黒の接触
――夕暮れの王都。
西の空に沈みゆく陽が、街並みに長い影を落としていた。
石畳の街路を、ルカはゆっくりと歩いていた。
すれ違う人々の声や、露店の呼び込み。
生活の気配があふれる中、彼の足取りだけが、どこか孤独だった。
向かう先は市場。
日用品の買い出しだ。
滞在先は《蛙のみぎあし亭》。
表向きはただの安宿だが、実際には魔術騎士団第三部隊の拠点のひとつであり、現在ルカたちが身を寄せている場所でもある。
セレーヌと共に、教会の動向を探るための活動は続いていた。
だが、“祝福の儀”や“呪具”に関する情報は、依然として闇の中。
目に見える手がかりも掴めず、焦燥だけが募っていく。
そしてもうひとつ。
ルカの胸の奥に、静かに重く居座る存在――“ナカト”。
(……ナカト)
その名を口にすることはしない。
ただ意識を向けるだけで、心の奥が冷たくなる。
胸の奥に、わずかに残るあの感触。
あの深夜――契約を交わしたときの、黒い爪痕のような残響。
ルカはそっと右手を持ち上げる。
指先に、淡く黒い魔力が灯る。
契約は、いまだに続いている。
魔力は繋がっている。だが――
ここしばらく、ナカトは一切姿を見せていない。
だからこそ、不気味だった。
気配を消す獣のように。
何かを企んでいるように、沈黙している。
(最後に現れたとき……あいつは、フィーラを“貰う”と言った)
あのときの言葉が、頭から離れなかった。
フィーラの魔力。
その“特異性”に、あいつは気づいていた。
あの黒い意志は、まだどこかで――蠢いている。
(……あいつの“復讐”って、なんなんだ)
ただの怨念ではない。
そこには明確な“目的”があるように思えた。
いずれ向き合わねばならない。
逃げても、遅かれ早かれ辿り着く未来だ。
そう思いながら、ルカは静かな裏通りへと足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「……お初にお目にかかりますわ、ルカ様」
どこか艶めいた声が、空気を震わせた。
不意に背後を振り向く。
薄暗い通りの石畳の上。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
黒と紫のドレスを身にまとい、仮面で顔の上半分を隠している。
その口元には妖しい笑み。
瞳には狂気とも魅惑ともつかぬ、異様な光が宿っていた。
「……誰だ、お前は」
ルカが低く問う。
女はくすりと笑い、静かに名乗った。
「ふふっ、怖がらないで。私はネフェルティア。あなた様を“見に来た”だけ。……器としての、ね」
「……器?」
「ええ……あなた様はとてもとても、魅力的で……ふふ、素晴らしいわぁ……」
その声色は上品に整えられている。
だが、その奥には、ねっとりと絡みつくような粘性を感じる。
爪先から喉元まで、じわじわと冷たさが這い上がってくるような感覚。
「貴方様は、我らが“主”の器となる資格をお持ちです」
女の声が低く、甘く響く。
「どうぞ……恐れず、拒まず、その魂を委ねてくださいまし」
「……ふざけるな。何が“器”だ……」
ルカの声が、静かに怒気を含んで低くなる。
だが、ネフェルティアは怯むこともなく、むしろ楽しげに笑みを深めた。
「まぁまぁ。そう簡単には受け入れられませんわよねぇ」
くるりと裾を翻し、一歩だけ下がる。
仮面の奥の瞳が、じっとルカを見つめる。
「でももし、あなた様が拒むのであれば……もう一人の“候補”を選ぶだけの話です」
「……もう一人?」
「ええ……いずれ、全て分かりますわ」
その言葉とほぼ同時に、裏通りの奥から新たな声が響いた。
「ルカーっ!」
駆け寄ってきたのは、フィーラだった。
ルカに気づいて手を振りながら、小走りに駆けてくる。
ネフェルティアは、まるで舞台の幕が下りるのを知っていたかのように、静かに一礼する。
「ふふ……また、お会いしましょう、“選ばれし器”」
そう言い残し、彼女は踵を返して歩き出す。
その姿は、まるで霧のように、雑踏の中へと溶けていった。
「……誰かと話してたの?」
フィーラが小首を傾げて尋ねる。
ルカは、ほんの一拍置いてから言葉を返した。
「いや……何でもない」
けれど、視線だけは――
ネフェルティアの去っていった方向から離れなかった。
その背中が消えた先。
そこには、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。
静かに、だが確実に。
世界が“暗い何か”に包まれていく気配が、ルカの胸を締めつけていた。
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