第33話:落ちた英雄と、悪魔の契約
僕の日常は、ウロボロス商会の幹部、サイラスの訪問によって、その水面下に、見えない波紋を広げていた。僕自身は、彼の脅迫めいた言葉をさほど気にしていなかったが、僕の三人の守護者たちは、違った。彼女たちは、僕の平穏を脅かす、明確な敵意を感知し、静かに、しかし着実に、来るべき嵐に備え始めていた。
その頃――。
フロンティアから遠く離れた、名もなき宿場町の、安酒場。
かつて王都でその名を知られたSランクパーティ『紅蓮の剣閃』のメンバーは、テーブルに並べられたエールと、ぬるいシチューを前に、重い沈黙に支配されていた。
「…クソッ」
リーダーであったはずの剣士、アレクが、悪態をついた。彼の鎧は輝きを失い、あちこちが凹んでいる。数日前に受けた、ゴブリンの集落を討伐するというCランクの依頼ですら、彼らは苦戦し、仲間の一人が怪我を負って失敗したのだ。
「もう、ポーションの備蓄がないのよ。あれ以上、戦えるわけないじゃない」
魔道士のタニアが、力なく呟く。彼女のローブは薄汚れ、その顔には、かつての自信に満ちた輝きはない。
「…昔は、こんなことなかったんだがな」
戦士のゴランが、空になったジョッキを見つめながら、ぽつりと言った。
彼らは、気づいていなかった。いや、気づきたくなかったのだ。
彼らの凋落が始まったのは、あの時――彼らが、パーティの「雑用係」であったカイを、理不尽に追放した、あの日からだということに。
完璧に整備された武具も、最高品質のポーションも、常に安全で快適な野営地も、全てが、当たり前のようにそこにあった。そして、それら全てを、彼らは失った。失って初めて、彼らは、自分たちが、いかに脆弱な基盤の上に成り立っていたかを、嫌というほど思い知らされていた。
だが、彼らは、その原因を、追放した少年に求めることはない。彼らの歪んだプライドが、それを許さないのだ。彼らは、ただ、自分たちの不運を呪い、世間を恨み、日々の糧を得るためだけに、その日暮らしの依頼をこなす、ただの落ちぶれた冒険者に成り下がっていた。
そんな彼らの前に、一人の男が現れた。
上質な旅装束を身にまとった、見るからに裕福そうな男。彼は、ウロボロス商会の紋章が入った指輪をちらつかせながら、卑しいものを見るような目で、アレクたちを見下ろした。
「あなた方が、元Sランクの『紅蓮の剣閃』ですかな? 噂通りの、落ちぶれようですな」
「…なんだと?」
アレクが、柄に手をかける。だが、男は全く動じなかった。
「まあ、そう殺気立たないでいただきたい。あなた方に、素晴らしいお話を持ってきたのですから」
男が提示したのは、一つの「依頼」だった。
「ある田舎町に、最近、頭角を現した『聖者』を気取った若造がおります。どうやら、何か、とんでもない『幸運』に恵まれたようでしてね。我々、ウロボロス商会は、その幸運の『源泉』に、大変興味があるのです」
依頼内容は、その「源泉」――それが、魔法のアイテムなのか、特殊な技術なのか、あるいは、何らかの秘密なのかは分からない――を、『回収』すること。
「手段は、問いません。必要とあらば、多少、手荒なことになっても構いません。ただし、あくまで、秘密裏に」
それは、もはや、冒険者の依頼ではなく、盗賊か、暗殺者の仕事だった。
アレクの顔に、冒険者としての最後の誇りが、葛藤となって浮かぶ。
だが、男が、テーブルの上に、金貨が詰まった重い袋を置いた瞬間、その葛藤は、欲望によって、あっけなくかき消された。
「手付金です。成功報酬は、この十倍。あなた方が、失ったもの全てを取り戻し、お釣りがくるほどの額です。どうですかな?」
