哄笑の示すものは狂気
もしこの場に奴が居合せたらいったいどんな行動を起こしただろうかと少しだけ思った。
きっと怒り狂って女を殴り飛ばすくらいの事をしそうだと思った、そうやって奴がまた私なんかの為に罪を犯そうとする光景が容易に思い浮かんだ自分が滑稽だと思った。
だからこそ奴がこの場に居なくてよかったと思った、とっとと決別しておいた自分を絶賛してやりたい気分だった。
そんな自画自賛を現実逃避に行って、一年くらい前にガチで殺そうとした女を、今でも殺してやろうかとすら思っている女を笑顔で睨む。
「いったい何の用ですか江川さん?」
「やあねえ、そんなに殺気立たなくてもいいじゃない。ちょっと近くを通りかかったから私と剛さんの子の顔を見せてあげようと思っただけなのに、あなた逃げるんだもの」
こちらに殺意がある事は分かり切っているはずなのに、女はそれに構わず厭味ったらしい笑顔を浮かべる。
ああそうだった、この女はこういう女だった。
「そうですか、そうですか。別に見たくないので、とっととお帰り願いましょう」
頭痛を堪えながらそう言う。
「つれないわねえ、私とあなたのお父さんの子よ?」
「知ってますよ、だけどそれが何だっていうんですか?」
本当に、それがどうだっていうんだろうか?
私にはすでに関係の無い事だって言うのにね。
「貴方のお父さんの子供なんだから、ちゃんと顔くらい見なさいよ、ほーらほら、可愛いでしょう、可愛いに決まってるわよねえ、だって私とあなたのお父さんの子供だもの、私の子だもの」
私、をやけに強調していう女にうんざりする。
頭が痛い、六月半ばであるはずなのに指先が痛いくらい冷たい。
「ねえ、何か言いなさいよー? 目を逸らしてんじゃないわよ、何よ何よ、か弱い振りでもしているつもりなの? さっきあんなに強気だったのに、随分と顔色が悪いじゃない、何か言ったらどうなわけ?」
「……………」
痛いくらいの高い声でそう責められて、耳を塞ぎそうになった。
だけど自分の矜持がそれを許さなかった、この最低な女に屈するのが嫌だった。
それでも甲高いノイズが耳の中で暴れると、悲鳴をあげそうになる。
「ふふふ………あなた、私が怖いのね? それなのにあんな事言うなんて」
そう言って、女が突然大声で笑い始めた。
交渉と言っていいほどのそれによって鼓膜がびりびりと震える。
「う…………」
ちっぽけな矜持はあっさりと崩れ去り、私はうめき声をあげる。
もう止めて。
お願いだから止めてくれ。
土下座でもなんでもしよう、私に出来うる範囲ならなんでもしよう。
だからもう私の目の前から消えてくれ、その痛いくらい高い声を聞かせないでくれ。
「あ、そういえば彼氏君はどうしたの?」
女は急に笑うのを止めてそう言った。
思わずそむけていた右目でいやらしい笑みを浮かべる女をまじまじと見てしまった。
え?
彼氏って、誰の事だ?
私に彼氏何て、恋人なんて言う存在がいた事はない。
だから私は女が何を言っているのか分からなかった。
嘘だ、本当は分かっていた、そういう勘違いをされてもおかしくない、むしろそう勘違いをされる事が当然であるような関係だった知り合いが過去にいた。
だけど、あえてわからないふりをした。
よりにもよってこの女から奴の事を聞きたくなかったから。
そのままそのセリフだけで奴に関する事を女が言わない事を願った。
だけど女は言葉を続ける。
「あの乱暴者で失礼極まりない野蛮な………ええっと、矢島君、だったかしら?」
ぷっつん。
何処かで何かが切れる音がした。
そんな使い古されて、とても陳腐な喩を使うのが、今の私の状況を表すのに最もふさわしい。
続いて自分の中で何かが大きな音を立てて崩れた音がした。
その崩れたものの名前は多分理性とか正気とか、そう言う風に言われる物の類だろう。
木端微塵に壊れたそれはちょっとした事じゃ治りそうじゃない。
少なくとも、今この場では修復不可能だ。
女の言う彼氏君が奴である事を確信させられた事で私はきっと激怒した。
あなたが、あんたが。
お前がそのノイズよりも汚らしい声であいつの事を口にするな。
あいつの名を口にするな。
「くふふふふ……あは」
私は笑う。
天使のように清らかに、神のように神々しく、悪魔の様に邪悪に、無垢な幼子のように無邪気に、狂人のように壊れた笑みを作り上げる。
笑え、笑え、笑え!!!
