【競演】足音がする廊下
「おいオヤジ」
俺は目の前の建物を見るなり、スーツ姿で胸を張り、ロマンスグレーのオールバックを撫で付けて、したり顔で頷く父の龍一を睨みつけた。
「まさかとは思うが、ここに泊まるんじゃないだろうな?」
年に一度の家族旅行。毎年恒例とはいえ、高校二年の俺と一つ違いの妹の抹莉は、そろそろ面倒になる年頃だ。
今年を最後にしよう。
そう思って、俺なりに例年より協力したつもりだった。
だが。
――やられた。
目の前には、今にも倒壊しそうな木造二階建ての古びた温泉宿。
家族内での日程調整やら何やらは俺が率先し、場所をオヤジに任せたのが失敗だった。
「崇。どうだ、この堂々とした雰囲気。まさに『秘境』じゃないか」
そういうオヤジは、どこか誇らしげだった。
俺にはさっぱり理解できないが。
オヤジの趣味を甘く見すぎていた。
日程的に一泊が限度の行程で行き先の範囲を狭めたつもりだった。
車で移動してせいぜい二時間。大体半径二〇キロの範囲を想定していた。
だがオヤジはその『車』での移動を逆手に取った。
まさか飛行機を利用し、その後はレンタカーでの移動にするとは……。
自宅から空港までの一時間と、そこからこの旅館までの一時間。
きっかり二時間。
俺は、今日何度目かのため息をついた。
「秘境って、何もこんな山奥の旅館じゃなくてもいいじゃないか」
「何をいう!」
オヤジはここぞとばかりに声を張った。
「見ろ、この見るからに人里離れた感。全く人の気配がない。しかも予約する手間すらいらないという便利さ。その上キャンセル料も取らないという大変親切な旅館だぞ? お前のいう自宅近辺数キロ圏内の旅館とはワケが違う」
何を威張っているんだ?
俺は、行き場のない、例えようもない思いを茉莉にぶつけた。
「なぁ、お前はどう思う?」
それも失敗だった。
ミニスカートにブラウスという軽装で、とても秘境には似つかわしくない出で立ちの茉莉は、目を輝かせ腰まで届くロングヘアをふりふりこう言ったのだ。
「素敵っ!」
俺は力なくうなだれ、母親を見た。母は山積みされている全員分の荷物に座り、あさっての方向を見ていた。きっと何かを見ているわけではない。ただ見ている。そんな雰囲気だった。要はいつも通りな母親だった。
元々母は旅行自体に感心はなく、オヤジが言い出した時「あ、私はどこでもいいから」と企画段階で丸投げしていた。まぁこのオヤジと一緒になるくらいだ。扱いは心得ているといったところか。
「さぁ、各々の荷物を持つがいい。今年のテーマは『秘境探検』だ!」
一体何のテーマだ?
俺はもう抵抗する気すら失せ、やたらと元気の良い父親と妹、そして普段通りの母の後ろについて、のそのそと旅館に入った。
*
旅館の外見と違い、女将さんはキビキビしていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。三宮様、四名でございますね? お部屋へご案内致しますので、あ、お荷物はそのままで結構です。係の者が運びますので。それから、お時間になりましたら夕食をお部屋へ運びますので……ええ、他にお客様がいらっしゃらないものですから、宴会場は閉めきっているんです。あらやだ、私ったら余計な事を……」
いつまでも終わりそうにない会話を聞き流し、俺は旅館の中を見回した。
木造建築の二階建て。築何十年が経過したのか、板張りの床は足を置く度にギシギシと鳴る。
壁もあちこちに補強や補修の跡があった。
「……お部屋が充分に空きがございますので、お一人様一部屋にも出来ますが、如何なさいますか?」
俺は聞き流すつもりだった。
だがオヤジは違った。
「それは素晴らしい! ぜひお願いします」
おいこら、料金は度外視か。
そんな俺の胸中を見透かしたように女将さんが言う。
「料金は据え置きで結構です。旅館なのにお部屋が空いてるのも、何か寂しいですから」
女将さんは、どこか寂しげな顔をした。
「さぁ皆の衆、部屋は早い者勝ちだ。今年のイベントスタートだ!」
オヤジはそんな女将さんの心情めいた態度に気を留めることなく、猛然とダッシュした。廊下の果てまで走りきる。そんな勢いだった。
「すみません。あんなのが客なんてご迷惑では?」
俺は何となく気が咎め、女将さんに声をかけた。
「いえいえ。このように騒々しいのは本当に久しぶり……ああ、失礼しました」
騒々しい。まさにオヤジを体現した言葉だ。
俺と女将さんは、顔を見合わせて苦笑した。
「ほら、お兄ちゃんも。早くしないととんでもない部屋になっちゃうよ!」
茉莉がわくわくしてたまらない、そんな元気はつらつな声色で俺を焚きつけた。徒競走でもしようと言うのか、この女子高生は!
