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第29話:職人の礼節と、市場の出会い

ヴァレリウス領から帰還して、一月が経った。

僕の日常は、ようやく、僕が理想としていた「スローライフ」に近い形を取り戻していた。家の前に巡礼者の列ができることもなくなり、僕は心穏やかに、趣味の研究と畑仕事に没頭する日々を送っていた。


午前中は、庭で野菜の世話をする。ゴーレムとヴァレリウス領の魔力で、二重に祝福された僕の畑の土壌は、もはや奇跡の土と化していた。植えた作物は、恐ろしいほどの速度と品質で育っていく。僕が創り出したトマトは、まるで果物のような甘さを持ち、それを食べたリナとセレスティーナは、「これを食べれば、もう他のトマトは食べられません…」と感動していた。


午後は、工房での発明の時間だ。

今の僕の目標は、あの日、約束した、鍛冶屋のレオ君に渡すための、新しい『魔力式高効率炉心』を完成させることだった。ゴーレムを呼び寄せるという欠陥を完全に取り除き、より安全で、誰にでも使いやすいように改良を重ねる。その地道な作業が、僕には何より楽しかった。


そんな穏やかなある日の午後、珍しく、僕の家に訪問者があった。

門の前で対応したセレスティーナが、僕を呼びに来る。

「カイ様。鍛冶屋のレオ様が、あなたに会いたいと。素晴らしい贈り物も、お持ちです」


工房に通されたレオ君は、以前会った時のような、自信なさげな少年ではなかった。その目には、職人としての確かな自信と誇りが宿っている。彼は、僕の前に、布に包まれた長いものと、小さな木箱を恭しく差し出した。


「カイ様! 先日は、本当にありがとうございました!」

彼は、深々と頭を下げる。

「カイ様からいただいた『師匠のマスターハンマー』と『叡智のワイズタブレット』のおかげで、俺の技術は、親父も驚くほど上達しました。今まで手も足も出なかったミスリル鋼を、自在に扱えるようになったんです!」

彼は、贈り物だという布包みを開いた。中から現れたのは、一振りの、美しいキッチンナイフだった。ミスリルが編み込まれた刀身は、青白い輝きを放ち、その切れ味は、一目見ただけで分かるほどだ。

「これは、俺が今の技術で創れる、最高の作品です。カイ様への、感謝の印として、どうか受け取ってください!」


そして、もう一つの木箱。それは、僕が彼に依頼していた、新しい炉心の外装部品だった。僕が描いた複雑な設計図を、彼は完璧に、寸分の狂いもなく作り上げてくれていた。


僕は、その見事な仕事ぶりに、素直に感心した。

「素晴らしいナイフだ、レオ君。君は、もう立派な一人前の鍛冶師だね」

僕がそう言って、改良を終えた、新しい『魔力式高効率炉心』の完成品を彼に手渡すと、レオ君は、再び涙を浮かべて感激していた。

彼が帰った後、僕は、リナとセレスティーナに提案した。


「せっかくだから、このナイフを試しに、街へ新鮮な食材を買いに行きませんか?」



僕たち三人は、久しぶりにフロンティアの市場を訪れた。

相変わらずの活気だが、以前と違うのは、すれ違う商人や冒険者たちが、僕に気づくと、畏敬の念を込めて道を開けてくれることだった。僕の「聖者」としての評判は、すっかりこの街に定着してしまったらしい。


僕たちは、色とりどりの野菜や、珍しい香辛料を見て回り、買い物を楽しんでいた。

その時、市場の一角が、やけに騒がしいことに気づいた。人だかりの中心には、一つの巨大な鉄の檻が置かれている。


檻の中にいたのは、一頭の、壮麗なグリフォンだった。

鷲の頭と翼、そしてライオンの胴体を持つ、伝説の魔獣。その本来の雄々しい姿は、しかし、見る影もなかった。美しい黄金の羽は色褪せて抜け落ち、鋭いはずの眼光は、濁ったガラス玉のように虚ろだ。浅く、苦しそうな呼吸を繰り返し、その巨体は、時折、小さく痙攣していた。


