竜の綴る唄
【その腹に秘めし鬼】
左目の竜眼が鈍く痛んだ。国府津駅を出てから坂道を上り国道一号線を小田原の方向へ向かうが、俺はどうしようもない左目の疼痛を誤魔化す為にワイシャツの胸ポケットからマイルドセブンを取り出して口に銜える。ライターを探すがなぜか煙草の箱には入っていない。
俺が不審に思いながらズボンのポケットをまさぐっていると、白いワンピースに麦わら帽子を被った少女――片瀬風祢が上機嫌でスキップしている。
(また風祢の仕業か……)
ちっ、と苛立たしく煙草を箱に戻して胸ポケットに仕舞った。途中のコンビニでライターを買うしかないと思ったが、道はどこまで行っても右手に山、左手に海しかない。民家こそあれど、なかなか店は見つからない。
俺は昼からの暑さも加わって歩くことさえだるく感じたが、それでも風祢の為に渋々歩く。
「タカハル、葉巻は体に毒じゃぞ」
「放っておいてく――れ……」
唇を尖らせて言ってくる風祢を誤って左目で見てしまうが、今は昔ほど恐怖を感じなくなっていたので表面には平然と見返すことができた。
それに気付いた風祢が俺の視界から逃れようと再び俺の右側に並んで歩く。
「タカハルは……いや、何でもないのじゃ。気にするな」
にぱっ、と風祢は笑う。俺は口を開きかけたが、止めた。ちょうど坂を下って信号を通り過ぎたところに煙草店を見つけたからだ。これでイライラの苦悩を誤魔化すことができる。
ひょいひょいと店に歩いて行く俺に風祢が露骨な嫌悪の表情を浮かべたが、関係ない。俺にはこいつが必要だった。
店の正面に座って新聞を読んでいたばあさんに二百円を差し出す。
「ライター一本貰えるか?」
「あいよー」
気風のいいばあさんがレジも打たずに二百円を頂いてライターを渡してくる。俺はそれを受け取ると、胸ポケットから箱を取り出して改めて煙草を口に銜える。ライターで火を点けると、不味い煙が胃の中に落ち込んでくる。
とても不快な気分になるが、この不快な気分になることで他のもっと不快なことを誤魔化しているだけだ。それでも、このイライラを煙草にぶつけられるだけ幸せだが。
離れた場所で両腕を組んでる風祢を見遣りながら煙をふかしていると、無性にイライラが募る。そしてこの左目をいっそのこと抉り出してやりたい衝動に駆られながらも、俺はまだ半分以上残っている煙草を地面に吐いて革靴でしつこく踏み潰すことによって憂さを晴らした。
分かっている……こんなことでイライラが解消できないことくらい。
ようやく近付いてきた風祢は頬を膨らませていた。理由は単純だ。いつも通り尋ねて、『臭いからじゃ!』と怒鳴られるのもいい加減飽きた。
俺は店の横にあったコンドームの自動販売機を指差し風祢を見つめる。
「今夜のために買っておくか。厚さ0.02mmらしいぞ?」
「たたた、タカハルッ!? 私は、タカハルなら付けなくとも……いいんじゃ、ぞ……?」
頬を赤く染めながらも嘯く風祢に俺は動揺して、国道一号線を再び歩き出した。鴨宮までは次の信号を右に曲がればもう少しだ。
風祢はさっきまでと違い固い足取りで俺の後に続き、付かず離れずの距離を保っている。
じれったい。
「そのじゃな、タカハル。私はいつでも覚悟できておるのじゃ。だからタカハルさえ良ければじゃな…………」
「少し黙っててくれ」
「う、すまぬ……」
思っていた以上に怒気がこもってしまっていまい、俺は自分自身を殴りたい気分だった。これ以上、風祢に嫌な思いをさせたくないと選んだ道のはずが、逆に互いを苦しめていた。
風祢の言う通り契ってしまえばこの左目も左目の疼痛とも綺麗さっぱり別れられるんだろう。それは事実だ。しかし。
「俺は、正直お前を失いたくない。もしこの左目が無くなったら俺には、いや、人間の俺にはお前を認識する手段が無くなる。だからここへ来たんだ」
「タカハル……」
信号が赤になって、俺は止まる。俺に追いついた風祢が俺の背中に抱き付いてきた。
「――――おい」
「いいじゃろ? どうせ人間には私が見えぬのじゃから。私にとっても、タカハルにとっても私たちは特別な存在――じゃろ?」
