2-10 作戦
ティリオンとの会見が終わり、グレン達は玉座の間を後にする。
扉が閉まりきると、緊張の糸が解けたエクセが小さく一息ついた。
「お疲れさま~、エクセちゃん~」
何故か分からないが、そこにはポポルもついて来ていた。
「む、なんじゃ?この子供は?」
先ほどの場に彼女がいたことに気付いていなかったのか、その姿を見たアルカディアが疑問の声を上げる。言葉に含まれた子供という表現は不適切なものではあったが、ポポルの外見では仕方ないと言えた。
「やだ~、子供だなんて~。これでも~、アルちゃんより~ず~~っと年上なのよ~」
「ア、アルちゃん・・・?」
仮にも一国の主に対して、ポポルはそのような呼称を披露する。
これは別にアルカディアを侮っているのではなく、単に彼女がそういう性分であるための行動であった。かと言って、それが許されるという話ではないのだが。
「ウェスキス殿、その呼び方は失礼かと・・・」
そのため、グレンが苦言を呈す。
自身も先刻ティリオンに無礼を働いたばかりだったため言える立場ではなかったが、この場では彼くらいしか注意できる者がいなかったのだ。
「いや、構わぬぞ。『アルちゃん』などと呼ばれたことはないのでな。新鮮じゃ。――して、そなたの名は?」
わ~い、と喜ぶポポルに、アルカディアが尋ねる。
「私は~フォートレス~王国~魔法~研究会~会長の~ポポル~ヴィレッド~ウェスキスよ~。ポポルちゃん~って~呼んで~」
ポポルは台詞をわざと細かく区切って自己紹介をした。この人はまたそういう悪戯心を、とグレンは少しだけ顔を顰める。
「なるほど。では、ウェスキス殿と呼ばせてもらおう。グレン殿も、先程そう呼んでいたことだしのう」
相手の悪戯に気付いたアルカディアは、爽やかな笑顔を浮かべながらその要望を無視した。
それに対し、ポポルは不満気に頬を膨らませる。
「ウェスキス殿、そういう反応をすると余計子供と見間違われますよ・・・」
グレンの更なる苦言には、より大きく頬を膨らませた。その様子を見ながらも、アルカディアはポポルに対する第一印象を改める。
「信じられぬが、グレン殿の口ぶりからすると、余より年を重ねているというのは真実のようじゃの・・・」
言いながら、ポポルをじっと見つめる。先日同じような体験をしたエクセは、反射的にグレンの背中に隠れてしまっていた。
「な~に~?そんなに~じろじろ見ちゃって~」
そう聞かれるが、アルカディアは答えず考える。
目の前にいる女性の外見ははっきり言って子供に近い、と。
(アルベルト殿やエクセは年齢の割に若く見えたり、成熟したりしていた。しかし、この者は・・・なんと言うか、若いとは違う・・・そう、幼いと言うべきか・・・。だが、これは王国の大地がもたらした恵みと言って良いのか・・・?それとは逆の作用なのではないのか・・・?)
