第2章「九尾の狐」
「なんだか最近、身体の節々が痛い」
「歳ですね」
「僕はまだ17歳だよ」
朱音に屋敷を手伝わされた次の日。
天光神社の食卓にて。
今日の夕飯は和風ハンバーグとカボチャの煮付けと舞茸汁だ。
僕の訴えに吽形が首を傾げる。
「どうして痛いわん? 特に部活は入ってない筈わん」
「仕事もしてないにゃん」
「あー……ちょっとした手伝いっていうか、強制労働っていうかをやらされたんだ、うん」
「へぇ、知りませんでした。何時の間に?」
「つい最近だよ」
やはり依頼者――朱音に身体強化の術を掛けられていたとはいえ無理があったようだ。
僕は自分の肩を揉む。
「そういえば最近、この辺りに大きな高級旅館ができたらしいですよ」
「何それ?」
僕は祀に尋ねる。
「確か開業記念とかで商店街でガラポンが行われていたと思います。その商店街のお店で何か商品を購入すると挑戦できる券が貰えるとかで」
「へぇ」
僕は適当に相槌を打つ。
まぁ倍率とか高そうだし、やっても当たらなそうだ。
「私もやってみたけど3等の音楽プレーヤー『歩く男』が当たったわん」
「こっちは2等の極度乾燥4箱が当たったにゃ」
それを処分する為に販売してた訳か。
仕方が無い……と言えば仕方が無い。
僕は白米を口に運んだ。
「まぁ普通に行くと1泊で何万円もしますからねぇ、私達には到底行けないでしょう」
「神社大きいけど財政難なの?」
「当り前です。運営や管理にお金が沢山行くのです」
そういえばこの神社って何が収入源なんだろう。
流石に参拝者からのお賽銭じゃ足りないだろうし。
そうして僕は歩き巫女、というものを思い出した。
特定の神社に所属せず、全国を回って祈祷や宣託などを行って生計を立てる巫女の事だ。
その多くが遊女や旅芸人兼ねていたという。
その考えに至って僕は顔を引きつらせる。
まさか……
「どうしました?」
きょとんとした顔でこちらを見る祀。
うん、無いな。
「何でもないよ」
僕は彼女にそう言うと箸を置いた。
×
僕はこれといって運がない。
不幸っていう程ではないものの、今まで懸賞に当たった事がないくらいには無い。
流石にじゃんけんなどでは勝つ事もあるが、それはあくまで賭け事ではない時のみだ。
まぁ僕のイメージカラーが黒、と周囲の方々が思っているのもあるのだろうが金運的に黒ってどうなのだろう。
流石に幸運ボーナスが欲しいからって『金色の衣』なんて着たくない。
今日の研究によると『運』というのは霊的存在が人の深層意識に影響を与える事で操作しているという。
つまり今日はなんとなくこっちの方に行こう。あっ、道にお金が! みたいな現象は人為的な『なんとなく』によって起きているという訳だ。
強力な霊の加護を得るとサイコロの目やコンピューターの乱数による当たり外れも操作してくれるという。
加護が無い筈の僕がこのような事を起こすとは。
「おめでとうございます、一等の『舞風で1泊2日のやすらぎをあなたに~4名様まで大丈夫~』が当選です!」
次の日のこと。
どういう事ですか。
ガランガランとけたたましく鳴るベルの音を僕は呆然と聞く。
ここは朧想街中心部にある商店街の一角にあるガラポン会場だ。
会場と言っても簡素な屋根とテーブルがあるだけである。
しかしそこそこの人で賑わっていた。
3日間開催されているらしく、今日がその最終日だった。
で、ちょうどこの商店街で買い物を頼まれていた僕は挑戦券を手に入れて、どうせなら粗品だけでも貰おうと思い挑戦した。
まさかこうなるとは思いもしなかった。
当たっただって。
「舞風って……あの最近できた高級旅館の?」
「はいその通りです」
狐耳のお姉さんはにこにこしながら頷く。
これは夢なのか、と僕は慄いた。
とはいえ宿泊券は突き出されたので僕はそれを受け取る。
ちゃんと実感があるので、どうやら夢ではないようだ。