「俺は残った部屋でいいよ」
「お兄ちゃん、冷めている~」
「これが大人ってヤツだよ」
それを聞いた茉莉は、黙って廊下の端を指さした。
オヤジがそこで廊下にへばっていた。
「アレは例外だ」
そもそもどうフォローしたら良いのか。考えるだけ無駄だと思った。
*
結局俺の部屋は、廊下の一番奥になってしまった。
踏むとギシギシなる廊下を歩きながら、この後の予定を考えた。温泉宿であるからには、温泉があるはずだ。
しかし時間はまだ午後になったばかりだ。温泉に浸かって一息というには、まだ早い気がした。
そんな事を考えながら、ぎしぎしと音を立てて歩く。この床、抜けるんじゃないだろうか?
部屋割りは、俺の部屋の隣に両親がそれぞれ一部屋づつ。その隣に妹の茉莉が陣取った。
それでも空き部屋がまだある。二階もあるのでもっとあるだろう。昔はここも流行っていたのかも知れないが、今となっては当時がどうとか知る気もない。
部屋の出入口は板張りの扉だ。一応外鍵と内鍵がついてはいるが、外鍵はオートロックとかそんなハイテクとは無縁な南京錠がついていた。なんとも時代錯誤だ。
俺は玄関に積んである自分の荷物を、無造作に部屋に投げ出し、テーブルをどかして部屋の中央で大の字になった。
八畳一間。奥の間には、ソファと小さなテーブル。作り自体は一般的な旅館だった。
「崇!」
いきなりオヤジが部屋に飛び込んできた。
「なんだよ、いきなり。ノックくらいしろよ」
「さぁ、散策だ。こんな秘境だ、きっと面白い発見があるぞ!」
全然人の話を聞いていない。
「五分後に玄関ロビー集合だ」
オヤジはそう言い残し姿を消した。
話も聞かない、人の都合も我関せずな父親。
俺は開けっ放しになっている扉に向かってため息をついた。
*
あんなオヤジでも父親には違いない。
俺はきっかり五分後に玄関ロビーにいた。
だが誰もいなかった。
薄暗いロビーには古びたソファが置いてあった。。完全和風な造りのロビー。障子戸で仕切られた通路や、高い天井。そこには年季の入った立派な梁が見えた。
そこに真っ赤なソファがある。
内装とのギャップがすごい事になっている。
俺は気にしないことにした。
そう。ここは秘境なのだ。何があってもおかしくはない。
割り切ろう。
そして待つこと一〇分くらい。
「あ、お兄ちゃん」
茉莉がやってきた。
「お前五分後とか言われなかったか?」
「? 言われたけど?」
「俺がここで何分待ったかわかるか?」
茉莉は小首を傾げた。何を言っているんだろう? 目がそう言っていた。
我が家族は時間にルーズだ。時間を守るなんてのは端から頭にない。律儀にそれを守っているのは俺くらい。そんなことは分かっていたのだが。
茉莉が俺の横に座った。ぎし、と音がした。もしかしたらこのソファ、もう一人座ったら壊れるかもしれない。
「で、お父さんは?」
「見ての通りだ」
茉莉はロビーを見渡した。もちろん、ここにいるのは俺と茉莉だけだ。
「まぁ、そのうち来るでしょ」
なんと楽天的な!
俺は茉莉に気付かれないように天を仰いだ。
「それより、部屋にあったガイド読んだんだけど……」
なぬ? ガイドブックなんて置いてがあったのか!
