3-13 不吉な出会い
ジェウェラが大神官を務める戦いの神殿において、グレン達は1人につき1つの部屋を与えられた。
魔国で泊まった宿屋と比べると幾分か質は落ちるが、それでも休息するのに不足はない。特にグレンにとっては、始めから1人部屋というのが嬉しかった。
彼は今、その中に1人でベッドに寝転んでいる。明日の話し合いまで何もすることがなく、暇を持て余していたのだ。これはグレンが護衛という立場であるからであり、シャルメティエやチヅリツカなどはジェウェラに対し、今後の話し合いについて指示を出しに向かっている。
(ふむ・・・)
グレンは何の気なく、部屋を見回した。部屋の中にはベッドの他に机や椅子があり、窓からは神殿の庭を一望することが出来る。フォートレス王国では見慣れない草花が秩序立って植え付けられており、暇な時間の少しばかりの慰みにと彼の目を楽しませてくれていた。
だが、生来そういった美に無関心なグレンはすぐに窓から離れてしまう。そして再び部屋の中に視線を移すと、机の上に置いてある一冊の本に目を止めた。無論、それがある事は部屋に入った瞬間から気付いていたのだが、どうにも難しい文章というものが苦手なグレンは今まで見て見ぬふりをしていたのだ。
それでも暇で仕方がなかったため、グレンもその本を渋々手に取ってみる。
「『図解 八王神話』・・・か」
ぺらぺらとめくってみると、表題通りいくつかの挿絵と共に八王神と神々の伝説について書かれているのが分かった。文字数も多くなく、描かれている絵も目を引く美しさだ。
(これなら大丈夫そうだな・・・)
暇つぶしの材料を見つけた、とグレンは心の中で安堵の声を漏らした。
加えて、これは八王神話を知らないグレンにとっては打って付けの代物である。チヅリツカから多少学んだとは言っても、それが完全でないことは彼ですら何となく分かっていた。自身が生まれるよりも遥か昔に生きた人物の偉業をあんな短時間で説明し切れるはずがない、ということだ。
グレンは一度本を閉じ、続いて最初の1頁目を開く。が、そこは目次であったためさらに1頁捲った。
(ふむ・・・、ここには8人の王について書かれているな)
まず、最初の文章に目を通す。
八王神とは、かつて存在した8人の王のこと。それぞれが強大な力を持ち、それぞれが1つの国を治めていた。
という所まで読み、グレンは隣の頁に目を移す。そこには、8人の王が治めていたとされる領土の予測図が載っていた。
(王国は・・・なるほど、戦いの神の領土だったのか・・・)
そう言えば自分が身に着けている首飾りも戦いの神が作った物だとチヅリツカが言っていた事をグレンは思い出す。かつて戦いの神が王国と同じ場所に暮らしていたため、後の世である王国の者がその遺物を発見したのだという事はグレンでも容易に予測できた。
また、戦いの神の領土は王国だけではなく、アンバット国、ヴォアグニック武国、サリーメイア魔国にまで及んでいたようだ。元は1つの国であった国々が、ほんの15年前まで戦争をしていたことにグレンは言い知れぬ感慨深さを覚える。
(他には・・・)
グレンはルクルティア帝国に目をやる。そこには現在の帝国の領土とほとんど変わらない大きさで『慈愛の女神イコアスの領土』と書かれていた。
(もしかしたら、帝国にもこの首飾りと似た様な物があるのかも知れないな・・・)
そこから生まれた発想は正しく、グレンは以前にそれを目撃してもいた。しかし、それを教えられていないため、アルカディアの魔法道具に関しては「強力な性能」という感想しか持っていない。今度聞いてみるのもいいだろう、となんとなく思う。
グレンは続いて、他の地域に目を移す。そして取り分け目を引いたのがある1人の王の領土であった。
(ここは・・・破壊の女神シグラス・・・か)
その領土の広さはただ一人の王によって治められていながら大陸の1/3に達しており、シグラスという存在の強大さを物語っていた。チヅリツカは八王神が大陸を8つに分けたと言っていたが、そのほとんどをシグラスの国が占めているのだ。
ならばその偉業はシグラスだけのものではないのかとグレンは思ったが、それでもそのような国に飲み込まれずに自国を保てている事が他の王の強大さを証明しているのかもしれない。
