3-3 家族
友人2人と別れ、エクセは自分の家に辿り着く。
ただ、そこにはリィスとテレサピスも同行していた。
その理由と言うのもテレサピスが、
「グレン様とは一度会っておかなければ、と思っていたんですの」
と言ってきたからである。
なぜグレンと会わなければいけないのか。その理由を聞きたかったが有無を言わせぬ感じだったので、エクセは仕方なくリィス共々テレサピスを自宅へと導いていた。
「ただいま帰りました」
エクセが玄関でそう言うと数人のメイドが姿を現す。
「お帰りなさいませ、お嬢様。さ、お荷物をこちらへ。ご友人のお荷物もお持ちいたします」
「いえ、自分で持つので大丈夫です。それより、グレン様はどちらにいらっしゃいますか?」
エクセのこの問いは、別にテレサピスのために聞いている訳ではなかった。
グレンがこの家に滞在している間、エクセは帰って来るなり毎度のようにその質問をしており、今回もまたそうしただけである。
「グレン様でしたら、お庭で護衛兵の鍛錬を指導しておいでです」
「そうですか。ありがとうございます」
エクセは頭を下げると、リィスとテレサピスを連れて自宅の庭へと歩を進めた。
(そう言えば、ファセティア家の屋敷に入るのは初めてですわね)
目的地への道中、テレピスはふとそんなことを考える。彼女自身貴族という事もあり、様々な貴族の屋敷に訪れた経験があった。
主な理由は他の貴族が開くパーティに参加するためである。やれ子供の誕生日だ、やれ婚約の祝いだ。貴族が多くいる王都では、頻繁にそのような集まりがあった。
しかし、エクセの実家であるファセティア家はそういった催し物をほとんど行わない。ファセティア家当主であるバルバロットが嫌がるためであり、ファセティア家の屋敷に入った事のある貴族は家族の者と親しい友人くらいであまり多くはない。
しかし、その内装は他の貴族に見せないのがもったいないほどの物であった。
六大貴族の家というだけあってか、建物の中は立派な装飾が施されている。広い廊下の両端に飾られている美術品などは、どれも値が張りそうであった。
使用人の数も多く、3人とすれ違う度に丁寧なお辞儀をしてくる。テレサピスはそういった光景に慣れているため軽く頷く程度であったが、リィスは丁寧にも立ち止まって頭を下げ返していた。
「リィスさん。今は私達が目上なのですから、そこまでやらなくてもよろしいですわよ」
そのため、テレサピスが助言をする。
リィスも、そうなのか、といった表情をした。
「お二人とも、こちらです」
いくつかの扉を通り過ぎた後、エクセが声を掛ける。彼女が手で示した扉からは日の光が入り込んでおり、そこが外と繋がっているのが一目で分かった。
エクセが取っ手を掴み、扉を開ける。その瞬間、男達の掛け声と剣を振る音が聞こえてきた。
『せい!せい!!せい!!!』
「うわ・・・」
その光景に思わず嫌悪の声を漏らしたのはテレサピスである。見れば、凄まじいまでのしかめっ面をしていた。
大勢の男達が汗を垂れ流しながら一心不乱に剣を振る姿を女性が見れば、まずこういった反応をするだろう。しかしエクセは意に介さず、目的の人物のもとまで小走りに近づく。
もはや慣れてしまっているようだ。
「ただいま帰りました、グレン様!」
男達の気合の入った声に負けじとエクセも声を張り上げ、グレンに帰宅を告げる。
「ああ。お帰り、エクセ君」
エクセは目を閉じ、グレンのその言葉を噛み締めるように頭の中で反芻させる。彼が来てからと言うもの、少女にとって、この瞬間がたまらなく喜びを感じる一時となっていた。
愛する者からの「お帰り」の一言。まるで夫に出迎えられる妻のようではないか、とエクセは自然と笑みを作る。
「ん?リィスか?」
この状態になるとエクセはしばらく反応がない。
それをこの1か月間で学習したグレンは、扉の近くで立ち止まっている2人に目を向けた。彼の一言が聞こえた訳ではないが、目と目が合ったことでリィスはグレンに近づいていく。
テレサピスも、その後ろをついていった。
「久し・・ぶりです・・。グレン様・・・」
「ああ、久しぶりだな」
グレンのもとへ来るなり、リィスは挨拶をする。
そんな少女を、グレンはまじまじと観察した。
(リィスとはしばらく会っていなかったが、随分と健康的になったようだな)
グレンが初めてリィスと出会った時、彼女は骨と皮しかないと思わせる程に痩せ細っていた。
しかし今や肉付きも良くなっており、顔からも血色の良さが窺える。身長は以前までの生活のせいで伸び代がなさそうだが、それも彼女の魅力の1つと思っていいだろう。
何にしろ今は幸せなようだ、とグレンは思うのであった。
「グレン様、貴方とリィスさんがどのような関係かは聞いております。ですが、女性の体をそうじろじろと見るのは、とても失礼だと思いますわ」
その彼の視線をテレサピスが遮る。
「あ、ああ・・・すまない・・・。・・・君は?」
特徴的な赤髪をした少女であったが、グレンに心当たりはなかった。
「お初にお目にかかります。私は、テレサピス=ヒュッツェンベルク=フェムコット。リィスさんの同級生で、エクセさんと同じ六大貴族ですわ」
ああ、と表情を作る。
グレンに大して驚いた様子はなかった。
「私、グレン様とは一度お会いしたいと思っておりましたの」
その反応が意外ではなかったのか、触れる事なくテレサピスがそう言ってくる。
「なぜだ?」
少年や騎士にそう言われるのならば分かるが、この少女にそう言われる理由がグレンには皆目見当がつかなかった。
「ここでは言えませんわ。ですが、おそらく近いうちにまたお会いすることになると思いますから、その時にでも」
「なに・・・?」
テレサピスの言葉にグレンは戸惑いの声を漏らす。