確かに紙切れには『舞風で1泊2日のやすらぎをあなたに~4名様まで大丈夫チケット~』と書かれている。
しかしフォントが明朝体なのでどこかシュール。
僕は感嘆の溜息を吐くとガラポン会場から出た。
×
当選から1時間後。
「という訳でこんなのが当たったんだ」
僕はその戦利品を彼女達に見せた。
当然ながら彼女達は大小様々だが驚愕している。
「まさか当てるなんてにゃ……」
「ということは皆で行けるのかわん!?」
「奇跡ってあるんですねぇ」
「来週あたりにでも行こう。皆予定大丈夫でしょ」
僕は一応皆の確認をとる。
まぁ当り前と言えば当たり前なのだが皆問題無かった。
僕達は誰も生徒会活動や部活はしていない。
しかも神社に努めている? 以上あまり外に出たりしないのだ。
しかしインドアという訳でもない。
かといってアウトドアでもないけれど。
×
そんなこんなで当日。
僕達はバスに乗って『舞風』にやってきた。
……とは行ってもバスで20分くらいの、結構近い場所ではある。
辺りは山に囲まれ、1キロメートルはあるであろう長い石畳の坂が僕達を迎えた。両側には温泉宿や土産屋が奥まで並んでいる。
しかし現在は太陽が沈み、夜となっているので店の前に赤い提灯が灯されている。その光景は温泉街というより遊郭に近い雰囲気だ。
こんなに遅くなったのには阿形や吽形が持ち物を色々と持ってきたからだ。一泊二日の宿泊なのにテレビゲーム機なんて大量に持ってきてどうするつもりだろうか。パーティーゲームだったら僕だけ皆から嵌められそうだ。
一応、攻略本を来る前に買っておいたので、今度は吽形達にボコボコにされない筈。こちらが一方的に勝つのも難しいだろうが痛み分けだけでも彼女達にやっておきたい、と思う。
もうあの悪夢は見たくない。
さて、僕達はこの長ったらしい坂を登っていく。
周囲は多くの人が行き交い、中々賑わっている。
湯気が立ちこめて、僅かな硫黄の臭いが立ち込めていた。
「くしゃいわん……」
吽形は犬耳を力無く垂れ、眉をしかめていた。
見れば阿形も同様で、こちらも元気が感じられない。
そういえば猫も嗅覚が鋭いんだったけ、と思い出す。
そうして暫くの間、坂を登っていくとそれは見えた。
「はわぁ……すごいわん」
「こ、ここに泊まるのかにゃ」
祀も2人ほどではないがちょっと目を見開いて驚愕していた。
無論、僕もだ。
まず、その大きさ。
天光神社もでかい部類に入るだろうが、この旅館のサイズはその一回り近くはあるだろう。
外観は和風であり、その大きさもあってか旅館というより、城と呼んだ方がしっくりくる。他のもので例えるのなら山だろうか。
やはり高級旅館である。
停まっている車も明らかに生活水準が違う人達のものだ。
そのほとんどが外国車。エンブレムがあったり、黒塗りだったり長かったり、とにかく普通じゃない。
僕達はおそるおそるでかい門を潜って中に入る。
朱塗りの柱が何本も立っていて、照明が眩しいエントランス。
至る所に金の装飾が施され、豪華絢爛という言葉が相応しい。
なんだかこの辺りからもう自分たちが場違いな感じ。
逃げ出したい。
僕は後ろの3人の様子を窺う。
「でかい水槽に鯉が泳いでいるにゃ!」
「あっちにはクマの剥製わん!」
「中も広いですね」
みんな興奮しているが普通だった。
なんだか僕だけこんなにも緊張しているのがおかしいと感じる。
取り敢えず受付に向かった。
「いらっしゃいませ。御用件は何でしょうか?」
「これを……お願いします」
丁寧な対応をしてくれたのは着物をきちっと着こなした美人の受付嬢だ。
彼女は僕が渡したチケットを両手で受け取るとちらりとそれを一瞥した。
「ありがとうございます。それではお部屋はどう致しましょうか?」
僕はにやり、と僅か、ほんの僅か――ミクロかマイクロかわからないけど取り敢えずそんなレベルで口端を上げた。
