2-15 前日譚と後日談
その日は快晴であった。
吹く風も爽やかで、小鳥達の遠く歌う声が部屋の中にも聞こえてくる。日が照らす大地から芽吹く草木は健やかに伸び、今日という日を祝福しているようであった。
「うっ・・・うぐっ・・・!」
しかし、そんな日にそぐわない少女の泣き声が、ある一室からは聞こえてきた。
少女の名前はアルカディア。3か月ほど前に皇帝になり、1か月ほど前にただ1人で国を動かすことになった人物である。
「うっ・・・ひぐっ・・・!ぐっ・・・!」
アルカディアはただ泣いている訳ではない。彼女は大量の書類を前に泣いていた。
それらは今朝、少女の寝ている間に執政官の1人が何も言わず置いていった物だ。最近では、その音が目覚まし代わりになっている。
少女は自分と最愛の弟の身を守るため、両親と大臣を処刑した。それゆえ1人で国を動かさなくてはならなくなったのだが、実際のところ助力を頼めるような人物はいたのだ。
しかし、誰もアルカディアに近づこうとはしなかった。それは、どのような理由であれアルカディアの周りにいる人間が殺されているからであった。自分もそうなりたくはないと考えるのは、致し方ないことである。
そしてその事についてはアルカディアも理解していたし、納得もしていた。
しかし、決して耐えられるものではなかった。弟がいると言っても、まともに口の聞けぬ年で彼女の寂しさを癒してはくれない。そのため、孤独からくる辛さが涙となって溢れていた。
朝起きて、書類の山を見て、それをほとんど食事もせず日がな一日捌いていく。全て終らせる頃には疾うに日が暮れ、疲れ切った彼女はすぐに就寝。そして、また朝が来る。
アルカディアはこのような生活を何日も続けていた。すでに顔はやつれ、心はそれ以上にすり減っている。それでも溢れてくる涙を、アルカディアは忌々しく思った。
(これじゃ・・・これが邪魔なのじゃ・・・!)
彼女が書類の山を消費するため、1日を使うのには理由があった。幼い子供ではすぐに政治的判断できないという事もあったが、目に溜まる涙のせいで文字が読めなくなってしまうのだ。
拭えど溢れるその雫によって、アルカディアの心と時間は確実に消耗されていく。
「止まれ・・・!止まれ・・・!」
アルカディアのすすり泣く声は小さく、城にいる者にも聞こえてはいなかった。例え聞こえたとしても、何かしてくれる訳ではない。
そのような孤独の中で、少女は泣く。誰にも止められないから、いつまでも涙を流すことができた。
けれども、今日は少し違った。彼女の耳に、ふいに扉を叩く音が届いたのだ。
びくっと肩を震わせたアルカディアは、扉を凝視する。
「誰じゃ・・・?」
その声は扉の向こうにいる人物に向けられたものではなく、独り言のような呟きであった。皇帝として、悲しみに塗れた声を聞かれる訳にはいかなかったのだ。
アルカディアは深呼吸を繰り返し、声の調子を戻そうとする。そろそろいいだろう、と思われたところで、扉の向こうにいる人物に向けて声を掛けた。
「誰じゃ?」
それでもやはり声は掠れており、アルカディアはやめておけばよかったと思った。
しかし、不思議と涙は止まっていた。
「入っても、よろしいですかな?」
質問に答えず、扉の向こうにいる人物はアルカディアに問う。その声は今まで城内で聞いた事のある声ではなく、アルカディアは不審に思った。
「構わぬ」
しかし、アルカディアはその者の入室を許可する。例えどんな人物であろうとも、今の自分に会いに来てくれるならば彼女は歓迎したかったのだ。1人でいる寂しさを、少しでも紛らわせるために。
アルカディアの許可を受けて、その人物は扉を開けて部屋の中に入って来た。
そして、少女の座る机の前まで来ると、頭を下げる。
「初めまして、アルカディア様。私はヴァルジ=ボーダン。ヴォアグニック武国の者でございます」
紳士服に身を包んだヴァルジと名乗る男は少々更けており、今まで生きてきた時間が短くない事が一目で分かった。そしてやはり、今まで一度も見た事のない人物である。
「そなた、何者じゃ?」
先ほど自己紹介をされたのにも拘らず、アルカディアは問う。
要は、身分を聞いているのだ。
「何者、と聞かれるような者ではございません。流浪の格闘家と言ったところです」