王国に対する評価が日に日に高まっていくアルカディアであったが、まさかここに来てそれに下方修正を加えるような人物に出会うとは、と戸惑っていた。
「ねえねえ~、アルちゃん~どうしたの~?」
「ああ・・・すまぬな。余よりも年上という割には、随分若々しく見えると思っての」
その場を誤魔化すため、とりあえずの世辞を言っておく。
「や~~~ん。帝国の皇帝様は~お世辞がお上手ね~~」
咄嗟の対応ではあったが、満面の笑みで喜んでくれたので良しとした。そしてそれで気分を良くしたのか、ポポルは言葉を続ける。
「うちの王様なんて~、この前娘と歩いていたらね~。『さすがに本物の娘の方が若々しいな』って~言ってくるのよ~。失礼しちゃうわ~」
国王の悪口を王城内で平然と口にするポポルに対し、アルカディアは素直に驚く。それと同時に『王国魔法研究会会長』という役職がそれほどの地位であるというのを理解した。
「あの・・・ポポル様」
「ん~?」
先程まで口を開かなかったエクセであったが、ポポルの娘――正確には義娘であるリィスの話題が出たことで会話に加わってきた。もはや姿は隠していない。
「リィスさんは、今どうしているのでしょうか?」
2人は最後に勇士管理局で集まって以来、顔を合わせてはいなかった。
これはエクセがグレンのことばかり考えていたせいであるが、リィスの方からも彼女に会いに来ることがなかったからである。
「リィスちゃん~?あの子はね~今~猛勉強中なのよ~」
「勉強、ですか?」
リィスはフォートレス王国の出身ではない。
もとはアンバット国の奴隷であり、それをグレンとエクセが保護し、ポポルが引き取っていた。そのためグレン以上に教養がなく、王国で支障なく暮らすためにヴィレッド家の屋敷に引きこもって色々と学んでいるのだ。
「そうよ~。もう~一日中ず~~~~~っと勉強~」
「それは、少し酷なのでは?」
自分がその状況に置かれたらと考え、げんなりしたグレンが問う。その批判を受け、ポポルは勢いよく首を横に振る。
「でも~、リィスちゃんが~自分でそうしたいって~言うんだもの~。私だって~構ってほしいんだからね~」
どうやら、リィスの今の状況は彼女自身が望んだものであるようだ。
それを聞いたグレンは、
(これはすぐに追い抜かれるな・・・)
と思うのであった。
「それで~もう少ししたら~、聖マールーン学院に~入れようと思うの~」
「ええ!それは本当ですか!?」
リィスと学年は違えど、同じ学院に通うことになると聞き、エクセは喜びの声を上げる。
「本当よ~。楽しみに待っててね~」
ポポルも嬉しそうにそう言うのであった。
「ふむ、そのリィスというのはエクセの友人か?」
聞き覚えのない人物に関する会話についていけず、置いてけぼりを食らっていたアルカディアが尋ねる。それは異国の王を無視していたという事であり、エクセがすぐに頭を下げた。
「あ!申し訳ございません、アルカディア様!つい話に夢中になってしまって!」
「よいのじゃ、エクセ。余には誰か分からぬが、そのリィスという者はそなたにとって大事な友人なのじゃろう?ならば、その現状が気になるのは仕方のないことじゃ」
自分にそういった者はいない、と心の中で自嘲しながら言った。
(いや、今はシャルメティエやチヅリツカがいるか・・・。しかし、それも何か違うような気が・・・)
アルカディアは、自分にない物を持つエクセを少しだけ羨ましく思う。
「今からその者に会ってみてはどうじゃ、エクセ?余はこれからヴァルジやグレン殿と共にこの街を見て回るが、何もそれに付き合う必要はないじゃろう?」
そのため語られたこの台詞は、気遣い半分打算半分で言った。グレンと仲が良いエクセがいては、作戦を遂行するのに邪魔になる可能性が高いと考えたのだ。
「あら~それは良い考えかも~。リィスちゃんの~良い息抜きになるわ~」
ポポルもその意見に賛同する。
「そうですね・・・」
言われたエクセは逡巡した。先程まではグレンと行動を共にしようと考えていたが、リィスにも会ってみたくなっていた。
「エクセ君、行ってくるといい」
悩む少女にグレンが言う。
その言葉に背中を押されたのか、エクセは「はい!」と力強く返事をした。
「それじゃあ~、行くとしましょうか~」
