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堕神契約―祈りを奪われた少年は、裏切りの神と世界を呪う―  作者: 苗月
序章

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28/120

聖者の日記


 教会の廊下を歩くアイナの足取りは、どこか浮ついていた。


 誕生日が近づいている。

 旅立ちの準備はほぼ整い、今日は最後の挨拶として、フラジオ司祭の部屋を訪ねることにしていた。


 扉の前に立つ。軽くノックしたが、返事はない。


「……あれ、いないのかな?」


 少しだけ迷ったが、アイナは静かに扉を開けた。

 中は整然としており、主の人柄が表れたような落ち着いた空間だった。


「少し、待たせてもらおっと……」


 椅子に腰かけ、ふと机に目をやる。

 整頓された書類の端に、分厚い革の装丁が目を引いた。


 ――日記帳。


「……ちょっとだけ、見ちゃおっかなぁ……」


 何かに導かれるように、無意識に指がページをめくっていた。





〈エマ〉


エマは清潔すぎるほど几帳面だ。 毎朝、洗濯物を干すときに香料を少し多めに使う癖がある。 だが、その香りの奥に、ごく微かに残る素の体臭がたまらない。 誰とも目を合わせず、言葉は少ない。だが耳だけはよく動く。 緊張すると喉が上下し、時折唇を噛む癖がある。 手を合わせるとき、指先に力を込めすぎて関節が白くなる。 聖句を唱える声は無機質だが、時折裏返る。 肩幅が狭く、背筋を伸ばすたびに肋骨の浮き具合が目立つ。 美しさではない、壊れやすさ。 “収める”価値があるのは、その一点に尽きる。


エマの唇は薄く、震えていた。脇の下にはかすかな乳酸臭。 声は鈴のようで、壊れた音が実に良かった。あの痙攣は忘れられない。 肩甲骨の浮かび上がりと、膝裏の冷たさが印象深い。 愛撫に対する反応は希薄で、むしろ絶望の沈黙が彼女の真骨頂だった。




〈シーラ〉


シーラは警戒心が強い。 清掃の際、背後に立つと必ず振り返る。 食堂では背中を壁に向け、窓際を避けて座る癖がある。 しかし、寝起きの顔は隙だらけだ。特に、あくびをする時の口内。 腰回りがやや太く、動くたびに僅かに衣擦れの音を立てる。 唇の端に小さな傷があり、乾燥しやすいのかよく舌で舐めている。 寂しがり屋ではない。が、誰かに触れられたい気配は時折滲む。 彼女には「怯え」ではなく、「反発」が出るはずだ。


シーラは予想通り抵抗した。爪痕が今も腕に残っている。だがそれがいい。 私を呪いながら、泣きじゃくった顔は、まさに"生"の輝きだった。 陰毛は薄く細い。声は高く、喉が詰まるような喘ぎが混じっていた。 噛みついた痕の痛みは、今でも左肩に鈍く残る。 目を見開いたまま涙を零した彼女を、私は何よりも美しいと思った。




〈ソフィア〉


ソフィアはよく汗をかく。 書庫の整理をしていたとき、うなじから背中にかけてじっとり濡れていたシャツが貼りついていた。 手を拭う仕草がやや鈍く、額の汗を乱暴にぬぐう姿が印象的だった。 子供と接する時の笑顔と、1人きりの時の無表情との差が著しい。 毎晩、聖堂の椅子に腰かけては黙ったまま手を合わせる。 あの指先の震えと、閉じたままの唇の厚さが気になっている。 一番“映える”のは、泣き顔だろうと予想している。



ソフィアの肌は絹のように滑らかで、体温の冷たさが心地よかった。 わずかに汗ばんだうなじを舐め取ったときの塩味が、今も舌に残っている。 背を仰け反らせた時、肩甲骨の動きが美しく、吐息が微かに震えていた。 腕に残った爪痕も、あの瞬間を“刻んだ”証として悪くない。




〈アイナ〉


清潔な笑顔。汗を拭いながら人を抱きしめるたび、胸の谷間に甘い香りが閉じこもるように映る。 歩いた後の靴下から立ちのぼる体臭。咳き込むときに揺れる喉元。 湯上がりの髪を結うときの指の動きが艶やかだ。 献身と純真を装う仕草、その裏に眠る未完成の輪。





 ――ページの隅には、小さな赤い文字で、他の三人に書かれていた“済”の印がなかった。


 アイナの全身から血の気が引いた。

 息が詰まる。喉が焼けつく。

 頭が真っ白になり、震えが止まらない。


 何かの冗談であってほしいと、願う暇もなく。


 背後から――あの声が、響いた。


「……アイナ」


 吐き気を催すほどに甘く、粘ついた声だった。


 振り返ることができなかった。



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