「この辺、何もないみたい。歩いて一時間程で滝があるらしいけど……」
「まさかそこに行く気じゃないだろうな」
俺は嫌な予感がした。
「その通りだ!」
いつの間に涌いたのか、オヤジがソファの後ろに突っ立っていた。
「秘境に来たからには、滝だ。谷だ。峡谷だ。山の中には『秘境』だらけだ!」
一人盛り上がるオヤジ。
俺は一応、確認した。答えはわかりきっているが。
「お袋は?」
「ん? ああ、母さんは、そのなんだ。ちょっと事情があって来ない」
どうせ散策自体を一蹴されたに違いない。それも辛辣な言葉で。
「というわけで出発だ」
「ホントに行くのか?」
きっと言うだけ無駄な事はわかっている。でも言わずにはおれなかった。
「当然だ。お前は一体なんのためにここに来たんだ? 秘境を探検して、一汗書いて温泉に浸かる。これこそ、旅の醍醐味だろう?」
すでに目的がすり替わってる。
――まぁ、毎年の事だし。それにきっとこれが最後だろうし。
俺はこれも親孝行だろうと、重い腰を上げた。
*
「まだ着かないのぉ?」
秘境探検開始一〇分で茉莉が悲鳴を上げた。
出発時はあんなに張り切っていたにもかかわらずだ。
「お前徒歩一時間を舐めてるだろう?」
スカートを穿いてこなかったのは良い。
パンプスじゃなく、スニーカーを履いているのも良い。
ただ、荷物が半端無かった。
リュックいっぱいの荷物。
「お前さ、その中、何が入ってんだ?」
「秘密の七つ道具」
「は?」
「秘境探検でしょ? 万が一を考えて、非常食とか寝袋とか傘とか飲み物とかその他色々入れてきたのよ」
俺はこめかみの辺りに鈍い痛みを感じた。
「あのなー」
それじゃ疲れるのも無理はない。だが、そもそも間違えている。
「オヤジを見てみろよ。あの軽装。きっと防虫スプレーくらいしか持ってないぞ」
オヤジは動きやすい服装なのだが長袖。それにサバイバルベストを羽織り、先陣きって藪こぎしていた。
「ああっ! 防虫スプレー忘れたっ!」
「いやそれは良いから」
「こらお前たち」
オヤジが立ち止まった。
「無駄口を叩くな。ここは秘境だぞ? 何が起こるかわからんのだ。全く今の若者は危機管理がなってない」
待ち合わせの時間に三〇分遅れた人物の口から出る言葉ではなかった。
「それに何だ。防虫スプレーすら持ってないのか。『秘境』を舐めてるだろう、お前ら」
オヤジの手には、燦然と輝く(ように見えた)防虫スプレーが握られていた。
一体どこに向かっているのか。
もはや誰も分からない俺たちだった。
*
一時間が経過した。
「ねー、まだー?」
茉莉は相変わらずぶーたれていた。
「やかましい。そんなに急かすんならお前が先頭歩け」
オヤジもイライラしているようだ。
「無理」
そりゃそうだ。茉莉は半袖だ。藪こぎなんでしたら大変なことになる。
「大体、方向合ってんの? 滝って言ってたよね?」
茉莉が半眼になって、オヤジを睨みつけた。
「滝?」
オヤジは、素っ頓狂な声を上げた。
「なんでそんなところに行かなきゃならんのだ?」
「は?」
今度は、俺と茉莉が素っ頓狂な声を上げる番だった。
「オ、オヤジ、滝に向かってんじゃないのか?」
「だから、誰が滝に行くと言った? 俺は『秘境』に行くとしか言ってないぞ」
――嗚呼……。
つまり、オヤジははじめからどこか目的があって先陣きって歩いていたわけではない。そういうことらしい。
「じゃ、じゃぁ、どこに向かってるの、あたしたちは?」
「そりゃ『秘境』だろう」
オヤジはしたり顔で、鷹揚に頷いた。
俺と茉莉は、その場で立ち尽くした。
*
さらに一時間が経過した。
さすがに疲れたのか、オヤジは藪が覆い茂る中、ちょっとした隙間を見つけ、どっこらしょと、座り込んだ。額に汗が滲んできた。
「どうしたんだよ、こんなところで座り込んで」
「疲れた」
「あん?」
「お前な。俺だって疲れるんだ。ちょっとくらい休ませろ」
もっともだ。宿を出発してから二時間。ずっと歩きづめだ。四〇過ぎのオッサンにしては頑張ったほうだと思う。
「じゃ休憩ね。あたしはその辺うろついているから、出発するか帰るかしたら呼んで」
と言い残し、茉莉は藪を器用に避け、姿を消した。
「良く服が引っかからないもんだ」
妙なところに感心するオヤジだった。
それはともかく。
「で、オヤジ」
「なんだ」
「これからどうすんだよ」
「どうって……」
オヤジは座り込んだまま、辺りを見回した。
「これ以上進んでも『秘境』には行き着かない」
「その判断はどっからくんだよ」
「よって、これより宿に帰還する。茉莉を呼べ」
「人の話聞けよ」
俺は酷い徒労感に襲われた。
まぁ良い。
これでオヤジが納得するなら従おう。
俺は茉莉が消えた方向に顔を向けた。
――あん?