「……そう、だな」
俺が諦めの境地で頷くと、風祢はにぱっと笑った。その身勝手さにどこか俺の心が救われたのも事実だった。
信号が青になって俺が風祢の両腕を解くと、風祢は拗ねたように頬を膨らませながらもまた歩き出した。
夏の暑さに辟易としながら途中でコンビニに入る。クーラーが効いていて涼しい。それなのに風祢は一向に店内に足を踏み入れようとしない。
「――クーラーも風だからか、そういや……」
風祢は竜であり、竜は風だ。そしてクーラーなどの人為的な風を風祢は好まない。自分のクローン人間が自分を犯してきたら嫌だろうと説明されたことがあるが、いまいち分からない。それ以前に男の俺が犯されるという発想自体無理なのだが。
そういう理由で藤沢駅から国府津駅までは何とか風祢を説得して東海道線の電車に乗っていたが、クーラーが堪え難いということで目的地である鴨宮の一つ前で降りたのだった。
コンビニ店内でペットボトルの麦茶を買った俺はそれを開けながら店を出る。風祢はようやく出てきた俺に従ってまた歩き出す。
「なあ、風祢。俺は永遠を生きるお前からしたらよっぽど小さい生き物だと思う」
「そんなことはないぞ。永遠なぞ、寂しいだけじゃ。特にタカハルと会ってからは、そう思うのじゃ。どうして共に死ねぬのか、と」
永遠を生きる竜と、たかだか百年生きれたら長生きである人間。俺にはどちらがいいか悪いかなんて分からないが、それでも一つだけ言えることがある。
「共に死ねぬ、か……。それでも俺はお前に出会えたことが嬉しかった。死ねないからこそ、竜だからこそ俺はお前に会えたんだ」
急に恥ずかしくなって何も無い方向を見るが、風祢が俺の右腕に両腕を絡めて抱き付いてきたので反射的に風祢を見た。とても、嬉しそうだった。
実体同然の重さや温もりを感じながら、俺は確実に破滅へ向かって歩いていた。風祢と交われば左目は失われ人間に戻った俺は風祢を視認することができなくなる。
なら話は簡単だった。俺が人間でなくなればいい。
幸運にも左目に竜眼をはめている今の俺は人間と竜のちょうど境目の存在になっている。後は、その均衡を崩せば肉体はそのどちらかに転ぶ。
問題はどうすれば竜の力を増やせるかだった。
俺が黙って考え事をしていたからか、風祢が心配そうに俺を見上げてきた。
「私は今のままでもいいんじゃぞ?」
今のまま――――このまま人間として風祢と生きていく道もある。無理に俺がそのことで悩む必要は無いのかもしれない。
頭の中が混線して思考が纏まらない。コンビニで買った麦茶をぐいっと飲みながら空を見た。
太陽が眩しい夏の青空が広がっていた。
卑怯にも太陽だけはすべての人間に平等に見ることができる。人間同士でさえ永遠に会うことができないのが当然なこの世界で、太陽だけはすべての人間と会うことができる。それはとても羨ましいことだ。
高架線の下の日陰に一旦逃げると、俺は隣にくっついていた風祢を押し倒して唇を奪った。
頭の中のイライラはまったく晴れなかった。
†
鴨宮のショッピングセンターから歩いて二十分ばかり行くと、ブックオフやミスタードーナッツなどが並ぶ巡礼街道を歩き、信号を右に曲がると細い道に入る。鴨宮中学を過ぎたところで更に細い道に入って行き、目的の家に着いた。
塀に囲まれたコンクリート住宅の玄関に行く途中、庭の花壇が荒れていて手入れされていないのが目に入ったが、さして気にせず玄関に立った。チャイムを鳴らすと、不幸を背負って生きているような疲れ果てた顔をした主婦が玄関を開けた。
「どちら様でしょうか?」
恐々と尋ねてくる主婦に頭を下げると、俺は予め頭の中で整理していた内容を思い出す。
「警察が川で溺れ死んだお宅の良治くんの遺体が引き上がらないことを不審に思ったらしく、再調査していまして。そのことについて事件当時のことを詳らかに教えていただけますか?」
主婦は顔色を蒼白にしてドアを閉めようとしたが、俺が瞬時にドアの間に革靴を挟んでドアを止めた。
「け、警察を呼びますよ!」