シグラスに興味を持ったグレンは一度目次に戻り、『破壊の女神』の頁がどこにあるのかを調べた。そして見つけると、すぐにその頁を開く。
すると、見目麗しい乙女の姿絵が眼に入った。白と黒の2色で描かれた抽象的な絵であったが、長い髪の毛と褐色の肌ということだけは分かる。どうやらこれが破壊の女神シグラスらしい。
(破壊の女神と言うからには、相当な傑物かと思ったのだが・・・)
疑問に思ったグレンはシグラスについて記述されている部分を読んでみる。
(ああ、なるほど)
そして、すぐに理解した。
『破壊の女神』などと言われているが、その実態は単なる狩人であり、獣のみならず食事目的でモンスターまで狩り尽くし食い尽くす事から『破壊』の名が冠せられているという事であった。記述によると竜まで屠ることができたようだ。
(竜か・・・話には聞いたことがあるが、俺はまだ戦ったことがないな・・・)
フォートレス王国から遠い西の方角には、竜が治める国もあると言う。
グレンは噂話程度で聞いたそんな話をふと思い出した。ちなみに竜は知恵があることからモンスターとして扱われず、エルフなどと同様に種族として扱われている。
(しかし、このように華奢な女性が竜を倒したのか・・・ならば――)
シグラスの姿を見たことで、グレンはジェウェラが己の前身と言った戦いの神についても興味が湧いた。再び目次に戻り、『戦いの神クライトゥース』についての頁を開く。
「ん・・・!」
そこに描かれていたのは、見るからに野蛮そうな男の姿であった。それは、同じ男であるグレンすらも多少の嫌悪感を覚えてしまうほどのものである。
(い、いや・・・先程の女神も見た目と中身は違ったのだ・・・。この者もきっと・・・)
そう思い、グレンはクライトゥースについての記述に目を通す。
そこにはこう書かれていた。
八王神随一の戦闘狂。
振るう刃は全てを断ち切り、駆ける姿は誰の目にも映らなかったと言う。
戦場とあればどこにでも姿を現し、積み上げた屍の数は数万を優に超える。
また、好色である事も知られ、昼夜を問わず毎日のように女性との営みに興じていた。
非常に自分の欲望に正直な人物であり、好みの女性を見つけた際はいきなり襲い掛かり、犯――
そこまでで、グレンは本を閉じる。
クライトゥースに関する記述を呼んだ彼の感想は、
(俺がこんな男の生まれ変わりだと・・・?)
というものであった。ジェウェラに対する評価が少し下がった瞬間である。
あの大神官に対してグレンが呆れたように溜息を吐いた時、彼の耳にトントンと扉を優しく叩く音が聞こえた。
「グレン様、いらっしゃいますか?」
続いて、エクセの声が聞こえる。何か用があるのかと考える間もなく、グレンは即座に「ああ」と言葉を返した。
そして本を机の上に戻し、扉を開けて少女と対面する。
「どうした、エクセ君?」
グレンが目にしたエクセの格好は、先程までと変わらないものであった。それでもいくつかの装飾品は外しており、いくらか身軽にはなっているようだ。身に着けている物と言えば、せいぜいが左手の薬指に填めている指輪くらいであった。グレンに渡した物とかなり似た構造なのは、偶然なのだろう。
「お買い物に付き合っていただけませんか?お食事の材料を買いたいのですが、何分不慣れな街ですから不安で・・・」
自分の食事のためだからという理由がなくとも、エクセの頼み事をグレンが断るはずもなかった。
「ああ、勿論だとも」
そのため一切の逡巡を見せず、承諾する。そのグレンの返事を聞き、エクセは嬉しそうに微笑んだ。
「だが、この街に関しては私も詳しくない。まずは、ジェウェラ殿に店の場所を聞いてからにしよう」
「はい」
そう決めて、2人はジェウェラのもとへと向かって行った。
「グレン様、今日は何をお召し上がりになりますか?」
食材店への道中、エクセがいつもの言葉をグレンに投げ掛ける。
グレンは隣を歩く少女に顔を向けると、
「そうだな・・・まずはこの国でどのような食材が買えるか見てからだな」
と答えた。
魔国もそうであったが、国が違えば食文化も変わる。自国と近しい国であるならば、多少似通った食材を入手することも可能であったが、ここは見知らぬ土地。一度も訪れたことのない国での買い物というのは、不思議と楽しくなるものだ。