こ の 時 を 待 っ て い た 。
僕の全身にエネルギーが漲っていく。
今ならカリスマモードになっても大丈夫な気がするくらいのエネルギーを僕は体感する。
遂に永久凍土の僕の世界に春一番が吹き、白銀の世界を吹き飛ばし、灰色の空を切り裂いて黄金の太陽が顔を覗かせた。そうして花が咲き、世界が虹色で埋め尽くされる。それは『楽園』。僕はやっとここに到着したのだ。
(――元々お前は楽園に居る)
そんな声が聞こえた。気がした。まぁクラスの男子とかだろう。きっと能力か何かでこちらにテレパシーを送ってきたのに違いない。いつもならこいつ直接脳内に……! ごっこでもやってやるが今はそれどころではない。なのでそいつにはスルーを決め込む。
この興奮と高揚を悟られてはいけない。
特に姫禊祀には!
彼女は恐らく拒否するだろう。
礼儀正しく清楚で真面目な大和撫子が取り柄の巫女である彼女は絶対にそれを拒否する。それは明白。ならばやるべきことは簡単だ。
強制突破。
ここで同じ部屋にする、と言ってその通りになってしまえば後はこちらのもの。しかしここで僕の思惑を悟られてしまえば計画は頓挫する。故に僕は慎重を要された。
重要なのは彼女たちと一緒の部屋になる事。
部屋には巨大な露天風呂が備え付けられているので周囲の利用者は気にしなくて良い。つまり合法的に彼女たちと一緒にお風呂だ。これはヤバい。僕のボキャブラリーに記録されている多くの単語が一気に消失したくらいにはヤバい。照れとか気恥かしさを隠そうとしながらもお互いにバレながら僕達は一夜を共にするのだ。あとはもう想像にお任せしたい。
今日、この瞬間に僕は人生の大きな選択に迫られていると言っても過言ではない。悟られてはいけない。読まれてはいけない。
僕は顔色一つ変えず、『僕はにやり、と僅か、ほんの僅か――ミクロかマイクロかわからないけど取り敢えずそんなレベルで口端を上げた。』からこれまでの思考をコンマ数秒で終了させた。と思う。
そうして受付嬢の顔をきっ、と見据えた。
「全員同じ部屋で
「私達は3人部屋で彼は1人部屋でお願いします」
「かしこまりました」
僕は開いた口が塞がらなかった。
信じられない。
思わず祀の方に顔を向けた。
「どう、してさ……?」
「捨てられた子犬のような目をしても駄目です。というか本気で言っているのですか?」
「当たり前じゃないか。まさか僕にたった一人で過ごしていろって言うの?」
「はい」
その瞬間、僕の中で何か大切なものが折れた気がした。
いや、確かに折れてしまったんだ。
僕にはそれが何なのかわからない。
だけど、それはかけがえの無い、大切なものだった。
それが呆気なく、一切の余韻なく根本からぽっきり折れて、粉々に砕け散った事を理解した。
目の前が真っ暗になる。
足元がひび割れ、穴が開き、僕は奈落の底に向かって落ちていく。
ああ、光が遠のいて行く。
それは希望という光だった。
それは僕の生きる指針になっていたんだ。
僕はゆらゆらと身体を揺らめかせると近くの赤いソファに深く座り、頭を抱えた。
(――これが現実だ。喜べ、お前はまだこちらのぬるま湯の世界に浸っていられるのだからな)
――おかえり悪夢。
僕は力なく乾いた声で笑った。
(――希望など、持たない方が良い。それが一番幸せだ)
――ああ、その通りだよ。
僕は崩壊していく『楽園』にさよならを告げた。
虹色はその色を失い、花は枯れ、太陽は曇天に隠れ、再び世界が氷に閉ざされる。
「祀ー夜行が可哀そうだからいっしょの部屋にしてあげようわん」
「いけません。彼は性欲の権化です。そんな事をしたら私達の貞操の危機です」
「吽形、夜行は年中発情期なのにゃ、だからケモノと変わらないのにゃ」
僕はウサギか。というか阿形も一応ケモノでは?