「格闘家・・・?」
その年にしては鍛えている事が服の上からでも分かるが、なぜそのような者が自分に会うためここまで来たのかがアルカディアには分からなかった。
と言うか、どうやって来たのだろう。誰もアルカディアに近づこうとはしないと言っても、見張りが全くいないという訳ではないのだ。
「どうやってここまで忍び込んだ?」
アルカディアの率直な問いに、ヴァルジは微笑む。
「忍び込んだなどとは人聞きの悪い。ちゃんと門から入り、堂々とここまで歩いて来たんですよ。まあ、その間に出会った兵士には眠ってもらいましたがね」
つまりは力づくでここまで来たということであった。
その事に、アルカディアは恐怖を覚える。
「狙いは、余の命か・・・?」
その言葉が意外なものだったのか、ヴァルジは目を丸くしていた。
そして、ややあって笑い出す。
「ほっほっほっ。そのような冗談が言えるのであれば、慰めに来る必要などなかったですかな?」
「な、慰めにじゃと!?」
ヴァルジの言葉に、アルカディアは顔を赤くしながら声を上げる。
「そうでございます。外を歩いておりましたら、何やらすすり泣く声が聞こえて来ましてな。それで出所を探していた所、ここに辿り着いたという次第なのです」
続く言葉に、アルカディアの顔はさらに赤くなった。
「ば、馬鹿を申すな!城の外にまで聞こえているはずがなかろう!そもそも、余は泣いてなどおらん!」
「おや、目が赤いのは泣いていたからではないのですか?」
「こ、これは、目が疲れていたのじゃ。書類仕事をしていたせいでな。加えて、寝不足ということもある」
これに、ヴァルジは少しだけ悲しい表情を見せる。
その視線は、大量に積まれた書類を向いていた。
「お一人でこれだけの仕事を・・・?さぞ大変でしょう。誰か手伝ってくれる者はいないのですか?」
老人は気を遣ったつもりだったのだが、アルカディアの顔は暗くなってしまった。
その表情が明確な返答になっていたが、少女は強がって答える。
「ひ、必要ない!この程度の雑務、余一人で十分じゃ!なぜならば余は――」
「私でよろしければ、お手伝いいたしましょうか?」
アルカディアの台詞を遮り、ヴァルジは聞く。
その言葉の意味を理解するのに、少女は長い時間を掛けた。
「なんじゃと・・・?」
その言葉には、喜びと疑いが混じり合っていた。
「ですから、私でよろしければその仕事をお手伝いいたしましょうか、と伺ったんです。とは言っても、私も学があるわけではありません。せいぜいお傍に仕えてお茶を入れたり、アルカディア様の護衛をする事くらいしかできませんが」
ヴァルジの提案は、孤独に苦しむアルカディアにとっては願ってもないものであった。しかし少女は、その期待を払うように頭を振る。
「ば、馬鹿を申すな・・・。突然現れた者にそのような事を言われて、誰が信用すると思う?余を誑かそうとしているのならば止めておけ。そのような事は・・・無駄じゃ!」
大臣に利用された経験からか、アルカディアは軽い人間不信に陥っていた。人を恋しいと思う感情と人を恐ろしいと思う感情が、小さな少女の心の中で混じり合っているのだ。
「そうですか。では、帰らせていただきます」
「ま、待て!」
くるり、と向きを変えたヴァルジに対してアルカディアは思わず声を掛ける。にこり、とアルカディアに向かって、ヴァルジは笑って見せた。
そんな彼に、アルカディアは聞く。
「せ、せめて、ここに来た理由を聞かせよ!でなければ、気になって仕事が手につかん!」
その質問に対して、ヴァルジは考える仕草を見せる。その行為に疑いの目を強くしたアルカディアであったが、続くヴァルジの言葉に疑問府を浮かべた。
「呼ばれたから、ですかな・・・」
「呼ばれた・・・?誰にじゃ?」
「あなた様にですよ。もっと正確に言えば、あなた様の泣き声にです」
アルカディアは、再び顔を赤くする。
「だから!先程も言ったように泣いてなどおらん!仮に泣いていたとしても、城の外にまで聞こえているはずがなかろう!」
アルカディアの必死の言葉に、ヴァルジは優しく微笑む。
「ええ、その通りです」
「ん・・・?」
今の会話はもしかしたら何かの引っ掛けか、とアルカディアは会話を振り返ってみた。しかし何もおかしなところはなく、やはりおかしいのはこの男だ、と考える。