「ぼくは構いませんよ。まったく。むしろその方が奥さんも安心して説明できそうですし、ぼくが呼びますよ」
俺がズボンのポケットからハッタリ道具の契約切れの携帯電話を取り出してダイヤルを押そうとすると、焦った主婦はドアを開けて道を開けた。
「本当に、教えたらすぐ帰りますか?」
「ええ、すぐに帰りますとも」
俺の言葉を信用したのか、それとも単なる開き直りか主婦は玄関に入るように俺を中に招き入れると、スリッパを差し出して廊下左手側の部屋に入ってゆく。俺もその後に続き、最後に風祢がスリッパも履かずにひょこひょこと素足でついてくる。
リビングはソファやテレビ、観葉植物などが置かれてはいるが、あまり物が無く侘しい部屋だった。テーブルも小さいガラステーブルがちょこんと置かれてるだけで、その上にはリモコンしかない有様だ。
主婦はエアコンのリモコンを持って設定温度を少し下げると、俺に向かいのソファに座るよう手で勧め、自分はキッチンへ行って冷蔵庫の中から飲み物を取り出している。
待っている間、風祢は当たり前のように俺の膝の上に座ってくるが、俺がさりげなくその太腿に右手を近づけるとピシャリと手の甲を叩いてきた。そして僅かに浅く座り直す。
(さっきまではベタベタしてただろ)
俺が心中で悪態を吐くと風祢は頬を紅潮させた。
「人前ではダメじゃ」
意味が分からなかった。どうせ他人には見えないとさっき抱き付いてきたのはどこの誰なのかと問い詰めたい。
「女心くらい察せ!」
怒鳴ってきた風祢にたじろいで、俺はそれ以上何も言えない。黙って主婦の方を見た。主婦は氷を浮かべた麦茶のグラスを持ってリビングに戻ってくると、ガラステーブルの俺の前に差し出す。
「ありがとうございます」
「いえいえ、どうぞ」
穏やかに笑う主婦にまで女の二面性を感じながら麦茶を少し頂く。本当に女は分からない。少なくとも、先ほどすぐ帰るか尋ねた人間に対して笑いながら麦茶を出すなど俺にはできない。
グラスをテーブルに置いて少し間を置くと、俺は本題を切り出すことにした。
「去年、台風の影響で酒匂川の水嵩が増した日に、良治くんが何をしていたのかまずお聞かせいただけますか?」
主婦は躊躇いながらも頷き、右の頬に右手を添えて視線を左下に下げた。何かを思い出す時の人間の特徴的な仕種だ。
「昨年の九月だったと思います。台風の日で、その日は朝からとても風が強かったんです。先生たちも登下校の最中に何かあってはと学校を休みにしましたが、良治は塾があるということで午後に家を出て、そのまま……」
ううっ、と顔を伏せた主婦を見ながら俺は寸毫の哀れを覚えるが、風祢は何を視ているのか無感動にその主婦を見下ろしている。
俺は気まずくなって話を続けようかどうか悩んだが、不意に風祢が振り返って耳打ちをしてくる。
「午前中は何をしていたか聞くのじゃ」
風祢を見返しながら俺は目だけで頷くと主婦に向き直る。
「良治くんは午後に家を出るまで、家の中で何をしていたんですか?」
主婦はそれを聞くと石化したように黙り込み、おもむろに顔を上げた。
「部屋で勉強してました。とても、とっても良い子でしたから」
誇るかのように語る主婦を見ていて胃がキリキリする。
父親に望まれなかった子。母親に捨てられた子。
そんな子供もいれば、そういう母親が誇れる子供だっているだろう。ただ、生まれた家庭に僅かな誤差があった。それだけのことだ。
俺の記憶を読んだのか、風祢は慰めるように俺の頭をその胸に抱いた。苛立ちから無い胸で無理すんなよと悪態を吐くが、風祢は無反応だ。イライラが溜まる。
俺は不要な感傷を振り払って風祢のワンピースを引っ張りもう一度俺の膝に座らせると、主婦を見つめた。
「塾に行くことを、あなたは止めなかったんですか?」
主婦は心外なと言わんばかりに俺を穴が空くほど見つめてきた。否、睨んできたと言っても差し支え無いほど、そこには不快の念がこめられていた。