僕は突っ込もうとしたが最早力尽きていた。
彼女たちは受付嬢から部屋のカギを借りると僕を置いてさっさと行ってしまう。
「それではこちらのカギをどうぞ」
受付嬢がカギをこちらに渡してきたので僕は受け取る。
彼女の柔和な微笑みがむしろ悲しかった。
×
「この部屋か」
僕は長い廊下を歩き、途中で止まってそれに目を向けた。
お互いを睨む龍と虎があしらわれた襖だ。
見るからに高そうなやつ。
こんなものに傷をつけて弁償を請求されたら堪ったものじゃないので僕はそれを恐る恐る開ける。
センサーでも付いているのかライトは自動で点く。
現れたのは部屋ではなく観音開きのドアだった。どうやら見栄えを優先して鍵などのセキュリティはこちらに設けているらしい。僕は借りた鍵を穴に挿し込み、捻った。かちゃり、と何かが外れるような音がしてドアに隙間が開く。
僕は鍵を抜いて扉を開け放った。
「広いんだなぁ……」
僕は感嘆の溜息を吐いた。
中もやはり和風な趣。
掛け軸や屏風など置かれているものにも趣向が凝らされており、それぞれに一級の美術品のような印象さえ抱く。
テレビは雰囲気を壊さないように立体映像が使われているようだ。
しかし立体映像というのは場所を選ばない分、デメリットも多い。まず映像が荒い。そして背景が透けて映像が見えにくい。なにより高コスト。昔からSF作品で多く使われている技術である為、需要が全く無いと言えば嘘になるがそれでもやはり液晶がまだまだ隆盛を誇っている。試しに電源を入れてみると映像発生装置の後ろの壁がスライドし、白いスクリーンが展開した。見やすいのは認めるけどこれでは映画やプロジェクターと変わらないと思う。僕は電源を消した。
そうして部屋の中を見回す。
僕一人しか居ないので更に広く感じる。
そう、僕一人だ。
集団で来たのに。
しかも集団部屋と個人部屋では部屋の場所が違うので彼女たちの部屋からここはかなり遠い。
つまりお風呂でのキャッキャウフフや艶やかな嬌声も聞こえない、という事になる。
僕は部屋の障子を開き、朧想街の夜景を望み、そして泣いた。
「お食事でございます」
と、僕が嗚咽を漏らしていると従業員の女性の声が聞こえた。
ハンカチで涙を拭いつつ扉に向かう。
そうして僕はなんだか食べ切れなさそうなくらいの料理を受け取った。
「後で参るのでごゆっくりお楽しみになってください」
それだけ言うと従業員はさっさと行ってしまう。
まぁ、さっさと食べてしまおう。
焼き魚に漬物に鍋に、もうなんだか良くわからない。
お、これ美味しい。
そうして食事も終わり、食器は回収され、僕は露天風呂に。
白い湯気が立ち込め、規制は万端。
僕が湯に浸かったと同時にそれは晴れた。
この辺りは妖精などの人為的な力によってか桜で満ちていた。
花弁が風に乗ってお湯の上に着水する。
ここに彼女達が居れば完璧だった。
僕は再び咽び泣く。
で、風呂を上がって時間を確かめると午後10時になっていた。
どうやら長い時間温泉に浸かっていたらしい。
おかげで疲労や身体の痛みは回復したものの、どこか視界がぐらつき、頭がぼーっとする。どうやらのぼせたらしい。特にやる事はないので僕はさっさと布団に入って寝よう、と思い、押し入れから綺麗に折り畳まれた布団を取り出してそれを敷く。
こういうのは従業員の方がやってくれるものだがそこまで待つのも億劫だと考える。
横になってみる。
おお、ふかふかだ。
部屋の電気を消し、そうして僕は目を瞑る。
×
深夜。多分2時くらい。というかこういうシチュエーションではそうと決まっている。
僕は突然目が覚めた。
自分の感覚が鋭すぎて怖い。
