彼女の音
「ねえ寿々! これで木が水を吸う音を聞けるんだって!」
待ち合わせていた春の終わりの公園に、二葉の声が高く跳ねた。彼女は透明のビニール袋をぶらさげて走ってくるところで、袋の中には安っぽいゴムチューブと銀色の丸いものが跳ねていた。
聴診器。寿々の頭の中には「これ貸してください!」と近所の診療所に殴り込みをかける二葉の姿が浮かんでしまって、やわらかな頭痛がした。
「……どうしたの、それ」
「買ったよ」
「買った!? 聴診器って買えるものなの?」
「うん。千円しなかった」
「え、意外と安い」
医療器具と考えれば扱うのには資格が要って、数万円はするものと思ってしまう。おそらくドン・キホーテで売っているようなおもちゃなのだろうかと寿々は自分を納得させた。
二葉を待っている間に読んでいた本を閉じ、鞄に仕舞う。
「水を吸う音なんて、専用の機器でも使わなきゃ聞こえないよ。それ、風の音とか木の幹が擦れる音を拾っちゃうだけでしょ」
「もう、ロマンがないなぁ。だとしても、それって“木の声”には違いないじゃん」
「二葉がロマンチストすぎるだけじゃないの」
とは言いつつ寿々も、二葉にそう言われるとなんとなく乗り気になってしまう。それが少し心地好く、同じくらい癪だった。
聴診器を木の幹に当てて音を聞く。小学生の自由研究みたいだとは思いながら、やってみると確かに楽しかった。
二人して顔を寄せ合って、イヤホンのように聴診器を分け合う。けれどイヤホンのコードと違って管が短いから動きにくい。いつもより頬がくっついて、寿々は今の鼓動を聞かれては困ると感じた。
ソメイヨシノの幹に聴診器を当てると、粗い布地を撫でるようなざわざわという音がする。寿々が「やっぱり風でしょ」と言うと、二葉は「でも桜ならこういう音って感じじゃない?」と答える。何かが潜んでいそうな、不穏で心を揺さぶるソメイヨシノの音。
クロマツは低くて硬質な音だった。時にこぽこぽと水音が混じって二葉は「ほら、根っこから吸い上げている音!」とはしゃいだが、寿々が「昨日の雨でまだ濡れてる。樹幹を滴ってる音でしょ」と言うと唇を尖らせた。
サンシュユは乾いた鳴り方で、さらさらと流れていくのが遠い砂漠を思い起こさせた。試しにベンチの上の藤棚に絡ませたフジの幹にも当ててみる。これは一番複雑で、幾つもの音が折り重なっていて、二人でしばらく黙って聞き入っていた。
「……木によって、ちゃんと違うね」
寿々が小声で言うと二葉はなぜか得意げに胸を張る。
「次、あっちのやつ試そうよ」
二葉が指さした先には、公園の外れの大きなクスノキがあった。根元が盛り上がって歩道のアスファルトを押し上げ、幹には苔が貼りついている。枝が空を塞ぐように広がって、その辺りだけ薄暗くなるほど。
樹齢何百年という感じがした。公園ができる前からそこにあったのだろう。
寿々の足取りは自然と重くなった。
「あの木、ちょっと不気味じゃない」
「なんでー、すごく立派じゃん。絶対かっこいい音がするよ!」
「かっこいい音って何?」
「ギャギャギャギャイーン、て」
「木からそんなテレキャスターみたいな音がしたらテレビ局に垂れ込むわよ」
「あはは、探偵ナイトスクープ?」
「仰天ニュースかな」
日頃は二葉に対して大人ぶっている自分の口から「樹影が立派すぎて怖いの」なんて言うのは悔しくて、寿々は茶化しながら彼女についていった。
クスノキの根元は地面がでこぼこしていた。露出した根につまずかないよう慎重に近づき、二葉が聴診器のチェストピースを幹に押し当てる。頬を寄せて、二葉の髪の先が寿々の首元をくすぐった。
最初は他の木と似たような音だった。
かさかさ、ざわざわ、こぽこぽ。高く低く、遠い音を強引に拡大した耳慣れない複雑な響き。年輪を重ねるように波紋が広がるように、奥行きのある音。
寿々は少し緊張を解いた。ただの木だ。そう思うと、むしろ隣の二葉の鼓動のほうが気にかかった。
けれどその時、聞こえてくる音が何か変わった。
自然音の奥に別のものが混じり始める。奇妙なリズムと抑揚。チェストピースを当てる二葉の指先が揺れているのかと思ったが、違っている。樹幹の深い裂け目に擦れる音ではなかった。