何だか嫌な予感しかしなかった。
「さて、ではリィスさん。私達はこれでお暇すると致しましょうか」
テレサピスは振り返り、リィスに向かって言う。
来て早々の帰宅であったが、この家を訪れた理由がテレサピスがグレンに会う事であったため、リィスは頷いて了承の意を示した。
「ああ、そうですわ。グレン様、送って下さいな」
テレサピスは再びグレンの方へ向くと、唐突にそう言ってきた。
「私が、か・・・?」
「不服ですか?まさか女性2人だけで帰らせるおつもりですの?」
テレサピスの物言いに対してグレンは考える。
今は別にそう遅い時間ではない。加えて、王都の貴族街と言えば巡回する騎士や兵士の数も多く、治安も限りなく良い。
ならば、女性2人で帰ったとしても安全である事は容易に想像できた。しかし、もしかしたらそのような事は関係なく、男は女性を家まで送り届けなければいけないものなのかも知れない。
(まあ、護衛兵への指導も一段落ついた所だしな・・・)
そう思い、テレサピスの提案を受けることにした。
グレンは護衛兵に向かって今日の鍛錬の終了を告げると、続いてエクセに声を掛ける。
「エクセ君、今から2人を送ってくるよ」
「・・・は!――え!?なんですか!?」
現実に帰ってきたエクセが驚きの声を上げた。
「今からリィスとフェムコット君を家まで送って来るよ」
グレンはさっき言った台詞と似たような言葉を繰り返す。
「それでしたらグレン様でなくとも・・・。ユーキさんとミカウルさんに頼んでみます」
「いや、フェムコット君に頼まれてしまってね。断る理由もないから、送ってこようかと」
テレサピスから頼まれた――この事実に、エクセは警戒の念を持ってテレサピスを見つめる。一体どういった意図があるのだろうか、と。
「・・・分かりました。それでしたら、その間にお夕食を作っておきます。グレン様、今日は何をお召し上がりになりますか?」
「ん?そうだな・・・」
エクセはグレンが来てからというもの、毎晩彼の望む献立を提供している。今回もまたそう言った質問なのだが、そこに含まれる感情がいつもとは少し違っていた。
「では、3日前に食べた肉料理を頼む」
「ハンバーグですね!分かりました!腕によりをかけて作っておきますので、お二人を送り届けて来たらすぐに戻ってきてくださいね!?」
「ああ」
「絶対に戻ってきてくださいね!?」
「あ、ああ・・・」
何やら必死なエクセに動揺しつつも、グレンはそう約束をする。
エクセとしては、グレンに限ってそんなことはないと思うが、彼がテレサピスに惹かれてしまう事を恐れていた。そして、テレサピスがグレンを誘惑するかもしれない事を。
テレサピスはエクセよりたった2つ年上であったが、その魅力はもはや大人のそれであった。
高めの身長に加えて、魅力的な体型。見る者が見れば、エクセと帝国の皇帝アルカディアを足して2で割ったような感じだと評するであろう。
燃えるような赤髪は情熱的で色気があり、それとは逆に物腰は淑女そのもの。おそらくエクセが出会った者の中で、最も女性的魅力に溢れた人物だ。
「私だって、もう2年経てば・・・!」
などと対抗心を燃やすエクセであったが、グレンは何の事を言っているのか分からなかった。
「では、行ってくるよ」
とりあえずそれだけ言い、リィスとテレサピスのもとへと歩いて行く。
「お話は済みまして?」
「ああ、待たせたな。行くとしよう」
そうして、3人はファセティア家を後にした。
「ウェスキス殿の家には、もう慣れたか?」
ヴィレッド家の屋敷への道中、グレンはリィスにそう尋ねた。彼女をこの国に招いた発端と言うこともあり、グレンもリィスについては一応の心配をしているのだ。
「は・・い・・・」
リィスの声は小さく、普段から聞き取り辛いものであったが、今回は特にそう感じられた。
なぜならば、グレンとリィスの間にはテレサピスがいたからだ。ファセティア家の屋敷を出てからずっと、このような並びで歩いている。
何か意図があっての配置かと思われたが、テレサピスから会話を振られるような事もなく、グレンが言葉を発するまで誰も喋らなかったのである。彼も無口な方であったが居づらくなり、堪らずリィスに話し掛けたのだ。
「そうか、それはよかった」
そして、この会話もこれで終わる。
グレンに話を盛り上げるような技術はなく、またリィスも同様であったからだ。
「グレン様は、もう少し会話力を磨いた方がよろしいと思いますわ」
自身も黙ったままであったテレサピスが苦言を呈す。
いきなりな一言に、グレンも戸惑いを感じた。
「先程から何も話さず、いざ口を開いたと思っても二言三言。男性ならば、女性を楽しませる術を学ぶべきですわよ?」
「む・・・すまない・・・」
年下の少女からの文句とも指導とも取れる言葉に、グレンはそう返すことしかできない。と言うか、何故そのことで叱られなければいけないのか分からなかった。
不服とは思わなかったが、理由が分からないとグレンは頭を悩ませる。
「あ・・・ここ・・・家・・です・・・」
その時、リィスがぼそっと呟いた。
「ああ、着いたか」
グレンはリィスが自分の家だと言った建物を見る。
ファセティア家の屋敷ほどではないが、貴族らしい大きく豪華な家であった。外から見える庭には、綺麗な噴水まで備え付けられている。
あの人の趣味だろう、とグレンは思った。
「では、リィス。ここで――」
「そこの男!リィス姉さんから離れろ!」
リィスに別れを告げようとしたグレンに向かって、ふいに怒号が飛ばされる。
声のした方を向くと、立派な体格の青年が1人、怒りの形相を浮かべながら足早にこちらに向かって来ていた。その青年は3人の所まで来るとリィスの肩を掴み、グレンから引き離す様に彼女を移動させる。