しかし、彼は嘘を吐いてはいなかった。
30年間、ヴァルジは国を出てから当てもない流浪の旅を続けていた。それは己を鍛えるため、己の武を高めるための旅であり、それ以外に何か目的があった訳ではない。
そして、今振り返ってもその30年間は素晴らしいものであると感じているのだが、いかんせん年を取りすぎた。ヴァルジの体にはすでに伸び代はなく、旅をする唯一の目的も消え失せてしまう。
そんな虚無さえ感じる旅を数か月続けていると、何の気なしにルクルティア帝国の領土に足を踏み入れる事となった。
その瞬間、ヴァルジの耳に少女の泣き声が小さく聞こえたのだ。
始めは空耳だと思った。そして次に、近くに泣いている少女がいるのだと思い、探しもした。
しかし、見つからない。
寝ても覚めても聞こえてくる泣き声であったが、不思議と煩わしくはなく、ついにヴァルジはその声の主を探すため帝国中を探し回る事にした。そしてアルカディアの事を話に聞き、ここに訪れたという事である。
それ故、ヴァルジはこう言い現わしたのだ。泣き声に呼ばれた、と。
「それで、どういたしますかな?」
ヴァルジのその言葉の意味を、アルカディアは理解できなかった。
「なにがじゃ?」
「私がここに来た理由を聞いて、アルカディア様は作業を再開なさる。しかし、やはり1人では大変なはずです。先程も申し上げましたが、私でよければお手伝いいたしますよ。どうしても無理だと言うのであれば、このまま大人しく帰らせていただきますが」
ヴァルジの真意を探るように、アルカディアは彼の目を見つめる。老人にはその目の色が、恐怖に彩られているように見えた。
「そなたは余のことを知らんのか?父上と母上を処刑し、大臣たちも全て殺した。そのような者の傍におれば、いずれは同じ目に遭うぞ?」
これは決して脅しではなく、目の前にいる男を試していたのだ。
いや、試すなどという余裕のある行動ではない。これは少女が見せる事の出来る精一杯の虚勢であった。
「もちろん存じ上げております。そして、それがそうせざるを得なかった事も。まあ、もし私が同じ目に遭いそうになったら、一目散に逃げさせていただきますが」
そう言うヴァルジの顔は、どこか楽し気である。その言葉を聞き、そしてその表情を見たアルカディアは、先程まで忘れていた涙が溢れ出そうになった。
ぐっと堪えて、彼に言う。
「な、ならば・・・今からいくつか質問をする・・・。それに答えられたのならば、考えてやってもよい・・・」
これにヴァルジは動揺する。
先程彼も言ったように、ヴァルジには学がない。それは物心ついた時から、肉体の鍛錬にのみ意識を割いて来たからだ。
彼の母国にしてみれば模範のような人生なのだが、今この時においてはそれが裏目になりそうであった。まさか帝国の歴史について問題を出されるのではあるまいなと、ヴァルジは身構える。
しかし、アルカディアの口から出た言葉は、その予想を裏切ったものであった。
「余が・・・余が呼んだら・・・すぐ傍に来てくれるか・・・?」
それは質問というよりも懇願であった。
不意を突かれ戸惑ったヴァルジであったが、すぐに笑顔を作って答える。
「勿論でございます」
その言葉を聞いても、アルカディアは笑顔を見せなかった。
そして、質問を続ける。
「では、余を1人にせぬと誓えるか・・・!?」
「勿論でございます」
「では、では・・・!余を何者からも守ると約束できるか・・・!?」
「勿論でございます」
その後も、アルカディアはいくつもの問いをヴァルジにぶつけていった。そして、その全てにヴァルジは誠意を持って答えていく。
言葉は同じものであったが、そこに疑いを挟む余地は一切なかった。それを感じ取ったが故に、アルカディアの声は最後の方になるにつれて段々と掠れたものになっていく。
「では・・・これまでの・・・・約束・・・!ただの1つでも・・・違えた時・・・お前は・・・どうする・・・?」
これもまた脅しではなかった。信じたい、そういった感情がこの言葉からは感じられる。
そのため、ヴァルジは今までで一番誠意のこもった声で語った。
「その時は、この命で償わせていただきます」
その言葉を聞いた瞬間、アルカディアは堰を切ったように大声で泣き出した。