「良治が塾に行くと言ったから私は送り出したんです! 子供の将来を考えれば、塾に行かせるのは当然でしょう? 学校の先生じゃろくに授業の進め方がなってないですし、塾と違ってすぐ暴力に出ますから。野蛮なんですよ、学校なんて」
語気を荒げる主婦を見ているとまるで国会で与党を追及する野党のそれを見ているようだった。何か不手際が一つでもあればそれを害悪のように言い張る姿はまったく遜色が無い。
学校に行ったことの無い俺には、教師の教え方に問題があるにしても、野蛮と言い張るほどに酷い教育がされているのかと疑問に思う。
「第一、小学校の時にもうちの良治はイジメにあって、その為に一度転校しているんです。まったく、学校も学校ですが子供の躾けすらできない相手の親も同罪です! きっと低俗な、水商売か何かの仕事だったんでしょう!!」
次第に愚痴を零し始めた主婦に適当に相槌を打ちながら、既に耳はそんなどうでもいい話は聞き流していた。それよりも風祢が興味深そうに主婦の胸を見ているのが気になる。
風祢は人間の魂、或いは精神とか心、又はエーテル(第六感)を視ることができるそうだが、それが怪物でない人間はいないそうだ。ちなみに俺の魂は竜である風祢すら恐れるほどに純真無垢な幼い竜の姿らしい。何も知らない竜は生きる為に人すら食らうと言われたが、実際に俺がやってきたことを鑑みればそうかもしれなかった。
風祢が主婦の魂に何を見出したのかは知らないが、俺の膝から立ち上がると、満足そうに笑った。
「もう頃合いじゃ。タカハル、行くぞ」
俺はやっとかと肩で息を吐いて、止まらず愚痴を零している主婦を手で制した。
「お話はよく分かりました。大変参考になってありがたかったです。あまり長居しては奥さんにも迷惑ですし、そろそろお暇させて頂きますね」
「あ、いえ、こちらこそ変なことを口走って……あまり気になさらないでくださいね」
取り繕うように穏やかに笑う主婦にやはり寒いものを背中に感じて、俺は人間の女にはなるべく関わらないようにしようと改めて思った。風祢がこの主婦の魂に何を見出したか知らないが、きっとよっぽど醜悪な怪物がいたことだろう。
俺は主婦に玄関まで見送られながら革靴に履き替え、礼をしてから家を出ると、先に家を出て歩いている風祢に小走りで追いついた。
風祢は何かを考えるように下を向いていたが、俺が隣に並ぶとにぱっと笑う。
「もしやすると当たりかもしれん」
俺はその頭を右手で撫でながら溜め息を吐く。
「当たり前だろう。一週間も図書館にこもって新聞の県内ニュースを一年分総ざらえして、更にその中から選りすぐんだんだ。これで外れだったら徒労過ぎる」
「……私にとっては外れじゃがな」
「ん?」
「何でもないぞ!?」
首を振った風祢を不審に思いながらも、俺は後ろのポケットに仕舞っていた折り畳みの地図を広げて酒匂川までの道程を確認するが、微妙に近いようで遠い。今日は国府津駅からこっちかなりの距離を歩いたので、もう足がくたくただった。
「なあ、この図書館のところまではバスで行かないか? 数分しかかからないしな」
俺が提案すると、風祢はむむむと唸ってから観念したように首を縦に垂れた。
「だらしない」
「あのな、俺はまだ人間なんだ。さすがに脹脛が張ってんだよ」
俺がバス停まで歩いてそこの待合席に座ると、風祢は不貞腐れたのかバス停の横で立ったまま俺と少し離れている。
またどうしようもないイライラが募ってくる。俺は胸ポケットから煙草を取り出すと火を点けて吸う。
一度だけ風祢の体を押さえつけ蹂躙して噛み千切って征服感に満たされ哄笑する悪夢を見たことがあるが、俺にはそれが自分の欲望そのものである気がしてならない。
風祢と今の関係でいることは不幸にも幸せだ。だが、俺はその幸せに満足できない。風祢が欲しい。
その葛藤と自分が風祢には近づけない苛立ちがすべての元凶だが、それを今更どうこうすることは無理だ。建設的な思考としては他に当たるのが楽だから煙草に八つ当たりしている。それだけだ。
俺もこんな臭いに耐えられるはずがなく、半分を吸って捨てた。使い切らずに捨てることがこいつに対しての最大の侮辱のつもりだった。
