第41話:神獣の寝室と、世界の夜明け
精霊たちによって開かれた、光の道。
その先は、僕たちの想像を、遥かに超えた、荘厳な空間へと続いていた。
そこは、地底に存在するとは思えないほど、広大なドーム状の大空洞だった。天井には、無数の光る水晶が、本物の星々のように瞬き、柔らかな光で、この聖域の最深部を照らしている。空気は、もはや魔力という言葉では表せない。それは、生命の根源そのものとも言うべき、純粋なエネルギーの海だった。
そして、その空間の中央。
静かな湖があった。水ではなく、まるで溶かした月光のような、乳白色の光の液体が、その湖を満たしている。
湖の中心から、天に向かって、静かに、そして雄大に、そびえ立っているものがいた。
――それこそが、森の神獣、アルクス・シルヴァ。
それは、僕が知る、どんな生物のカテゴリーにも当てはまらなかった。
小山ほどの大きさを持つ、巨大な鹿のようでもあり、あるいは、古の竜のようでもあった。その体は、生きている苔と、数千年の時を刻んだ古木でできており、その背中からは、森そのものが、垂直に生えているかのようだった。
頭部から伸びる巨大な枝角は、それ自体が一本の巨木であり、その枝々には、一年中の花が咲き乱れ、黄金色の果実が実っている。そして、その首筋からは、光の滝が、絶え間なく、下の湖へと流れ落ちていた。
その巨大な瞳は、固く閉じられている。僕たちが、森に入ってからずっと感じていた、あの、ゆっくりとした、大地の鼓動。その震源は、間違いなく、この、眠れる神獣だった。
僕たちは、その、あまりにも神々しく、あまりにも圧倒的な存在を前に、ただ、息を呑んで立ち尽くすことしかできなかった。
僕たちが、光の湖の畔まで、静かに歩を進めた、その時。
アルクス・シルヴァの、森のように深い睫毛が、ピクリと震えた。
そして、数百年、あるいは、数千年の時を経て、その黄金色の瞳が、ゆっくりと、開かれていく。
その瞳は、ただの目ではなかった。それは、溶かした太陽そのもの。この世界の創生から、全てを見てきたかのような、どこまでも深く、どこまでも優しい、慈愛に満ちた光が、僕たちを、静かに照らした。
次の瞬間、僕たちの頭の中に、直接、声が響き渡った。
それは、男の声でも、女の声でもない。風の音、木の葉のざわめき、岩の囁き、水のせせらぎ。森羅万象の全ての音が、一つのハーモニーとなって、僕たちに語りかけてくる。
『……誰だ……? 我が、長き夢の眠りを、揺り起こすのは……』
『……世界が、変わったか。傷つき、そして、新たな生命の歌に、満ちておる……』
アルクス・シルヴァの、巨大な黄金の瞳が、僕を、捉えた。
『…汝か。汝の魂か。久しく聞かなかった、創造の歌を、奏でるのは。だが、その音色は、この世界の理とは、少しだけ違う。星の子よ。汝は、何者だ…?』
「星の子」。転生者である僕の本質を、この神獣は、一目で見抜いたのだ。
僕は、恐怖よりも、むしろ、懐かしさにも似た、不思議な安らぎを感じていた。
僕は、一歩前へ出ると、精霊たちと対話した時と同じように、僕の意思を、創成魔法の波に乗せて、彼へと送った。
僕はこの世界の者ではないこと。
僕が、死んだ土地を再生させたこと。そして、その時の力が、意図せず、彼の眠りを妨げてしまったであろうこと。
僕は、ありのままの事実を、偽りなく、彼に伝えた。
僕の想いを受け取ったアルクス・シルヴァは、ゆっくりと、その巨大な頭を動かした。
『…そうか。我は、眠っていたのか。世界の魔力が枯渇し、大地がその力を失っていくのを、ただ、見ていることしかできなかった故に…。我が目覚めは、世界の命を、さらに吸い尽くすことになると、信じて…』
神獣は、語ってくれた。
彼は、数世紀前、増えすぎた人間たちが引き起こす、戦争や、自然破壊によって、世界の魔力の総量が、急速に減少していくのを感じ取った。このまま自分が活動を続ければ、大地に残された、最後の生命力すらも吸い尽くしてしまう。そう判断した彼は、世界を守るために、自ら、仮死状態に近い、深い眠りについたのだ、と。
