電話の相手は幸福者
しとしとと雨が降っている音を聞きながら、私は右目を閉じた。
一年ほど前まで姉が住んでいたアパートの一室で私はだらけていた。
薄着で床に直に寝転がっている私を誰かが見たら思い切り呆れると思う。
6月のはじめ、梅雨に入ったせいで生暖かく湿っている。
ちょうど一年前のこのくらいの時期は大変だったと思い出しかけて、私は思考を停止する。
詳細に思い出すだけで数日欝状態になる事は確定しているからね。
本当に本当に、あの時期は嫌な時期だったぜ。
それだけで切り捨てておく。
だけどつい思い出してしまう。あの鮮やかな赤色と黴臭く埃の臭い。
汚れた空気の中、今と同じように汚い床に横たわってただ罅の入った窓から空を眺めていたっけ。
それ自体は嫌な記憶ではないから、むしろあの時期の中では比較的穏やか且つ心の安らぐほぼ唯一の時間だったから。
からーん、カラーン……
過去の記憶にトリップしていた私はハンドベルの音色で現実に引き戻された。
ハンドベルの音色を奏でているのは床に放ってあった携帯電話だ。
手探りでそれを取って、寝転がった状態のまま通話ボタンを押す。
画面に表示されている名前を見なくても電話の相手が誰かは分かっていた。
「もしもし、姉さん?」
現在旦那の実家で絶賛子育て中の姉からの久しぶりの電話だった。
『もしもし、大丈夫?』
開口一番で心配された事を少しだけ情けなく思ったが、仕方ない事であるとも思うので文句は言わない。
「大丈夫だよ、何事も無く全部順調、そっちはどう?」
若干嘘を交えつつそう言う。
変な心配をかけるわけにはいかないからね。
露出狂を殺そうとした小学生と定期的に会っているなんて事は口が裂けても言えないぜ。
『私は大丈夫だよ』
「ああ、そうだ私の可愛い可愛い姪っ子は元気?」
そう言うと姉が小さく笑った。
綺麗な姉の綺麗な笑顔が脳裏に浮かぶ。
自分とは全く違うそれを鮮明に思い浮かべる。
そう言えばもう結構長い時間あっていないっけ。
死んだ(事にしている)両親と比べると短いけどさ。
『元気元気、元気すぎるくらいだよ。それに私も彼も元気だよ』
「そっか、それじゃあ安心だ」
ま、姉さんの事だから当然だけどね?
分かり切った事をあえて聞いた事にあんまり意味は無かったりする。
ただの確認作業だ、ただ自分の安心の為に問うただけだ。
今から一年以上前、突然妊娠したと言われた時は当時揃っていた両目が飛び出るほど驚いたけど、幸せそうで何よりだ。
より一層パニックになった我が元両親共を物理的に軽く脅して納得させた私の行動はきっと無駄にならない。
ま、あの時一番パニック状態で且つ情緒不安定でぶっ壊れてたのは私なんだけどさ。
当時の状況を一番よく知っていたからね。
もちろん知りたくなんて無かったけど。
もし何も知らなかったらまだ両目が揃っていたかなと思うけど、その事に悔やむ気も無い。
どっちにしろおんなじ結果になっていたような気もするし。
『そう言えば矢島君は元気?』
突然あげられた名前に若干動揺した。
その名前が挙げられる事になんの違和感もないし、むしろ問われて当然の事だったのに、不意を突かれて殺されかけている武士の様な心境に陥った。
「……うん、元気だよ」
動揺を気取られないように軽く笑いながら答える。
まさかすでに私から絶交したなんて口が裂けても言えなかった。
それくらい奴と私の関係は深かったし。
それくらい世話になった。
奴がいたからこそ、姉さんの私に向ける心配と不安が軽減していたんだし。
だからこそ奴と決別した事を悟られるわけにはいかなかった。
『そっか、よかった』
ふふふ、と姉さんが笑う、どうやら私の嘘には全く気付いていないようだ。
その事に深く安堵しながら私も笑った。
『あ、そう言えば』
ふと姉さんの声が硬くなる。
いったいどうしたのだろうか、また何かあの人達が問題を起こしたのかと身構えたけど、姉さんが次に言ったのは私が危惧していたものとは全く違った。
『最近そっちで通り魔が出てるって聞いたんだけど、大丈夫? 何か嫌な目に会って無い?』
「無いよ」
あー、そう言えばそんな噂をつい最近聞いた。
でも多分私は大丈夫だという根拠のない自信がある。
『そう………でも気を付けてね』
「うん、分かった。でも大丈夫だと思うよ?」
『………何で?』
「噂によると件の通り魔のターゲットは顔の綺麗な美少女らしいからね、年齢も10代前半が中心に狙われているらしいし、私は対象外だよ」
『………そうなの?』
「うん、クラスメイトに警官の息子がいてさ、そいつがそう話してた気がするから信憑性はあると思うよ」
教室の隅っこでヘッドホンを装着する前に偶然その会話を聞いただけどさ。
もしその噂が真実なら、本当にまずいのはリオンちゃんなんだけどさ。
でもまあ、大丈夫だろう。
根拠なんて全くないけど。