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張り詰めた声が、空気を震わせる。俺は呆気にとられて、だらしなく口を開いたまま、彼女を見ていた。
確かに、彼女は飛んでいた。彼女を取り囲む風の壁は、赤や茶の枯れ葉を宙へと舞い上がらせ、空へと円筒形に伸びて行く。その中を、彼女は音も無くすうっ、と昇って行った。
「どう? これでも飛べないって言うの?」
十メートルくらいの高さから、ホウキに跨がった彼女が見下ろしている。まるで風の筒の上に乗っているみたいに、ホウキはぴたりと空中に止まっている。両足を前の方に投げ出して、見ているだけで気持ち良さそうだ。自分を取り囲む風で飛んでしまわない様に、大きな三角帽子を、手で押さえている。
「おお、マジで飛べたんだな」
「だから飛べるって言ったでしょうが」
彼女は得意げにそう言い放った。けれど、この格好でこれだけ風が吹くと、どうしても見えてしまう物がある。
「それよりさ、スカート捲れてる」
「えっ?」
彼女はそう言って、咄嗟に投げ出していた足を閉じた。両手でスカートの裾を抑え、素早く俺の方を睨んできた。チェックのスカートが、まだ風の中で荒ぶっている。
「みっ、見ないでよ! あほ! すけべ!」
「見たくも無いもの見せられた、こっちの身にもなってみろ」
俺の言葉に、彼女は顔を真っ赤に茹で上げ、一瞬の間絶句した。
「しっんじらんない! 私のパ、パンツ見といて!」
自分から飛んでおいて、ひどい言い草だ。俺は何を見たとも言ってないじゃないか。
「お前が勝手に飛んだんだろ?」
「飛んでみせろって言ったじゃない!」
「飛べるんだな? って確認しただけだろ」
俺と彼女は、天と地に分かれて醜い言い争いをした。
「とにかく、魔法使いの存在を知っちゃったんだから、観念しなさい」
強引だなあ、と思ってとりあえず言い返そうとした、その時、
「あれっ? あ、あ、きゃっ!」
彼女の周りの空気の壁が、突然消えた。はためいていたスカートの裾がぴたりと落ち着き、すぐにまたはためき始める。世界がひっくり返ったのかと思う程自然に、彼女の体はぐるりと回転した。
彼女は落下していた。
彼女は確かに、天から落ちてきていた。
彼女の顔が引きつる。ホウキを握る手に、ぎゅっと力を込めた様に見えた。全身を覆う黒いマントも、紺色のチェックのスカートも、金糸の様な髪も、天へ向かう様に、舞い上がっている。
俺の体は、無意識に動き出した。地面を蹴って、落下点に先回りする。
一瞬、このまま彼女が落っこちたって良いじゃないか、と言う悪魔の囁きが聴こえた。やつは俺に何をさせようとしてるんだ? それを考えたら、お前が助ける道理なんて、どこにも無いじゃないか。
俺はそれを振り切って、一目散に足を動かした。
彼女は、恐怖の前に声もでないようだった。ただただホウキを握りしめ、目を固く瞑っている。
「ホウキを捨てろ!」
俺はそうどうなって、落下点で両手を広げた。彼女はちらりとそれを見下ろして、また固く瞼を閉じる。
俺も足に力を入れて、地面を踏みしめた。
来る!
しかし、広げた腕に感じた重さは、人間の体にしては軽すぎるものだった。とんっ、と小さな衝撃を感じて、腕の中を見る。彼女は丸くなって、俺の腕の中に着地していた。羽根の様な、と言ったら軽すぎるかも知れない。けれど、そう言ってもほぼ間違いない程、軽く感じた。
さっきまで俺と言い合っていた強気な女の子が、今、ギュッと体を丸めて、俺の腕の中にいる。
「おい、大丈夫か?」
できるだけそっと声を掛ける。彼女は、ゆっくりと体の強ばりを解いて行き、ゆらりと俺の顔を見上げた。
形の良い鼻、幼さの残る頬、赤い唇、柔らかそうな金色の髪、そして、意志の強そうな目、全てが俺の目の前に見える。
さっきから色々言い合ってるから何か憎たらしいけど、こいつ、可愛い事は可愛いんだよなあ。名前すら聴いてない人間を相手に、俺は何か不思議な感傷に浸っていた。
と、彼女はいきなり表情をゆがめ、目をゴシゴシと擦り始めた。ほどなく、小さな嗚咽が漏れ始める。
「ううっ……」
うわっ、どうした。何なんだいきなり。
「大丈夫か? どこか痛いのか?」
彼女は無言で首を横に振り、小さな小さな声で、こう言った。
「やっぱり、私、空飛べなくなっちゃった」