして今回も彼女達への謝罪として、貯め込んだ財産をいかんなく使おうと考えていた。
グレンは独り身であるが故に金を使う機会が少なく、鍛錬以外にこれと言った趣味もないため資産は多い。特に最近などはエクセの実家であるファセティア家の屋敷で世話になっているため、衣食住全てに関して身銭を切ることがなかった。
少し前まではそれに不満を感じてもいたが、今ではすっかりあの家での生活が当たり前のものとなっている自分に、グレンは違和感を抱いていない様子だ。だからこそ、今回の様に羽振りの良さを見せることもできたのだろう。
「それは嬉しいのですが、この街でお買い物をしてしまうと帰りが大変なのではないですか?」
しかしエクセの疑問によって、その行動があまりよろしくないものだと気付かされる。
少女の言う通り、荷物が増えては帰りに支障をきたすだろう。加えて、現在シャルメティエやチヅリツカが問題解決のために尽力しているのだ。そんな彼女達を他所に、買い物に興じていては些か不謹慎である。
その事に思い至らなかった自分を、グレンは恥じた。
「そうだな・・・。では、王国に帰ってからにするとしよう」
「そうですね。それが良いと思います」
「じゃあ、帰ったら3人で買い物に行くっす!」
レナリアの提案に2人は頷くことで了承した。しかし、そこでエクセがある事に気付く。
「あ、そう言えば・・・王国を出てから何日か経ちますが、お休みももう少なくなってしまいましたね・・・」
そう、学生であるエクセに与えられた休日は全部で7日間。今日はその休みの4日目であり、帰りの日程を計算に入れると、少々急がなければならない段階であった。ただ、今回の話合いに彼女が介入できる余地はなく、慌ててもどうしようもないのだが。
「その事については、私も危惧していた。もう少し早く解決すると思ったんだがな。意外とこの国も素直ではないようだ」
「どうすれば良いでしょうか・・・?おそらく今日か明日にでも解決しなければ、間に合わないかと思います・・・」
「学院なんて気にしなくていいっすよ、お嬢!こっちは国家規模的な任務の最中なんすから!」
「そう言う訳には・・・」
「いや、今回ばかりはレナリアの言う通りだ、エクセ君。君が気にするようなことではない。全ては君を必要とした私の責任だ。もし遅れた場合には、私からマーベル学院長に謝罪をしておこう」
「グレン様にそのようなことを・・・!」
「それでいいじゃないっすか、お嬢!それにいざとなったら、旦那っちが力づくで解決しちゃうっすよ!」
「そのような真似はしない。今回、私はただの護衛だからな」
グレンのこの意思表示は確固たるものであった。それはシャルメティエやチヅリツカを信頼しているだけでなく、エクセやレナリアの安全を守るのに専念するためであり、3人で行動しているのもそれが理由である。
故に、会話の最中もグレンはその意識を周りに向けていた。近づく者あれば即座に対応できるように睨みを利かせているのだ。
今もまた自分達に向かって歩いて来る男がいたが、グレンと目が合うと即座に進路を変え、どこかへと去って行ってしまった。例え3人の中の誰かを襲うつもりではなくとも、最大限の警戒心を持って街行く人々を観察していく。
先ほどの男が仲間と思しき連中と合流し、完全にこちらに目を向けなくなるまで、グレンはじっと見つめていた。
「何やってんだ、馬ー鹿」
「すいません、お頭」
先ほどグレン達に近づこうとしていた男の頭を、その仲間と思われる人物が軽く叩く。
その者はまだ若く、『お頭』と呼ばれるのに相応しい年齢には見えなかった。せいぜいが20代後半であろうか。
肌は日に焼けており、動きやすそうな軽装を着こなしている。周りにいる男達も似た様な格好をしており、全員が戦闘に自信のありそうな面構えをしていた。それを裏付けるかのように、彼らは各々の武器を腰にぶら下げている。