茉莉はすぐそこにいた。
そして、しゃがみ込んでいた。何かをじっと見つめている。そんな格好だ。
「おい、茉莉?」
「んー?」
完全に生返事だ。何に気を取られてるんだ?
俺は藪に引っかかりながら茉莉に近づいた。どうして茉莉は引っかからないんだろう?
「うわ、いちち」
頬を何かで引っ掻いた。それを避けようとしたら、今度は足がもつれ、盛大にすっ転んだ。
「お兄ちゃん、何してんの?」
「お前のようにはいかないってことだよ」
「は?」
「良いんだよ、俺のことはさ。で、何見てんだ?」
茉莉の視線の先には、明らかに人の手で作られた石造りの物体があった。祠、かな?
「ねね、お兄ちゃん、こういうのってホコラって言うんだっけ?」
「まぁ、そうだな。多分そうだ」
「なんでこんなところにあるのかなぁ?」
それは俺が聞きたい。
「何かを祀ってるんだとは思うんだが……」
と。
俺が祠に近づこうとしたその時。
何かが軋む音がした。
次いで、ぱらぱらと何かが降ってきた。
「何だ?」
見上げると、大きな岩があった。
――まずい!
俺は茉莉の首根っこを掴み、後ろに引き倒した。
「お、お兄ちゃん!」
俺は半身を捻り、逃げの体勢を取った。が、遅かった。
轟音と共に岩が崩れ、俺と祠は砕けた岩に飲み込まれた。
*
気が付くと俺は、自室に寝かされていた。見慣れない天井が急速に俺の思考を明瞭にさせ、何が起こったのか思い出させた。
「しかし、怪我した息子を放り出して何やってんだ?」
答える者はいない。
ただ自分の声だけが部屋を満たした。
恐らく、崩れた岩から助け出し、意識のない俺をここまで運んだのはオヤジだ。
それは感謝すべきだ。
だがそこまでだ。
ここにいないということは、再度『秘境探検』に出て行ったということだ。
俺は半身を起こそうとした。ビリっとという感触があり体が動かない。右足に鈍い痛みを感じた。
見ると、右足が包帯でグルグル巻きにされていた。
つま先は動くので、骨まではいっていない。
ただ、立ち上がって歩くのは無理そうだ。
「気がついたのですね?」
「おわっ?」
俺は急に後ろから話しかけられ、思わず布団から飛び出そうとした。もちろん、それを怪我した足が許すはずもない。
「ぐわっ! 痛ててて……」
「怪我をされているのですから、ご無理をなさってはいけません」
女将さんは、自分が驚かしたことなど気づきもせず、俺を気遣った。
「料理長の源さんがいうには骨は大丈夫だそうです」
なんで料理長がそんな判断を下せるのか。
そこは突っ込んではいけない気がした。
「そうですか。どころでオヤジ、いや父は?」
俺は分かりきった質問を投げかけた。
「『不肖の息子が負傷した。部屋までは運ぶので後は頼む』とのことです」
オヤジはさり気なくダジャレを言い残したようだ。
「この手当は、女将さんが?」
俺は一見乱暴に巻かれた右足を指した。
「いえ。それは料理長が」
一体何者だ、料理長は。
「おう、気ぃついたか」
豪快な声がして、初老の男がずかずかと部屋に入ってきた。ノックするとか「失礼します」とか、そういった礼儀は無縁なようだ。
「……ここはお客様のお部屋なんですよ」
と女将さんが咎めるもその男性は意に介さない。
「足の具合はどうだ?」
どうやら『調理長の源さん』とはこの男性のことらしい。
割烹着姿が妙に様になっている。
帽子からはみ出る根太い白髪が、その体格と共に源さんの性格を物語っていた。
「骨まではいってねぇから大丈夫だ。二〜三日すれば歩けるようになるだろうよ」
源さんはそういって、俺の右足をバンバン叩いて笑った。どうにも豪快な人物らしい。
「どうして骨までいってないって分かるんですか?」と俺が聞くと、恐ろしい答えが返ってきた。
「ワシに解体できんモノはない。人間の骨格なんてのは見りゃすぐ分かる」