そうさできるさ、だって私は笑顔のプロフェッショナル、私にできない笑顔なんて一つも存在しない。
私が出来る限りの最高級の笑顔を浮かべるてやる。
そして、その笑みには全く似つかわしくない、あるいは最もふさわしいのかもしれない暴言を私は吐き出した。
「黙れ、阿婆擦れクソビッチ。そんなに死にたいの?」
よく通るクリアな声でそう無邪気に言ってみたら、目の前のそれは一瞬何を言われたの理解できていないような表情を浮かべてから、その顔面を崩壊させた。
「なっ!」
「そのヘドロみたいに汚らしい声であいつの事を口にするの止めてもらえませんかねえ? あ、ごめんなさい、貴方みたいなビッチの声と比べたらヘドロが可哀相ですよね? あはっ、てかなんですかその顔。何でそーんな大失敗した福笑いみたいな顔してんですかー? ぎゃはははは、ちょー変な顔っすよ。今のあんたの顔。いや元々傑作なお顔をしているなあとは常々思ってたんですけどねー、今日はどうしたんですか? いつにもまして不っ細工ですねーぇ」
ぎゃははははっと無邪気で耳障りで下品な笑い声を立てる。
やばい、マジで笑えて来たんだけど。
思考がまとまらない、でも可笑しくて可笑しくて仕方ない。
あー、もう最高ですよ、その顔。
写真に撮ってばらまきたいくらいだぜ。
むしろネットで拡散しようかな?
みなさーん、ここに阿呆面した年甲斐も無くケバイ化粧した勘違いババアがいますよー、って大声で叫びたい。
ぎゃはは、ホントに叫んじゃおうかな? でもここ人通り無いから誰も来ないだろうなあ、うん、残念だぜ。
ババアが何かわなわなしてる、変なのー、ぷーくすくす。
肩をすくめて呆れ顔をしてやる。
「何ですかその顔、私なんか変な事言いましたかー? もしかしてですけどー、まさかとは思いますけどー、自分の事美人だとかトンデモナイ勘違いしてたりしないですよね? もししてたらうけるんですけど。ぎゃはははっ、元々十人並み………いやそれ以下の容姿の癖に、その化粧はないっしょ、ありえないですよ。正直言って気持ち悪いー、バケモノみたーい。気持ち悪ーい。それに化粧品とか香水の臭いのせいで吐き気がするし、鼻がねじ曲がりそう。よくそれで平気な顔してますね、臭覚おっかしいんじゃないですかー? あんたみたいな図太い人でも私みたいにPTSDで五感がおかしくなったりするんですか? ああ、違いますね、元から異常なんでしょうね。しっかしそんなんでよくもまあ、外に出歩こうとか思えますね? 歩いてて人に避けられたりしません? 臭いしケバイし、しかもそれで自分がいけてるって自信満々に勘違いしてるのが見え見えですから、何かもうイタイ人ですよねー。中二病患ってる人でもここまで痛々しくは無いですよう?」
頭大丈夫ですかー? とケラケラ笑い声を上げる。
ここまで大声で笑ったのは、多分初めて、じゃないな、二回目か。
でも。
さあさ、まだまだ全然足りない。
もっともっと、嗤ってやれ。
なあに、遠慮する必要は無い。
こんな女に何を思われようが何とも思わないし、元々嫌われているんだ。
こっちだって仲良しごっこをするのは願い下げ、もう二度とこの顔を見たくないくらい、嘲り笑って罵って馬鹿にしてやろう。
そのくらいの事をやっても許されるよねえ? 手前がした事に比べたら、こんなのはガキのちっちゃな悪戯程度のくだらない事なんだからさあ?