「なんか随分羽振りの良い話をしていたんで、ちょっと所持金を確認してやろうかと思いまして」
「盗もうとしたってか?ったく、そういうのは相手を見てからやらなきゃ駄目だって、いつも言ってるだろう?もしあのまま近づいていたら、お前、腕の骨折られてたぞ?」
「まっさか!確かにガタイは良いですし、気配も尋常じゃなかったっすけど、そこまではしないでしょ!?」
そこで振り返ろうとした男の頭を『お頭』はがっしりと掴んだ。
「はい、見ないの。今すげえ警戒されてるから、次に目が合ったら、お前もうこの街歩けないよ?」
「うへえ・・・」
男は心底恐怖したように声を漏らした。
「ところで、お頭。今回の依頼は、またリットーからなんで?」
会話が終了したと判断した別の男が『お頭』に対して問い質す。
「『リットー大神官』な、一応。その呼び名で慣れさせておかないと、咄嗟の時にボロが出ちゃうよ?」
「へい。じゃあ、リットー大神官からなんで?」
「そ」
『お頭』の肯定を受け、他の者達はそれぞれの表情で嫌悪を現した。中には、唾を吐き捨てている者までいる。
「おいおい、上客だよ?そんな態度をとっちゃあ、いけないって」
「言いますがね、お頭。あの野郎、自分だけ楽しんでこっちには金だけ寄越しやがるじゃないっすか?この前攫った娘なんて、もろ俺好みだったんすよ?一度でいいからヤっときたかった・・・」
心底惜しそうに、また別の男がそう言って肩を落とす。
「女だったら、遊戯国でいくらでも買えばいいだろ?」
「あんな売女共じゃあ興奮しませんて!俺はもっと清純そうな可愛らしい女がいいんですよ!」
「俺は胸がでかけりゃ、それでいいや」
「俺は尻かな。こう、プリッとした感じの――」
「はいはい、止め止め。道端で話すような内容じゃないって」
『お頭』が手をぷらぷらと振って制止を掛けると、下品な会話に花を咲かせていた男達は「すいやせん」と言いながら揃って頭を下げる。
「まあ、抱くなとは言わないよ?でも、それは仕事が終わってから。うちの大将の計画もかなり進んでるみたいだから、俺たちも頑張らないとね」
その言葉に、男たちは揃って了承の言葉を返した。
「さて、じゃあお客様の所には夜に向かうとして。それまで時間つぶしでもするか」
「お頭。前から聞こうと思ってたんすけど、なんであのジジイを客扱いするんです?」
また別の仲間の1人が問い質した事は、他の者も思っていたことのようで、皆同意するように頷く。
『お頭』はそんな彼らを見渡すと、
「言ったろ?慣れさせておかないと咄嗟の時にボロが出るって。さすがに本人の前で『鴨』はまずいでしょ」
と、至って平然と語った。
その日の夜、人目の少なくなった頃を見計らって、『お頭』達は知識の神殿へと入って行く。足音は極めて小さく、気配も薄かった。見る者が見れば、彼らの実力を瞬時に察することが出来ただろう。
しかし姿を消している訳ではないため、彼らを視認した神官が声を掛けてくる。それはリットーの配下の1人であった。
「おお、来たか。さすがに早いな、アスクラ」
「どーも」
『お頭』の名前はアスクラと言い、リットー以外の神官とも顔見知りであった。アスクラは仲間の中で唯一人、神官に向かって頭を下げて見せると、軽く笑みを作る。
「リットー大神官はいらっしゃいますか?」
「ああ。お前たちが来るのを心待ちにしていたよ」
「それは随分と買われているようで」
神官の言葉に、アスクラは一層深い笑みを作った。しかしそれは偽りの物であり、リットーに対してもそうであるように目の前の神官に対しても敬意はない。
「では、早速リットー大神官に会うとしましょうかね」
アスクラがそう言うと、神官を首を横に振る。
「そうしたいのは山々なんだが、リットー大神官は今『お楽しみ』中だ」
「ああ、そうですか。では、待たせてもらうとしましょうかね」