エクセとポポルは別れの挨拶をすると、すぐにヴィレッド家の屋敷へと向かって行く。2人が去るのを見届けた後、アルカディアがグレンに声を掛けた。
「ではグレン殿、我らも行くとしようか」
「分かりました。それでは、どちらに向かうとしましょうか?」
「それはそなたが決めてくれねば。我らがこの街のことを知っているわけがなかろう」
それもそうだ、とグレンは王都ナクーリアでアルカディアとヴァルジを連れていけるような場所を思い出そうとした。しかし玉座の間でティリオンが言っていた通り、この街にはあまり観光するような場所はない。
しばらく考えたが良い案が浮かばなかったため、グレンは自分がよく利用する場所に2人を連れて行くことにしたのだった。
グレンがアルカディアとヴァルジを連れて訪れた場所、そこは勇士管理局であった。
勇士という仕事はフォートレス王国のみに存在するものであるため、帝国の人間には馴染みがない。そのため目新しいものがあると思い、2人をここまで連れて来ていた。
「なるほどのう。グレン殿は今、その勇士とやらになっているのか」
勇士について軽く説明を受け、アルカディアが呟く。
「はい。グレン君は大変優秀な勇士でして、私たちも非常に助かっております」
今、アルカディアと会話をしているのは勇士管理局局長のオーバルである。
いきなりのルクルティア帝国皇帝の登場に面食らっていたが、さすが局長という椅子に座っているだけあって、その後の対応は迅速かつ丁寧なものであった。
皇帝一行を待合室ではなく局長室にまで案内すると、来客用の上質な長椅子にアルカディアのみを座らせ、そしてすぐに受付嬢のメーアに紅茶と茶菓子を用意させて提供している。
アルカディアが喜々として食したため、机の上には空になった食器だけが残っていた。
ヴァルジにも同様の物が出されたが丁重に断っており、それらは代わりにグレンが受け取っている。思わぬところで甘味を口にすることができたが、彼は何故かあまり美味しいとは感じなかった。
「なるほど。ヴァルジ殿はそれまで世界中を旅していたんですね」
そんな彼が、理解したと呟く。
アルカディアとオーバルの会話の邪魔にならないよう、グレンは離れた位置でヴァルジと立ち話をしていた。今は、老人が主に仕えるまでを掻い摘んで説明してもらった所である。
「そうでございます。陛下と出会うまでの30年間、大陸中を旅してきました」
フォートレス王国が存在する大陸には、王国に隣接する国以外も当然ながら存在する。ルクルティア帝国が最北端の国である、ということくらいしか、大陸の特徴についてグレンは知らないが。
「どうしてそのような旅を?」
「武者修行というやつです。武国の人間は兎角そういったことが好きなんですよ。そのせいで王国にご迷惑をお掛けしていたようですが」
この言い方から察するに、ヴァルジは王国との戦争に加わったことがないようであった。
「それで30年も・・・。さぞや鍛錬に励まれたことでしょう」
グレンの称賛に、老人は苦笑いを浮かべる。それは正に人生経験から滲み出る感情であり、自分にはできないなと彼は思った。
「確かに、あの30年は苦難の連続でしたな。ああ、そう言えば、エルフの森に迷い込んだこともありましたか。あの時は、侵入者として殺されそうになりましたよ」
エルフという言葉を聞き、グレンは多少なりとも興味を示す。
これまで彼は、エルフ族という種族について知識でしか聞いたことがなかった。人間に似ており、長寿だとか耳が尖っているとか言われるが、実際に出会ったことのある人間を見たことすらない。
しかし目の前にいる老人は、その希少な経験をした人物のようであった。
「エルフに会ったことがあるとは、すごいですね・・・」
ヴァルジも自慢をするために言ったため、満足気な笑みを浮かべる。
「そのエルフの森というのは、どこにあるんですか?」
「申し訳ありません、グレン殿。エルフの友人から、それは秘密にしておいてくれと言われておりまして」
なんと、エルフに友人までいるということであった。
「いえ、そういう事ならば仕方ありません。しかし、本当に色々な場所を旅していたんですね。私も勇士として各地を回っていますが、ヴァルジ殿には敵いませんよ」