「いつもより帰りが遅いので心配しましたよ、姉さん」
地面に膝をつき、リィスと視線を合わせた青年が落ち着いた口調で言った。
そして、グレンを横目で睨み付けると言葉を続ける。
「しかし、その心配も無駄ではなかった。愛らしい姉さんを狙うケダモノがここに1匹、いたのですから」
それはもしかしなくても自分のことか、とグレンは思った。
「ち・・違うの・・・タッ君・・・!」
リィスも自分の肩を掴む青年が誤解をしている事を察し、慌てて言葉を発する。
しかし、青年はグレンを睨み付けているせいか、その言葉を聞いていないようだ。
「アーロン!姉さんを家の中へ!」
そしてそのまま誰かを呼ぶ。
するとヴィレッド家の屋敷から1人の少年がこちらに向かって走って来た。その少年も幼い顔立ちの割に、リィスよりも幾分か背が高い。
「お姉ちゃん、こっち!」
アーロンと呼ばれた少年は、リィスの手を取ると急いで家の中へ戻ろうとする。少年にリィスを託した青年は果敢にもグレンを真正面から見上げ、威嚇していた。
「違う・・・!違うの・・・アー君・・・・・!」
2人が勘違いしている事を理解しているリィスは、少年に逆らうように力を込める。
アーロンという名の少年は、不可解だと言わんばかりの表情で姉の顔を見た。
「グレン様・・・!グレン様・・だから・・・・!」
青年とアーロンはリィスの言葉を頭の中で整理する。
自分達が姉と呼ぶ女性が敬称をつけて呼ぶグレンと言う人物。唯一人だけ、その者に心当たりがあった。
「グレン様、と言うと・・・。リィス姉さんを助けて下さった・・・あの?」
振り返って聞いた青年の問いに、リィスは頷く。
それを見た瞬間、青年の顔は瞬く間に青ざめていった。
「も、申し訳ありません、グレン様!姉さんの恩人に対して、何と無礼な発言を・・・!」
先程とは打って変わって礼儀正しい口調に変わった青年は、グレンに向かって勢いよく頭を下げる。アーロンと呼ばれた青年も同様に頭を下げていた。
「いや・・・気にするな。それよりも、君達はウェスキス殿の息子か?」
「はい」
頭を上げた青年がグレンを見上げながら答える。
その目に、もはや敵意はなかった。
「僕がタクトと言い、あそこにいる弟がアーロンと言います」
グレンはタクトとアーロンを交互に見つめる。
そして、最後にリィスを見ると、
「2人はいくつなんだ?」
と聞いた。
「年齢、ですか・・・?僕が16で、弟が13になりますが・・・」
一体なぜそんな事を聞いてくるのか、と疑問を持ちながらもタクトは答える。
「やはり、リィスよりも年下か・・・」
リィスの事を姉と呼んでいるのだから当然なのだが、グレンには弟達の方が年上に見えて仕方がなかった。と言うか、あのポポルから生まれた子供とは思えないほど、年齢の割にかなり身長が高い。
リィスの方が実子と言われても違和感が無いほどだ。
「お久ぶりですわね、タクト君、アーロン君」
そんな事を考えているグレンを他所に、これまでのやり取りを静観していたテレサピスが、そう言葉を掛ける。
「テレサピスさん!?居たんですか・・・!すいません、気付きませんでした・・・!」
どうやら顔見知りのようだ。
貴族同士の繋がりというのは意外な所であるものだ、とグレンは思った。
「気になさらなくてもよくってよ。リィスさんを守ろうとするそのお気持ち、私は高く評価致しますわ」
タクトがリィスにしか目が行っていなかったと判断したテレサピスは、青年の働きを賛美しつつ魅力的な笑みを浮かべた。
「しかし、姉さんは当然として、なぜお二人まで我が家に?」
家の者として持って当たり前の疑問をタクトは口にする。
それにはまず、グレンが答えた。
「私は2人を家まで送っていた所だ」
続いて、テレサピスが答える。
「私は、リィスさんの勉強を見て差し上げようと思いまして。これから2人で我が家に向かう所でしたのよ」
なんだそうだったのか、とグレンは心の中で呟く。
「さ、リィスさん。必要な物を持って来て下さいな。私はここでお待ちしておりますわ」
テレサピスがそう言うと、リィスは小さく頷き、家の中へと入って行った。それに続いて、グレンとテレサピスに向かって頭を下げたタクトとアーロンも屋敷へと戻って行く。
(ふむ・・・)
グレンの目には、弟2人の嬉しそうな笑みが捉えられていた。彼らもまた、リィスに同年代の友人ができた事が嬉しいようだ。
心配はしていなかったが、思いの外新しい家族と上手くやれているようでグレンは安堵する。
「では、グレン様。もうお帰りになられても結構ですわよ」
3人の姿が家の中へと消えた瞬間、テレサピスが唐突に切り出してきた。
「君の家まで、ではなくていいのか?」
「ええ。貴方様がどのような方か、少しだけ分かりましたから」
グレンの人となりを知るために同行させた、テレサピスは如実にそう言っているようである。
「そ、そうか・・・?」
それが果たして自分にとって都合の良いいことか悪いことか。
グレンには判断できなかったため、それだけ言っておいた。
「はい。とりあえず、先程申し上げた事だけは覚えておいてくださいましね」
おそらく、会話力を磨くべき、という言葉について言っているのだろう。グレンにはテレサピスの言動がいまいち掴みきれず、霧がかったような気分になる。
「ではグレン様、ありがとうございました」
それでも、頭を下げて別れの言葉を言われたため、グレンももはや何も言えず、大人しくファセティア家の屋敷へと戻ることにしたのだった。
グレンが再びファセティア家の屋敷に戻ると、廊下で1人の女性と対面した。
「あら、グレンさん。お帰りなさい」
「これは奥方。ただ今戻りました。体調の方はよろしいので?」