バスが信号を渡ってやってくるのが見え、風祢が少し離れて停留所に立つ。バスが目の前に止まると俺は空いている席に座ったが、風祢はやはり少し離れて立っていた。
719号線を下っている途中、外の風景を見ながらイライラを隠すために窓際を指でトントン叩いていたが、図書館入り口の看板を見て停車ランプを押した。小田原大橋の前でバスが停留所に止まる。
バスを下りた俺と風祢はゆっくりと歩き出して河口に向かう。酒匂川はあまり深い川ではなく、釣りをする人や浅瀬で遊ぶ家族がちらほらと見受けられた。
既に四時を迎えようとしているにも関わらず、夏の太陽は未だに赤く染まることを知らない。酒匂橋を通り過ぎて東海道線の下まで行くと、風祢は河口に下りて水面に浮かぶ。
風祢が降り立ったことにより生じた波紋は水面を伝って神奈川の海へと伝わり、酒匂川に住まう竜へその存在を知らしめる。数秒とせずに水面に柱が立ったと思うと、身の丈四メートルはあるであろう巨大な蜘蛛の形を海水が形成する。当然ながら、他の人間にはその水蜘蛛が見えるはずはないが、俺は心配から周辺に人がいないかつい警戒してきょろきょろと辺りを見回してしまう。
そうこうしている間に水蜘蛛は風祢にその腕の一本を差し出し、風祢がそれに手を合わせる。竜同士の意思の疎通は互いの髭を交わして行うと以前に風祢が言っていたことを思い出し、今まで俺は竜の髭と腕を組んでいたのかと内心嫌な気持ちになった。
話が済んだのか、すぐに水蜘蛛は溶けて海水へと還り、風祢も軽やかに跳躍して俺の隣に戻ってきた。
「タカハル、この川で昨年の九月に中学生くらいの男の子が溺死したのは事実じゃが、台風の日ではない。それに、その遺体も警察によってその頃に引き上げられたそうじゃぞ」
「つまり、良治くんが死んだのはこの川じゃないってことでいいんだな?」
俺の確認に風祢が首肯した。
塾に行く途中で川で溺れて死んだことにされているはずの男の子が実は川で死んでいないというならば、残る可能性は二つだ。生きていて失踪したか、或いは別の場所で死んだか。
だが、生きているのなら中学生にもなって家に帰れないということはあるまい。残る可能性は自然、別の場所で死んだということに絞られる。
ではどこで死んだのか?
酒匂橋を渡りながら俺は、川で少し深いところまで行こうとする子供を母親が抱き留める光景を見つめ、不意に思う。
「台風の日にいくら子供が行きたいと言っても、親は分かってて危険なことをさせると思うか?」
俺の問いに風祢は目を細めながらも曖昧に笑った。
「愛しているからこそ甘やかしてしまう人間もいるぞ。人間の心はな、人間が思っている以上に複雑で精妙なのじゃ。例え百人中九十九人が殺人を善しとせずとも、必ず一人はそれに違和感を覚える人間はおる」
私だってできれば葉巻を止めさせたりこんな危険なことは終わりにしたいが云々。
何事かをぼそぼそ捲し立てている風祢は無視して、小田原の街を見た。山の手前側にビルや小田急線の高架線が見える。
「良治くんが行っていた塾とやらに行ってみるか。何か手がかりがあるかもしれない」
俺が風祢に提案すると、風祢はそれに気が付かず何かを呟いている。気になった俺はこっそりと耳を近づけてみた。
「――きなりそんな、でもタカハルがどうしてもって言うなら私もしょうがないから後ろからで構わないが本当は人間の男女は互いに抱き合って愛を語らうものなのじゃぞ。だから次は――」
「おい、風祢」
「ひゃわあぁっ!?」
驚いて橋から落ちそうになる風祢の手を掴むと、風祢は顔を真っ赤にしながら俯いて体勢を戻した。
「な、何じゃ?」
平静を繕ってはいるが、明らかにどこか様子が変だった。
「だから、良治くんが通っていた塾に行ってみないか?」
「う、うむ、そうじゃな。しかしもう夕方になるし、晩ご飯を食べて今日は休んではどうじゃ?」
「う~ん、そうだな……」
押し止めるように風祢は言うものの、俺は特に腹も空いていないので今すぐ行っても良かった。それでも、脚が棒のように固くなっているのは事実なのでその言葉に同意した。