「年の功というやつですよ。なんでしたら、グレン殿も一度旅に出てみてはどうですか?エルフに会えるかも知れませんぞ」
ヴァルジの提案について、グレンは考える。
もし自分が長い旅に出ると決めたら、他の者は何と言うだろうか。
一番最初に思い浮かんだのはエクセであった。おそらく、やめてくれと懇願されるだろう。
そのためグレンは、その可能性を頭の中から排除する。
「考えておきます」
とりあえず、ヴァルジにはそう言っておいた。
「そうですか。まあ、無理にとは言いません。ただ、世界を見て回るというのはとても刺激があり、楽しい事だとは言っておきますが」
そう言われ、グレンの中にある疑問が生まれる。
「では何故、ヴァルジ殿は皇帝陛下の執事になったんですか?」
聞かれたヴァルジは顎に手を当て、考える。頭の中を整理しているのか、短くない時間が流れた。
そして優しく微笑むと、
「そうですな・・・。呼ばれたから・・・ですかな」
と言った。
何やら意味深な一言であったがグレンに理解できるはずもなく、またそう言うということは明言したくないという事でもあるため、深く追究はしない。
「爺、こちらに参れ」
そんな時、ふいにアルカディアが老人を呼んだ。
まさかこういう風に呼ばれたから執事になったわけではないだろうな、とグレンは考えるが、それは自分で否定する。そんな彼に頭を下げて、ヴァルジは主のもとまで向かって行った。
「なんでしょうか、陛下?」
「少し耳を貸せ」
言われたヴァルジはアルカディアの口元まで耳を近づける。その光景を、グレンとオーバルは不思議そうに見つめていた。
「作戦決行の時じゃ」
執事に向かって、ぼそっと呟く。おそらくいつまでも行動を起こせない状況に、痺れを切らせたのだろう。
ヴァルジは仕方ないといった感じに頷いた。
「了解しました、陛下。では、少し席を外させていただきます」
それはグレン達にも聞こえるような大きさで語られる。
無論、聞かせるためである。
「どうかなさいましたかな、陛下?何かご入用ならばこちらでご用意いたしますが」
何か必要なものが生じたのだろうと思い、オーバルが聞いた。それに対し、アルカディアは頭を振る。
「いや、気にするでない。少し用事を思い出しただけじゃ」
皇帝の言葉にオーバルが「そうですか」と返すと、ヴァルジがグレンのもとまで行った。
「そういう訳でして、グレン殿。お話はここまでという事にさせていただきます。ありがとうございました」
ヴァルジに頭を下げられ、グレンも軽く頭を下げる。
「いえ、こちらこそ。有意義な時間でした」
そして互いに顔を上げると、老人がアルカディアの方へと視線を移した。
「少しの間ですが、陛下のことを頼みます。とは言っても、陛下もあれで中々に腕が立ちますので、心配無用だとは思いますが」
「ほう・・・皇帝陛下も何か武術を?」
「私と同じ格闘術を身に付けております。出会って以来、時間を見つけては護身のためにと教授してきました」
ティリオン国王も剣の腕が立つが、まさか女性であるアルカディアも皇帝という身分でありながら戦闘技能を持っているとは、とグレンは驚いた。
「ですので、助けを求められたらで構いません。陛下をお守りください」
「分かりました」
ヴァルジの要求に、グレンは快く頷く。
それを合図に執事は再び彼に向かって頭を下げ、最後に部屋にいる者全員に一礼をすると退出して行った。
(頼んだぞ、爺!)
扉の閉まる音を聞きながら、アルカディアは己の執事に心の中で声を掛ける。アルカディアの作戦は、ヴァルジが中核をなしているといっても過言ではなかったのだ。
ルクルティア帝国皇帝がフォートレス王国の英雄を篭絡するために考えた作戦、その名を『雄誘惑大作戦』と言った。そのまんまな名前にヴァルジも溜め息がこぼれたが、その全容はこうだ。
まず、グレンと共に行動をする。それは現状達成されていた。
けれども、ここからが本番である。
グレンとともに王都を歩くアルカディア。そこになんと――ヴァルジ扮する――他国からの刺客が現れたではないか。
突然命の危機にさらされるアルカディア。抵抗しよう考えるが、相手はただ者ではない。
そこでアルカディアは慌ててグレンに助けを求める。先程のヴァルジの発言は、これを意識してのものであった。