その女性の名前は、ユフィリアム=ファセティア=ローランド。バルバロットの妻で、エクセの母親である人物だ。
歳は40代とグレンよりも年上だが、エクセの母親というだけあってかなり若々しく美しい。娘と同じ銀髪とより白い肌が儚げな印象を与え、男ならば守ってあげたくなるような気持ちになる。おそらくバルバロットもそういった感情を持ったため、ユフィリアムに求婚したのだろう。
ただ、娘とは異なり、彼女に肉体的豊かさはなかった。これに関してグレンは、エクセが父親から肉体的・精神的な力強さを、母親から外見的・内面的な美しさを譲り受けたと考えている。
「ええ。最近は悪い方が珍しいんですよ」
グレンの問いにユフィリアムはそう答えた。
彼女は病弱で、普段はベッドの上で1日を過ごしている。しかし、たまに体調の良い日があり、そんな日は自分の足で歩く事を日課としていた。
「それは喜ばしい事です」
グレンの言葉にユフィリアムは微笑む。多少の小皺が見られるが、それでもその笑顔には魅力があった。エクセも将来はこのように笑うのだろうな、とグレンは考える。
「ふふ、これもエクセが元気なおかげかしらね。あの子から力を分けてもらっているみたい」
その言葉には思わずグレンも微笑む。
親と子という繋がりは、グレンもかつて強く感じたものだった。
「あ、そうなるとグレンさんのおかげでもあるのかしら?」
「私・・・ですか?」
「ええ。だって、あの子が普段よりも元気なのは、グレンさんが家に居てくれているからですもの」
口元を手で隠しつつ、にこやかな顔でユフィリアムはそう語る。
グレンは気恥ずかしそうにそれを見ている事しかできなかった。
「あら、噂をすれば」
ユフィリアムが見つめる先、そこからエクセが歩いてくるのが見える。
グレンもそれを迎えるように体の向きを変えた。
「グレン様、お帰りなさいませ!」
グレンが無事帰って来てくれたのが嬉しいのか、エクセは元気一杯に挨拶をする。グレンの耳には、ユフィリアムの「ほらほら」という楽しそうな声が聞こえた。
「ああ、ただいま」
エクセは目を閉じ、グレンのその言葉を噛み締めるように頭の中で反芻させる。
グレンが来てからと言うもの、エクセにとって、この瞬間もたまらなく喜びを感じる一時となっていた。愛する者からの「ただいま」の一言。まるで夫を迎える妻のようではないか、とエクセは自然と笑みを作る。
「エクセ、顔がだらしないですよ」
「ひゃ!?ごめんなさい、お母様・・・!」
自分の世界に入り込んだエクセは、例えグレンであっても容易に意識を取り戻させる事はできない。しかし、ユフィリアムの言葉だけはしっかりと届くようで、エクセはすぐに自分を取り戻した。
これが母親の力か、とグレンは毎度の如く感心をする。
「お夕飯の支度はできたの?」
エクセは今、私服に前掛けを着込んでいる。つまりは料理をしていたということであり、それに関連した用事でこの場に来ていた。
「はい。ですので、お母様に味見をしていただこうと探していました」
「あら、そうだったの」
しかし、そこでユフィリアムはくすりと笑う。
「それなのに、私より先にグレンさんに目が行った訳ね」
その言葉にエクセの顔は赤くなった。
「お、お母様・・・!」
慌てるエクセがおかしいのか、ユフィリアムはさらに優雅に笑う。
そんな母親の手を取り、エクセは怒ったように言った。
「もう・・・!早く台所に来てください・・・!」
「はいはい、今行きますよ」
2人してじゃれ合いながらも歩を進める。
そして、数歩進んだ所でエクセはグレンに向かって声を掛けた。
「グレン様、すぐにお食事をお持ちいたしますので、食堂でお待ちください」
グレンは小さく頷く。
「ほら、お母様急いで・・・!」
「あらあら、エクセは力が強いのね。お母さん、腕が抜けちゃいそうよ」
その光景にグレンは笑みを零す。
この家に来てからというもの、グレンは笑顔を見せる回数が増えている事を実感していた。
(やはり家族というのはいいものだな・・・)
そんなことを考えながら2人の姿が見えなくなるまで見届けると、グレンは食堂へと向かって歩を進めた。
ファセティア家の食堂は、貴族の家らしく家族用と使用人用とで分かれている。客として滞在しているグレンもファセティア家の者に混じって食事をするため、家族用の食堂への扉を開けた。
「ふむ、お前か」
そこにはすでにバルバロットがおり、酒を飲んでいた。
「バルバロット公、また飲んでいるんですか」
言われながらも、バルバロットはぐいっと杯を空にする。グレンには分からない事だが、かなり値の張る酒であった。当然、六大貴族である彼にとっては安いものであるが。
「食前酒だと言っているだろう。お前も飲め」
「でしたら、俺も言っているでしょう。酒は好きではないんです」
バルバロットはかなり酒に強い。
そのため、一旦付き合うと大抵の者が潰されてしまう。
グレンも同じくらい酒に強いのだが、いかんせん味が苦手だった。苦かったり、辛かったり、あまり美味いと感じた事がない。
「ふっ、だからこそ今日はこんなものを用意しておいた」
そう言ってバルバロットが取り出したものは、中に果物が浮かんでいる液体が入った瓶であった。
「それは?」
「果実酒というものだ。俺も飲んだ事はないのだが、どうやら甘い酒らしい」
「ほう・・・」
グレンの興味を引けたのが嬉しいのか、バルバロットがにやりと笑う。そして、空の杯になみなみとそれを盛った。それだけで素晴らしい香りがグレンの鼻先にまで届く。
「飲むか?」
バルバロットが差し出した杯を――逡巡しながらも――グレンは手に取った。
そして、少しだけ口にする。
「美味い・・・」