どこかそわそわして落ち着かない雰囲気の風祢を不思議に思いながらも、小田原駅近くにちょうどいいビジネスホテルがあればそこに宿泊しようと考えながら小田原に入った。
腹の内側で何かが暴れていた。蛇のような長い何かが腸を犯し腹筋の裏側をなぞって胃へ逆流してくる。
その這うようなとても気持ち悪い感触に身を捩り苦鳴を漏らすが腹中の何かは出口を求めて暴れるのを止めない。
脳裏にしゃれこうべが見えた。その白い両顎がおかしそうに嘲笑ってくる。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。
とてもうるさくてしつこい音に嫌気が差し、歯を食い縛りながら腹を殴った。
何度も。何度も何度も腹を殴った。
何かがその勢いを利用して食道をよじ登り喉の奥から飛び出しそうになる。
嘔吐に近い感覚に喉が詰まりながら、最後にもう一度腹を殴った。
目を開けると心配そうに俺の顔を覗きこんでくる風祢の顔が見えた。俺は腹の鈍痛に眩暈がしながら、襲い掛かってくる吐き気を懸命に堪えた。
風祢は俺の容態を案じてか俺を再びベッドに寝かせようとしてくるが、俺はその両手を振り払って起き上がった。
「何の夢を見てたんじゃ?」
「最悪な夢だ。どうせ竜眼が読み取った誰かの過去だろ」
昨日、あの家で風祢が俺の記憶を読んだように竜は特定の条件さえ満たせば相手の記憶を読み取ることができる。ただ、風祢と違い俺のは自覚的にこの能力を使えない上に、悪夢として俺にその過去を追体験させる最低な代物だ。
あんな異常な過去を持っている奴も大概だが、そんな悪夢ばかりを見せてくる竜眼も相当質が悪いと言わざるを得ない。
「竜はな、他の生物と違い限りなく自然に近いのじゃ。故に、人間の悪意や怨念など、自然とは言いがたいものを相対視してしまう。つまりは、敵であり、また獲物でもある」
「だから遥か昔より竜は人間を、いや、正確には悪意を持つ人間を食ってきたんだろ?」
「そうじゃ。街が発展すればその陰には多くの悪意や呪い、憎しみが生じる。過去の伝承に竜が街を襲う記述が多いのも、農村部においては穏やかな竜を祀る記述が多いのも、人間の質がその裏には隠されておるのじゃ」
要するに、俺の竜眼が意図してそういう悪夢しか拾わないのも、伝承に出てくるバクみたいなものだろう。他人の悪夢を糧としているのだ、俺の竜眼が。
こういうことは以前にも二度あったが、今回のは特に気持ち悪かった。蛇が体内を駆けずり回る感触など誰も好んで知りたいとは思わないだろう。
ホテルのシャワールームに行って洗面台で顔を洗うと、少しは気分が落ち着いた。
クローゼットにかけていたズボンとワイシャツを着ると、俺は洗面台で寝癖だけ直して部屋を出た。
「もう行くのか、タカハル?」
風祢は気が乗らないのか部屋の扉をギイギイと鳴らして俺を引き止めようとしてくる。俺はこのホテルに妙な怪談話ができる前に風祢を引っ張ってドアを閉めると、エレベータに向かって歩く。
「いいか、絶対に前みたいに勝手にボタンを押すなよ? また機械の故障かとエレベータが使用中止になるのも面倒だ」
「うむ」
風祢が納得してくれたところでエレベータが上ってきて中に入るが、風祢はボタンを食い入るように見ながらワンピースの袖を掴んでいる。どうやら必死に堪えているようだった。
僅かに哀れを覚えた俺はフロントがある一階のボタンを押す直前で指を止める。
「この距離なら監視カメラには俺が押したように見えるだろ」
俺の意図を察したのか、風祢がにぱっと笑って俺の指の下から一階のボタンを押す。エレベータの扉が閉まり、下へ動き出す。
風祢は何がご機嫌なのか俺を見ながら笑い、一階への到着を待つ。
狭いエレベータ内に二人だけでいるからか妙に風祢を意識してしまう。俺は極力視線を壁に向けて、一階に着くとさっさと外に出た。
フロントで会計を済ませてチェックアウトし、外に出る。少し歩いてパチンコ店やドンキホーテを通過し小田原駅へと足を向けた。
「タカハル、五頭竜伝説を知っておるか?」