辛かったのだろう、寂しかったのだろう。かつて孤独を愛したヴァルジであっても、その悲痛な叫びは深々と胸に突き刺さった。
「み゛な・・・み゛な・・・よのごどを、ぎらっでおる・・・!みな・・・よのごどを・・・ごわがっでおる・・・!それでも゛・・・それでも゛・・・おばえは・・・!」
アルカディアの慟哭を聞きながら、ヴァルジもまた涙を流した。それは決してアルカディアを憐れんだのではない。ただ悔やんだのだ。
なぜ自分はもっと早く、この少女のもとに辿り着けなかったのだろう――と。
妻子を持たないヴァルジが過ごした孤独の時間に比べれば、アルカディアの孤独に過ごした時間など大したことではない。それでも、この小さな体には耐えきれぬほどの苦痛であることは容易に想像がついた。
実際、城の外にすら響いているのではないかと思える程のアルカディアの泣き声を聞いても、誰一人としてこの部屋に駆け付けない。おそらく「ついに気が触れたか」とでも思っているのだろう。
そんな状況を野放しにしていたという事実が、数々の苦難を乗り越えてきた男に数十年ぶりの涙を流させた。
「『お前』ではありません・・・ヴァルジです・・・。ヴァルジとお呼びください・・・」
久しぶりの涙のせいか、ヴァルジは声を絞り出すようにそれだけ言った。少女の部屋には、年の離れた2人の泣き声だけが響く。
そして、全ての涙を流しつくした後、アルカディアは小さく呟いた。
「・・・・じい・・・」
「・・・はい」
ヴァルジはそれを自分の名前の「ジ」であると受け取った。
しかし、そうではないようだ。
「じい、じゃ・・・。余はこれからお前のことを『爺』と呼ぶ」
「『爺』、ですか・・・?」
ヴァルジとしては、少々気恥ずかしい感じがした。
「嫌か?」
しかし、アルカディアにそう聞かれて、すぐに首を横に振る。
「いえ、アルカディア様のお好きなようになさってください」
アルカディアはその言葉に大きく頷くと、
「よし!ならば、今日からお前は余の爺じゃ!役職は・・・そうじゃな・・・余の執事兼護衛といったところかの」
と言った。
「畏まりました。謹んでお引き受けいたします、アルカディア様。――いえ、姫様とお呼びした方がよろしいですかな?」
ヴァルジがそう言うと、アルカディアは途端に表情を暗くさせる。
そして、忌々し気にこう言った。
「余はもう姫ではない。すでに皇帝となった。お前も知っていよう?」
確かに、ヴァルジは帝国の民からその事については聞いていた。しかし、皇帝と言うには少女はあまりにも幼く、それゆえヴァルジは彼女に相応しい別の言葉を思い浮かべた。
「では、間を取って『姫皇帝』というのはどうですかな?」
「『姫皇帝』・・・?」
その単語に、アルカディアは顔を顰める。
「なんじゃ、それは・・・?聞いたこともない。お前の国にはそのような位があるのか?」
「いえ、今作りました」
「適当か!」
アルカディアは思わず出た自分の突っ込みが可笑しかったのか、小さく声を出して笑った。
ヴァルジもまたその光景を見ながら、満足気に微笑む。
「よい・・・!ならば、今日から余は『姫皇帝』じゃ・・・!お前もそう呼ぶがよい」
「はい。畏まりました、姫様」
「姫皇帝と呼べ!」
その叫びに、今度は2人して笑った。
そしてこの時より、アルカディアにとって『姫皇帝』という言葉は笑顔になるための魔法の言葉となる。それは決して忘れる事のない大切な思い出とともに。
そして、ヴァルジは誓う。この少女の笑顔を決して絶やさない事を。
それは、例えゼロを掛け合わせたとしてもなくなることはない確固たる決意。彼は今まで自分の信念を『義を捨て、武を極めて、勇を見ず』としていた。
誰にも仕えず、名誉を望まず、ただ無限の強さを探求することにのみ専念する。そうやって生きてきた。
しかし、それもすぐに変わるだろう。
なぜなら彼は、出会うべくして出会った君主に仕える事になったのだから。
そして時は流れ、成長した少女は相も変わらず皇帝としての職務に追われていた。
「ぬわーーーーーー!終わらぬ!終わらぬぞ!」
アルカディアにとって、日々の書類整理などはもはや造作もない事である。にも関わらずこのような声を上げているのは、別の仕事ができたためだ。