そして、彼女の危機をグレンが難なく救う。
命を救ってくれたことに深く感謝したアルカディアは礼がしたいとグレンを帝国へと招待することに。そして数日を共に過ごしながら、その美貌で彼を魅了していく。
見事、王国の英雄グレンは帝国に住み付くことになりましたとさ。
つまり、先ほど出て行ったヴァルジは刺客として登場するために準備をしに行ったのだ。そのままの姿で現れてはグレンに気付かれてしまうため、当然の支度である。
事前に作戦の説明を受けた後、グレンと相対することに危険性を感じたヴァルジであったが、そこはぎりぎりの所でアルカディアが止めに入る算段になっていた。しかしいざ作戦決行の段階になると、老人の心の中には秘かに闘志が芽生えていたりもする。
「グレン殿、そろそろ別の場所へ向かうとしようか」
ヴァルジの準備に掛かる時間が十分に経ったと思われる頃合いを見計らって、アルカディアはそう切り出した。
「分かりました」
とは言ったものの、他に行く当てのないグレンは行き先について思案してしまう。そんな彼に、アルカディアは呆れてしまった。
「そなたは、本当にこの都に住んでおるのか・・・?」
「申し訳ありません。何分、家とここ、あとは王城や飲食店くらいしか行かないもので」
しかし、そこでグレンは思い出す。
「ああ、そう言えば。聖マールーン学院にも行ったことがあります」
「もうそこで良い・・・行くぞ」
アルカディアにとって、学院に訪れるということは初めてのことであるため、普段の彼女ならば喜び勇んで向かったことだろう。
しかし、今は目的地などどこでもよかったのだ。肝心なのは、帝国の皇帝が襲われるような場所に移動することなのだから。
勇士管理局の玄関でオーバルとメーアに見送られた後、グレンとアルカディアは2人きりで街を歩いていた。
(何気に、爺やソーマ以外の男と2人きりになるのは初めてじゃな・・・)
隣を歩くグレンを恐る恐る見る。
今いる場所は人通りが多く、作戦を決行するには不向きであるため、人気の少ない場所を探すつもりなのだが、そこでいきなり彼に襲われないかアルカディアは心配になっていた。
(その時は作戦を中止して、爺に助けてもらおう・・・)
ヴァルジには合図を出すまで隠れて尾行するよう伝えてある。それでも内心冷や冷やしながら歩き続けると、ほとんど人のいない通りに出た。
そこは王都ナクーリアにしては珍しく、本当に人っ子一人いなかった。グレンはその光景に違和感を覚えたが、アルカディアは今が作戦決行の時と勇む。
そして、ヴァルジに合図を出すべく動き出そうとした。
「ん・・・?」
しかしその瞬間、やや離れた家の陰から1つの人影が通りに飛び出してくる。その人物は全身を黒装束で覆っており、顔だけでなく素肌を一切露出させていなかった。
そして間髪を入れず、通りに飛び出したそのままの勢いで、アルカディアとグレンに向かって迫って来る。
(まだ合図を出しておらんじゃろうが!)
勇み足で飛び出してきたヴァルジに、アルカディアは堪らず心の中で悪態を吐く。作戦開始の合図を出すまでに心の準備を済ませようと考えていたため、少しばかり動揺していた。
しかし、始まってしまったものは仕方がない。アルカディアは刺客として向かってくるヴァルジに対して悲鳴を上げ、グレンに助けを求めようとした。
「グレ――!」
その時である。彼女に向かって、警告が飛んできたのは。
「お逃げください、陛下!!」
「――へ?」
始めはグレンに言われたものだと思った。しかし、その声はどう考えても聞き馴染みのある人物のもの。
そう、それはヴァルジの声であったのだ。
(どういうことじゃ!?)
困惑したアルカディアは視線を巡らせる。
そして黒装束の刺客が飛び出してきた所から、這いつくばりつつ上半身だけを出してこちらに顔を向ける執事の姿を捉えた。
(あれ・・・?爺があそこにいるということは・・・こちらに向かって来るあの者は・・・?)
「他国の暗殺者です!!」
アルカディアの心の中での疑問にヴァルジが答える。その言葉に驚愕した彼女は、すでに近くまで迫っていた暗殺者の手に握られた短刀が怪しく光るのを見た。
それはどう考えても人を殺すためのものであり、もっと正確に言えば――。
(やはり狙いは余か!?)