「それでしたらお肉でもお野菜でも、なんでもありますよ」
しかしその楽しみの一部を、2人以外の同行者が暴露してしまう。グレンとエクセは後ろを振り返り、その人物を視界に納めた。
「あ、ああ・・・。ありがとう、ハルト・・・」
グレンに感謝された少年は、満面の笑みを浮かべる。少年の名はハルト=ゼクスマンと言い、グレン達には知らされていないが、仲間からは『ハルマン』と呼ばれている。
何故この少年が2人に同行しているのかと言うと、それは店の場所を聞こうとジェウェラの部屋を訪れた際の出来事が関係していた。感謝を告げ部屋を出て行こうとする2人に対し、ジェウェラが案内を付けると言い出したのだ。そこですかさずハルトが立候補し、現在2人と共に行動しているということである。
余談だが、大神官の部屋にはもう1人女性がおり、名をマリナ=ルールバンと言った。彼女もまた仲間内からのみ呼ばれる名を持ち、普段は『マリン』と呼ばれている。
彼らはジェウェラを軸とした組織『戦刃』の構成員であったが、今のハルトからはそのような様子は見て取れない。彼らが『戦刃』として動く時には闇に紛れるような黒装束を身に着けるため、普段は一般的な信徒として生活している。
「勿体ないお言葉です、グレン様。クライトゥース様の生まれ変わりであらせられる貴方様に尽くす事こそ僕たちの望みなのですから。むしろ感謝はこちらがすべきなんです」
やはりこの少年もジェウェラと同じ思想を、とグレンは戸惑う。
「ハルト君も、グレン様が神様の生まれ変わりだと信じているんですね」
「はい、奥様」
エクセの問いに対し、ハルトはとんでもない返事をした。そのためグレンは身を強張らせ、エクセは顔を赤くする。
「待て、ハルト・・・!エクセ君は私の妻ではない・・・!」
「え!?そうなんですか!?お二人とも左手の薬指にお揃いの指輪をしていらっしゃるから、てっきりご夫婦なのかと・・・!」
ハルトの驚きの言葉にグレンも驚いた。ただ、エクセだけは「いずれは・・・そのような事にもなるかと・・・」ともじもじとしながら囁いている。
「どういうことだ、ハルト?ここに指輪を付けることが、何故夫婦の証になる?」
「御存じないんですか?慈愛の女神イコアス様がお作りになられた風習で、婚姻関係を結んだ男女は左手薬指にお揃いの指輪をするんですよ」
「し、知らないぞ、そんなの・・・。――エクセ君?」
グレンはこの指輪を填めた張本人の名を呼ぶ。先程まで顔を染め、恥ずかしくも嬉しそうにしていたエクセは途端に我に返り、グレンに向かって頭を下げた。
「す、すいません、グレン様!少し、悪戯が過ぎました!」
エクセは怒られると思い、固く目を閉じる。
「あ・・・いや、何も謝ることはない。――少し驚いただけだ」
謝罪を受け入れるかのようにグレンはエクセの頭に右手を乗せた。軽く撫でてやった後、手を離すと、エクセは顔を上げる。安心したのか、その瞳は少しだけ潤んでいた。
そしてそれ以上何も言わず、グレンは歩き出す。指輪を外してない事から、彼が不快感を覚えていないことが無言の意思表示としてエクセにも伝わった。そんな彼の隣に並ぶため、少女も笑顔を浮かべながら小走りで駆け出す。
「夫婦・・・ではないけど・・・愛し合ってはいる・・・?う~ん・・・。イコアス様、僕にはまだ難しいようです・・・」
その光景を見たハルトは、そんな事をぼそりと呟いた。
今度、慈愛の女神に仕える神官に話を聞いてみよう。少年はそう思いながら、2人の後をついて行くのであった。
買い物を終えると、3人は店の外へ出る。
エクセとハルトの手には何もなかったが、グレンの両手は買い物袋で一杯であった。
「すいません、グレン様。荷物を持っていただいてしまって」
「僕も少しお持ちいたします」
「いや、構わない。これは体の大きな私の役目だ」
申し訳なさそうに言う2人に対して、グレンはそう答えた。実際、グレンには大したことのない重さであったが、少年少女には少し堪える重さであるだろう。それだけの量の買い物をグレン達は一度にしていた。そして有り難い事に、その費用は全てジェウェラ持ちということである。寧ろそうするためにジェウェラはハルトを付き添わせたのだった。
「ジェウェラ殿には、後で礼を言っておかねばな」
