天使と悪魔(1)
水の都市カヌール。
瓦礫と濁流の残る市街地、その中心で、岩塊を蹴散らしながら鉄の打ち合うような肉の音が響き渡っていた。
「おらァッ!!」
高く跳ねた白銀の髪が宙を舞い、華奢な腕から想像できないほどの激烈な拳が空を裂いた。
その拳を繰り出す少女――アンジュ。
純白の羽を模した衣装に身を包み、天使のような見た目をしていながら、その拳風はまさに修羅。
対するは、豪奢な刺繍入りの外套を着込んだ肥満体の男、ゲルマ・ピサーロ。
「ほう、元気がいいなァ……ッええ? おい!」
分厚い肉に叩き込まれたはずの拳を、ゲルマはわずか一歩の体重移動で受け流す。
衝撃が瓦礫を巻き上げ、風圧だけで付近の石壁がひび割れた。
「その程度じゃ俺の金庫すら破れやしねぇわい!あんまり舐めるんじゃねぇぞ……このド畜生が」
挑発混じりの嗤い。
そして、肩を回しながら右拳を振りかぶる。
《殴呪―ペルカストルム―》
呪力を帯びた鈍重な一撃が振るわれた。
その拳が空気を押し潰すようにうねり、アンジュの前腕に命中した瞬間、 見えない力が衝撃波として辺りに広がる。
「……ッ、重ッ……!?」
一瞬だけ、アンジュの動きが止まる。
神経に走る重力のような鈍痛。
だが彼女はそれを押し返すように跳び退いた。
距離を取る。
口端から血が流れ落ちるが、それを拭うこともなく、にやりと笑う。
「アンタ、デブの癖に……いいモン持ってんじゃん」
「おうおう、痩せっぽちのクセして口は達者だな、ええ? おい!」
そのやり取りを遠くで見ていた少女。
岩陰から小さく顔を出すのは、アンジュの双子の妹、イヴィル。
黒髪のショートヘアに、悪魔の角と弓を備えた姿。
「お姉ちゃん……あの人、強そうだけど……」
「イヴィルッ! 絶ッ対に手ェ出すなよ! このオッサンはアタシのだッ!」
「……う、うん……」
少女は小さく震えながら、指示に従う。
「よし……そんじゃ続き、行こうぜブタ野郎……!」
「ブタァ!?……ああ!? おい! てめぇ今、ブタっつったなァ!?ええ!?」
怒声と共に、ゲルマが突進する。
衝撃波のような踏み込み。
アンジュは鞭を地に突き刺し、それを軸に跳躍。
宙を一回転し、勢いを乗せた踵落としを炸裂させる。
「天使の飛翔だァッ!!!」
その足は、ゲルマの肩口を鋭角に撃ち抜いた。
骨が軋む音。だが、倒れない。
「……はァ? なんで立ってんだよ……」
「脂肪ってのはな、衝撃吸収にゃ最適なんだよ! 甘く見んなァッ!!」
拳が返る。
ゲルマの豪腕が、一直線にアンジュの腹を捉えた。
《冥拳―メルティナイン―》
腐蝕の呪力を帯びた拳。
命中と同時、布が焼け裂け、白い肌に黒い痕が浮かぶ。
「ぐっ……痛った……! でも、まだまだァ!!」
アンジュはふらつきながらも、即座に反転蹴り。
ゲルマの鼻梁へと叩き込まれる一撃。
鼻が潰れ、血飛沫が舞った。
「げっ、血ィ出たじゃねぇか……ええ!? おいおい!!」
憤怒の形相で拳を構えるゲルマ。
拳と拳、肉と骨、皮膚と呪力。
火花のような応酬。
5合、10合、15合……数十手先の未来を殺し合う、壮絶な肉弾戦。
「どうしたァ、 ええ? ボロボロの天使ちゃんよォ!!」
「アンタこそゼェゼェ言ってんじゃんかよ……ハァ……ッ、ブタッ!!」
その瞬間だった。
アンジュの足場が崩れた。
舞い上がった瓦礫の粉塵。
一瞬のバランスの崩れ。
「抜かったな……!」
ゲルマはその一瞬の隙を見逃さなかった。
《滅拳―ラグナラグド―》
ゲルマの最大火力の拳が、アンジュの正面を撃ち抜いた。
「──ごふッ……!!」
顔半分が抉れ、血肉と歯が飛び散った。
アンジュは仰向けに崩れ落ち、地面に沈んだ。
ゲルマは膝をつく。
「ゼェ……ゼェ……はぁ……さすがに死んだか……?ええ……おい」
沈黙。
だが、それはすぐに破られる。
「……よくも、お姉ちゃんを……ッ!!」
岩陰から現れた黒き少女、イヴィル。
手にした長弓は、禍々しい黒の意匠。
その瞳は、かつて見せたことのないほどの怒りで燃えていた。
「くっそ……次は悪魔娘かよ……!」
ゲルマは立ち上がろうとする。
だが脚が、腰が、言うことをきかない。
イヴィルは、そっと弓を引いた。
その矢に込められた魔力は、全てを焼き尽くす黒い炎のようだった。
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