偽りの笑みは虚勢
6月の半ば、珍しく雨が降っていない曇り空を見上げる。
今日はリオンちゃんと会う日だなあと思い出しながら校門を抜けた所で、嫌なものが目に入ってきやがった。
とても、とても嫌なものだった。
だからそれを目に入れてから一秒もかけずに目を逸らし、見なかった事にした。
それはどうやらまだ私には気付いていないようだった。
なので私は咄嗟に首に掛けておいたヘッドホンを耳に当てて、走り出した。
音量を普段の 1.5倍くらいまで上げる。
かかったのは都合のいい事に賑やかな曲だった。
ヘッドホンをしたのはその甲高い声を聞かない為で、気付いたそれが声を掛けて来ても気付かないようにするため。
それはそんなに速く移動出来ない筈なので、声さえ防いでしまえば問題無い。
だから全力で走った。
ちなみにこの状態で人より圧倒的に広い死角から自動車とか自転車が来たら全く反応出来ないだろうけど、背に腹はかえられないので、仕方ない。
下手したら今日死ぬかもなあと苦笑しつつ私は走り続けた。
数分後。
全力疾走で公園に辿り着き、ブランコにどかりと座り込んだ。
ぜーぜーと荒く息を吐く。
結構辛かった。
心臓がバクバクと動いているのが分かる、荒く息をし続けているせいで喉も痛くなってきた。
全身から汗が噴き出て、不快だった。
「こんにちはおねーちゃん…………どうしたんですか?」
顔をあげると訝しげな表情でリオンちゃんが私を見ていた。
いつの間に来ていたのだろうか、全く気付かなかった。
「あぁ…………こんにちはリオンちゃん、何でもないよ? ちょっとばかし全力疾走しただけで」
「……何でそんな事したんですか?」
「うーん、なんとなく?」
都合のいい言い訳が思いつかなかったので適当に濁した。
「なんとなくで全力で走らないでくださいよ…………変質者から逃げてきたんだと思いました」
「ああー………大丈夫、それは無い」
逃げてきたのは正しいけど一応変質者ではないから。
と、言ったところで。
「あ、いたいた~、こんなところにいたんだ~」
そんな甲高い声が公園の入口から聞こえてきた。
全身の毛が逆立った。
悪寒と吐き気が込み上がってくる。
先程とは全く違う質の汗が浮いてきた。
気持ち悪い。
不快だ。
あーあ。
やっぱり私は何も変わってないんだね?
一年も経てばもう少しましになってると思ってたんだけど。
むしろ、前よりも酷くなっているのかもしれなかった。
久しぶりだからそう感じるだけっていう可能性もあるけど。
「おねーちゃん?」
リオンちゃんが不可解そうな声で私を呼んだ。
その鈴がなるような澄んだ声のおかげで、少しだけど、楽になった。
頭の中を爪の伸び切った指で引っ掻き回されるような不快感はまだ酷いけど。
「……なあに?」
「大丈夫ですか? あとあの人………」
「大丈夫だよ……」
そう言って心配させないようにニコリと笑った。
そうしてから私は公園の入り口へ顔を向ける。
全身がそれを視認する事を全力で拒否しようとしているけど、錆び付いたゼンマイを無理やり回して軋むような身体を動かす。
そして人形が浮かべているような完璧な笑顔を顔面に張り付けて、こみあげてくる不快感を必死に抑え込みながら、それと向き合う。
それ。
それは40歳くらいの女で、緩くカールした髪、何処のブランドなんだか知らないが高そうな服を着ている、化粧をしているが厚化粧過ぎるせいでかえって醜く見える顔が明らかに作り笑いだとわかる笑みを浮かべている。
そして、その手には無駄に可愛らしい布にくるまれた塊。
布の隙間から黒い瞳がこちらを見ている事に気付いてしまった。
見ている、じーっと、なんだかよく分からない意味の分からない感情をこめた眼で。
ぞわり、と全身に鳥肌が立った。
こっち見んな!!
そう引き攣る様な叫び声を上げそうになる。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!
吐き気がする、悪寒が酷くなった、全身に冷水でもぶっかけられたみたいだ。
頭の中を大量の虫が蠢いているような悍ましい感覚がする。
だからその女の腕の中のそれから目を逸らした。
できればこのまま目を閉じて耳も塞いで大声で叫びながら逃げ出したいくらいだ。
だけどきっとそれをやっても意味は無い、多分私が逃げた後、この女は私の家に押しかけてくる、それはさっきも同じだったのだけど、あの時は咄嗟だったからそんな事を考えている余裕なんて無かった。
何度も鳴るインターホンの音と、ドアの向こう側からねちっこく声を浴びせられるという、悪夢のような想像がとても簡単に脳裏をよぎる。
そんな事になるくらいなら、ここで終わらせてしまった方がきっといいのだと思う。
背に腹は代えられない。
だけどどっちにしろ私が致命傷を受けるのは変わりない。
というか、もうかなりのダメージを被っているのだけど。
ちょっとどころか、かなりまずい状況だ。
本当は逃げたいし、目を逸らして見なかった事にしたい。
だけどこれは多分無理。
これは目を逸らすことが出来ない現実で、見ないふりは出来ない。
できたとしても、きっと追撃が来る。
所詮私が目を逸らせることが出来る事なんて、大したものではない。
本当に目を逸らして忘れてしまいたいことに限って、それを許してはくれないのだ。
一度右目を閉じて深呼吸する。
良し、腹くくった。
目を開く、女を睨み付けて私は口を開いた
「……お久しぶりですね、江川さん」
二度と会いたくなかったです、と付け足したかったけど思いとどまった。
だから代わりにこう付け加えて、虚勢ではあるが不敵に笑ってやった。
「よくもまあ、自分を殺そうとしたキチガイの前に現れようなんて考えられましたねえ?」