神官の言葉の意味を理解している男たちは、再び不満を露わにした表情を浮かべる。アスクラはそれを雰囲気で感じ取ったが、神官に悟られないよう触れないでおいた。
「そうしてくれ。おそらく後10分もしない内に終わるだろう」
「了ー解」
そう言って、アスクラは仲間を連れて神殿内を歩き始めた。
神官の姿が見えなくなると、男たちは一斉にリットーに対して罵声を浴びせる。
「ったく、自分から呼び寄せておいて『お楽しみ』中とかふざけてんのか!」
「もしかしてあの子かー?それともあの子かー?くそがよー」
「どっちにしろ自分の物使う訳でもねえのに、何を楽しんでんのか」
「はーいはいはい、やめやめ。愚痴はここを出たらたっぷり聞いてやるから」
アスクラは仲間を慰めるようにそう言った。しかしそれでも男たちの不満は解消されないようで、声を落としながらも文句を言い続けている。
その中で1人、黙って自分の後ろを歩く男にアスクラは声を掛けた。
「おい、イスト」
「なんでしょう?」
イストと呼ばれた男は屈強な体つきをしていたが、他の男と異なり少しだけ理知的そうであった。実際、この組織で彼は序列2位の存在であり、アスクラも彼の事を最も信頼している。
「少し野暮用を頼まれてくれ」
「野暮用?」
「ああ、気になって仕方がなくてな」
そう言うと、アスクラはイストに耳打ちをする。他の者に聞かれてはまずい事なのか、それはとても小さな声で伝えられた。
「分かりました。では――」
命令を聞き終えたイストは頭を下げ、アスクラの前から姿を消す。それを気配だけで見届けながら、アスクラは他の男達に声を掛けた。
「おら、野郎共。静かにしねえと、大将に言いつけるぞ」
それだけで、男たちは口を閉ざした。
神官の予想した10分を大幅に上回る時間が経った後、アスクラ達はリットーの部屋へと招かれる。しかし、不満顔の部下たちを見せる訳にはいかないと、アスクラは1人で依頼主と対面していた。
「待たせたな、アスクラ」
「いえいえ、お気になさらず」
上機嫌なリットーの言葉に、アスクラは何の感情も込めずにそう返した。
この老人の『お楽しみ』をアスクラとその仲間、さらにはリットーに従う神官達は十分に理解している。
それは老人の権力が暴走した結果であった。
この部屋にある本棚は仕掛けを発動させると、地下室への扉が開くようになっている。その先にはリットーが目を付け、アスクラ達が攫い、神官達が匿う娘達が複数人捕らえられていた。
目的は、リットーの性的欲求を満たすこと。
しかし、老人であるリットーには娘達と交わる程の精力と体力はなく、また嫌がる娘達を無理矢理手籠めにするのも神の教えに反していた。
そこでまたもや手を貸したのがアスクラ達だ。
彼らは悩めるリットーにある物を渡していた。それは強力な媚薬であり、それを打ち込まれた娘は自分の意志に関係なく大いに乱れてしまう程である。
それをリットーは了承の証として行為に及んだのだが、その際に用いられるのは彼自身の肉体ではない。
それもまたアスクラ達が調達してきた物であり、プレジア遊戯国で夜伽の際に用いられる淫らな道具であった。それらを用いてリットーは気の済むまで娘達を弄ぶ。
それが、彼の『お楽しみ』だった。
これを行った後のリットーは機嫌の良い時が多く、アスクラは彼の性根の腐り加減を心の中で嘲笑しながら、その顔を見つめていた。
(まあ、これくらい屑の方が都合が良いんだけどもね)
アスクラとて、何の理由もなくリットーに近づいたりはしない。
それは彼が『大将』と呼ぶ人物の目的のためであり、そのためにアスクラはリットーがここまで堕ちるよう導いて来た。
元々持ち合わせていた彼の欲が大きかったということもあり、リットーは容易く堕落してくれている。
誘拐、殺人、凌辱と、彼は己の権力と欲望をいかんなく発揮してくれた。積み上げた罪に、自分の地位と信仰が押し潰されるとも知らずに。
「それで、ご依頼内容はなんでしょう?」