何気なく切り出した風祢に俺は訝しみながらも、眉根を顰めた。九頭竜伝承なら各地に残されているが、五頭竜というのは聞いたことが無かった。
「いや……」
「江ノ島にいた竜と言われているが、元々は江ノ島ではなく甲府にいた竜が竜脈を通じて鎌倉に飛来し、そうして江ノ島に来たのじゃ。そこで竜は叶わぬ恋をした。その恋の為に竜はあらゆる奇跡を起こしたが、その恋は叶わなかったのじゃ」
「どうして?」
俺の問いに風祢は苦笑した。
「現代で言えばフラれたのじゃ」
「はぁ?」
俺が呆気に取られていると、風祢は少し前を歩く。
「人間は化け物を愛せぬ」
どこか諦観のこもった言葉に俺は胸が痛んだ。そうだ、初めて見たあの夢の中で、俺は少女を左目で見た。
そこには少女ではなく、巨大な化け物が厳然と存在していて、口を赤くぬめらせながら人間を喰らっていた。あの赤い瞳に見られた瞬間、俺は恐怖から言葉を失った。
今でも左目で見れば風祢は風祢ではなくなる。否、本当の風祢の姿が見えると言った方が適切だろう。それにも最近では動じなくなってきたが、アレを愛せるかどうかで言えば間違いなく無理だ。ネズミが巨大アナコンダを愛せるなら話は別だが。
だがどことなく、風祢はそういう感情的な話をしているのではないからこそ、胸が痛んだ。ネズミが巨大アナコンダを愛する以前の話だ。仮にもしそのネズミが巨大アナコンダの存在を認識できないとしたら?
きっと風祢が話した五頭竜もそうなのだろう。本当に誰かを愛しても、相手に自分が見えないのでは無駄な徒労だ。そうして、永遠を生きる竜は寿命で死ぬ愛しい人を見送らなければならない。それは、とても残酷なことだ。
俺は自ら風祢の横に並ぶとその手を繋ぐ。
「俺にはお前が愛せるぞ」
風祢は驚いたように目を見張るが、にぱっと笑って頷いた。
「そうじゃな」
†
小田原駅近くの塾で良治くんの担当教師から話を聞いた俺たちは担当教師から良治くんは塾ではあまり勉強熱心ではなく、むしろ親に言われて来ているかのような態度であったこと、台風の日は生徒の家に塾が休みである旨の電話をしたことなどを聞いて、再びあの家を訪れていた。荒れている花壇の庭や白い塀はそのままだが、どこか昨日とは違い禍々しい、一般人が見てもどこか近付きがたい重苦しい雰囲気を発していた。
例えば薄暗くて誰も通らないトンネルや廃れた病院など、誰もが何となく忌避してしまう場所と似ている。
「タカハルは人間の子供が母親の腹の中にどれくらいいるか知っておるか?」
「いいや」
無邪気に聞いてくる風祢に俺は戸惑いながらも首を振った。そんなことを妊娠や出産の経験が無い俺に尋ねられても知るはずが無い。
「およぞ三百日じゃ。月に直すと十ヶ月」
「それがどうかしたのか?」
「奇遇じゃがな、今日の十ヶ月前は昨年の九月じゃぞ」
台風のあった月だ。そして良治くんが消えた日も。それが何か関係あるのだろうかと俺が悩んでいると、風祢はひょいひょいと玄関に上がりいとも容易く扉を開けて中に入ってゆく。
俺はその後を追って中に入ると、入って左の部屋のリビングにそれを認めた。
腹を切り裂かれた女の死体とその中から屍肉や内臓を取り出して食い漁る化け物。
化け物は黒髪で耳や目が隠れているが、幽鬼を思わせる青白い鱗を生やした肌と額のこぶから鬼と呼ぶに相応しい風貌をしていた。
ぴちゃぴちゃと弾力があって口の中であばれる肝臓を喰っていた鬼は、俺を見るとけらけらと耳障りな嗤い声を上げた。新しい獲物が現れたことに昂奮しているようにも見える。
俺は込み上げてくる吐き気を我慢できずに胃に上ってきた何かを口から吐き出し、胃酸混じりのそれをリビングに散らす。
「タカハル、人が人を喰らうとはこういうことじゃ。悪意は鬼を生じ鬼は邪を生じる。故に竜は悪意ある人間を喰らいその正邪を正す。この女は我が子を殺しその死肉を貪り証拠隠滅を図って庭に白骨を埋めたのだろう。供養されぬ魂はこの女の腹の中で鬼を生じさせたのじゃ」