殺さないだけましだと思え、暴力を振るわない事に咽び泣きながら感謝しろ。
この程度の些細な事、しょぼくて細やかな嫌味でしかないんだから。
それでも私は最大限の虚勢を張って思いつく限りの罵倒をしようとはしているんだけどね。
まあ…………本当に大した事は無いのだけど。
私にできるのは、出来うる限りの最高の笑顔でこの婆に対して精一杯悪態をつくだけだ。
「ぎゃははははははは! もしかして図星ですかー? やっだもうこの人。喜劇の塊みたい、滑稽すぎる。私だってここまで滑稽じゃないのに。ちょっとちょっとー気狂いで人間の劣等品で欠陥品でさらに故障品である私よりも滑稽って、それってどんなよ? ねえねえ、今どんな気持ち? こんなガラクタでしかない欠陥品にすら嘲笑される人の気持ちってどんななの? 人の気持ちも分からない、人間失格の私にもよく分かるように簡単に説明してよ」
そう悪魔のような顔で嘲笑しながらそれを見ると、その顔は憤怒のせいなのか真っ赤に血が上って茹蛸みたいな色をしていた。
うっは、人間ってこんな顔色も出来るんだね。
こんなに真っ赤になった人間の顔見るのは初めてだぜ。
今日は初めての事ばっかりだなあ。
「ねえ、ねえ、黙ってないで何か言ったらどうですかあ? それともこんな小娘に語る様な事、あんたには無いって事ですかねえ? だとしたら速攻私の視界から消滅してくれませんかあ? てかこの世から消滅してくれません? あんたの顔見てるとホントに気分が悪くなってくるんですよ、生理的な問題で。てか知ってますよねえ? 知ってて来たんですよねえ? ホント、最低最悪の御仁だ事。私があんたら親共の顔見ただけで色々やばくなるの何て知ってるんでしょー? ちゃんと私教えましたよね、だからよっぽどの事が無い限り私の前にその醜いツラ見せに来るなって何度も何度もお願いしましたよねー? プライドもクソッたれも無く土下座までして頼みましたよねえ? …………………本当に、どういうつもり? わざわざ私を訪ねるなんて、それもわざわざ手前のガキのツラを見せに来たなんて理由で? ……もしかして本当は剛さんに何かあったんですか? いえ、無いですね。単なる嫌がらせ以外の何物でもないんだろうね? だってあんたそう言う人だし? 誰かの不幸を本気で笑って楽しむようなクズだしね。ねえ、ねえ、こんな私を見てあんた、一見怒ってるように見えるけど、内心とってもとっても愉しんでいるんでしょ? 喜んでいるんでしょう? なら笑いなよ、高笑いでもしてみたら? そのガラスひっかく音みたいな不快な声で笑えばいいじゃん。あんたが笑わないなら私が代わりに笑ってやろうか? 私笑うのだけは得意だからね」
ぎゃはっ、と私は吠える様に笑い声を立てる。
顔面に作り上げた醜悪で歪んだ笑みも相まってそれはきっととても感じの悪い笑い声になっていただろう、そうなるようにした。
そしていったん、すうっと息を吸った。
顔面をさらに歪める。
きっともう私の顔は人間の顔には見えないものになっているはずだ。
化物にしか見えないだろう。
ここまでの笑顔を作ったのはあの時以来。
いや、もっと酷いかもしれない。
でもそれでいい。
さあさ、醜い婆に見せてやろうじゃないか、この欠陥品の狂気を。
五人のDQNが尻尾を巻いて逃げ出した、最恐の恐怖を贈呈しよう。
一生残るようなトラウマをあんたにやるよ。
全力でやるから、しっかり受け取ってくれよ?
といってもあの時とは狂気も恐怖も三分の一くらいしか無いのだけど。
だけどそれが今できる精一杯。
これ以上目を潰すわけにはいかないしね。
どっか別の所を切り裂いてみてもいいけど今日は生憎カッターを持っていないので。
うーん、腕を斬り付けるだけでも三分の二くらいの恐怖になると思うんだけど、無いのなら仕方ない。
やっぱり普段から携帯しておけばよかったなあ。
そうしたらこんな事をする以前にこのババアを切り殺していただろうけど。
あの頃は肌身離さず持っていたんだけど、あのカッターはもう使い物にならなくなっちゃっているし。
新しいのも一応持っているけど、あんまり使ってない。
だから今日は取り敢えず笑い声だけだ。
だけど、それできっと十分。
それでは御清聴下さい。
せーの。
「ぎゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
狂った怪物が死に間際に上げる断末魔にも似た哄笑が、あたり一面中に響き渡った。
下手しなくても通報されるレベルだけど、そうなっても別に構わないと思った。
だって嗤ってるだけだし。
近所迷惑ではあるのだろうけど、それ以上の被害は何一つない。
本当に通報されたとしても厳重注意だけだろう。
まあ………私は前科があるから結構きついお叱りを受けるかもしれないけど。
ちらりと婆の顔を盗み見ると、その顔面は恐怖と嫌悪で染め上げられていた。
それを見て、哄笑するのを止めた。
耳に痛いほどの沈黙が数秒、公園内を支配する。
誰も何も言わない。
目の前に立つ婆も、その腕に抱えられた生物も、哀れにもこんな場面に居合わせてしまったリオンちゃんも。
時間が止まってしまったかのような錯覚を感じるくらいの静寂だった。
え? ちょっと、誰か、何かリアクションしてよ。
悲鳴を上げて逃げるなりなんなりしてよ。
うーん? 不発しちゃったかな?
