無価値な者へ
森を抜ける風が、頬に心地よかった。
けれど──
“心地よい”と感じる感覚は、まだ自分の中に残っていたのだろうか。
数日ぶりに地上に出たルカは、廃棄迷宮を離れ、当てのない放浪を続けていた。
食料はない。金もない。行き先もない。
それでも、何かに突き動かされるように、足は止まらなかった。
心はどこか、虚ろだった。
空腹が限界を超え、もはや痛みすら感じない身体。
それでも、燃えているものがあった。
──“奴らを、壊さなきゃ”。
そんな想いだけを頼りに、ルカは進んでいた。
やがて、朽ちた街道へと出た。
地面はでこぼこで、馬車の轍と、乾いた血のような染みが残っていた。
その先に、古びた荷車が停まっている。
人の気配。油の臭い。
そして──ほんの微かな、魔力のにおい。
ルカは立ち止まり、茂みの影から様子をうかがった。
そこにいたのは、数人の男たち。
見るからに粗暴で、腰に刃物を提げている。
荷車の上には鉄製の檻。
中には、ひとりの少女。
年端もいかない、8歳ほどの小さな女の子。
擦れた服。顔には涙の跡。
それだけで、状況は理解できた。
──奴隷商人。
ルカは、荷車を見下ろしたまま、目を細めた。
怒りが湧くわけでもない。
助けたいと思ったわけでもない。
ただ、“気に障った”。
それだけだった。
ドルマンと呼ばれる肥満体の男が、少女の頬をつねって笑っていた。
「へへっ、売りもんだが……ちょっと味見くらいはな?」
その声を聞いた瞬間、ルカの指先が黒く染まりかけた。
が──
「……やめておこう」
ルカは踵を返し、森の奥へと歩き出した。
殺すには早すぎる。
怒るには、まだ腹が減っていた。
けれど──背中に、声が届いた。
「……たすけて……だれか……たすけて……」
少女の泣き声だった。
さっきと同じ、聞こえたはずの“声”。
ルカは立ち止まる。
そのまま、顔を上げずに空を見た。
(……また、聞こえた)
それは祈りのようでもあり──
かつての自分の声にも、少し似ていた。
風が吹いた。草が揺れた。
迷いは、なかった。
ただ、“戻る”という行動が、身体に染みついていただけだった。
ドルマンは太い指でリンの頬をつつき、手下たちは笑っていた。
「その目がいいんだよな。絶望しきっててよォ……」
その言葉を聞いたときだった。
草の向こうで“空気”が変わった。
次の瞬間、手下の一人が喉元を押さえ、苦悶の声を上げる。
「グ……ぅ……!?」
影が巻きつき、首を締めていた。
それは、いつの間にか伸びていた“ルカの影”だった。
「なんだ……誰だテメェ!? どこから湧いた!」
ドルマンが叫ぶ。ルカは答えない。
草むらから、ゆっくりと“黒い少年”が現れる。
ボロ布のような服。血と泥にまみれた姿。
その眼だけが、異様に澄んでいた。
「て、てめぇ……どこの回しモンだ!?」
ルカは何も言わず、ただ手を伸ばした。
──闇が、膨れた。
掌から放たれた黒い奔流が、空気を切り裂いて走る。
もう一人の手下が吹き飛び、地面を転がった。
その身体からは、黒い痣が広がっていた。
内側から、腐るように。
ドルマンは悲鳴を上げながら後退した。
「ま、待て! 殺すなッ! 話せばわかる! 金ならやるッ!」
「……金?」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの足が止まる。
「金、ね……」
目を伏せ、ひとつ息を吐く。
そして、無感情な声で答えた。
「──“お前の価値”は、金で決まるのか?」
ズゥン。
影が膨張し、ドルマンの足元を呑み込んだ。
逃げようとする身体を、地面が縫いつける。
そこへ、ルカの掌が伸びた。
闇が集束する。
かつて“光”を持っていた少年が、
今は“闇”を宿す存在として、その魔力を振るう。
「──無価値な奴だ」
バチンッ。
乾いた音とともに、ドルマンの胸が抉られた。
心臓を穿たれた肥満体は、声すら上げられずに崩れ落ちた。
……静寂。
檻の中では、少女が怯えたまま固まっていた。
ルカは、その前に立つ。
鍵を壊し、扉を開ける。
だが、リンは後ずさった。
ルカはしばらくその場に立ち尽くし、無言で背を向ける。
「……好きにしろ」
そう呟き、歩き出そうとしたその背中に──
「……あ……りがとう……」
かすかな声が届いた。
小さくて、震えていて、けれど確かに心を打つ“祈りのような声”。
ルカは立ち止まる。
けれど、振り返らないまま歩き出した。
これは、“復讐”の連鎖の、その第一歩。