第6話:月光草と常識の破壊
フロンティアの西門を抜け、僕は依頼書の地図が示す森へと足を踏み入れた。王都周辺の管理された森とは違い、ここは手付かずの自然が息づいている。高く伸びる木々が陽光を遮り、地面にはしっとりとした腐葉土が積もっていた。時折、小動物が足元を駆け抜け、鳥たちのさえずりが耳に心地よい。
(いい場所だな…)
パーティにいた頃は、常に周囲を警戒し、次の目的地へ急ぐことばかり考えていた。一人になった今、こうして森を散策するような、純粋な楽しみを味わっていることが不思議だった。
依頼の対象は『月光草』。その名の通り、月の光を好む性質があり、主に日の当たりにくい、じめっとした場所に自生する。解熱や鎮静作用があり、低級ポーションの材料として広く使われる、ごくありふれた薬草だ。
僕は創成魔法の感覚を研ぎ澄まし、周囲の植物の構造を探る。すぐに、特徴的な魔力の波長をいくつか見つけた。
「あった」
苔むした倒木のかげに、それはひっそりと生えていた。三日月のような形をした、青白い花弁。これが月光草だ。僕は慎重にそれを根元から摘み取る。依頼の数は10本。この調子なら、すぐに終わりそうだった。
何本か採取するうちに、僕は一つのことに気がついた。採取できる月光草は、どれも少し元気がなく、花弁が萎れかけているものが多い。おそらく、他の冒険者も同じ場所で採取を繰り返しているせいで、土地の養分が痩せているのだろう。
(依頼主は、これで満足するだろうか…)
依頼書には、品質についての言及はなかった。だが、どうせなら、もっと質の良いものを渡してあげたい。前世の、仕事に対する妙なこだわりが顔を出す。
僕は、摘み取った月光草の一本を手に取り、まじまじと見つめた。創成魔法で、その内部構造を覗き見る。水や養分を吸い上げる管が細く、魔力の循環も滞りがちだ。これでは、薬効も低いだろう。
「…少し、手伝ってあげるか」
僕はその月光草に、そっと魔力を流し込んだ。イメージするのは、最も効率的な生命活動のサイクル。根から吸い上げた養分が、淀みなく全体に行き渡り、花弁の隅々まで魔力が満ちていく様を。
すると、僕の手の中で、信じられない変化が起きた。
萎れていた花弁が、まるで朝露に濡れた花のように、ピンと瑞々しく張りを取り戻す。青白い色は深みを増し、花弁そのものが、内側から淡い銀色の光を放ち始めたのだ。その様は、まるで本物の月の光をそのまま固めたかのようだった。
「うん、こっちの方が見栄えもいいな」
僕はその出来栄えに満足し、同じ要領で、採取した数本の月光草を次々と「最高品質」へと作り変えていった。僕にとっては、少し歪んだ金属を真っ直ぐに直す程度の、簡単な作業に過ぎない。これが、錬金術師が一生をかけても到達できない領域の神業であることなど、知る由もなかった。
全ての月光草を改良し終えた時、僕は新たな事実に気づいた。
(この光…同じ波長が、森の奥から来ている?)