ねえ、本当に何か言ってよ。
そんなメデューサと目を合わせて石になった人間みたいな顔してないでさ。
怖かったなら恐かったって言ってよ、大した事が無かったなら嘲笑するなりなんなりしてよ。
ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。
クスッと声を立ててから、カクンと顔を右に傾ける。
顔面に張り付けた笑みはそのままに、機械的で生物らしさを欠いた動きをするように意識した。
きっと私の目からは光と言う光は無くなっている、きっと闇の塊みたいな色をしているのだろう。
多分、いやかなり怖いだろう。
私には笑顔しかない、それ以外の顔を私はすることが出来ない。
だからその笑顔だけで様々な感情を表現できるように練習した事があった。
それはただの妥協だったのだけど、やっておいてよかったと今思う。
今私が顔面に作り上げているのは狂気を表現する笑み。
狂気しかない笑顔。
その笑顔を顔面に張り付けたまま口を開く。
「どーしたんですか? そんな化物でも見るような目をして」
あくまで単調に問い掛けると婆ではなくその腕の中にあるそれが反応した。
ぎゃーぎゃーと泣き喚くそれ。
耳障り。
頭蓋骨をがりがりと削られるような、そんな不快感が私を襲う。
「五月蠅いですね、早くそれを黙らせてください、とってもとっても不快です」
苛立ちも何も無くただ単調にそう告げる。
狂気の笑顔に単調な口調。
下手にあらぶっているよりは、よっぽど効果的だろう。
「ねえ、ねえ、何か言ったらどうですか? さっきから阿呆みたいに突っ立ったまんまじゃないですか………………あー、もー、本当にぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー五月蠅いですね。さっさとそれ黙らせろ!! 耳がおかしくなる!! 本当、その耳障りな声はあんたにそっくりだね? ……………………これだからガキは嫌いなんだよ。方法なんていくらでもあるんだから、とっととしろ。口にもの突っ込むなり塞ぐなりすりゃ黙るだろ」
淡々と言って、そこで初めて婆が反応した。
「さっきから黙って聞いてれば何なのよあんた……………………仮にも母親に………自分の弟にそんな口を叩いてただで済むと思ってるの?」
母親? 弟?
ハッと私は嘲った。
「あんた今なんて言った? 母親? 弟? ………ばっかじゃないの!?」
ぎゃはは、と私は笑った。
だけどその声は先程よりも引き攣っていたけど。
だって、それは、婆が口にした言葉はあまりにも。
「ね、ねえ、あんたさあ? 私の事自分の娘だとか思ってたの? それの姉だとか思ってたの? え? ねえ、ちょっと待って? そんなわけないじゃん。え? ちょっと冗談だよね? 冗談でしょ? 全く笑えないけど冗談言ったつもりなんだよね? 確かに戸籍上はそうなってるけどさ? それだって仕方ないからそうなってるだけなんだよ? だから本当は私には母親も父親も弟も妹もいないんだよ? 私の家族は姉さんだけなんだけど? あんたらはただの他人だと思ってるんだけど」
「他人だと思っているなら本当に他人になったら? そうしたらあんたに掛ける無駄な金が無くなって済むのだけど」
ああ、そうか、今日この女が私の目の前にノコノコとやってきやがった理由はそれか。
私の家族を壊して私の大事な恩人を侮辱した挙句、まだこの糞婆は私から物を取って行こうとするのか。
本当に最悪だ、最低だ、何て醜いんだろう。
「そうしたいのは山々なんだけどね。でもまあ、それはそうですね。今の生活費は迷惑料って事で受け取ってるわけでして、親子だからっていう理由で貰ってるわけじゃ無いので、賠償金みたいなものですから、そう言う縁を切ったとしてもちゃんと貰っとかないとこっちに損が出るんですよ」
「賠償金?」
「ええ。だって私アンタらのせいでこんなになったわけですし。と言うかそもそも諸悪の原因はアンタだって事は知ってるでしょ? 本来ならアンタに賠償金をせしめる方が道理にかなってるんですが…………男に媚び諂うしか能の無いあんたには支払えるわけないですもんねえ? だからあんたの旦那さんに払ってもらってるんだけど? そこらへん理解してますかぁ?」
かぁ? と馬鹿にして言ってみると、婆は面白いように怒った。
怒髪天を突く、て感じ。
そりゃ怒るだろう、と言う口調で話してはいるものの、そんな全身の血管が切れるような勢いで怒らなくてもいいと思う。
私の狂人っぷりも大概だけど、あの婆も鬼女とか山姥と言われても文句は言えないだろう。