解体ですかい……。まるで猟奇殺人の犯人みたいなことをいう源さんだった。
「ところでオメェ、どこでそんな怪我した? この辺にゃそんな危ない場所はねぇはずだ」
話変わって、というところか。源さんの目に真剣さが宿った。
俺は、その目に逆らえず『祠』が崩れそれに巻き込まれたことを告げた。
それを聞いた途端、源さんの態度が一変した。
血の気が引くとはこういう時に使う言葉なのだと初めて知った。
それくらい、源さんの顔は硬直し、先ほどの好々爺の笑みは消えていた。
「女将さんよ」
「はい?」
「今日、ワシは日の高いうちに村に降りる」
「なんですって? それじゃお客様のお食事が」
「下準備はしてある。後は女将さんでもできる」
両者は、俺をそっちのけで睨み合った。
「言っとくが、ワシの考えは変わらなねぇ。それは女将さんが良く知ってるはずだ」
源さんは、女将さんの返事を待たず、足早に去って行った。
俺としては、食事さえ頂ければ、それを誰が作ろうが問題はない。
仕事を放棄してまで村に戻る理由は何だろうか?
俺が『祠』を壊したからか?
「あの、女将さ」
「それでは私は支度がありますので」
女将さんは、俺の言葉を遮り部屋から出て行った。
――あんな古臭い、誰も近づきようもない『祠』に何があるんだ?
俺は部屋に一人残され、そんなことを考えていた。
*
「というわけでな。結局滝まで足を延ばしたのだ。見せたかったなぁ」
オヤジは帰ってくるなり、俺の部屋に座り込み、いかに苦労して滝に辿り着き、その景色を堪能したかを事細かに説明した。俺の足の心配なんて欠片も出てこなかった。
そしてそれは、説明だけだった。写真も何もない。ただオヤジのマシンガントークが延々と続く。これはほんとど拷問に等しい。
「なぁ茉莉。ホントに滝まで行ったのか?」
こっそりと耳打ちする。
茉莉からは予想通りの答えが返ってきた。
「お父さんが行くっていったら、誰も止められない」
どこか疲れきった声だった。
茉莉の髪には木っ端やら何やらが付き、服もあちこち穴が開いていた。
藪にも引っかからない茉莉がこの体たらくだ。どれほどの強行軍だったか想像に難くない。
「で写真も何もなく、ただオヤジの記憶がすべてだと?」
「そうよっ!」
茉莉は、もう思い出したくないという顔をした。よほど辛い思いをしたに違いない。
「さて、与太話はそこまで。食事にしましょう」
突然、部屋の隅でオヤジがとっ散らかした着替えやら荷物を片付けていた母が、現実的な解を口にした。
「さっき確認したら、食事はこの部屋に運んでくれるそうよ。さ、あなたもどいてどいて」
と母はテキパキと隅に寄せられていたテーブルを中央に引っ張りだし、座椅子を並べた。
「なぁ母さん、俺の話にはまだ続きが」
「そんなのは食事しながらでも良いでしょう?」
にっこり。
母の笑み。それはすべてを凍りつかせる恐怖の笑みだ。
さすがのオヤジも、それで黙りこんでしまった。
どの家庭もそうだが、やっぱりは母強しなのかも知れない。
そうこうしている間に、食事が運ばれてきた。
女将さんはトレイに並んだ料理を見た。一人で配膳するには多すぎる。
ここでも母が仕切り役を買って出た。
「ほら動ける人は料理を運ぶ! 今女将さん一人しかいないんだから、手伝いなさい!」
追い立てられるようにオヤジが立ち上がり、茉莉も続く。女将さん、母、父、茉莉の連携リレーで、テーブルの上は料理でうめつくされた。
「これでいいかしら?」
「はい、助かりましたって、あら失礼を」
つい本音をこぼしてしまったようだ。女将さんは口元を手で覆った。
「いいんですよ。この連中は私が言わないと何もしないので、これくらい働いたって罰は当たりません」
何気ない一言だった。
罰。
その言葉を聞いた女将さんが、びくっと肩を震わせたように見えたのは気のせいだろうか?
