オフィスに住む魔物
カタカタカタ…
私の頭の中であの音が響く。
時刻は朝6時。そろそろ起きないと…。隣で寝ている三歳の息子を起こすがなかなか起きない。仕方がないので抱き上げて一階に降りる。目を覚まし「まだ眠い〜!」と言って泣き出した。泣きたいのはこっちの方だ。
素早く息子の朝食の準備をし、私は素早く出勤の準備をする。化粧を素早く済ませ、ダイニングに戻ると、案の定ほとんど食べていない。「一緒に食べようか。」と声を掛けるとようやく食べ出した。私の朝食はアンパン一個と野菜ジュース。とてもゆっくり食べている時間はない。
朝7時。行きたくないと大泣きする息子を無理矢理玄関へ連れて行ったところで起きて来た妹と鉢合わせる。
「お姉ちゃん!昨日も帰ってきたの12時過ぎてたでしょう!もういい加減にしてよね!」
言われると思った。
「私も毎日※※※くんの面倒見られないんだよ。私だって仕事もあるし……」
パタン!
私はドアを閉めた。妹には申し訳ないと思うし、感謝もしている。年老いた母親に代わり、息子の面倒をよくみてくれている。
ただ、私も生きる為に働いているのだ。いくら子連れの出戻りとはいえ、あの言い方はないじゃないか。なんだか悲しくなってきた…。
泣く息子を保育園に預け、駅へ急ぐ。これから会社までの1時間半。唯一の私の自由な時間だ。
まず「小説家になろう」のサイトを開く。バナーの下に赤い文字。やった!感想がきている。ドキドキしながら赤い文字をタップし、感想を読む。うんうん…。今の私の一番の至福のひとときだ。感想に御礼を書かなきゃ…。
感想を書き、新しい小説の事を考えているといつの間にか熟睡していた。目を覚ますと乗り換える駅に電車が停まっている。私はあわてて、電車を乗り換えた。
会社のある駅に到着すると、喫煙所で煙草を一本だけ吸う。何年も禁煙していたが、また最近吸い始めた。セーラムが250円から440円になっていたのには驚いた。
ふと周りを見回すと、人生に疲れ、世の中の片隅へ追いやられたような中年親父が二人、煙草を無表情で吸っている。昔は煙草を吸う事が大人のステータスだったが、どう見ても格好良くはない。むしろ、人生の敗北者の様に見える。
私もこう見えているのか…。
そっと煙草の火を消してその場から離れた。
8時30分
会社に着くと五階にあるオフィスに向かう。徐々に胃が痛くなってくる。
カタカタカタ…
フロアにあの音が響いている。
フロアの端にある席へ向かう。私の会社での肩書は企画室 新規プロジェクト推進担当係長。名前だけは御大層だが、要はその他雑用係だ。マスコミへの記事の作成や政府の方針で決まった何の意味があるのか分からない様な調査、社長のきまぐれによる資料作り等の、他の担当部署から外れた文書ばかりが回されてくる。とても全てに対応している時間はないが、取捨選択の判断は私に委ねられている。というか、責任を押し付けられている。
はっきり言って私には荷が思い。こんな仕事は判断がきちんとできるベテランがすべき仕事だと思うが、今やそんな存在はいない。年々業績が悪化し、ベテラン組は退職金がもらえるうちにと早期退職で辞めていった。若手も早めに見切りをつけて辞めていった。そして辞めるに辞められない中堅だけが残った。新規採用は何年もなく、人員の補充は即戦力の中途採用のみ。結果、30代、40代がオフィスのほとんどを占める歪な年齢構成となっている。
「おはよう。○○○さん。来たところで悪いが、ちょっと来てくれるかな。」
部長の呼ぶ声がする。嫌な予感がした。胃がキリキリと痛む。
「なんでしょうか。」
「いや、昨日△△新聞に掲載された、我が社に関する記事だが、決算の数値が間違っていると副社長から指摘があった。なぜこの様になったのか説明して欲しい。との事だ。」
キリキリキリ…。また胃が痛む。
「その数値については経理から提出された数値を入力し、部長に提出する記事のチェックをお願いしましたが…。」
カタカタカタ…
「理事会の書類については君に全て回しているので、資料をきちんとチェックをしていればこのような事態は防げたはずだ。私も全てをチェックをできる訳ではないので、君がしっかりやってもらわないと困る。」
では、私の責任だというのか。この記事の提出については社長まで決済をもらっている。文句を言いたい気持ちを抑え、なんとか返事をする。
「申しわけありませんでした。副社長へは私から説明いたします。失礼します。」
胃の奥から酸っぱいモノが上がってくる。私はトイレへ駆け込んで吐いた。喉に引っかかる粒あんの粒が不快だった。
