暴走の兆し(1)
人と声で溢れていた。
焼きたてのパンの香り、果実酒の試飲を呼びかける声、金貨の音。
リネールの昼は、活気に満ちている。
そんな中、事件は突如として起こった。
ルカは何かを感じ、立ち止まる。
「……おかしい」
「え? 何が?」とフィーラが振り返る。
ルカは辺りを見回しながら答えた。
「魔力が……妙に滞留してる。」
「うーん、私はあんまりよくわかんないけど……それって変なこと?」
「普通はもう少し自然に散ってる。けどここは、何か大きな力に引き込まれているような」
そう言い終えるか否かのうちに、それは起こった。
通りの奥、雑貨屋の軒先が爆ぜるように崩れ、複数の人影が吹き飛んだ。
悲鳴。砂埃。人々が一斉に逃げ惑う。
瓦礫の中から、ひときわ大きな男がのそりと立ち上がった。
膨れ上がった右腕。血走った目。
皮膚の下で、黒い魔力が泡立っている。
「う、うわっ!」
「なんだアイツ!?」
「助けてくれ!」
男は周囲に手当たり次第に殴りかかり、屋台をなぎ倒していく。 その一撃は壁を砕き、地をえぐった。
ルカは一歩踏み出す。
「フィーラ、下がって」
彼女は言葉もなく頷き、後退った。
警備兵の巡回班が現れ、指揮官が声を張り上げた。
「制圧する! 陣形を展開しろ!」
魔道具による攻撃が放たれるが、男は意にも介さず突進。
兵士が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
その瞬間。
地面の影が伸び、男の足元を絡め取った。
「なっ……」
ルカが右手を軽く掲げる。
《Shade Bind》
次いで、囁くように呟いた。
《Black Echo》
耳鳴りのような低音が空間を包み、男が苦悶の叫びをあげる。
最後に、ルカはその手に黒い刃を形成し、一閃した。
《Hex Blade》
斬られたのは男の右腕。
肉ではなく、皮膚に埋もれた何かが砕け、魔力が霧散した。
男は崩れ落ち、意識を失った。
フィーラが追いつき、ぽつりと呟いた。
「ルカ……今の、ほんとに人だったのかな」
彼は答えない。
ルカはゆっくりと男の倒れた場所へ視線を落とす。
そこに転がる、ひび割れた黒い装飾具――
胸の奥で、何かがざらついた。
一部を見ていた男性が呟く。
「今の……君が……?」
ルカは静かに背を向ける。
何も言わず、ただその場を後にした。
◇
暴走事件直後、魔術騎士団第五部隊が現場に急行した。
セズ・クローネは、瓦礫の間から拾い上げた黒金の破片を静かに見つめていた。
「報告を」
「はっ。目撃者の中に、“黒い服の少年”がいたとの証言が複数……。騎士ではなく、素性は不明です」
部下の声に、セズが眉をひそめる。
その隣で、副隊長フィノ・バッカスが破片を手に取り、目を凝らした。
「見事にぶっ壊れてる…偶然にしては出来過ぎだな」
セズが目を細める。
「…どういうことだ?」
「ああ。この暴走が“呪具”によるものだと知っていた、もしくは瞬時に悟り、意図的に破壊した可能性がある。」
セズは小さく頷くと、部下たちを振り返った。
「その少年を探せ。重要参考人として、話を聞く必要がある」
◇
その頃、ルカとフィーラは宿の一階、食堂の隅で軽食を取っていた。
フィーラはパンをちぎりながら、窓の外を気にしていた。
「ねえルカ、さっきの……暴れた人の話、聞いた?」
「……少しだけ」
「私ね、宿の人に聞いたの。なんか、変な腕輪みたいなのつけてたとか……。商人から“力を買った”って噂まで出てて」
ルカはフォークを止める。
記憶の底、かつて自分が“抜かれた”ときの感覚が、微かに蘇る。
あの異様な魔力の質、肌に触れた瞬間に全身が拒絶したような、あの――
(……なんだ)
明確な思考には至らない。
だが確かに、何かが“嫌な感覚”として体に残っていた。
「ルカ、私たちで少し調べてみない?」
「……騎士団も来てるらしいし、彼らに任せた方がいい。無理に首を突っ込むことはない」
しかしフィーラは首を横に振る。 「もし、困ってる人がいるなら……私は、ほっとけない」
ルカは小さくため息をついた。
だが次の瞬間、少しだけ口元が緩む。
「……まったく。わかったよ」
その微笑みに、フィーラも笑顔を返した。
夕暮れが街を染め始める頃、ルカとフィーラは人気の少ない裏通りを歩き始めていた。
「何か手がかりがあるかも。私たちにもできること、きっとあるよ」
ルカは空を仰ぎ、視線を落とす。
さきほど影を裂いたあの“力”。ただの魔道具ではない、何か歪な気配。
(あれは……)
言葉にはしない。
だが、ルカの中に微かな確信が芽生えていた。
その“何か”が、この街の深部で動いている――と。