狂っている、としか言いようが無かった。あれだけ自慢のように言っていた息子を、どうしてこの母親は殺したのか。それでも、理由は簡単に説明できた。
良治くんが台風の日に塾に行くことを嫌がり、母親はかっとなって良治くんを殴った。打ち所が悪くて死んだ。想像でしかないが、真実なんて常にこんな風に呆気ないものだ。
後は死んでしまった我が子をこの女がどうしたかは風祢が言った通りだろう。そして警察には塾に向かった良治くんが増水した酒匂川に落ちたのではないかと言い、警察は死体が見つからないことから行方不明による失踪またはその死を認める外無い。
最悪な茶番劇に俺は余韻も加わって更に吐しゃ物を床に吐き散らしながら、鬼を見た。鬼はゆっくりと立つと、新しい獲物である俺目がけて一直線に駆けてくる。
それが鬼だと頭では分かっていても、感情はそう上手く切り替えができない。俺が迷っている間に迫ってきた鬼を、横から風祢が蹴り飛ばす。吹っ飛んだ鬼はキッチンのテーブルに激突した。
「タカハルは、これでもまだ人間でなくなることを望むのか?」
人間でなくなること――鬼などの人外を喰らってその力を取り込めば竜の力が強くなる。それを繰り返せばいずれは俺も竜に限りなく近付ける。
そう信じてこの地にやって来たはずだった。俺は左目の疼痛に苛まされながらも風祢に強く頷く。
「ああ……俺は、その為にここに来た」
足に力を入れて立ち上がると鬼を竜眼で捉える。
「タカハル、私はやはり今のままが幸せじゃ」
「俺は今の幸せじゃ満足できない」
竜眼はそのものの本質を見ることが出来るが、生まれたての鬼の本質など単なる食欲でしかない。そう考えれば、鬼もそこらへんにいる乳幼児も大して差は無かった。
立ち上がった鬼の頭を右手で鷲掴みにすると右膝で顔面を潰し、更に伸びた鬼の脇腹を容赦なく左手で握り潰して肋骨をバキバキとへし折る。化け物と言っても女の子の姿をしている風祢は腕力で男である俺に及ばないし、この鬼も腕力で大人に比べようはずもない。
舌を口から飛び出して呻く鬼を見ながら、その首筋に顔を近づけて犬歯を突き立てた。
鬼は自分が喰われる立場であることを理解できないのか必死に暴れて抵抗しようとするが、俺には幼児が暴れているようなものだった。腕力にものを言わせて捻じ伏せると、首の筋張った肉に噛み付き、その生臭いどろっとした血を啜る。
泥のように濃くて気持ち悪い血を啜りながら、血でふやけた皮を剥いで肉を喰らう。胃に落ちたそれらは胃酸ではなかなか溶けず、俺の胃袋の中に汚く降り積もる。
込み上げてくる吐き気に辛抱しながら鬼の肉を更に喰おうと口を開けて、その口を風祢の小さい手に塞がれた。
「もう十分じゃ。それ以上喰らっても今すぐ竜にはなれんぞ」
俺はぐったりと脱力している鬼をリビングに捨て、ワイシャツに付いた血の跡を見ながら閉口した。トマトジュースでも零したかのようにワイシャツは赤いしみで汚れていた。
親子をそっと重ねるように運んだ風祢は、祈るように両手を重ねてから、次第にめきめきと体積を変えていく。
俺はその姿を見るのが何となく嫌だったが、今は平気で見られる。肩から上を二メートル近い巨大な頭に変えた風祢は人間の指ほどもありそうな牙を剥き出して二つの肉を一口に頬張る。
奥歯で骨せんべいが折れるようなパキパキという音を鳴らして喉を唸らせると、再び頭を元の少女のそれに戻す。すべてがあっという間の出来事だった。
唇を赤く湿らせた風祢はどこか哀しそうに笑っていた。結果として人間の親子を喰らったことに対する罪悪感なのかそれとも――……
「飲み込んだ人間の記憶がたまに視えることがある。少なくとも、母親は本当に我が子を愛していたんじゃ。三百日も護り続けて最後には腹を痛めて産んだ子じゃ、当然じゃろう。子供がそれをうるさく思っていようと邪険に思っていようとも母親は愛情を注ぎ続けた。――ひどく自己陶酔的な、エゴを注ぎ続け、終いには子供を殺してしまった」
「……美味かったか?」
「タカハルはどうだったのじゃ?」
風祢の視線を真っ直ぐに見ることはできず、ただ胸の中で呟いた。
美味かった、と。