それはアルカディアが提唱した帝国と王国の間における『永世友好条約』の中身についてであった。普通ならば、二国の首脳陣が集まり時間を掛けて作り上げていくのだが、ティリオンがその全てをアルカディアに押し付けたのだ。お前一人でやってみろ、と。
当然、最終的には王国側の人間も目を通すことになる。つまりは「誠意を見せてみろ」という事であった。
この条約の難しい点は自国の利益を考えつつ、王国の利益も考えなければならない事である。通常行う業務と異なる作業に、アルカディアはここ最近睡眠時間を削って当たっていた。
ちらり、とアルカディアは寝台を見る。今ならば、そしてあの寝台ならば一瞬で眠れる気がした。
アルカディアの部屋にある家具は、その全てが今や豪華な物に一新されている。
それらはシャルメティエとチヅリツカが、王国と帝国の友好関係を祝して送ってきた物であった。しかしそれは口実で、本当はアルカディアの危機に気付けなかった自責の念に堪えかねて送ってきた物である。
その事に関しては彼女も気付いていたが、友人からの初めての贈り物ということもあって素直に受け取った。ちなみに、アルカディアの部屋の状況については、「何かできないでしょうか!?」と聞いてきた2人にグレンが教えたのだ。
「ふふんっ」
上機嫌な声を上げ、アルカディアはベッドから視線を外す。
そして、執事を呼んだ。
「爺!」
すると扉を開け、ヴァルジが姿を現す。
その手には高級な紅茶道具が持たれていた。これも友人から送られてきた物である。
「なんでしょうか、姫様?」
「姫ではない、姫皇帝と呼べ!」
言われながらもヴァルジはアルカディアのもとまで歩いていき、ゆったりとした動作でカップに紅茶を注ぐ。
「お疲れのようですな。少し休憩でもなさったらどうです?」
「無論そのつもりじゃ。そのためにお前を呼んだ。少し話相手になれ」
アルカディアに紅茶を手渡すと、ヴァルジは自分の分も別のカップに注ぐ。
そして2人同時に紅茶を啜った。
「美味いな」
「そうでございますな」
この紅茶の茶葉も送られてきた物であった。もはや至れり尽くせりである。
「それで姫様、何をお話しましょう?」
「姫皇帝――あちちっ!飲んでいる最中に申すでない!」
当然狙っていたため、ヴァルジは「ほっほっほ」と笑い声を上げた。悔しそうな顔をしながら、アルカディアは口元を拭い、そして話を始める。
「実は聞きたい事があったのじゃ。ずっと気になっておったんじゃが、お前とグレン殿、どちらが強いのじゃ?」
「それはグレン殿でしょうな」
アルカディアの唐突な質問に対して、ヴァルジは即座に答えてみせる。
これは適当に答えた訳でなく、常日頃からそう考えていたためであった。
「あの方は別格。実際に拳を交えずともよく分かります。と言うか、私には夜の城壁を登ってこの部屋まで辿り着くなんて芸当はできないですからな」
「そうか・・・」
あの夜見せたヴァルジの強さに衝撃を受けただけあって、アルカディアはその言葉に少しばかり気を沈める。彼女としても娘の立場で、ヴァルジが最強であって欲しいと思い始めていたのだ。
「ならば、戦ってみたいとは思うか?」
「とんでもない。私はそこまで愚かではありませんよ」
この言葉に、アルカディアは首を傾げた。
「なぜじゃ?ヴォアグニック武国の者は、強者と戦う事を好むのじゃろう?」
ヴァルジは紅茶を一口飲んでから答える。
「確かにそうです。ですが、正確には『強者と戦って勝つことを好む』といったところですな。負けると分かっている程の相手には、勝負を挑む事などしませんよ。たまに頭の働かない若者が、そういった事をしますがね」
アルカディアは、ふむふむ、と頷いた。
「なるほどのう。という事は、武国も王国に対してそういった認識を持っているということか」
強者と戦う事を目的として王国に戦争を挑んできた武国が、なぜに最近は大人しいのか。その事についても不思議に思っていたため、アルカディアは納得したように紅茶を啜る。
「そうでございますな。おそらく武国の王達もグレン殿には絶対に勝てないと思ったのでしょう。賢明な判断と言えます」
武国が王国ではなくグレンを恐れている。ヴァルジの言葉はひどく荒唐無稽なものに思えたが、それはグレンを知らない者が聞いたらの話だ。
アルカディアは溜め息を吐くと、