檻の前では、ガラの悪い商人たちが、客引きの声を上げている。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 珍しいグリフォンの生け捕りだ! ちゃんと調教済みで、おとなしいもんだぜ!」


その言葉に、リナが、侮蔑を込めて小さく吐き捨てた。

「調教…? 馬鹿を言え。あれは、毒で衰弱させられているだけだ。なんと卑劣な…」

セレスティーナも、檻の中のグリフォンを見て、悲痛に顔を歪めている。

「ああ…あの魔獣の魂が、泣いています…」


僕は、創成魔法で、グリフォンの状態を分析した。二人の言う通りだった。

これは、ただの衰弱ではない。極めて巧妙に調合された、遅効性の魔力毒が、その全身を蝕んでいる。生命力を根こそぎ奪い、思考能力を麻痺させ、無気力にさせる、悪魔のような毒だ。


その時、僕の目に、檻のそばに立つ一人の少女の姿が映った。

長く尖った耳。森の色を映したような、緑の瞳。彼女は、エルフか、それに近い種族なのだろう。使い古された革のレンジャースーツを身にまとい、その背には、大きな弓を背負っている。

彼女は、涙を浮かべ、ただ、じっと、檻の中のグリフォンを見つめていた。


商人たちが、その少女に気づき、嘲るように声をかける。

「なんだ、エルフの嬢ちゃん。まだいたのか。言っただろ、金がなけりゃ、お前のペットは返してやらねえってな。こいつは、俺たちが森で『保護』した、正当な商品なんだぜ」


「…返して。あの子は、私の相棒パートナーなの…!」

少女が、震える声で抗議する。

彼女――ライラと名乗った少女の話を要約すると、こうだった。

彼女の相棒であるグリフォンが、高地のワイバーンとの戦いで深手を負った。彼女が、治療のための薬草を探しに行っている間に、この商人たちが、弱ったグリフォンを盗み出し、言うことを聞かせるために、この毒を盛ったのだ、と。

彼女は、相棒を買い戻すために、必死で依頼をこなして金を稼いでいるが、商人たちが吹っかける法外な値段には、到底追いつかない。


「お願い…! あと少しで、お金が…!」

「はっ、その『あと少し』を待ってる間に、こいつがくたばるかもしれねえぜ?」


下品な笑い声が、市場に響く。

リナが、無言で剣の柄に手をかけた。セレスティーナも、固い表情で、ギルドの衛兵を呼びに行こうとする。


だが、その前に、僕が、一歩、前へ出た。


僕は、商人たちの前に立つと、静かに告げた。


「そのグリフォン、僕が買おう」


僕の言葉に、商人たちは、金蔓が来たと、下卑た笑みを浮かべた。

「へっへっへ。そりゃあ、ありがてえ。お坊ちゃん、見る目があるねえ。こいつは特別だぜ? 金貨3000枚で、どうだい!」


それは、常識外れの、足元を見た値段だった。周囲の野次馬からも、どよめきが起こる。

だが、僕は、眉一つ動かさなかった。

僕は、懐から、一つの革袋を取り出した。ドルガンさんから、「迷惑料」として渡された、金貨が詰まった袋だ。


それを、ドン、と、商人たちの前の台に置いた。

革袋の口が緩み、中から、目も眩むほどの大量の金貨が、ざらり、と溢れ出す。金貨3000枚など、その中の一部に過ぎない。


市場の喧騒が、嘘のように静まり返った。

商人たちは、目の前の黄金の山に、完全に度肝を抜かれ、声も出せずに固まっている。


僕は、そんな彼らにはもう興味がないとでもいうように、檻のそばで、呆然とこちらを見ているエルフの少女――ライラに、向き直った。


そして、檻の中の、苦しむ相棒を見つめる彼女に、優しく、そして力強く、言った。


「大丈夫。僕が、治してあげるから」


僕の、新たな仲間との出会いは、いつも、唐突で、そして少しだけ、騒がしい。

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