世界を呪う
――精神世界。
終わりも始まりもない、光すら届かぬ虚無の空間。
その中心に、ルカは佇んでいた。
感情も、時間も、すべてが沈殿したその空間に、ふ、と揺らぎが生じる。
「……よぉ、ルカ」
声がした。
背後も前方もないはずの空間から、滑り込むように音だけが響く。
現れたのは、輪郭の曖昧な人影だった。
まるで闇が形を成したような存在。
実在感があるようで、触れれば指をすり抜けそうな。
――ナカト。
「……来たか」
ルカが呟く。
「お前が呼んだんだろぉ……?」
ナカトの声は、軽やかなようで耳障り。
不気味さの裏に、どこか退屈さすら漂わせている。
「あの女の声が、よく響いていたからな。“殺して”……だっけかぁ?」
「……やめろ」
ルカの瞳が細められた。
黒と白、相反する色が交じる双眸。
「……ようやく、だな。」
ナカトは嬉しそうに笑う。
口元だけが異様に浮かび上がるように、歪んで見えた。
「最初は、ただ捨てられた子犬だった。傷だらけで……それでも吠えることすらできない小動物」
「……」
「それが、どうだ。牙を持ち、憎しみを手にし、死の道へと足を踏み入れた」
闇が波打つ。
「いいぞ。もっと進め。もう後戻りなど、できはしない」
「それが……お前の望みか」
「そうだ」
即答だった。
「お前が“奴”に届けば……そこに、俺の復讐がある。」
ルカは静かに目を閉じる。
もう、問いただす気すらない。
ナカトが何者であれ、目的がなんであれ。
自分にとっては、どうでもいい。
――フィーラが苦しめられた。
それだけが、すべて。
「ナカト」
「んん?」
「"復讐"してやるよ。だから……全部、よこせ。」
その言葉に、ナカトが笑う。
「ああ……"契約"だもんな」
その瞬間、闇がルカの体へと吸い込まれる。
心が染まっていく――
◇
〈蛙のみぎあし亭〉
安宿の一室。
だが、第三部隊の騎士たちも潜伏に使うだけあり、扉は厚く施錠されている。
そこへ、ひとりの町娘が扉を叩いた。
「ルカさん……いますか?」
声の主は、第一王女セレーヌ・エルステリア。
目立たぬよう、庶民風の装いに身を包んでいるが、その瞳の奥には王族としての鋭さが宿っていた。
「……セレーヌか」
ルカが扉を開けた。
その顔を見て、彼女の心が軋む。
かつて微かな希望を灯していたその瞳は、今、復讐の焔に焼かれている。
言葉を選びながら、彼女は口を開いた。
「……フィーラさんのこと、聞きました。無事で、良かった」
「無事……だと?」
ルカの声が低く、乾いていた。
「記憶を失って、怯えて、叫んで……それでも“無事”って言えるのか?」
「……っ、ごめんなさい。でも……」
「セレーヌ、あんたは“ファルメル”を信用してたんだよな」
ピクリ、と彼女の肩が震える。
「俺も、騙された。でも……あんたも、あいつを見抜けなかった。そうだろ?」
「……」
「フィーラは、その代償を払った。身体も、心も、壊れて……それでもまだ生きてる。なんのためだ。」
「ルカ……!」
セレーヌの声が強くなる。
「あなたの怒りは分かります。私だって、悔しい。ファルメルを、信じていた……。でも、今のあなたは……」
ルカが彼女を見る。
「あなたはもう、騎士じゃない!」
「……ああ。俺は騎士なんかじゃない」
即答だった。
「フィーラの光は、もう消えかけてる。死にたいと願っている……お前に分かるか?祝福の儀の苦しみが。 ファルメルも……ネフェルティアも教団も全部、全部全部全部全部全部ッ!!!……俺が壊してやる」
「お願い、……自分を、見失わないで」
「もし邪魔するなら……あんただろうが、誰だろうが……」
ルカの目から完全に光が消える。
「世界だろうが、呪ってやるよ」
セレーヌは、言葉を失った。
淡々としたその声があまりにも静かで、哀しくて――
セレーヌの瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
――昨日までのルカは、死んだ。
今ここにいるのは、“堕ちた”復讐者。
そしてその男は、誰の手も届かぬ場所へと、足を踏み入れていくのだった。
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