それは――人の声だった。
女の人の声だった。誰かを呼んでいた。誰かの名前を、呼んでいた。でもその名前は、はっきりと聞こえているのに輪郭がぼやけて判別できず、ただ水面を打つような声の形だけが耳の奥に流れ込んでくる。
悲しくて切なくて、焦がれるような、堪らなく――恋しい声。年輪と一緒に積み重なって実体が溶けてしまった感情の残滓。
それから、声は寿々に気づいたようだった。説明しがたい感覚だった。声の向きが変わったのだ。どこかに向けて名前を呼んでいたのが、その瞬間、寿々に向けられたのだ。
『……まだ、ここにいるよ』
今度ははっきりとそう聞こえた。
寿々は気づけば二葉の手首をつかんで、自分でも信じられないくらいの速さで走っていた。背中にクスノキの影が追いかけてくる気がして振り返らなかった。
振り返ったら幹に女の人の顔が浮いているような気がして、絶対に振り返れなかった。
公園の出口を抜けて、車道沿いのガードレールに手をついて、二人して息を切らした。車の音、信号の音、自転車の錆びた音。都会の“現在”の音が心臓を落ち着かせてくれた。
「ちょっ、ちょっと、寿々、あんなに走れたんだ。新記録出たんじゃない?」
「笑わないでよ」
「笑ってないよ。ほんとびっくりした! 私もびっくりしたもん、あの声!」
「二葉にも、聞こえたんだ」
「え? そりゃそうだよ、同じもの聞いてたんだから」
二葉の声が興奮で掠れていた。寿々は二葉も怖かったのだと初めて気がついた。彼女はいつも飄々としているから、なんにでも好奇心のまま突き進んでいくから、平気なのだと思っていた。でもつかんだままの手首から、二葉の脈の速さが伝わってくるのだ。
寿々は照れくさくなって手を離そうとしたけれど、できなかった。二葉が手を握り返してきたからだ。指と指が絡まった。
「あの声、まだここにいるよ、って言ってたね」
「……うん」
「誰かを待ってるのかな。あの木の中で。それか、あの木に変わって。何十年も、百年も。探しにきてくれるのを待ってるのかな」
「二葉……ロマンを通り越してオカルトになってるよ」
「オカルトはロマンだよ!」
寿々はクスノキの声の深い音色を思い出す。誰かを待っている。どれだけ長い時間をかけて積み重なれば、声が木の中に残れるのだろうか。
誤魔化そうとして、二葉の指先が冷えているのを感じて、寿々は素直に息を吐き出した。
「怖いこと言わないでよ」
「確かに怖かったけど」
二葉は少し考えてから握った手にぎゅっと力を込める。
「でも、すごいじゃん。木になっても消えないくらいの想い。誰にも知られてなくても、ちゃんとそこにある声」
寿々はつないだ手を横目で見た。二葉の指が自分の指の隙間に収まっているのを。
公園の向こうの空が燃えるように橙色に染まる。木々のシルエットが黒くなって、その中にクスノキの大きな輪郭も見えた。
やっぱり怖い。でも今は二葉の手の体温と鼓動、それ以外のことが遠かった。
***
後日、寿々は図書館であのクスノキのことを調べてみた。公園になる前は長らく空き地で、その前には長屋があったらしい。長屋がなくなったのは――大正十二年のこと。
クスノキは時間をくぐり抜けて今もずっと立っている。そこに住んでいた人たちの代わりに。
寿々はページを閉じて窓の外を見た。遠くに緑の木々が見える。風がそれらを揺らすたびに葉が緑のさざ波のように見えた。
木の声は、風の音ではない。根が吸い上げる水の音でもない。二葉が持ってきた千円ぽっちの聴診器は、確かに何かの声を拾ったのだ。年輪の奥に眠っていたものを。
寿々はサイレントモードのスマホを取り出して、二葉にメッセージを打った。
『週末、どうする?』
返信は三十秒も待たなかった。
『また公園行こう、でもクスノキはもうやめとく』
周りを気にしつつも小さく笑ってしまう。それから少し考えて、もう一行。
『手、握っちゃってごめん』
今度は三分も待った。
『謝んないでよ、ばか。嬉しかったんだから!』
指先まで熱くなる気がした。寿々はこの鼓動を聞かせてみたいと感じた。
窓の外で風が吹く。木が揺れて音が鳴る。どこか遠くで響く声も、今は聞こえない。