金。名誉。失われた栄光を取り戻すための、悪魔の契約。
アレクは、ゴクリと唾を飲むと、震える手で、その金貨の袋を掴んだ。
「…やる。その仕事、俺たちが引き受けた」
その言葉に、タニアもゴランも、反対しなかった。彼らもまた、この泥沼の現状から抜け出せるのなら、悪魔に魂を売ることさえ厭わなかったのだ。
「賢明なご判断です。ターゲットは、辺境の街、フロンティア。詳しい資料は、ここに」
男は、満足げに笑うと、一枚の羊皮紙を置いて、去っていった。
彼らは、まだ知らない。
自分たちが、これから向かう先に待っているのが、誰なのか。
そして、自分たちが奪おうとしている「幸運」が、かつて、自分たちが自らの手で捨て去ったものであるという、残酷な真実を。
◇
その頃、僕の家では、僕と、三人の仲間、そしてドルガンさんを交えた、緊急の対策会議が開かれていた。
議題は、もちろん、ウロボロス商会についてだ。
「奴らは、王都に巣食う、貪欲な蛇だ」と、ドルガンさんが、苦々しげに言う。「通常の商売で手に入らぬと分かれば、必ず、裏の手を使ってくる。暗殺、誘拐、破壊工作…奴らの汚い手口は、枚挙に暇がない」
「では、カイ殿の工房と、この家そのものが、直接狙われる可能性がある、ということですね」
リナが、鋭い視線で応じる。
「ええ。カイ様の御身の安全はもちろん、あの方の発明品や、研究記録も守らねばなりません」
セレスティーナも、同意する。
僕は、三人の真剣な議論を聞きながら、一つの結論に達していた。
「分かりました。それなら、この家全体を、一つの要塞にしてしまいましょう」
「要塞、ですか?」
僕は、工房から、一枚の設計図を持ってきた。それは、この数日間、僕が密かに構想していた、新しい防衛システムのものだった。
「ゴーレムを呼び寄せた、あの『失敗作』の原理を応用します。あの装置が発する特殊な魔力周波数を、家の周囲に張り巡らせ、外部からの侵入者を感知する、対人結界を構築するんです。ただの結界じゃありません。侵入者の魔力や敵意に反応して、自動で迎撃用のゴーレムを生成し、無力化する、全自動の防衛システムです」
僕の、あまりにも物騒な説明に、その場の全員が、一瞬、言葉を失った。
「…カイ君。君は、時々、自分が何を言っているのか、分かっているのかね…?」
ドルガンさんの、疲れ切ったような呟きが、僕の耳には、なぜか、最高の褒め言葉のように聞こえた。
こうして、二つの運命が、フロンティアという一点を目指して、動き始めた。
失われた栄光を取り戻すため、暗い欲望に駆られた、過去の英雄たち。
そして、手に入れたささやかな平穏を守るため、静かに、しかし確実に、その牙を研ぐ、規格外の少年とその守護者たち。
夜の帳が下りた頃、『紅蓮の剣閃』の一行が、フロンティアの街の灯りを、丘の上から見下ろしていた。
「…待ってろよ、フロンティアの聖者様とやら。お前の幸運、根こそぎ奪ってやる」
アレクの、暗い呟きが、夜の闇に溶けていく。
その、まさに同じ時刻。
僕は、我が家の屋根裏部屋で、新しい防衛システムの、最後の部品である制御用の水晶を、設置していた。水晶が、カチリ、と音を立てて嵌まる。一瞬だけ、屋敷全体が、目には見えない、淡い光のドームに包まれ、そして、静寂に戻った。
僕は、一つ、大きなあくびをした。
「よし、これで一安心。さて、明日は、そろそろトマトの収穫でもしようかな」
二つの運命が、交錯するまで、あと、わずか。
フロンティアの静かな夜は、これから始まる、激しい嵐の前の、最後の静けさだった。