「やはり欲しいのう・・・。あの者の血筋は・・・」
と言った。
その言葉に父親として危機感を感じたヴァルジは、すぐさま話を変える。
「ところで姫様、お仕事の方はよろしいので?少し長く休憩しすぎではないですかな?」
「ぐっ・・・!」
もうそろそろ言われる頃だと思っていたアルカディアであったが、実際に言われるとやはり受け入れがたい現実であると思った。
「むう・・・。もう少し休ませてくれてもよいではないか・・・」
「駄目でございます。ティリオン国王陛下からも多大なご支援をいただいているのですよ。それに報いなければいけません」
アルカディアの提唱した『永世友好条約』について、ティリオンはすぐさま受け入れる意向を発表し、既存の平和条約を撤廃していた。
加えて、王国から帝国に対し毎年1億レイズの支援金を貸し付けることを約束してくれたのだ。これは帝国の通貨に換算すると、以前までの国家予算の5倍に当たる金額である。
しかもそれが無利子無担保、さらには無期限で貸与されるという話であった。もはや譲渡と言っても過言ではない。
この条件に対しては、さすがに王国の大臣からも「好待遇すぎではないか」との声が上がったが、それに対してティリオンは、
『一番乗りには褒美をやらねえとな』
と笑ったのだと言う。
彼の厚意は有り難く、アルカディアも最初の頃はやる気しかなかったのだが、疲労のせいで偶に怠けたくなる時があった。
「はあ~、嫌じゃ。爺が余を虐める~」
ぐだっと机に突っ伏したアルカディアに向かって、ヴァルジは微笑むだけであった。こういう場合は、何も話さない方がやる気を取り戻させやすいと知っているからだ。
そんな沈黙の中、扉を叩く音が響く。
「誰じゃ?入れ」
机に突っ伏したままのアルカディアが、扉の向こうにいる人物に声を掛けた。
「失礼します、姉上」
そして、ソーマが部屋の中に入ってくる。最愛の弟の登場ではあったが、アルカディアは引きつった顔をしていた。
と言うのも、ソーマの後ろに仕える執政官の手に大量の書類が乗っていたからだ。
先の事件において、アルカディアが起こした変化は王国との関係だけではない。帝国の執政官や兵士達が、国の危機を救った彼女に対して恩義を感じるという事態にもなっていた。
まだあまり会話をするような仲ではないが、今回のように皇帝の私室に顔を出すようにはなっている。当然、それはアルカディアにとっても好ましい話ではあったのだが、長い間国の運営をアルカディア1人に任せっきりにしていたせいで、使える人材が少ないという事が新たな問題点として挙がっていた。
そして、その結果が大量の未処理の書類である。
「なんじゃ、それは・・・?」
「今日発生した案件に関する書類です。王国の兵士による不法入国者の掃討結果とその後の対応について書かれています。あとこれは、魔法道具開発の予算についてですね」
帝国と王国はすでに軍事的にも協力関係にあった。そのため、帝国内部に巣食う不法入国者たちを退治するべく、王国から多くの兵士が帝国に入り込んで活動をしている。
そのおかげで生活用品となる魔法道具を開発する余裕ができたのであったが、当然必要な手続きも多くなっていた。
その現状に対する不満が、アルカディアの体をわなわなと震わせる。
「どいつもこいつも・・・寄ってたかって余を虐めるつもりじゃな・・・!」
皇帝の口から愚痴が零れ落ちた事で、誰もが彼女の怒りを予想した。けれどもその瞳に灯る炎は種類が異なり、勢いよく立ち上がった姿も勇ましく見える。
そして、ルクルティア帝国最高権力者であるアルカディアは、国中に聞こえるような大声で宣言をしてみせた。
「見ておれよ、貴様ら!そしてフォートレス王国よ!余は絶対に!この国を素晴らしいものにしてみせるからな!」
その言葉に手の空いている者は、「おお・・・!」と感嘆の声を漏らしながら大きな拍手を送る。
そしてその意気込みが幸いしたのか、アルカディアは長い年月を費やして帝国を大きく発展させていくこととなる。それは帝国史上最大の栄華を誇り、すでに皇帝はソーマに代替わりしていたが、彼女の名前を世界中に轟かせる程のものであった。
故にその遠い未来、人々は帝国をしてこう呼ぶこととなる。
豊穣と幸福の住まう大地――『理想郷』と。