もはや避けることのできない位置に暗殺者はいた。
そして、走ってきたそのままの勢いで、暗殺者の持つ短刀がアルカディアに突き立てられる。低い姿勢から両手で押し込まれたそれは、鈍い音を立ててアルカディアの腹部に深々と突き刺さ――らなかった。
「――!!」
驚愕する暗殺者。
アルカディアの着用している礼服はどう見ても布でできたもの。それを鋭く磨いた短刀で貫くことができていない。
つまりこの礼服は魔法道具か、そう暗殺者は瞬時に察する。続いて作戦失敗と判断し、即座に撤退しようとした。
しかしその右腕を、アルカディアの左手ががっちりと掴む。
「こんな所にも湧いてきよるか、ウジ虫めが・・・・・!」
不届き者を見下ろすアルカディアの目は冷たい。
直視したわけではないが、暗殺者は背筋が凍ったような感覚を味わった。そのため、必死になって彼女の左手を振りほどこうとする。
すると今度は、アルカディアの全身が闇色の炎に包まれ始めた。
「――!!?」
度重なる驚愕の事態に暗殺者は混乱する。
その炎は決して熱くはないが、それでも異常な現象であることには変わりなかった。
先程よりも力を込めて手を振りほどこうとするが、握られた手の力はどんどん増すばかりで、一向に放す気配がない。
こうなったら、と短刀を左手に持ち替えて、アルカディアの左手首に突き刺した。
「――!!!?」
暗殺者は三度驚愕する。
自身が振り下ろした短刀は確実にアルカディアの左手首に突き立てられていた。しかし薄皮一枚貫くことなく、その刃を受け止められてしまっている。
三度目の異常事態に、暗殺者は完全に思考を停止させてしまった。
呆然として見つめる視界の中、全身を包む黒炎が消えていくと、現れたのは黒い礼服を纏ったアルカディアであった。
しかし、先程のまでのものとは明らかに違う。その礼服は布ではなく、薄い金属でできていた。言うなれば、礼服鎧と言ったところか。
「散れ」
礼服鎧を着たアルカディアはそう言い放つと、暗殺者の顎めがけ右拳を突き上げる。通りに響き渡るほどの打撃音が聞こえ、決して小さくない体が宙に浮かんだ。
すでに暗殺者の意識は途絶えていたが、アルカディアは追撃の手を緩めない。すらりと伸びた足を、天高く振り上げる。
礼服がずれ、生足を晒すその姿は艶やかでもあったが、続く一撃にその気も失せることだろう。上げ切られた足は猛烈な速度を伴って、無防備な暗殺者の肩へと振り下ろされた。
骨の砕ける音が響き、続いて体が激しく地面に叩きつけられる。
「ふんっ」
忌々し気に、アルカディアはそれを見下ろした。
死体ではないが、もはや僅かにも動かない。
「お見事です、皇帝陛下」
事の始終を見届けたグレンが彼女に向かって賛辞を贈る。そんな彼を、アルカディアは鋭く睨み付けた。
彼女の機嫌は今、非常に悪い。
暗殺者に襲われたからではない。自身が装備する魔法道具の性能を、あろうことか王国の英雄に見られてしまったからだ。
これはつまり親善大使であるアルカディアが武装していることが露見してしまったという事であり、加えて帝国の機密が漏れたという事でもある。
彼女が着ている黒い礼服鎧――これこそが帝国が保有するものの中で最上位の魔法道具であった。
帝国の皇族に代々受け継がれる魔法道具であるそれは、名を『聖庭』と言う。
八王神話の『慈愛の女神イコアス』によって作られたと言われる一品で、能力は装備者の完全なる保護。物理、魔法を問わずあらゆる攻撃を防ぐその防御性能は圧倒的であり、『聖庭』を発動したアルカディアを魔法で傷つけられる者は1人としておらず、物理であっても『紅蓮の戦鎧』を身に着けたグレンでやっとという程である。また、同時に身体能力の向上ももたらした。
『聖庭』も『紅蓮の戦鎧』同様、能力の発動に条件がある。それは『装備者が致命的な攻撃を受ける』ということであった。
先程も暗殺者の一刺しが引き金になり、『聖庭』はその真の姿を現している。
しかし、アルカディアは傷一つ負ってはいない。これは『聖庭』の能力ではなく、別の魔法道具の効果であった。
彼女の左手中指にはめられている指輪の宝石には今、ひびが入っている。この指輪は『聖域への一指』と名づけられた魔法道具であり、その能力が『一日に一回だけ装備者への致命的な損傷を無効化する』というものであったのだ。
