プロローグ
「ぶつかるぶつかるぶつかるッ!」
爽やかで、青みがかった光の満ちた、冬の朝だったのに。晴れ渡った空を眺めながらの、通学路の途中だったのに。
その声を聴いて、辺りを見回した時には、既に遅かった。
明るかった世界が暗くなり、背中が勢いよく地面へと打ち付けられる。さっきまで見えていた冬の澄んだ空が、何かに遮られて見えなくなる。何メートルか滑ったのだろうか、制服のブレザーが、アスファルトにずるずるとこすりつけられる感触がある。手にさげていた鞄が、倒れた拍子にどこかへ飛んで行ってしまった。
徐々に、体が減速して行く。
あ、止まった。
体が止まったのを確認して、俺は恐る恐る手を動かしてみた。顔の目の前には、何か大きな物が張り付いているようだ。いくら手を動かしても、自分の顔に触れない。さわさわと目の前の物を撫でてみる。
「あ、ちょ、どこ触ってんのよ」
ん? 女の子の声がする。俺は、探っている手を、もっと大きく動かしてみた。なるほど。布みたいな手触りがする。
声もしたし、もしやとは思っていたけれど。
俺の顔に張り付いてるのは、人間なんだろうか。
俺は、両手を使って、それを引きはがしにかかった。両側からがっちりとホールドし、力ずくで引き離す。
「あ、ちょっと! 待って!」
何やら腕みたいな物が二本、俺の頭を抱え込んだ。うわ、怖い。何も見えない中で頭を抱え込まれるって、何か怖い。
だんだんと、腕が首の方へと下がってくる。本格的にヤバいかも知れない。俺は、両腕に込める力を、更に強くした。それに逆らう様に、向こうも腕に力を入れてくる。
「いいから……、離れろって……」
「まだだめ! 記憶を消すには、それなりの準備が……」
何だって? 聴いてはいけない言葉を聴いてしまった気がする。記憶を消すだって?
「いやだ! 何か知らないけど、こんな所で記憶をなくすのはいやだ!」
「一瞬だから! 一瞬変な感じがするだけだから!」
もぞもぞと腕が動き、俺の体を抱え直す。
「風よ、風の精霊よ!」
凛とした声が耳に届く。ああ、何か変な言葉唱え始めたよ。気が動転しすぎて、もしかしたら本当に記憶を消されてしまうのかも、と思い始めた自分に気付く。ヤバいよ、この人、普通じゃないよ。
だめもとで、両手を動かしてみる。十中八九、俺の上に乗っかっているのは人間だろうから、くすぐってみようと思ったのだ。
布の上から、体を摘んでみる。お、意外と柔らかい。
ぷに、ぷに、ぷに。
「私のねが……、フフッ……、いを……、いやちょっと、聞き届け……、止めてってば!」
俺の頭を抱え込む腕から、力が抜けて行く。それとともに、彼女の声にも笑いが籠って行った。
「それ、それッ!」
ぷに、ぷに、ぷに。
「あははっ、いや、ちょっと! くすぐった……いって!」
とうとう、俺を抱え込んでいた腕が、するりと外れた。今だッ!
「俺の勝ちぃ!」
俺はそう言って、すかさず目の前の「それ」をどかし、上半身を起こした。
「あーっ! 見るなーッ! 見るなーッ!」
俺の上に乗っていた彼女は、両腕で顔を覆いながら、いきなり立ち上がろうとした。こいつ、今度は逃げる気か。
「こら、逃げるな」
俺はそう言って、彼女の腕を掴む。そのまま、その腕を顔から引きはがしてやった。
「見るなーッ! 見るなーッ!」
目の前の彼女は、目元を赤くして半泣きになりながら、機械の様にそう繰り返した。
俺に嗜虐的な趣味はないけれど、そんな顔を見て、思わず目が釘付けになったのは確かだった。
やせ気味な全身を黒いマントの様な服で覆い、頭のてっぺんには、大きな黒い三角帽子を載せていた。マントはきっちり前を合わせてはおらず、隙間から青や紺のチェックのスカートと、紺色のブレザーが見える。マントの襟と帽子のつばの間から、雪の様に真っ白な肌が見え、大きな唾に隠れそうな目元は、なぜか真っ赤になっている。マントの後ろで、少し癖のある、柔らかそうな金色の髪が、風に揺れている。
なんだ、この格好は。そう俺が思った途端。
ぐすん。
整った顔を歪ませて、彼女はぽろりと小さな涙をこぼした。
「ううっ……、なんで私が……、こんなやつと……、結婚しなきゃなんないのよぉ……」
「ちょっと待て」
俺は、自分の上に馬乗りになる彼女へ、手のひらを向けた。
「いろいろ飛躍してるから、落ち着け。まず、お前はどこから俺にぶつかって来たんだ?」
「ぐすん」
彼女は小さな手で目元を擦りながら、指先を天に向けた……。
空? 空だって言うのか!?
「えっと、空から落ちて来たって言う事で、合ってる?」
彼女はこくりと頷いた。うぅむ。こいつは本気なのだろうか?
「じゃあ、どうやって空を飛んだんだ?」
彼女は黙ったまま、俺の隣を指差した。首をぐるりと回して、指の指す所を見る。
冷たいアスファルトに、ホウキが転がっていた。
「これに跨がって……、飛んでたのか……」
「うん」
途端に、背筋が寒くなる。
もし、ホウキの先っぽが腹とかみぞおちに入ってたら。いや、男として大事な所なんかも、危なかったかも知れない。せえぇぇーふ。長い安堵の溜め息を吐く。
未だにぐるぐる渦巻く脳みそで、今の状況をまとめてみる。
黒いマントに大きな三角帽子、ホウキで空を飛んでいて、何か呪文を唱えていた……。
「おい、ハロウィンは一ヶ月前に終わったぞ」
「コスプレじゃないし!」
「じゃあ君、もしかして、本当の魔法使いなの?」
俺の言葉を聴いて、彼女はぴたりと動きを止めた。一瞬の後、
「君は今ぁぁ! 知ってはならない事をぉ! 知ってしまったあぁッ!」
突然大声で吠えた。えっ? なに? 何がおこったの?
そう吠えたかと思うと、突然わんわんと泣き始める。何が起きているのか解らない俺を差し置いて、彼女は泣き続けた。
「イヤだーーーーーー! 結婚なんて、イヤだぁぁ!」
俺は、自分の上で泣きじゃくる彼女を見ながら、ただただ呆然としていた。
とりあえず、降りてくれないかなあ。