口に入れた瞬間、舌の上に転がる芳醇な味わい。数種類の柑橘類を用いており、おそらくだが砂糖も加えられている。かと言って強い甘味ではなく、優しい甘さだ。全てを飲み込んでもなお口の中から鼻に伝わる強烈な香りに、グレンは驚きを隠せなかった。
今度は、一気にそれを飲み干す。
「良い飲みっぷりではないか」
それを見たバルバロットが快活に笑った。
グレンは空になった杯を見つめながら、極上の一品に賛美を送る。
「これは素晴らしいものですね。どこから取り寄せたんですか?」
後で自分でも買おう、と思ったために尋ねる。
バルバロットは再びにやりと笑うと、
「ならば、今夜はお前も付き合え。その時に教えてやる」
と言った。
「いいでしょう」
断る理由もなく、グレンはそれを承諾する。
それとほぼ同時に、食堂の扉が開いた。
「お待たせしました。お夕飯をお持ちしましたよ」
そう言って、エクセが部屋に入ってくる。後ろにはユフィリアムもいた。
「おお、来たか。今日の献立は何かな、エクセ?」
「ハンバーグですよ、お父様」
「おお、それはいい。お前の作るハンバーグは絶品だからな」
普段の彼を知る者が聞いたら驚くような優しい声で、バルバロットは娘に声を掛ける。
グレンはすでに慣れたが、バルバロットはエクセに対してはかなり物腰柔らかに接していた。
「あら、あなた。またお酒?」
「これは食前酒だよ、ユフィ。お前もどうだい?」
加えてユフィリアムに対してもそうである。
シャルメティエやチヅリツカが見たら腰を抜かしそうだ、とグレンは思った。
「遠慮しておきます。折角の娘の料理を、酔ったまま味わいたくありませんので」
どうやらユフィリアムは酒に弱いようだ。
ならばエクセはどっちかな、などとグレンが考えていると、料理を乗せた台車をユーキとミカウルが運んできた。本来ならば、エクセの護衛兵である2人が給仕の真似事をする必要はないのだが、グレンが人見知りだという事に気を利かせたバルバロットがそうするよう命じたのだ。
始めは慣れない仕事に手間取っていた2人であったが、一月も経った今ではもはや手慣れたもので、特にミカウルなどは、
「どうぞ、旦那様」
「どうぞ、奥様」
「どうぞ、グレン様」
「どうぞ、お嬢様」
とそれぞれに向かって、優雅に皿を並べていく始末である。
「あらあら、ミカウルはお皿を並べるのが上手ね」
物音一つ立てず皿を置くミカウルに向かって、ユフィリアムはことこと笑いながら称賛を送る。
「お褒めに与り光栄でございます、奥様」
ミカウルはこれまた恭しくユフィリアムに向かって、頭を下げる。
決まった、と心の中で喜びの声を上げた。
「こいつ、無駄に練習していましたからね」
ユフィリアムに褒められた事に軽い嫉妬を覚えたユーキが、同僚の影の努力を暴露する。
それを聞いたミカウルは、途端にあたふたし始めた。
「ちょっ!ユーキさ~ん、勘弁してくださいよー。こういうのは、言わない方が格好いいんですからー・・・」
2人のやり取りに、今度はエクセも小さく笑い声を上げる。
「それでは頂くとしようか」
和やかな雰囲気になったのを見計らって、バルバロットが食事の開始を宣言した。
料理を並べ終えた事もあり、給仕としての使命を果たしたユーキとミカウルは、
「「ごゆっくりお召し上がりくださいませ」」
と息の合った台詞を言うと、静かに部屋を出て行く。
もしかしたらこれも練習したのかもしれない、とグレンは思ったが、口には出さなかった。
代わりにエクセの料理を口にする。ちなみに、かつてミミットに聞かされた嘘の習慣に関しては、初日にてすでに恥を晒していた。
「美味い・・・!!」
エクセの作ったハンバーグを噛み締めた瞬間、グレンは思わずそう声を上げていた。食事中の大声は行儀作法に反しているのだが、ファセティア家の者は誰一人としてそれを注意しない。
「本当ですか!?喜んでいただけて、嬉しいです!」
むしろ、エクセも声を上げるほどであった。これは普段ならば母から注意される事であるのだが、グレンが来てからというもの状況が変わっていた。
グレンは食事中の作法というものを知らない。そのため、こういった行動をよくするのだが、そのどれもが食事を楽しませる結果となっているのだ。
グレンが喜べば、エクセも喜び、そしてそれを見た両親も喜ぶ、といった感じである。ファセティア家の夕食はここ1か月間、今まで以上に楽しいものになっていた。
「食後にはデザートも用意していますので、楽しみにしておいてくださいね!」
エクセの続く言葉にグレンは喜びを覚える。
エクセは主菜については彼の要望を聞くが、デザートについてはそうしなかった。それは甘い物が好きなグレンを楽しませるため、何が出てくるか秘密にしているからである。
「そうさせてもらうよ。エクセ君の作る菓子は、どれも美味しいからね」
グレンの言葉にエクセは満面の笑みを浮かべた。それを見て、グレンも笑みを返す。
おそらくこの食事を一番楽しんでいるのは自分だろう、とグレンは思うのであった。
食事が終わり、デザートも平らげると、グレンは食後の運動に鍛錬を開始する。
軽く汗を流した後は風呂に入り、その日一日の疲れを癒した。普段ならば、このまま自分に割り当てられた部屋に戻るのだが、今夜は食堂へと向かう。
夕食前に飲んだ果実酒を、今一度味わうために。
「おお、来たか」
そこには当然のようにバルバロットがおり、当然のように酒を飲んでいた。しかし、先程とは打って変わって顔が赤い。
「大分飲んでいるようですね」
「お前が来るのが遅いのだ」
グレンの心配からくる言葉にバルバロットは憮然とした態度で答えた。
そして、さらに反抗するかのように酒をあおる。
「何をしている?お前もさっさと飲め」
空にした杯に再び酒を注ぎつつ、バルバロットはグレンに催促をした。テーブルの上には、すでにグレン用の杯と肴が用意されており、先ほど飲んだ酒も置かれている。