ひび割れた状態になっていたのは、先ほど暗殺者の攻撃を受けたことでその能力を発動させたせいであり、翌日には元通りになっている。
あまりにも『聖庭』と相性の良い魔法道具であるそれは、そのものずばり『聖庭』と同時に身に着けるために作られたものである。
『聖庭』は発動に装備者が致命的な攻撃を受けなければならないが、その傷を癒すような効果を持ってはいない。そのため急いで治癒しなければ装備者が絶命する可能性が高く、そうそう戦場で使えるものではなかったのだ。
そこで作られたのが致命的損傷を無効化する『聖域への一指』である。傷つかなくても攻撃さえ受ければ『聖庭』は発動するため、まさに打って付けと言ってよかった。
この開発にはルクルティア帝国の開発力の粋と長い年月が費やされており、数年前にようやく完成に至っている。
最高機密と言えるそれら2つを同時に装備するのは今回が初めてであり、まさかその滅多にない機会に情報を漏洩させることになるとは思いもしていなかったため、アルカディアは苛立っていた。
「王国の英雄ともあろう者が・・・なぜ見ているだけなのじゃ・・・!?他国の者の命なぞ、どうでもよいのか・・・!?」
そのため、その感情が言葉に現れてしまっていた。
言われたグレンは怯んだ様子もなく、淡々とそれに答える。
「いえ。助けを求められなかったので、陛下御自身で撃退するのかと。ヴァルジ殿にもそう言われていたもので」
(爺・・・!)
勇士管理局でのヴァルジの言葉が望まぬ結果を生んでしまった。本来ならば即座にグレンに助けを求める手筈だったのだが、本物の暗殺者の登場に面食らってしまい、それを忘れてしまっていたのも原因の1つである。
「しかし!それでも、助けるのが護衛の務めじゃろうが!」
それでもアルカディアはグレンを叱責した。
自分の非を認めたくないのではなく、単純に八つ当たりである。
「申し訳ありません。皇帝陛下の装備ならば、撃退も容易いかと思いまして」
その言葉にアルカディアは、はたと思い出した。
「そう言えばおぬし、余と初めて会った時もそのような事を言っていたな。何故じゃ?何故、余が魔法道具を装備していると分かった?」
これにグレンは言い辛そうに答える。
「私は・・・他人の装備を見ることが好きでして・・・。色々見てきたせいか、それが魔法道具かどうか、何となく分かるようになったんです・・・」
彼の言葉に、アルカディアは驚愕した。
あの時は半信半疑であったが、どうやら王国の英雄は鑑定眼も持っているようだ。それはつまり、自身の武装が初めから見抜かれていたということであった。
では何故、これまでそれを指摘しなかったのか。そのような疑問を抱くが、分析している時間はないようであった。
「それよりも、ヴァルジ殿はよろしいので?」
「はっ!そうじゃ、爺!」
警告をしてくれたヴァルジを見ると、先程と同様の位置に倒れ伏していた。もしかしたら暗殺者による襲撃を受けたのかもしれないと、急いで執事のもとまで走っていく。
その間に『聖庭』は元の黒い礼服に戻っていった。
「大丈夫か、爺!?」
倒れ伏したヴァルジを、アルカディアは抱きかかえる。
「申し訳ありません、陛下・・・。陛下を探している最中に・・・賊に襲われまして・・・」
出血はしていないが、深手を負っているのかヴァルジは苦しそうに話した。
「余を探しておった?何か大事が起こったのか?」
ヴァルジには刺客として登場してもらう手筈であったため1人にさせたのだ。しかし、何やら問題が起こったようであった。
「あ、いえ・・・賊の存在を・・・伝えようかと・・・」
要領を得ないヴァルジの言葉に、アルカディアは怪訝な顔つきになる。
しかし、もしかしたら頭を殴られ、思考が正常にできないのかも知れなかった。これは急いで治療せねばと、彼女はグレンに声を掛ける。
「グレン殿、爺の治療をしたい!運ぶのを手伝ってくれ!」
アルカディアのもとまで向かっていたグレンは頷くと、小走りで近付いてきた。そして、ヴァルジを軽々と持ち上げると、王城へと向かって走り出す。