また1つ、罪を増やすための協力をアスクラは申し出る。おそらくは人攫いだろう、と当たりを付けながら問い質されたそれは、見事に的中した。
「新しい娘を1人・・・あの部屋に招待したい」
その濁された表現の仕方が、リットーがぎりぎり理性を保っている証なのかもしれない。素直に『攫う』という言葉を使わないあたり、まだアスクラの望む所までは堕ちてはいなかった。
もう少し、もう少しだけ待とう。
熟成を終え、腐敗へと向かう老人にアスクラは頷いて見せた。
「畏まりました、リットー大神官。それで、どのような娘をご所望で?」
問われたリットーは少し間を空ける。そして、何故か愉快そうに小さく笑った。
その態度に嫌悪を感じざるを得ないアスクラは、地下に閉じ込められている娘達を可哀想に思う。思うだけで、助ける気も情けを掛ける気もなかったが。
「この儂としたことが・・・あの娘の名を聞くのを忘れていた・・・!余程、あの娘を気に入ってしまったのだろうな・・・!」
くくっ、と笑うリットーにアスクラは問い質す。
「では、どのような外見をしているかを覚えておいでですか?」
「当然だ・・・!あの娘を一目でも見れば、忘れることなど叶うまい・・・!ああ・・・!銀髪の少女よ・・・!早く我が物となれ・・・!」
今までで一番の醜悪な笑顔を見せられ、アスクラはリットーに対する干渉が十分に達しつつある事を理解した。
おそらく今回の仕事が済めば、準備は万端。後は、あの方の指示を待つだけ。
自分の役目が無事終わりそうなことに、アスクラは心の中で安堵の笑みを作る。
「なるほど、銀髪ですか。それは随分と分かり易い特徴ですね」
「そうだ・・・。おそらく、その娘はジェウェラの元で寝泊まりしている・・・。戦いの神殿に赴き、ここに連れて来い・・・」
「承知しました。では、私はこれで」
そう言って踵を返そうとするアスクラの動きを、リットーは手で制す。
「待て・・・。頼みはそれだけではない・・・」
意外だなと思いながらも、アスクラは続く言葉を待った。今までリットーが彼に物を頼むときは、1回につき1つだけであったのだ。これもリットーが堕ちた証拠か、とアスクラは判断する。
「その娘には夫がいる・・・。その者を消してもらいたい・・・」
「ああ、そういうことですか。分かりました。で、その男の特徴は?」
「顔や腕に古傷のある大男だ・・・。あれ程の醜い男が、あのような美しい娘の伴侶などとは思えんが・・・。これも神の教えに反しないため・・・。やってくれるな・・・?」
醜さならアンタもどっこいどっこいだよ、と言いたくなる衝動をアスクラは抑える。ただ、彼の言う『顔や腕に古傷のある大男』について、アスクラには覚えがあった。
(もしかして、昼に見たあの偉丈夫か・・・?あー・・・、確かに銀髪の娘もいた様な気がするな・・・)
大男以外に印象が薄く、あまり記憶に残っていない風景をアスクラは何とか思い出す。
仲間達も触れなかったあたり、それ程大男が印象深かったのだろう。見ただけで伝わる強者の雰囲気だけは、薄い記憶の中でもしっかりと思い出された。
「難しいとは思いますが、やってみましょう。なーに、ちょっと頭を使えばいい事です」
「そうか・・・。では、頼んだぞ・・・」
リットーにそう告げられると、アスクラは恭しく頭を下げる。
これにて契約完了なのだが、2人はその会話がある人物に聞かれていることに全く気付いていなかった。
(グレン様とエクセさんを狙っている・・・!)
大神官リットーの部屋の外に面した窓の下に、ハルト――いや、『戦刃』として動いている彼にはハルマンの名が相応しいか――がいた。
少年の身は夜の闇に溶けてしまいそうな黒装束に包まれており、背丈以外の特徴を判別することはできない。その気配は限りなく薄く、少年の日々の鍛錬の成果が見て取ることができた。
(早く戻って、ジェウェラ様に知らせなければ・・・!)