グレンはその席へと腰掛けた。
「酒は自分で注げよ」
貴人の酒宴には、酒を注いでくれるメイドなどの使用人が傍に付いているものである。
しかし今、食堂にはグレンとバルバロットしかいない。これは、バルバロットが酒や食事はできるだけ少人数で楽しみたいからであった。
親しい友人や家族の者でなければ、同席すら許されない。彼が貴族として晩餐会を開くのを嫌うのも、それが理由であった。
グレンもその事については都合が良いと考えている。彼とバルバロットの仲が良いのも、そういった共通点があったからだろうか。
「では、頂きます」
グレンは酒を杯に注ぐと、バルバロットに一声掛けてからそれを口にする。風呂上りということもあり、喉が渇いていたグレンは酒を一気に飲み干した。
再び、先ほど味わった豊潤さが口の中に広がる。
「こんな事なら、もっと早く取り寄せておけばよかったな」
グレンが滞在していた間、バルバロットは幾度となくグレンを酒の席に誘っていた。しかし、先刻語った通りグレンは酒が苦手で、その全てを断っていたのだ。
バルバロットとしてはそれは寂しい想いをしていたのだが、念願叶って彼と酒を飲み交わすことができ、実は今とても上機嫌である。そのため酒も進み、彼にしては珍しくひどく酔っていた。
「まったく、お前と言う奴は・・・!同じ家で暮らしながら、酒に付き合わせるのにも苦労を掛けさせるとは・・・!」
そして、少し愚痴っぽくなっている。
「ああ。その事なんですが、バルバロット公。実は、もうそろそろ自分の家に帰ろうかと思いまして」
「駄目だ、許さん」
グレンの帰宅願いに対して、バルバロットはいつものように不許可を出す。このやり取りは最近になって頻度が増しており、グレンとしても1か月という滞在期間は長く感じられているようだ。
故に、今回に限りグレンもそう容易くは引き下がらなかった。
「さすがに長居し過ぎです。これ以上、この家に迷惑を掛ける訳にはいきません」
「迷惑?お前1人が増えたところで、何の迷惑になると言うのだ。食事か?寝床か?あまり俺を舐めるなよ」
確かに六大貴族であるファセティア家ならば、大喰らいのグレンであっても余裕をもって養うことができるだろう。しかし、グレンにとってはそれが快くなかった。
「そうは言いますが、何の働きもしないまま衣食住を提供されるだけではやはり気が引けます。それに自分の家も放っては置けませんし」
「だからこそ、護衛兵の指導という仕事を与えてやったのではないか。それに、お前の家の事ならば心配はいらん。お前がここに滞在している間、メイドに家を掃除するよう命じてある」
グレンはその言葉に驚愕する。
「聞いていませんが・・・!?」
「初日に鍵を預かっただろう?それくらい察しろ」
あの時は深く考えもせず鍵を渡してしまったグレンであったが、今ひどく後悔をした。
見られて困るような物があるわけではないが、自分の知らないうちに他人に家に上がられたという事実はあまり気分が良いものではない。
「他の女の痕跡がないか、探すよう命じもした」
「あるわけないでしょう・・・」
一体誰のために命じたのかは、グレンも分かっていた。
「確かになかった。しかし、メイドがこんな物を見つけてな」
そう言って取り出したのは、なんと『英雄の咆哮』である。
グレンは思わず、「あ・・・!」と声を漏らした。
「グレン・・・いくら国王がお前にこいつを譲渡し、かつお前しかこれを使いこなせないとしてもだ。机の上にポンと置いてあるのは、不用心であると言わざるを得ないぞ」
バルバロットは『英雄の咆哮』をグレンに放って寄越す。国宝級の魔法道具の取り扱いについて、グレンもぞんざいだが、バルバロットも似たようなものであった。
「すいません・・・。あまり使わないもので・・・」
「これからは常に身に着けていろ。それが一番安全だ」
それだけ言ってバルバロットは会話を打ち切った。
「――って、待って下さい。先程の俺の話をなかったことにしないでもらいたい」
さすがのグレンもそれには気付いたのか、すかさず声を上げる。
バルバロットは「ちっ」と軽く舌打ちをした。
「何が不満なのだ?」
苛立たし気にバルバロットは聞く。
「この家にお世話になり続けているのが、不満なんです。俺だって、いい大人だ。自立した生活を送らなければいけない、と思う事だってあるんですよ・・・!」
この言葉にバルバロットは溜息を吐きつつ返す。
「まだ分からんか、グレン。この家はいずれお前の物になる。それに備えて、使用人との関わり方、家の間取り、その他諸々を頭に叩き込む機会をくれてやっているのだ。感謝こそすれ、出て行くなど・・・この恩知らずが!!」
最後の部分でいきなりバルバロットは声を荒げた。
これは本格的に酔って来たな、とグレンは警戒をする。
「それとも何だ!?まさか俺の娘に不満があるのか!?あのエクセに気に食わないところがあるのか!?だから、この家を出て行くのか!?」
(まずい・・・厄介な状態になってきた・・・)
バルバロットは機嫌が良くなると酒をよく飲む。
そして、飲み過ぎると機嫌を悪くするという迷惑な酒飲みであった。
(どうするべきか・・・)
などと考えていると、この部屋の扉が開く音を耳にする。
メイドか、と考えたグレンであったが、続く言葉に肝を冷やした。
「今の話・・・本当ですか・・・?」
扉を開け、食堂に入ってきたのはエクセであったのだ。
「エ、エクセ君・・・!?なぜ、ここに・・・!?」
「お休みの挨拶をと思いまして・・・。あの・・・グレン様・・・先程お父様が仰った事は本当ですか・・・?」
そう聞くエクセの顔は切なく、今にも泣き出してしまいそうである。
これには、グレンも大慌てで弁解をした。
