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結局、怪しまれない様に別々に家を出たのだが、遅れて来たと言う事だけで、怪しまれるには十分だった。
教室に着くと、早速後ろから呼び止められる。
「おっす、重役出勤か」
聞き慣れた声に振り返ると、茶髪をつんつんに立て、だらしなくシャツの裾を出している男が立っていた。
「おう、竜二」
瑞浪竜二、世に言うチャラ男と言うやつであるが、何と神様はこいつに出来のいい脳みそと、残念な思考回路を与えてしまった。こいつがチャラい格好をしているのは、ひとえに「お勉強バカ」と言われるのを防ぐ為であり、それでも学問、特に数学が楽しくて仕方が無いと言う、呆れた数学バカである。
俺とは小学生の頃からの腐れ縁だが、確かにこいつにはそう言われて苦しんでいた時期もある。だからといって、高校に入っていきなりこんな格好になるとは、当時は開いた口が塞がらなかった。
「どうしたんだ今日は? とうとうお前にも反抗期が来たのか?」
「馬鹿も休み休み言えよ。俺は思春期まっただ中だ」
「なるほど。って事は、何か女の子絡みの事で、遅刻したのか?」
うお。一瞬言葉に詰まる。やつはその一瞬を見逃さず、蛇の様なねちっこい視線で、俺の顔を覗き込んだ。
「なるほどねぇ。お前にもとうとう春が来たか」
「いや、来てねえよ」
ハルなら落ちて来たけどな。
「そうか、残念だな」
やつはそう言って、憐れむ様な目で俺の方を叩いた。ん? 俺、今かわいそうに思われたのか? 俺、かわいそうなのか? 俺が自信を失いかけていると、竜二とは反対側から、もう一つの聞き慣れた声が聴こえた。
「えー、なになに? ヤマトに春が来たの?」
少々声の大きい彼女は、こちらも俺の腐れ縁、岡谷翠だ。肩までの黒い髪を揺らしながら、並んでいる机の間をするすると抜けて、こっちへやってくる。
「全然。こいつはまだ冬に生きてやがる」
「うるせー」
「大丈夫だよ。いくら長い冬でも、絶対に春は来るから!」
本人は全く気付いていないんだろうが、翠は聞いているこっちが恥ずかしくなってくる様な言葉を、するりと言ってしまうのだ。でも、そんな言葉でいつも俺を励まそうとしてくれるし、照れてちゃいかんな、とは思うのだが。
「だめだよ翠。こいつもう手遅れかも知れない。だめかもわからんね」
「ええ? どうして?」
「もう、彼女ができなさすぎて、氷河期に突入してるよ、こいつ」
「好き勝手言いやがってコノヤロ」
「大丈夫だよ。氷河期だって、いつかは終わるんだから」
翠だけがひとり、悠久のときを生きている。
別に彼女が欲しくない訳じゃない。ただ、今朝の一件で、だいぶ疲れているのは確かだった。竜二の言った通り、女の子絡みの事での遅刻だったら、どんなに良かった事か。
ただ、俺が正直に理由を話してしまうと肩から上が無くなるらしいから、俺は嘘を吐いた。
「まあ、ちょっと朝は頭痛がしたんだ」
あながち間違いじゃない。あんなやつにいきなりあんな交換条件を持ちかけられるなんて、頭痛の種以外の何者でもない。ただ……。
「え? ヤマト大丈夫? もう頭痛は平気なの?」
ただただ心配そうな顔をして、翠が俺の顔を覗き込んでくる。これも腐れ縁のせいだろうか、あわや体の前面が接触ッ! と言う所まで体を寄せて、俺を見上げて来た。
「熱とか無い? 吐き気とか、めまいとかは?」
翠の手のひらが、俺のおでこに触れる。翠の吐息が、俺の頬に触れる……。
「だ、大丈夫だよ」
俺は少々荒っぽく、翠のパーソナルエリアから脱出した。心臓がバクバクと跳ね回り、頬が熱くなって行く。
「まあ、ちょっとした頭痛だったし、そんな心配する事は無いって」
俺がそうやって言い訳をすると、竜二はにやにやと笑って、
「顔赤いぞ。熱でもあるんじゃないか?」
等と言うのだった。
「うるせー」
俺はぶっきらぼうにそう言って、乱暴に自分の椅子を引いた。同時に、教室へ教師が入ってくる。
「じゃあね。具合悪くなったら、すぐに言うんだよ」
と、翠が声を掛けて行く。俺はぐったりと机に突っ伏しながら、首だけを縦に振った。