もし誰かがこの公園の前を通ったら確実に都市伝説になるレベルだ。
「ちょっとちょっとー、そんなに怒らないで下さいよう。私別に大したこと言ってないですよ? この程度の事でそんな怒らないで下さいよ。それに、私何一つ嘘なんてついていないじゃないですかー。本当の事と言ってるだけなのに、何でそんなに怒るんですかねー? ちょっと狭量すぎじゃないですかぁ? あんたが阿婆擦れの能無しなのも、子持ちの中年男と不倫した挙句妊娠したのも、何一つ嘘なんかじゃないですよねー、全部ぜーんぶ、本当の事じゃないですか」
嘘であればどれだけよかっただろうかと何度も思った現実を突きつける。
「なのに、何でそんなに怒るんです? おかしいじゃないですか理不尽じゃないですか、不条理ですよ。全部アンタがやった事じゃないですか私だってこんな現実嘘だって言いたいですよ本当じゃ無きゃどれだけいいかって思いますよ、でもそれが現実じゃないですかアンタがいろんな事をぶち壊したのは本当じゃないですか、ねえ」
思考が空回り、口は文脈も何も無い訳の分からない文章を吐き続ける。
壊れた玩具みたいに同じような内容の言葉を吐き散らかす私を婆は憎悪のこもった両目で睨み付けた。
「…………もういいわ」
だけど婆は何の反撃もせずにただ最後にそう言って、相手をするのが間違いだったというような表情を浮かべ、私に背を向けて、去って行く。
最後に右目に映ったその顔は怒りのせいなのか、赤を通り越して不気味な色に染まっていた。
婆の姿が完全に消えた時に、ついに限界が来た。
これでもよく持った方だった、むしろここまで持ったのが信じられないくらいだ。
空のビニール袋を引っ掴んでリオンちゃんから離れる、なるべく離れようと走ろうとしたけど、のろのろとしか動けなかった。
出来る限り離れてからしゃがみこんで、私はビニール袋の中に嘔吐した。
「おえ………………………げほっ……………………うえっ……………」
後ろから泣きそうな声が聞こえてくるけど、それに答える事も出来ないまま、私は吐き続けた。
胃の中が空っぽになるまで吐いて、ようやく止まった。
頭がボーっとして何も考えられなくなりそうだったけど、そう言うわけにもいかないので無理矢理に脳を動かす。
口元をティッシュで拭って立ちあが………ろうとしたけど無理だった。
「おねーちゃん………」
後ろから声、何とか振り返ってなるべく普段通りになるように笑って私は彼女に謝った。
「ごめんね…………変なもの見せちゃって」
「そんな事どうでもいいですよ。大丈夫………じゃないですよね?」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと気分悪くなっただけだから」
「嘘を吐かないで下さい」
「嘘じゃないよ。これくらいで大丈夫じゃないなんてことは無い」
しばらく休めばどうってことは無い、それに去年は一時期こんなのが日常だった事だってあるんだから、これくらいの事何ともない。
そのしばらくがどのくらいの時間になるかは分からないけど。
長くても三日程度だ、早けりゃ一時間で立ち直る。
それにまだ本格的に再起不能になったわけじゃ無いし。
リオンちゃんがいたおかげでその辺は何とかもっているようだ。
一人だったら多分このまま放心して何もできない状態になっていた。
流石に自分よりも幼い娘にそんな醜態を晒したくはないし、私がそんな状態になったらリオンちゃんパニックになりそうだし。
だからもうちょっとだけ頑張る。
こうやって持ちこたえていられるのだから、私の病状はやっぱりちょっとはマシになったのだろうか。
ゆっくりと今度こそ立ち上がってリオンちゃんと向き合う。
「ごめんね、大したことないし大丈夫なんだけど、もう帰るね………流石にちょっとだけ疲れたから」
「……………分かりました…………一人で大丈夫ですか?」
「平気だよ、本当に大したことないから」
「…………………本当に?」
「ホント、嘘じゃないよ」
リオンちゃんはしばらく納得していないような顔で私を見たけど、ふと何かを諦める様な表情を浮かべた。
私は何で彼女がそんな顔をしたのか、分からなかった。
「分かりました……………………気を付けて帰って下さいね……事故に遭って死んだりしないで下さいね………私ももう帰ります」
「うん。大丈夫だよ大げさだなあ………じゃーね」
そう先ほどまでとは全く別物の優しそうな笑顔を張り付けてリオンちゃんに別れを告げて、私はふらふらと頼りない足取りで歩き始めた。