「誤解だ、エクセ君。バルバロット公は今ひどく酔っていて、ある事ない事口走っているだけだ」
「酔ってなどいない!」
「少し黙っていていただきたい!」
エクセの誤解を解くのに必死であったため、グレンはバルバロットに向けて声を荒げてしまう。それを受けて、バルバロットも大人しくなった。顔はにやついていたが。
「グレン様・・・私・・・何かお気に障るような事でも・・・?」
グレンの傍に近づいて来たエクセが問う。
「いや、だから誤解だ、エクセ君。先程のバルバロット公の発言は、ただの思い込みで――」
グレンの説明をエクセは聞いていなかった。
自分の至らなかった所は何か、と真剣に考え込んでいたのだ。
「まさか・・・お料理がお気に召していなかったのですか?いつものお褒めの言葉は私に気を使って・・・?」
「そんな事はない。君の料理にはいつも満足している。あれ程のものは、どこに行っても食べられないだろう」
「では・・・、私自身にご不満が・・・?」
そうだ、と言ったら泣いてしまいそうな顔でエクセは聞いてくる。グレンはそんなことを考えもしなかったが。
「落ち着け、エクセ君。君に不満など、それこそあるはずが――」
グレンの台詞の途中でエクセは、はっとした顔をした。
「と言うことは、他に理由が・・・?まさか・・・アルカディア様のもとへ行くのですか!?」
「・・・・・・・なぜ、そうなる・・・」
「だって、アルカディア様の手紙に書かれていました!グレン様の子供を・・・あの・・・その・・!」
エクセはアルカディアが国王宛に書いた手紙の内容を、口ごもりながらも言おうとする。
「その話は掘り返さないでくれ・・・!」
グレンとしてもあの手紙のせいで掻かなくてもいい恥を掻いてきた。
出来れば忘れていてもらいたい。特にエクセには。
「では・・・!では・・・なぜ・・・この家を出て行くと・・・!?」
「それは長居し過ぎたからで――」
「はっ!まさか・・・!」
またもやグレンの台詞を遮り、エクセが声を上げる。
今度は何だ、と身構えた。
「テレサピスさん、ですか・・・?」
「・・・・・・なぜ、彼女が出てくる・・・?」
「だって、テレサピスさんはとても素晴らしい女性です!ならば、グレン様が気を惹かれることもあり得るかと!」
「なに!?ヒュッツェンベルクの小娘だと!?グレン、貴様どういう事だ!?」
「だから、バルバロット公は黙っていて下さい!」
バルバロットにまで参戦されては、余計ややこしい事になりかねない。グレンは大声を出すことでそれを防いだ。バルバロットはまたもや素直に押し黙る。
それを見届けると、グレンは一度大きく深呼吸をした。
そして、エクセに向かって優しく話し掛ける。
「エクセ君、私は少し休み過ぎた。おそらく勇士の仕事も溜まっている事だろう。それを片付けたら、またこの家に戻ってくると誓う。今は、それで許してくれないか?」
「それでしたら、何もご実家に帰らなくても・・・」
エクセの言う事も尤もであった。
しかし、この家に甘えると言う事が嫌なグレンは何とか言い繕おうとする。
「それは・・・まあ・・・そうなんだが・・・」
そして出来なかった。
それでもグレンの決意が伝わったのか、エクセは渋々と言った感じに頷いてくれる。
「分かりました・・・。ですが、絶対に戻ってきてくださいね・・・」
「ああ」
「絶対絶対、戻ってきてくださいね・・・」
「ああ」
エクセの必死な言葉にグレンは喜びを覚えつつ、頷いて見せた。それにエクセもほっと一安心したように胸を撫で下ろす。
「ふう・・・、安心したら喉が渇いてきました・・・。申し訳ありません、グレン様。こちらのお飲み物、少し頂かせてもらいます」
そう言って、エクセはグレンの席に置いてある杯を手に取り、一口だけ飲み込んだ。グレンの許可も待たず行動に移したのは、未だ冷静になりきれなかったせいか。
「あ!それは・・・!」
逆に気を緩めていたグレンは、咄嗟の行動に制止を掛ける事ができなかった。
エクセは杯を口から離すと、不思議そうに首を傾げる。
「これ・・・もしかして・・お酒ですか・・・?」
グレンは普段酒を飲まないことをエクセは知っており、今回もまたそうであろうと考えたため、彼の杯に手を出したのだ。
「すまない、言うのが遅れた・・・」
「どうしましょう・・・。まだ成人してもいないのに、お酒を飲んでしまいました・・・」
フォートレス王国では、学院を卒業すると同時に成人と認定される。その後は立派な大人として扱われ、それまで制限されていた行動が解放される事となっている。
飲酒もそこに含まれており、未成年には固く禁じられている事柄だ。欲に溺れず、まずは自分を鍛えろという国王の思慮からくる制度であった。
「そんなに飲んではいないだろう?ならば、国王もお許しになる」
そう言って、娘の失態を父親が慰める。
「しかし、慣れない酒だ。大事を取って、今日はもう寝なさい」
バルバロットの提案にエクセは小さく頷いた。
「はい、分かりました。ではお休みなさい、お父様」
エクセはそう言って、バルバロットに向けて頭を下げる。
そして、グレンの手を取ると扉へと向かって歩き始めた。
「ん?どうした、エクセ君?」
エクセの行動の真意が理解できず、グレンは問い質す。
「?――なにがでしょう?」
逆に問うエクセは、心底不思議そうな顔をしていた。
何かがおかしい、とグレンは訝しむ。
「いや、何がではなく・・・。何故、私を連れ出そうとしているんだ?」
「グレン様と一緒に寝ようと思ったからですが・・・?」
何かおかしな所があるのだろうか、エクセの顔はそう言っていた。
「・・・・なっ!?」
「ほう」
グレンの驚きの声とバルバロットの感心したような声が重なる。
