暴走の兆し(2)
貴族街の外れ。
閑散とした酒場の隅でグラスを傾けている男。
〈モーディ・ファレル〉
──かつては慈善の名を冠した貴族家門の現当主。だが今は……。
思い出すのは父の背中。
孤児院の設立、貧民街への援助、福祉と医療への献身……。
その結果、ファレル家は金も地位も、すべてを失った。
モーディは、父のことを嫌いではなかった。
ただ、その“崇高さ”の代償を、自分が払う羽目になったことを……許せなかった。
惨めだ。笑われ、哀れまれ、同情の目を向けられる毎日。
自分には何もない。
(力さえあれば……)
拳を握る。
そのとき、酒場の空気がわずかに変わった。
扉が開いた音。足音が近づく。
「失礼。もし、静かに飲みたいところでしたら……すぐに立ち去ります」
落ち着いた女性の声。
長い黒髪、黒とも紫とも言える服装。
フードを深く被り、顔はよく見えない。
だが、その立ち居振る舞いには一分の隙もなく、品と気迫が宿っていた。
「……何の用だ。あんた、貴族じゃないな」
「ただの商人ですわ。滅多に出回らない“品”を、持ってきましたの」
女はそう言って、小さな黒い箱を机の上に置いた。
「あなたのような方にこそ、必要なものかと思いまして」
訝しげに睨みながらも、モーディは箱に手を伸ばす。
中にあったのは、黒く鈍い光を宿す球体。
握り拳ほどの大きさで、微かに脈打っている。
「……これは?」
「"力"です。あなた自身の力、他人に頼らず得る手段です」
女は静かに微笑んだ。
「父上は立派な方でした。けれど、その遺志はあなたを守ってくれましたか?」
モーディの顔が歪む。
「崇高な理想で死ぬのは勝手だ……けど、それを継がされた俺は、ただの道化だ」
「ならば、変えてしまいましょう。あなたを笑う者たちを、力で黙らせればいい」
沈黙。
モーディはもう一度、呪具を見つめる。
(……変わりたい)
そして、手に取った。
手のひらに収まった瞬間、肌にぞわりと這い上がる異質な感覚。
「……これで、本当に……」
「ええ。今回は特別サービス、お代は結構ですわ。」
女は名を名乗らず、ただ微笑んでその場を去っていった。
その目に映るのは、愚かさでも哀れみでもない。
ただ、面白い“実験”の始まりに浮かべる観察者の光だけだった。
◇
夜の屋敷。
灯りは乏しく、廊下には誰の足音もない。
モーディは書斎にこもり、掌に収めた黒い球体をじっと見つめていた。
ネジのように螺旋模様を描く呪紋が、球体の表面を微かに光らせている。
不気味な美しさ。生きているような、脈打つ感覚。
「……本当に、これで」
呟きながら、モーディはもう片方の手で酒瓶を掴む。 一気に喉へ流し込むと、喉奥が焼けるように熱くなった。
(父さんなら、こんなものに頼るなと言うかもしれない) (だが俺は、もう見下されて生きる気はない)
モーディは呪具を強く握りしめた。
その瞬間、球体から淡い黒紫の光がにじみ出る。
同時に、身体の奥が熱くなる。
魔力が流れ込んできた。
いつの間にか、口角が吊り上がっていた。
「……これが、"力"」
立ち上がり、部屋を出る。
夜の屋敷には、わずかに使用人が残っていた。
清掃係の若い男が、廊下を歩いていた。
「……っ!」
突然、背後から何かが襲いかかるような“圧”を感じ、男が振り向いたときには遅かった。
モーディが手を突き出す。
呪具の表面が輝き、空間が歪むような波動が放たれる。
衝撃。
男の体が軽々と吹き飛び、壁に叩きつけられる。
呻き声ひとつで意識を手放した。
モーディは、その場で静かに拳を握ったまま、震えていた。
「……ふっ……ふははは」
押し寄せる快感。
脳が焼けるような、心が溶けるような、興奮。
見下されてきた日々。
笑われてきた惨めさ。
今、この手にあるのは“支配する側”の実感。
もう一歩踏み出せば、誰も逆らえなくなる。
ふと、呪具がじり、と熱を帯びた。
手のひらが痺れる。
だがモーディはその感覚すら喜びに変えるように、笑った。
「……ああ……いい……もっと、欲しい」
欲望が、喉元までこみ上げていた。
(もっと強いものを……次はもっと、強い“何か”を)
呪具を握ったまま、モーディは闇に染まった屋敷の中へ、静かに歩き出した。