「あ、ええと、お料理はこれですべてです。お酒の追加などは内線で呼び出していただければ追加分をお持ちしますので」
女将さんはそう言い残し、逃げるように部屋から出て行った。ように見えたのは俺の気のせいだろうか?
そして。
宴が始まった。
*
宴が終わった。
オヤジは熱燗二本で酔い潰れ、意味不明な言葉をつぶやいている。
料理のほとんどは母と茉莉が平らげた。もちろん俺も参戦したのだが、いかんせん足が不自由なので、どうしても箸が遅れる。
その点母は容赦しない。
箸が重なろうものなら、強引に奪っていく。怪我人に対しての配慮など微塵もなかった。
夕食は三〇分持たず、綺麗さっぱりなくなった。
まぁ俺も食える分は食ったので満足だった。大変美味しかったし。料理長の源さんと女将さんの腕は確かなようだった。
「さて。このぐーたら亭主も潰れたことだし、寝る準備よ」
母が号令をかける。
茉莉が従い、あっという間にテーブルは片付けられ、四人分の寝床が準備された。
女将さんの出番は、この母の前では無きに等しいらしい。
そろそろかな? と様子を伺いに来た女将さんの表情を見れば分かる。この客は放っておいても良い。
女将さんは廊下に積まれた空の皿やら食器をトレイに載せ、廊下をきしませて戻っていった。
「崇は動かせないからね。それに怪我人を一人で放っておく訳にはいかないでしょう?」
忙しく布団を敷き直しながら、母親らしいセリフを吐く母だった。
*
『秘境探検』の疲れもあったのだろう。茉莉は顔を洗い歯を磨いて、床に就くなり可愛らしい寝息を立て眠りに落ちた。
せっかく温泉旅館に来たのにこれでは意味がない。
かくいう俺も歩けないので同様だった。
オヤジに至っては、ブツブツと呟きながら、時折びくっと体を震わせながら、熟睡していた。なんの夢を見ているのか。俺は気にしないことにした。
母はというと、そんなオヤジを眺め、ため息をつきつつ、部屋の照明を落とした。最後に鈍い音がしたが、それも俺は気にしないことにした。どうせ母がオヤジをどうにかしたのだろう。
部屋は、あっという間に静寂に支配された。
照明は、月の明かりのみ。
時折鳴く虫の声が、秋の訪れを感じさせた。
俺は全然寝付けなかった。
寝返りを打つたびに右足が痛む。
じっとしていればいいのだが、人間じっとして眠ることは出来ないのだ。
喉が渇いたが、冷蔵庫までの距離を考え諦めた。
――明日になればちょっとは良くなってるだろう。
そう思った時だった。
ぎしぃ。
部屋と廊下を隔てる薄いドアから、板の軋む音がした。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
その音は同じ間隔で鳴る。
廊下を誰かが歩いている。しかも忍び足で。そんな音に聞こえた。
――女将さんかな?