まだ朝だというのに涙が溢れてきた。しばらくトイレにこもって泣いた。化粧直しの為に鏡の前に立つと、鏡の中に中年の女が疲れた顔をして立っている。かつて職場の花だとチヤホヤされていた面影は全くない。
これが私なのか…。
なるべく鏡を見ないように化粧を直した。
カタカタカタ…。
「あっ…、○○○さんが今戻りました。その件については彼女に任せます。……はい、その様に伝えておきます。」
デスクへ戻ると、また部長に呼び出された。
「来月の××日に、◻︎◻︎庁の現地調査が入ることになった。我が社の業績を説明できるようまとめておいてくれ。あと、会場のセッティング等も宜しく頼む。もちろん当日は君にも同行してもらう。資料の説明出来ない点については君に説明してもらうのでそのつもりでいてくれ。」
目の前の視界がグニャリと歪んだ。
「申し訳ありません。他の仕事がたてこんでおりまして、その様な時間はないのですが…。」
カタカタカタ…
「君以外に適任はいないと考えているが、無理なら他の人に振ってくれても構わない。その辺りの人選は君に一任する。決して無理はしない様に。頼りにしているよ」
遠くから部長の声が響いてくるが、歪んだ視界の中で、部長の顔が真っ黒に塗りつぶされていき、表情がよく分からない。黒い顔の中に赤い口だけが動いている。その姿は魔物の様だ。
ありがたいねぎらいの言葉と権限を頂き、私は周りを見渡してみる。すると、皆一斉に目を伏せた。誰もこんな仕事はやりたくないだろう。誰かに振ったところでその人が辛い思いをするだけだ。私の視界の中で同僚たちの顔が部長と同じ様に黒く塗りつぶされていく。やがてオフィスは黒い顔の魔物たちに占拠された。
結局一人でやるしかないのだ。私は溜息をついて、スケジュールを組み直した。明日から妹は旅行で不在の為、土日は出勤する訳にはいかない。今日中にある程度仕上げてしまわなければ…。
前任の先輩のことを思い出す。先輩は鬱病を患い入院中し、私がその後任となった。引継ぎも兼ねてお見舞いに行ったときに見た先輩の顔が、先程の鏡に写った私の姿と重なる。
「あのオフィスには魔物が住んでいるのよ。」
冗談だと思っていた先輩の言葉が頭に響く。
カタカタカタ…
「お疲れ様でした。」
時刻は18時。仕事を終えた黒い魔物達が帰り始める。
19時…
20時…
もう誰もいない。
フロアに残っているのは私だけだ。
21時…
カタカタカタ…
22時…
カタカタカタ…
23時…
終電が出てしまう。続きは月曜日の朝早く来てやろう。
誰もいないオフィスを出て更衣室へ向かう。また涙が出てきた。私は一体何のために働き、何のために生きているんだろう。胃の奥から酸っぱい匂いが上がってきたが、無理矢理飲み込むと、更衣室の扉に向かった。
カタカタカタ…
扉に貼られている鏡のなかで黒い顔をした魔物が笑った気がしたが、そんなことより早くしないと終電が出てしまう。私はドアを開け、エレベーターに乗り込み、会社を後にした。
カタカタカタ…
例の音が耳から離れない。この音は魔物が私の心を食いつぶす音かもしれない。少しづつ心が壊れていくのが自分でも分かる。
幼い頃に描いていた私の夢ってどんなだったっけ?今はそれすら思い出せない。また涙が溢れそうになった。
いつの間にか駅のホームに立っていた。ふと周りを見渡すと、オフィスだけにいるのかと思っていた黒い魔物がホームにもたくさんいるのに気づいた。
あぁ…、行き帰りにすれ違う人達は前からこうだったっけ?多分私も他の人から見れば黒い魔物の一人なのだろう。私が彼等に興味がないように、彼等も私の事に興味などない。お互いに興味の無い、黒い魔物同士がホームに並び立っている…。
カタカタカタ…
間も無く終電が到着するというアナウンスがあの音に混じり、遠くの方から聞こえる。
私はホームの側に立ち、ホームの下にある線路を見つめた。すると、ホームの下にも黒い魔物がいるのが見えた。しかし、こちらの魔物はホームの上の者たちとは違い、じっと私のことを見ている。いや、見てくれている。
あなたは私の存在を認めてくれるの?
カタカタカタ…
ガタンゴトン…
音がだんだん大きくなってくる。
カタカタカタ…
ガタンゴトン…
カタカタカタ…
仕事のあまりの忙しさに、病んでるなぁ…。と最近思います。職場への恨みをこめて書いてみました。多少誇張してますので実際はここまで酷くはありません。
心と身体の健康には十分気をつけて過ごしていきたいと思います。