「……まさかここはいわくつきの旅館?」
いえ、できたてほやほやの旅館です。
ならば幽霊などではないのか。
僕は半ば眠っているような状態でうっすらと目を開ける。
電気は点けていないので良く見えないが、なんだか部屋の出入り口の扉から妖しい気配がする。あれ、幽霊? いや、居るのはもう知られているけど。おばけなんて居ないさ、なんて嘘だ。だからといってクラスメートの白雪みたいな幽霊だったらちょっと怖い。血走った眼で呻く古典的な幽霊はもっと嫌だけど。
僕はガタガタと震えながら扉の方を見る。
そうしてゆっくりとそれは開かれた。
鍵を掛けるのを忘れていた、と僕は今更ながら後悔する。しかし幽霊では関係無いのか。
突然差し込む照明に僕は目を細める。
そのシルエットから女性だというのがわかる。
頭には狐耳。
こっくりさん?
僕は絶叫しそうになるがやはり声は出ない。
狐耳の影はゆっくりとこちらに近付いて来る。
来るな来るな来るな来るな来ないでくださいお願いします!
そうしてその影が僕の目前にまでやってきた。
いや、待て。昔からホラー映画では布団の中というのは絶対不可侵の領域の筈。白い子供と気持ちの悪い奇声を上げながら四つん這いで移動する髪の長い女が出てくる映画ではではそのジンクスを打ち破ったけど。
恐怖からか、それとも説明のできない力によってか僕は身動きひとつとれない。
そして遂に女の手が僕に伸びる。
更に浴衣を着てはだけた僕の胸元に手を入れる。
最後には僕の――これはイケない! 僕は腹に力を入れて跳び起きた。
「あら起きたの? 残念」
色っぽい声。
僕は不審者を睨みつける。
着物ははだけていて、扇情的な出で立ちだ。
なんだか見覚えがある。
あの狐耳は……
「ガラポン会場のスタッフか!」
「正解。名前は吉原魅麗よ。ご褒美にお姉さんが何かしてあげるけど?」
「そんな色仕掛けに掛かると思って……すいません脱がないでくださいお願いします」
僕は畳に頭を擦りつけて土下座した。
「つまらないわねぇ、そんなのじゃいつまで経ってもオトナにはなれないぞ?」
もうギリギリなところまで脱ぎかけていた彼女は唇を尖らせると着物を正す。
「そんなことはどうでも良い。いや、良くないけど今は良い」
僕は一呼吸入れ、
「どうして僕の元にやってきた?」
「んー? ま、言っちゃっても良いか」
彼女はニコニコしながらこちらに向き直った。
「お姉さんは人身売買の手伝いをしてるのね」
僕はあんぐりと口を開けた。
どういうことですか。
「つまりソッチの気がある人達を対象にした『商品』の調達かな。でもでも大丈夫、お金やアフターケアはきちんとするし監禁はしないし、終わったらすぐに開放するし。ほら見てこのグラフ、被害者のほぼ全員が新たな世界を知って幸せ、って回答しているんだから」
「いや僕はノンケなんで遠慮しておきます」
心の底からそう思う。
彼女はどこからともなく出した円グラフのボードを再びどこかに仕舞った。
「待て、という事は初めから仕組んでいたのか? あのガラポンから」
「最初からキミをターゲットにしてた訳じゃないの。あれはただのバイトでやってたのよ。だけどちょうどキミを見付けてこれは良いモノ、ってお姉さんは思ったのね。取り敢えず後でキミを追跡して身柄を押さえれば良いとは思っていたけれど手間が掛かるじゃない? だからキミがあのチケットを当てた時は正直ラッキーとは思ったのよ」
「じゃあこれから僕を拉致するつもりなのか?」
「できるだけ手荒な真似はしたくないの。イケナイ事を考えなければ良いのよ。お姉さん、これでも九尾の狐の末裔だし」
九尾の狐って……はぁ!?