確かめようにも俺は動けない。
まぁ気にしても仕方ない。
俺は痛む右足に「我慢しろ」と言い聞かせ、寝返りを打った。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
それも、廊下からは足音と思しき軋む音が繰り返される。
俺は顔だけ起こして、部屋を見た。その音に気づいている人間はいないようだ。
――仕方ない。
俺は、右足を使わないようにして慎重に立ち上がり、ドアに向かった。
途中何かに躓き「ぐぇっ」とカエルを踏んだような声がしたが無視した。
そして俺はドアを開けた。
そこには誰もいなかった。
少なくとも、ドアから漏れる月明かりが照らす範囲には誰もいない。
遥か彼方の、深淵な闇まで続く廊下。
でもあの音の重みは、確かに人間のものだった。
――気のせい、なのか?
俺はしばらくドアに寄りかって廊下を眺めていたが、先ほどの音はしなかった。
きっと気のせいだ。
俺はそう思うことにし、ドアを閉め、念のため内鍵をかけて寝床に戻った。右足の痛みは吹き飛んでいた。
嫌な予感が俺の頭の中で渦巻き、痛みを感じるどころではなかったのだ。
とにかく寝よう。
俺はゆっくりと布団に潜り込んだ。
途端。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
再び、廊下から音がした。
俺は飛び起き、内鍵を外し、ドアを勢い良く開けた。
だが、そこには誰もいない。何もいない。
一気に気温が下がったような感触があり、全身に鳥肌が立った。
そして昼間の源さんの態度を思い出した。
まるでここから逃げ出すような言い分。そして実際に源さんは日が落ちる前に宿を去っていた。
そして脳裏に浮かんだのは、あの『祠』の一件。
何を祀っていたのか分からない、『祠』。
それを俺は土砂に埋めてしまった。
――まさか、ね。
俺は、ゆっくりと静かに誰にも気付かれないようにドアを閉めた。
そしてそのままドアを見つめる。
また音が鳴るのか。
もう鳴らないのか。
五分ほどそうしていただろうか。
音は聞こえてこなかった。
俺は何かに引っかかりつつ、床に戻り、布団に潜り込んだ。
そして。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
またあの音だ。
俺は頭から布団をすっぽりと被った。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
ぎしぃ。
それでも聞こえてくる、廊下が軋む音。廊下を『彼か』が歩く音。
俺は体を縮こませ、その音が止むのを待った。
ぎしぃ。
音が止んだ。
音の反響具合から、多分ドアの前だ。そこに『何か』がいる。
それは一体なんだ?
俺は歯を食いしばった。
気持ちの悪い汗が体中からにじみ出た。
早く行け、いなくなれ。俺が何をしたってんだ。
俺は古今東西、あらゆる神に祈った。作法なんて知らないが、とにかく祈った。
そして――
ガリガリ。
ガリガリ。
何かがドアを引っ掻いたような音がした。
もう限界だった。
「お、お袋っ!」
そう叫んだはずだった。
だが、体が動かない。
声も出せない。
その間にもドアから獣が爪を立てて引っ掻くような音が鳴り響く。
ガリガリ。
ガリガリ。
ガリガリ。
ガリガリ。
俺が何をした? 古い『祠』ごと瓦礫に埋まったのは俺だ。何もしていない。怪我もしている。俺が悪いわけがない。なのになんだこの仕打ちは? 罰? 罪? そんなことをした覚えはない。それに一体何を償うんだ? 赦しを請う? なぜ? 俺が誰に赦しを請うんだ? どうやって?
思考は混乱を極め、収束しない。
体も動かない。
声も出せない。
――このやろーーーっ!!
俺は全身の力を振り絞って、緊縛を解いた。そしてドアを勢い良く開けた。
そこには。
誰も、何もいなかった。
俺はいつの間にか気を失っていた。
*
結局あの『祠』が何を祀っていたのかも謎のままだった。女将さんが固く口を閉ざし最後まで教えてくれなかった。
*
それが原因ではないが、この旅行以降、家族で旅行することはなくなった。
元々俺はこの旅行を最後にするつもりだったし、オヤジも察していたようだ。
オヤジとお袋はたまに出かけているようだが、俺が体験したような話を聞くことはなかった。
あの夜。
俺は確かに何かを体験した。
そして。
それでも、どこにいても夜はやってくる。
そして俺には聞こえる。
廊下が軋む音。
ぎしぃ。
ほら、また聞こえた。
そして――
ガリガリ、ガリガリ――
了