「さすがは俺の娘だ。男がだらしないと見るや、自分から行動に移すとはな」
バルバロットは「ふふふ」と笑い声を上げる。
しかし、グレンには笑っている余裕などなかった。
「バルバロット公は黙っていていただきたい・・・!――エクセ君、君もしかして酔っていないか!?」
「?――グレン様に心酔しているという意味ならば、その通りですが?」
「酔っているな・・・!」
見れば、仄かに顔が赤くなっている。
エクセはグレンの前で何度も顔を赤らめたことがあるが、これはそういったものではないという事が容易に見て取れた。
(エクセ君は酒に弱い方だったか・・・)
夕食が始まる前、グレンはエクセが酒に強いか弱いか疑問を持った。そしてそれは、どうやら後者が正解なようだ。
「エクセ君、君は酒に弱い体質なようだ。すぐに横になった方がいい」
「そうですか・・・。お酒に弱いとこんなにも体が熱くなるものなのですね・・・」
と言いながら、今度は寝間着の留め具を上から順に外し始めた。突然の行動にグレンも固まってしまったが、エクセが下着を着けていないと分かる段階まで来ると急いでその手を掴む。
「待て待て待て待て待て!」
グレンも男だ。少女のあられもない姿に煩悩を刺激されない訳ではない。
しかし、エクセに申し訳ないという気持ちが先に立ち、今は何とか目線を逸らしていた。
「エクセ君、目を覚ませ!いや、酔いを覚ませ!」
しかし、狼狽は激しくしていたようで、無理な注文をしてしまう。
「バルバロット公!エクセ君をベッドまで運びます!部屋はどこですか!?」
「ん?ああ、ここを出て左に3つ目の部屋だ」
「ありがとうございます!」
そう言うと、グレンは急いでエクセを抱きかかえて、部屋を出る。彼の力ならば、人一人を抱えても容易に扉を開けることができた。
(ぐっ・・・!)
目的の部屋に向かって足早に歩くグレンの動きに合わせて、エクセの一部が激しく揺れる。グレンは視界の端に映るその光景を直視しないよう、全神経を注いでいた。
幸いエクセの部屋が近い事もあって、グレンの意思は何とかそれを成し遂げる。そして、扉を勢いよく開けた。
「あら?グレンさん?」
そこには先客――ではなく、その部屋の主がいた。
「奥方!?では、この部屋は!?」
「主人と私の部屋になりますけど。――あら、エクセ?」
ベッドの上で本を広げているユフィリアムの言葉を受け、グレンは色々と察する。
つまり、先程聞かされたバルバロットの情報は間違いだったのだ。それがわざとなのか、酒に酔っていたためなのかは分からない。だが、今この状況が彼にとって非常にまずいものである事は確定的であった。
グレンの腕に抱えられたエクセは寝間着をはだけさせ、酔っているせいか若干呼吸が荒い。加えてグレンも風呂上りに酒を一気に平らげたせいで顔が火照り始めており、食堂でのやり取りによって少々興奮状態でもあった。
そんな2人を見るユフィリアムの顔は、何かを思案しているようである。そして、はっとすると言葉を紡ぎ始めた。
「そうですか・・・。今夜、ですか・・・」
「・・・え?」
グレンにとって、ユフィリアムにあらぬ誤解を抱かせることは非常によろしくない事である。しかし、その言葉は何かを悟ったような口調で、グレンも戸惑いの声を漏らすばかりであった。
そんな彼に向かって、ユフィリアムは語る。
「娘が毎日のように貴方の事を語って聞かせてくれていた日々・・・・、いつかはこのような時が来るのではないかと思っていました・・・。そしてひと月前・・・主人が貴方を連れてきたあの日、私は覚悟を決めました・・・」
一体何の話をしているのか、グレンには皆目見当がつかなかった。
「グレンさん、娘をよろしくお願いします・・・。ただ、できるだけ優しくしてあげてくださいね」
しかし、寂しそうな笑顔でそう言われた事で全てを察する。
そう、ユフィリアムはグレンの予想を遥かに超えた勘違いをしているのだ。
「待って下さい、奥方!貴方は、とんでもない誤解をしています!」
「グレンさん、エクセは料理が上手でしょう?」
グレンの否定に耳を貸さず、ユフィリアムは言葉を続けた。
「え、ええ。確かにそうです・・・。ですが今は、そんな事はどうでも良くてですね・・・」
「エクセは小さい頃から、私のために頑張って手料理を作ってくれていたんです。満足に出歩く事のできない私を少しでも喜ばそう、と」
「あの・・・奥方・・・?」
「ですが、これからはグレンさんのためだけに料理を作ることになるのですね・・・。母親として喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら・・・」
自分の話を聞いてくれないユフィリアムにグレンは違和感を覚えた。
そのため、その違和感を問い質してみる。
「奥方・・・もしや、酔ってはいませんか?」
グレンの問い掛けに、彼女は火照った頬に手を当てながら、
「ええ。先程、主人に勧められて一口だけ頂きました。それが何か?」
と答えた。
扉からは若干の距離があるため分かり辛かったが、よくよく見ればユフィリアムの顔が少し赤くなっているのが分かる。
(ここの家族は酔わせてはいけないな・・・)
その心の中での呟きは、自分自身への戒めとした。
「奥方・・・エクセ君の部屋はどこですか・・・?」
続いて絞り出すような声で聞く。
最早、グレンも疲れてしまっていた。
「向かいの部屋です。――まさか、娘のベッドで!?」
それは想定外、とでも言いたそうにユフィリアムは口に両手を当てる。
グレンはただ力弱く、
「エクセ君を寝かしつけるだけです・・・。では・・・」
とだけ言って、その部屋を後にした。
「・・・あらあら」
それを見届けたユフィリアムは、満足気に微笑むのであった。