手の中で輝く月光草が、共鳴するように微かな光の道筋を示していた。おそらく、この先に、まだ誰にも見つけられていない群生地があるに違いない。
好奇心に引かれ、僕は光の道筋を辿って森の奥深くへと進んでいった。道なき道を進み、茨の茂みを抜け、小さな小川を渡る。やがて、ごうごうと響く水の音が聞こえてきた。
音の先には、小さな滝があった。そして、その滝の裏側に、洞窟が口を開けているのが見えた。光は、そこから漏れ出している。
洞窟の中は、幻想的な光景が広がっていた。
壁一面に月光草が自生し、その全てが淡い銀色の光を放っていたのだ。そして、洞窟の中央。ひときわ強い光を放つ、巨大な一株の月光草が鎮座していた。高さは僕の腰ほどまであり、その花弁は白銀に輝き、周囲に清浄な魔力を振りまいている。
「すごい…これが、親株なのかな」
おそらく、この『月光草の女王』とでも言うべき一個体が、この森の月光草の源なのだろう。これを持ち帰れば、依頼の10本などというケチな話ではなくなる。ギルドで栽培すれば、今後、安定して高品質な月光草を供給できるはずだ。その方が、よほど効率的だろう。
僕は、女王株を傷つけないよう、創成魔法を慎重に発動させた。周囲の土ごと、根を一本も傷つけずに切り出し、魔法で創り出した頑丈な土の鉢にそっくり移植する。
目的を果たした僕は、意気揚々とギルドへの帰路についた。
◇
「た、ただいま戻りました…」
「お、お帰りなさい、カイさん。早かったですね。依頼の月光草は…」
ギルドに戻り、エリスさんのカウンターへ向かうと、彼女はにこやかに迎えてくれた。だが、僕がカウンターに「それ」を置いた瞬間、彼女の笑顔は凍り付いた。
ドン、と重い音を立てて置かれたのは、巨大な鉢植え。その中で、洞窟で見たのと寸分違わず、白銀の光を放つ『月光草の女王』が静かに輝いている。ギルドの中が、その幻想的な光で少しだけ明るくなった。
「…………」
「…………」
カウンターに、沈黙が流れる。エリスさんは、信じられないものを見る目で、巨大な月光草と僕の顔を交互に見て、口をパクパクさせている。
「あの…依頼の、月光草です。10本集めるより、この親株を一つ持ってきた方が、後で栽培できて便利かと思ったんですが…ダメでしたか?」
僕が首を傾げながら言うと、エリスさんはついに我に返った。
「ダメとかそういう問題じゃなーーーーいっ!!」
彼女の絶叫が、ギルド中に響き渡った。
「な、何これ!? 月光草の女王!? なんでこんな伝説級の植物がここに!? しかも、なんでこんな完璧な状態で鉢植えにされてるのよ!?」
その叫び声に、ギルドの奥から白衣を着た、人の良さそうな初老の男性が慌てて飛び出してきた。ギルド専属の鑑定士兼、錬金術師のポーション先生だ。
「エリス君、どうしたのかね、そんな大声を出して…。む?」
ポーション先生は、カウンターの上の女王株に気づくと、その目に学者特有の狂的な輝きを宿らせた。
「おお…おおおっ! なんということじゃ! 生きた月光草の女王! しかも、魔力の循環が完璧な状態を保っておる! こんなものは、古文書の中でしか見たことがない! これ一つあれば、国宝級の万能薬が作れるぞ! ど、どうしたんだね、これは!?」
「それが…彼が、Fランクの薬草採取依頼で…」
エリスさんが、震える指で僕を指す。ポーション先生は、僕を見て目を丸くした。
「君が? この若者が? 一体どうやってこれを…」
「えっと…森の奥の滝の裏に、たくさん生えていたので…」
僕の正直な答えに、鑑定士は「滝の裏…ああ、古の妖精の隠れ処…」などと一人で納得し、再び女王株の観察に没頭してしまった。
エリスさんは、大きなため息をつくと、こめかみを押さえた。
「カイさん…。依頼は、確かに達成です。達成ですが…報酬、銀貨5枚でいいの…? これ、売ったら金貨何千枚になるか分からないわよ…?」
「え、そんなに価値があるんですか? でも、依頼は依頼ですから。報酬は、それで結構です」
「……そう」
エリスさんは、何かを完全に諦めきった顔で、依頼完了の判を押し、僕に銀貨5枚を渡した。
僕はそれを受け取り、礼を言ってギルドを去る。
背後で、「カイ君、君は一体何者なんじゃ!」「この発見は世紀の大発見じゃぞ!」というポーション先生の興奮した声と、「先生、落ち着いてください!」というエリスさんの悲鳴が聞こえたが、きっと気のせいだろう。
こうして、僕の記念すべき初仕事は、無事に終わった。
虹色のギルドカードに続き、また少しだけギルドを騒がせてしまったようだが、僕自身はいたって普通の仕事をしたつもりだ。
この時の僕はまだ知らなかった。この「普通の仕事」が、フロンティアの薬学の歴史を塗り替える、とんでもない事件として、後々まで語り継がれることになるということを。