ハルマンは今、自身の主であるジェウェラの指示を無視して行動している。もしその事を彼に告げれば、深く悲しまれ、ひどく注意されることは明白であろう。そのため、ハルマンも今日の事については黙っておくつもりだった。
しかし、アスクラ達の姿を目にした事で状況は変わる。
今までリットーを監視してきたハルマンは、当然彼らの事も知っていた。彼らが娘を知識の神殿まで攫って来た場面も何度か目撃したことがある。
ただ、彼らに関して特筆すべきは、誰もが手練れであるという事だ。
故に今までは、彼らがいる場合のみ比較的離れた場所で監視を行っていた。しかし今回、勇んだ少年は付かず離れず監視をしている。
危険な行為であったが、おかげで重要な話が聞けた。
今日の事は黙っておくという当初の予定を変更し、少年は急いで主のもとに戻ろうと決める。
そんなハルマンの耳に、何者かの足音が聞こえた。
「おい、お前」
同時に、真後ろから声が掛けられる。驚いたハルマンは咄嗟に距離を取ろうとしたが、相手の方が素早く、腕を掴まれてしまった。
「逃げることはないだろう?」
逃げられないのならば撃退するまで。
ハルマンは掴まれていない方の腕で、男に殴りかかる。
「――かはっ!」
しかし、それも避けられてしまい、逆に男の反撃を腹部に受けてしまう。その拳は重く、少年の内臓に今までにない衝撃を与えた。
「ああ、すまない。反射的に攻撃してしまった」
その声はハルマンに届いておらず、薄れゆく意識を保つのに精一杯であった。
「おお、イスト。捕まえたか」
騒ぎに気付いたのか、アスクラが部屋の窓から2人を見下ろしていた。
「はい。攻撃されたので反撃しましたが、まだ意識はあると思います」
「お前の一撃を受けてか。やるじゃないか。どれ、ちょいと面を拝むとしようか」
アスクラに言われ、イストはハルマンのフードを外した。少年の幼い顔が、2人の眼前に露わになる。
「なんだ、まだガキじゃねえか。離してやんな」
「ですが、何やら不穏な動きをしていました。おそらく、お頭が感じた視線の主ではないかと」
「こんなガキがか?まあ、確かに怪しい格好してるけどもよ」
もし普段着でいたのならば、ハルマンの行動も子供の悪戯で済まされていた事だろう。しかし、少年の服装からは明確な情報収集の意図が感じられ、アスクラも先ほどの考えを改める。
そんな彼の隣に、遅れてリットーがやって来た。ハルマンの顔を見たリットーは、その目を大きく見開く。
「この小僧は、ジェウェラの・・・・!おのれ、あやつめ・・・!この儂の周りをこそこそ嗅ぎまわっておったのだな・・・!」
その表情からは先ほどまでの機嫌の良さは失われており、もはや怒りに染まり切っていた。
「どうします、リットー大神官?」
聞かなくても分かるし、聞かない方が少年のためにもなると分かっていたが、アスクラはリットーに問い質す。そして、その返答は彼の予想通り無慈悲なものであった。
「何を知ったか吐かせろ・・・!それと、ジェウェラに何の指示を受けたかをだ・・・!どのような方法でも構わん・・・!」
リットーの苛立たし気な声を、ハルマンは薄い意識で聞いていた。これから自分の身にどんな事が降りかかるのか、それを想像するだけで恐怖に震えそうである。
「こうなったら容赦はせん・・・!かねてからの馴染みだが、この小僧の証言を元に奴を失墜させる・・・!」
だが、リットーのその言葉にハルマンは覚悟を決める。
何をされようと自分は何も喋らない。
小さな少年の大きな決意を、その場にいる他の3人は知る由もなかった。
「了ー解。――坊主、早く喋っちまった方が身のためだぞ?・・・本気でな」
アスクラの言葉はハルマンを心底慮ったものだと感じられた。それは真実、彼を心配したために出た言葉なのかもしれない。
だが、ハルマンには自分を懐柔するための言葉にしか聞こえず、何の返答もしなかった。
「はー・・・。これは骨が折れそうだな・・・。とりあえず、ロックとビンセントに任せればいいか・・・」
諦めたようなアスクラの言葉とは裏腹に、ハルマンの目には強い意志が宿っていた。
それは、己の命すら投げ出してしまいそうな程の誇り高い意志であった。
夜、就寝中のジェウェラは目を覚ます。
ふいに、ハルマンの声が聞こえた気がしたのだ。
あの少年には『念話』を教えており、距離が離れていても会話をすることが可能であった。
だが、続く言葉を待っても返事をしても一向に応答がない。おそらく自分の空耳だと判断し、少年も眠っているのだろうと考えたジェウェラはそれ以上の通信はせず、再び目を閉じる。
その日の夜はいつもより静かで、眠るにはとても適していた。