『…だが、汝の力は、枯れた大地に、新たな命の奔流を呼び覚ました。その奔流は、眠っていた我を、無理やり、目覚めさせてしまった。感謝するぞ、星の子よ。だが…』
神獣の声に、わずかな、苦痛の色が混じる。
『…早すぎたのだ。我が魂は、まだ、この新しい世界の魔力に、馴染んでおらぬ。我が力は、不安定。もし、このまま、完全に覚醒すれば、我が力の暴走は、祝福ではなく、生命の氾濫という、新たな厄災を、この地に、もたらすやもしれん…』
予言は、正しかったのだ。
僕の、善意の行いが、この世界に、新たな危機を呼び覚まそうとしていた。
だが、僕は、絶望しなかった。
僕の目には、その問題の、明確な解決策が見えていたからだ。
「…分かりました。それは、エンジンを再起動する時の、チューニングが、ずれているようなものですね」
僕の、あまりにも現代的な例えに、神獣の思念が、わずかに戸惑ったのが分かった。
僕は、仲間たちを振り返った。
「リナさん、セレスティーナさん、ライラさん。力を貸してください」
僕は、三人に、それぞれの役割を告げる。
セレスティーナには、この聖域全体の魔力が安定するように、広範囲の浄化結界を。
リナには、万が一、魔力が暴走して、物理的な破壊現象が起きた場合に、それを斬り伏せるための、絶対的な護衛を。
ライラには、ゲイルと共に、この森の小さな精霊たちに語りかけ、彼らの力を、僕の元へと集める、補助役を。
そして、僕は、靴を脱ぎ、光の湖へと、静かに足を踏み入れた。
温かい光の液体が、心地よく、僕の体を包む。
僕は、アルクス・シルヴァの、巨大な、木の根のような御足の元へとたどり着くと、その幹に、そっと、両手を触れた。
「アルクス・シルヴァ。僕は、あなたを支配するんじゃない。あなたと、この世界の、調律を手伝います。僕の魔法を、信じて」
僕は、創成魔法の全てを、解放した。
僕の役割は、仲介者。
僕が再生させた、若く、荒々しい、大地の魔力。それを、一度、僕の体を通して、受け止める。そして、僕の魂の中で、その魔力を、神獣が受け入れやすい、穏やかで、調和の取れたエネルギーへと、変換する。そして、変換した純粋な生命エネルギーを、僕の手を通じて、神獣の魂へと、そっと、流し込んでいく。
僕と、神獣が、一本の光の奔流で、結ばれた。
洞窟全体が、太陽が生まれたかのような、まばゆい、しかし、どこまでも温かい、黄金の光に満たされる。
神獣の体から、苦痛の気配が消え、その代わりに、歓喜の波動が、聖域全体に広がっていく。
やがて、光が収まった時。
アルクス・シルヴァは、完全に、その力を取り戻していた。その黄金の瞳は、以前よりも、遥かに力強く、そして、僕への、絶対的な信頼と、感謝の念を、湛えていた。
『…ありがとう、星の子よ。いや…カイ、と、言ったか。汝は、我を目覚めさせただけでなく、我を、癒し、そして、この新しい世界の歌と、我らが魂を、調和させてくれた』
神獣の、荘厳な声が響き渡る。
『我は、アルクス・シルヴァ。この聖域の守護者。そして、汝は…この聖域の、新しい主だ。いや、あるいは、友、と呼ぶべきか。この森は、今日より、汝の庭だ。そして、我は、汝が愛する街、フロンティアを、我が同胞として、永遠に、見守ることを誓おう』
僕の、ささやかな好奇心から始まった冒険は、僕の街に、神という、最強の守護者を与えるという、とんでもない結果をもたらした。
僕は、完全に目覚めた、荘厳な神獣を見上げながら、その計り知れない存在感に、圧倒されていた。
(すごいな…。これが、この世界の、本当の力。僕の創成魔法なんて、この大自然の営みに比べれば、まだまだ、ちっぽけなものかもしれないな)
そして、僕は、いつもの僕に戻る。
(…さて、と。そろそろ家に帰って、トマトの様子を、見に行かないと)
僕の、フロンティアでのスローライフは、どうやら、神様を隣人にするという、新しいステージへと、突入してしまったようだった。