「あ、その事なんですが、『お気になさらないように』という言伝をすでに賜っております。『グレン様のためになるのならば、喜んで奉仕いたしましょう』ともおっしゃっていました」
過剰とも取れるジェウェラの言動の理由を、今更ながらグレンは問い質してみようと考えた。
「なあ、ハルト。何故、ジェウェラ殿はあれ程までに私に入れ込んでいるんだ?私の事を『神の生まれ変わり』などと・・・。君たちまで影響されているようだ」
その問いに、ハルトはジェウェラに教えてもらった話を頭の中で思い返していた。そして整理がつくと、グレンに向かって話し始める。
「確か・・・15年前、ジェウェラ様が神官の身として修行中の時の話です。フォートレス王国とルクルティア帝国の戦争が始まったと聞き、ジェウェラ様はすぐに戦地に赴きました。その目的は勝敗を見定めるためだったと思います。当時、ジェウェラ様は知識の神であるアセンテンス様に重きを置いており、歴史の1頁をご自身の記憶に留めようとしました。そして、そこで目にしたのです。グレン様の雄々しくも荒々しい戦いぶりを」
ハルトはグレンを見上げる。その目にはジェウェラが向けた物と同様の色が見て取れた。
「その時に思ったそうです。『あの方はクライトゥース様の生まれ変わりに違いない。そうでなければ、あの強さを誰がどう説明できようか』、と。そこからジェウェラ様は戦いの神に仕えるようになり、今ではその献身が功を奏して、大神官にまで上り詰めたと言う話です」
話を聞き、グレンは「ふむ」と一言だけ呟く。
己を英雄足らしめた戦争。あれは確かにグレンの生活を著しく変えた。しかしまさかこんな事にまで発展するとは思いもよらず、ジェウェラの発想にも対しても「飛躍し過ぎ」と言う言葉しか出てこない。
「私・・・ジェウェラ様のお気持ちが分かります・・・。グレン様の戦いは見る者の常識を変えてしまうほどのもの・・・。信仰深い方であるならば、そのような考えを持たれるのも無理はありません・・・」
しかし、エクセは違うようだ。
「やはりそうですか・・・!僕も拝見したいものです・・・!」
そして、分かっていた事だがハルトも違うようだ。
グレンは自身が少数派なのを察し、その気持ちを口には出さないことにした。
「まあ・・・気持ちは嬉しいんだがな・・・。私も単なる人間に過ぎない。あまり畏まらないで欲しい、と伝えておいてくれ」
「なんと慈悲深いお言葉・・・!必ずやジェウェラ様にお伝えいたします!」
だからそれを止めてくれと言っているんだ、とグレンは心の中で呆れてしまう。
とりあえず、これ以上言っても仕方がないと判断したグレンは、2人に向かって神殿に戻るよう促した。エクセとハルトもそれを承諾し、帰りの途につこうとする。
「そう言えば、何故奥様――じゃなかった――エクセリュート様は、グレン様のお食事を作られるんですか?皆様の分でしたら、こちらでお出ししましたのに」
「ハルト君、私のことは『エクセ』でいいですよ。『様』も必要ありません」
「そうですか・・・?ではエクセさん、何故ですか?」
この買い物中に親しくなったからであろう。ハルトは行きにしなかった質問をエクセに対して問い掛ける。その事に関してはいずれ聞かれるであろうと2人も思っていたが、
「ふふ」
とエクセが笑い、グレンも、
「ん・・・」
と呟くだけで答えはしなかった。
その様子に、不思議そうに首を傾げたハルトは「やはりこの2人は何かただならぬ関係なのではないか」と思ってしまう。それが雰囲気としてグレンにも伝わったのか、彼は少し気恥ずかしそうに歩き出した。その後を2人も追うのだが、グレンの歩幅は広く、2人はやはり少し駆け足になっている。
しかし、グレンの足はすぐに止まった。それが予想外であったため、エクセはグレンの背中に抱き付く形で彼にぶつかる。日頃から鍛えているハルトは、グレンの動きにもすぐさま反応し、平然と止まって見せた。
「ど、どうなさいました、グレン様・・・?」
グレンの体から離れると、エクセは慌てたように問い質す。
「ああ、すまない。ただ、あの集団が目についてな」
そう言って彼が指さした先、そこには錫杖を手にした1人の老人を先頭に20人ほどの神官と思われる男達が付き従っていた。
「リットー・・・!」