僕は唖然とした。
九尾の狐。
絶世の美女ともいえる姿をした妖狐。
万単位もの年月を生きた古狐が転生したものであり、獣の中でも高い霊力を持つ狐の妖の最終形態。
『太平広記』などによると天より遣わされた神獣であり、その場合は幸福をもたらす存在とされる。中国最古の王朝とされる夏王朝を築くという偉業を成し遂げた兎王は、九尾の狐を見た後に女嬌という塗山の娘と出逢い、結婚した後に王になったという。
しかし後年になると九尾の狐は神獣ではなく魔獣として扱われるようになる。
フィクションではあるが、許仲琳の『封神演義』では九尾の狐は妲己という名の美女の身体を奪い、殷の王・紂王の寵愛を受けて悪政を行った。しかし反乱が起き、王が自殺すると妲己も処刑された。しかしその直前に九尾の狐は身体を捨ててインドに逃れ、班足王の妃である華陽となって悪事を行うも、また露見される。最終的に日本にやってきて玉藻前という女になりすまし、鳥羽法皇に近付いて宮廷を乱したが陰陽師で、かの安倍晴明の血を引く安倍泰成によってその正体を暴かれ、退治されたという。
そんなとんでもない経歴を持つようなのが僕の身を狙っているだって。
僕はじりじりと後ずさる。
彼女はちらりと舌を見せてこちらにゆっくりと近付く。
しかし僕の背中は壁にぶつかり、それ以上動けなくなった。
「さーそろそろ諦めよっか。そんなに心配しなくても大丈夫。キミは新しい世界に目覚めてその快楽に――ってこら待ちなさい!」
僕は聞いていられず窓から外に出た。そしてほんの僅かに力を開放して傷一つ、音一つなく地面に着地する。
そして後ろを振り返らず全速力で走った。
「抵抗しちゃ駄目って言ってるでしょー!」
「それこそおかしいわ! 貞操の危機が懸かって――って早ッ!?」
「九尾の狐を舐めたらいけないんだぞ!」
そんなこんなで僕は夜の山と温泉街を駆けていく。
×
なんだかんだで彼女を振り切る事ができた。
「夜行ーそろそろ帰るので入りますよ……ってどうしたんですか?」
午前9時。
観音開きの扉を開いて来たのは祀だった。
彼女は目を丸くしてこちらを見る。
当たり前だろう、身体の疲れをとる為にここに来たのに寧ろ来る前よりも疲れているのだから。
僕は布団に突っ伏しながら彼女によろよろとおはようのジェスチャーをする。
「貞操の危機に巻き込まれたのさ……狐に」
「はぁ……もしかして吉原魅麗ですか?」
「知ってるの?」
「はい。一応彼女も別の神社の巫女ですし。まぁグレーゾーンな事をいくつもやっているので勤務先からは良く思われていないみたいですけど」
僕は脱力した。
「歩き巫女か……」
そういえばソッチ系が対象の人身売買はブラックではないのだろうか。
後で通報しておこう。