第39話:聖域の試練と、魂の対話
僕たちが『始原の精霊たちの聖域』へと足を踏み入れた瞬間から、世界の法則が変わったかのような感覚に陥った。
空気は、蜂蜜のように甘く、濃密な魔力を含んでいる。一呼吸するごとに、全身の細胞が喜んでいるのが分かる。木々は、天を衝くほどの巨木となり、その枝葉の間からは、虹色の光が木漏れ日となって降り注ぐ。地面には、見たこともない花々が咲き乱れ、その花弁からは、心地よい音色の魔力が、音楽のように溢れ出していた。
「…すごい。全ての生命が、歌っているようです」
セレスティーナが、恍惚とした表情で呟く。彼女の聖なる力も、この清浄な魔力に満ちた環境に、共鳴しているのだろう。
僕たちは、この神秘的な森を、慎重に、そして敬意を払って進んでいった。
先導するのは、ライラと、その上空を飛ぶゲイルだ。
ライラは、エルフの血に由来する鋭敏な五感で、森の気配を読み解いていく。
「…カイ様。この先に、魔力の流れが渦巻いている場所があります。ですが、敵意は感じられません。むしろ、何かを…待っているような気配です」
ゲイルもまた、上空から、危険がないことを、一声鳴いて知らせてくれる。
僕たちは、ライラの案内に従って、森の奥へと進んでいった。
僕が創り出した『マナ・サーベイメーター』は、中心部に近づくにつれて、計測不能なほどの数値を叩き出していた。僕が再生させたヴァレリウス領の土地ですら、ここの魔力密度に比べれば、砂漠のようなものだ。
やがて、僕たちの目の前に、開けた空間が現れた。
中央には、巨大な水晶が、まるで心臓のように、ゆっくりと明滅を繰り返している。その周囲には、古代の遺跡を思わせる、苔むした石柱が、いくつも聳え立っていた。
そして、僕たちがその広場に足を踏み入れようとした、その時。
ふわり、と。
風が、僕たちの行く手を遮った。
それは、ただの風ではない。意思を持った、魔力の流れだった。
広場の木々や、風そのものから、淡い光を放つ、半透明の人影が、いくつも、すうっと現れた。彼らは、定まった形を持たない。あるものは、木の葉を纏い、あるものは、光の粒子でできている。
――精霊。
この森の、古からの住人たちだ。
彼らは、攻撃してくる様子はなかった。だが、その全身から放たれる気配は、明確な拒絶を示していた。
『――何者か』
『――何故、聖域を侵すのか』
『――穢れたる者は、ここより先へは進めぬ』
言葉ではない、直接、僕たちの魂に響くような、思念の波。
その、あまりにも純粋で、絶対的な拒絶の意思を前に、リナは、咄嗟に、僕の前に出て、剣の柄に手をかけた。
「カイ殿、お下がりください! 彼らは、我々を拒絶しています!」
だが、リナが闘気を放った瞬間、精霊たちの気配が、敵意へと変わった。風が荒れ狂い、周囲の木々が、不気味に軋み始める。
「リナさん、待って!」
僕は、リナの肩を、そっと押さえた。
「彼らは、敵じゃない。この森の、番人です。僕たちを、試しているんですよ」
僕は、リナに剣を収めさせると、一人、前へ進み出た。
精霊たちの、探るような視線が、僕一人に集中する。彼らは、僕が、この森に、そして、彼らの眠れる主に、変化をもたらした張本人であることを見抜いているのだ。
僕は、力を見せようとは思わなかった。彼らが求めているのは、武力や、魔力の大きさではない。
僕たちの、『魂の在り方』そのものだ。
僕は、目を閉じ、創成魔法の意識を、僕自身の内側へと向けた。そして、僕の想いを、ありのままの、純粋な魔力の波として、彼らに送る。
攻撃でもなく、干渉でもない。ただ、対話のための、意思表示。
――僕が、見せるのは、僕の記憶。僕の感情。
追放された日の、絶望と屈辱。
フロンティアで出会った、人々の温かさ。
リナの、セレスティーナの、ライラの、僕に向けられる、絶対的な信頼と、友情。
死にかけた大地を再生させた時の、生命を慈しむ心。
そして、この森と、その中心で眠る、巨大な存在への、純粋な好奇心と、深い敬意。
『――我々は、奪うために来たのではない』
『――我々は、傷つけるために来たのでもない』
『――あなた方の主の眠りを、意図せず妨げてしまったのは、我々だ。だからこそ、その目覚めが、穏やかで、祝福に満ちたものになるように、助けになりたい』
『――我々は、この森の、友人として、ここに来た』
僕の、偽りのない想いが、魔力の波となって、広場の精霊たちへと伝わっていく。
最初は、僕の想いを警戒していた精霊たちの気配が、少しずつ、和らいでいくのが分かった。
荒れ狂っていた風は、凪ぎ、木々の軋みは、優しい葉音へと変わる。
やがて、僕の目の前にいた、一際大きな精霊が、その光の手を、そっと、僕の胸に触れさせた。
温かい、陽だまりのような感覚が、僕の心に流れ込んでくる。
『――認めよう』
『――汝は、破壊の者にあらず』
『――汝は、創造の主。調和を紡ぐ者』
『――汝の心に、偽りなし』
その思念が伝わった瞬間、僕たちの行く手を遮っていた、全ての精霊たちが、光の粒子となって、すうっと、森の中へと溶けて消えていった。
そして、それまで、ただの遺跡にしか見えなかった広場の奥に、それまでなかったはずの、光に満ちた、新しい道が、現れていた。
「…道が…」
リナが、信じられないといった様子で呟く。
セレスティーナは、その光景に、感極まったように、静かに祈りを捧げていた。
「カイ様は、武力ではなく、対話で、精霊たちの心を開かれたのですね…」
僕は、仲間たちを振り返り、微笑んだ。
「やっぱり、力だけじゃダメなんですね。相手が何を考えて、何を望んでいるのかを、心から理解しようとすること。それが、本当の意味での、コミュニケーションなのかもしれない」
僕たちは、精霊たちが開いてくれた、新しい光の道を、一歩、踏み出した。
この先に、一体、何が待っているのか。
僕たちの、本当の探検は、まだ、始まったばかりだ。
聖域の、さらに奥深く。
眠れる神獣の、夢の中心へと向かって。