同様にそれを目にしたハルトの声が後ろから聞こえる。その声は先程まで礼儀正しくしていた少年のものとは思えないほどの嫌悪感に満ちていた。
「なんだ、ハルト。知り合いか?」
それを不思議に思いながらもグレンは振り返り、少年に向かって問い掛ける。少年の顔には先程感じた嫌悪がありありと現れていた。
「違います、グレン様・・・!いえ、『知っているだけ』というのならば、そうです・・・!」
2人の間には何か確執があるようだ。もしかしたらジェウェラとなのか。
などと、グレンは少年の露わにした感情から想像する。ハルトの場合、自分の事以上にジェウェラの事で感情を昂ぶらせそうだと思ったからだ。
「グレン様、エクセさん。少し脇に逸れましょう。リットーには関わらない方が良いですから」
先程も呼んだ『リットー』という名をグレンは頭に入れておく。ハルトの言動から危険人物であるということが明白であった。教都を訪れて以来、グレン達に親しく接してくれている者ばかりであったために忘れていたが、自分たちはこの国を糾弾するために来ているのだ。そして、あのリットーという男はその矢面に立たされる可能性があるようにグレンには思えた。
ハルトの提案通り、3人は通りの端を歩くように移動する。リットー達は中央を歩いているため、特に注意を向けなければ気にされるようなこともないだろう。
そしてグレンは平然と、エクセとハルトは緊張したような面持ちでリットーの集団とすれ違った。その時、ふとリットーがこちらに向かって視線を移したのをグレンだけが察する。しかし、視線を返すことはなく、そのまま歩き過ぎようとした。
「少し待ちなさい、そこのお嬢さん」
グレンが想像していたよりも優しい声色で、リットーがグレン達に――正確に言えばエクセに向かって声を掛けた。驚いたエクセは反応してしまい、思わずリットーの方へ顔を向けてしまう。男の顔は嫌らしい微笑みに満ちており、少女の心臓は少しだけ強く鼓動した。
「ああ、やはり・・・。君のような美しいお嬢さんは見たことがない・・・。教都は初めてかな・・・?良かったら、我が神殿に招待してあげよう・・・」
言いながら、リットーはエクセに近づいて行く。老人の優しい言葉とは裏腹に、エクセは言い知れぬ不快感をその身に抱いていた。
そして、リットーはエクセの前まで来ると、ゆっくりと彼女の手を取る。それを両手で包み込むようにして撫で回すと、
「心配はいらない。私は知識の神に仕える大神官リットー。君にはぜひ、知識の神に仕える信徒になってもらいたい」
と言った。
エクセの手には手袋がはめられており、直接肌と肌が触れている訳ではなかったが、リットーのその行動に少女は背筋を凍らせる。自身を見つめる瞳も色欲に塗れ、エクセは今すぐ逃げ去りたい気分に見舞われていた。
「おい・・・」
その光景を見たグレンは、ひとまずリットーを蹴り飛ばそうと考える。相手は年老いていたが、彼が抱いた怒りには関係なく、その行動がこの先どのような事態を招くかも関係なかった。
「お止めください、リットー・・・様。その方はこちらにいらっしゃる御仁の奥様でいらっしゃいます。夫のいる方に手を出せば、イコアス様の神罰が下りますよ」
しかしそれよりも早く、ハルトがリットーに怒りの声をぶつける。先程グレンが弁明した事柄について言及されていたが、この場を凌ぐための方便だと判断したグレンとエクセは何も言わない。
リットーはじろりと少年を睨み付けるとエクセから手を放し、忌々し気にこう言った。
「ジェウェラの所の小僧か・・・。たかが信徒の分際で大神官に意見とは、ジェウェラの教育が知れるな・・・」
その言葉に、ハルトは更なる怒りを覚える。しかしここは堪えなければならず、彼は静かに大きく息を吸い込んだ。自身よりも幼い少年の忍耐強さに、グレンは感心をすると共に先程の怒りを抑え込む。
「これは失礼をいたしました、リットー様。以後、気を付けます。では、僕たちはこれで」
そう言って、ハルトはグレンの服とエクセの手を掴み、引っ張るようにずんずんと進んで行く。握る手の力強さから彼の怒りと悔しさが感じ取られ、グレンは少年の胸中を察した。
そして最後に軽く後ろを振り返り、リットーの顔を覚えておく。エクセに対する非礼を決して忘れないために。
老人はその視線に気付くことなく、エクセの背中だけをじっと見つめていた。




